最近の十和田観光電鉄

9852で藤本先輩の昭和40年代の紹介がありましたので、昨年 平成21年9月26日に訪問したときの写真を紹介させて頂きます。車両数は機関車2両(ED301、ED402) 電車10両(モハ7701-クハ7901、モハ7702-クハ7902、モハ7703-クハ7903、モハ7204、モハ7305、モハ3603、モハ3401) 貨車2両(トラ301、トラ302) 当時と車両数はあまり変わっていませんが、運用中の車両はすべて東急からのステンレスカーとなっています。

平成20年3月1日 (旧)十和田観光電鉄から「とうてつ」に事業譲渡し、(新)十和田観光電鉄に社名変更させた上で新会社による運営開始をしているそうです。

下は モハ7703-クハ7903  (元東急デハ7711-クハ7911) です。

 

下は  モハ7701-クハ7901  (元東急デハ7704-クハ7904) です。

 

以上の2本が運用中でした。

クハ7902は庫の中でした。 (元東急クハ7909)

相棒のモハ7702 (元東急デハ7709)は外で待っていました。

下は モハ7204  (元東急デハ7211の両運転改造車) です。

下は モハ7305  (元東急デハ7259の両運転改造車) です。

 

モハ7204とモハ7305の連結部です。2両で仲良く車庫で昼寝中でした。

モハ3401 動態保存 イベント用です。きれいな色ですね。

モハ3401 動態保蝌・?イベント用

モハ3603 動態保存 イベント用です。 元東急デハ3655できれいな東急グリーンになっています。

ED301も元気でした。
ED402はモハ3401、モハ3603、トラ301、トラ302と手をつないでお休み中でした。
以上 青空と稲穂のきれいな秋の十和田でした。  T.INUBUSE

1957年5月北陸鉄道その1


サハ521+サハ604
金石線サハ521←北陸鉄道ハ14←金石鉄道ハ14←省コハ2475←簸上鉄道ホハ10 台車は菱枠型

しつこく九州が続いたので、今回は気分を換え、古いのは同じだが、53年前の北陸鉄道を何回かに分け、ご覧に供することにする。以前1954年3月撮影分は、確か小松線と金石線をご覧頂いたと記憶するが、今回は加南線、浅野川線、金石線で、要は旧簸上(ひのかみ)鉄道買収客車の最終活躍の姿を撮るのが最大目的。他の電車―木製車ならまだしも、半鋼製電車なんぞは、まあつけたりというか、おまけというか、目の前にいるんだから撮っておこうか、ぐらいの気分であった。今回の撮影は全て1957年5月3日で、旧簸上鉄道の客車に絞る。

以前の小松線、金石線の際も少し記したが、その後この一連10両の旧簸上鉄道の小型ボギー客車には、ぞっこん惚れ込んだ。早い話一時期カンカンになっていたのである。バッファーを含めて全長32フィート9インチ(9,373mm)と短く、最大幅は8フィート2インチ(2,480mm)だが、車体実幅は7フィート(2,134mm)と、ニブロク軽便並みである。屋根は浅いダブル、両端は貫通式窓付オープンデッキ。サイドの出入り口上部には飾り金具があった。

木次線は1932年12月18日木次-出雲三成間が開業。宍道-木次間1916年10月11日開業済の簸上鉄道を1934年8月1日買収して木次線につなげ、かつ線路規格を改修。こんな小さい客車も、一旦鉄道省としての形式番号が与えられはしたが、勿論すぐ処分された。

ホロハ1~3はコロハ1620~1622に付番されたが、出石鉄道に行き、そこも戦時中の企業整備で東武鉄道に転じたが、浅草に留置中2両が戦災に遭い、1両のみ日光線コハ120に。あとの7両コハ2470~2476は、ことごとく金石鉄道、温泉電気軌道、金名鉄道と、北陸線沿線の小鉄道に再起し、北陸鉄道に統合されたのであった。

北陸鉄道に集結したこの7両は、製造年次や台車に若干差異はあるものの、まあ同型とみなして差支えない。しかるに北陸鉄道車両課は僅かな寸法的差異等をことさら強調?し、配属先線区毎にサハ501、511、521、551、561と実に5型式に区分した。合体後の三重交通車両課とよく似ている。

前回ご覧頂いた1954年3月撮影のサハ511(小松線)、サハ521、551(金石線)はまだオープンデッキだったが、3年後ではことごとく中妻、貫通路も撤去され、箱型車体に改造・締め直されていた。引戸が設けられ、当然次位の窓は戸袋に、扉下には踏み込みが付された。


サハ552←北陸鉄道コハ2←金名鉄道コハ2←省コハ2475←簸上鉄道ホハ9 妻面の手ブレーキはベベルギヤを使った 日車この時期の小型客車に独特の野上式 台車が菱枠型なのは野上八重治辞職後の製品だからである
サハ562←北陸鉄道ハフ8←温泉電気軌道ハフ8←省コハ2472←簸上鉄道ホハ6 台車は3号野上式弾機台車

なおこの小型ボギー客車は、日車の技師長に鉄道院から野上八重治を招聘した時期に重なる。彼は日車入りするやすぐ欧米視察に出してもらい、帰国するや矢継ぎ早に発明を特許化。軽便用を含め台車の弾機で4種、手ブレーキ2種等々で、当時需要が高かった小型ボギー客車に片端から装着して送り出した。彼なりに外遊のの恩返しでもあったのであろうが、構造が奇抜すぎた。

今回の写真では、最後のサハ560型の台車弾機をよくとご覧じろ。何やらオイルダンパーと間違いそうで、正直小生も最初に見た時はてっきりそう思った。これは野上八重治が3番目に発明した「野上式3号弾機台車」で、一種の原始的な空気バネのようなもの。頚城鉄道のボギー客車全部がこれを装着しており、現在も1両だけ残る旧畳敷客車改造のホジ3に健在である。

彼の発明した弾機台車中、1号型は井笠や宮崎など、温暖地では別段のことはなかったが、皮肉にも北陸、信越の雪国発注の客車に集約して装着され、ことごとく冬季雪を抱き込んで危険状態に陥っている。頚城鉄道では無認可で3号型に有料交換、石川、丸岡、栃尾鉄道では通常のダイヤモンド台車に交換=恐らく日車の無料アフターサービスと思われる。野上は山陽鉄道出身で、豪雪地帯の実情に疎かったのであろう。

こんな台車を売りつけられた方こそ、いい迷惑であった。なお野上式弾機台車4号型は冬季に限らず丸っきりの欠陥台車で、簸上でも1両に装着していたはずが、簸上時代に振り替えられていたと思われる。残りはまとめて兵庫電気軌道に赤字で叩き売り、バラック応急電車といわれた22~28が装着した由だが、長生きはしていない。折角招聘した技術者だったが、その後すぐ辞めた(辞めざるを得なかった?)ので、日車は心底ホッとしたはず(社史『驀進100年』には勿論そんなことは書いてない)である。彼は野上式自動織機を発明し、それを製作販売する会社を興し、独立したのであった。

少し前の十和田観光電鉄

【9754】「川重製のみぶ型」のコメントで、K..生さんが十和田観光電鉄のクハ4406について触れられたので、昭和40年代の状況について少しだけ書いてみたい。同社については、乙訓の長老が昨年9月1日【4255】賛書紹介「あの電車を救え!」で昭和32年頃に撮影された貴重な映像を紹介されておられるので併せてご覧いただくと共に重複部分があることをお許し願いたい。同社を訪れたのは、京阪沿線の高校時代の昭和40年3月、現役時代の昭和42年9月、社会人になってからの昭和46年5月、昭和50年9月の4回である。その後訪れた方がおられたら是非報告をお願いしたい。

【沿 革】

現在の東北本線の前身の日本鉄道は、明治23年11月盛岡まで開通し、十三本木峠を越え、三戸から更に陸羽街道(現在の国道4号線)沿いに北上し、野辺地から陸奥湾沿いに青森に向かう予定であったが、街道沿いの旧宿場町の反対に会い、尻内(現八戸)、古間木(現三沢)、沼崎(現上北町)を経て野辺地に至るルートに変更された。陸羽街道沿いの五戸、伝法寺、藤島(三本木)、七戸の各宿場町は幹線鉄道から取り残され繁栄を失ってしまった。三本木から鉄道に最も近い古間木駅まで16キロ離れており、徒歩か馬車しかなく、この区間に鉄道を望む声が上がるのは自然の成り行きであった。

このような状況下で大正3年6月十和田軌道が設立、大正9年10月十和田鉄道に社名変更、大正11年9月14日古間木(現三沢)~三本木(現十和田市)間を軌間762mmで開業した。戦中、戦後の混乱期を乗り越え、昭和26年6月20日1500Ⅴ電化と1067mmへの改軌を同時に完成させ、一夜にして近代的鉄道に変身した。電化工事一式を日立製作所が請け負い、同社製の電車4両と電気機関車1両が新車で用意された。青森県下では弘南鉄道が昭和23年7月に電化、弘前電鉄が中央弘前~大鰐間を昭和27年1月に新規開業しているが車両はいずれも中古車であった。同年12月30日社名を現在の十和田観光電鉄に変更、昭和30年9月には十和田湖で遊覧船事業を開始した。

昭和43年5月16日に東北北部を襲った十勝沖地震は当社にも大きな被害をもたらし、その復旧費に多額の資金を要したため経営危機に陥り、昭和44年10月経営権を国際興業に譲渡した。被害の状況は、当時の新聞等によると「三本木駅は大破して倒壊寸前、線路は架線の支柱が傾き、レールは軌道床が崩れて梯子のようにぶら下がり、途中駅もメチャメチャに壊れている」と報じられている。余談であるが、尻内(現八戸)~五戸間を営業していた「南部鉄道」は復旧を諦めバス専業となった。

社名のイメージからは十和田湖へのメインルートのように思えるが、十和田市駅から十和田湖(休屋)行のバスは1日1往復しかない。途中の焼山まで7往復あり、青森駅または八戸駅発のJRバスに乗換えることは可能である。十和田湖へは青森駅、八戸駅からのJRバスがメインルートとなり、花輪線十和田南駅からのルートはすっかり寂れてしまい、弘南黒石駅からのルートはバス路線が廃止されてしまった。

【車 両】

昭和50年9月時点での車両は、電気機関車2両(ED301、ED402)、電車7両(モハ2403、2405、クハ2404、モハ3401、クハ4406、モハ1207、クハ1208)であった。電車の車号の下1桁はモハが奇数、クハが偶数になっている。

(1)   電気機関車

ED301/昭和26年7月の電化、改軌時に投入された日立製作所製の30t機関車で、入線時は貨物列車の他、混合列車にも使用されたが、昭和37年ED402の入線後は、構内入換と除雪が主な任務となった。現在も廃車にはなっておらず健在であるが、使用頻度は極めて少ないものと思われる。(4292 三本木)

 

ED402/昭和37年4月に新製した川崎車輛製の35t機関車である。貨物列車の主力として活躍したが、昭和61年11月貨物取扱が廃止され、以降は工事列車の牽引、除雪等に使用されている。(46529 十和田市)

 

(2)   電車

モハ2403、2405・クハ2402、2404

昭和26年の電化、改軌時に日立製作所で新製された半鋼製車でモハとクハは同形である。共に両運転台付であったが、昭和42年9月2日撮影時にはクハ2402の三沢寄りの運転台が撤去されて片運化されていた。新製時の車号は、モハ2401、2402・クハ2401、2402であったが、重複車号を避けるため昭和33年8月7日付で現車号に改番された。

昭和43年12月事故によりクハ2402が廃車(日付は45年3月25日)、残りの3両も元東急のモハ3809、3811・クハ3810と代替で昭和56年12月18日付で廃車された。

 

上から モハ2405+クハ2404 (46529 十和田市) / モハ2405+クハ4406(5091 三沢) / クハ2402(4292  三本木) / クハ2404 (4292  三本木)

*「三本木」は昭和44年5月15日に「十和田市」に改称している。また「古間木」から「三沢」への改称は昭和36年3月1日である。

モハ3401

昭和30年5月に帝国車両で新製された全金車で、広窓の18mを越える車体は当時の地方私鉄の車両の中では最優秀作品であった。平成14年に元東急のステンレスカーと代替で廃車になる予定であったが、動態保存されることになり、現在でもイベント時等に元気な姿を見ることができる。

 

上 旧塗装(4292  三本木) 下 新塗装(46529 十和田市) 

クハ4406

昭和36年6月に川崎車輌で新製された全金車で、車体はモハ3401とよく似ているが、貫通扉に方向幕を埋め込む等、更に洗練されたスタイルになった。基本的にはモハ3401と編成を組んだが、モハ2400、元東急のモハ3800と組むこともあった。平成14年に元東急のステンレスカーと代替で廃車となった。

 

上 旧塗装(4292  三本木) 下 新塗装(5091 十和田市) 

モハ1207、クハ1208

昭和44年11月1日に廃止された定山渓鉄道のモハ1201、クハ1211が前身で、昭和45年に入線した。幅の狭い窓がズラリと並び、座席は一見クロスシートに見えるがロングシートである。モハ、クハ共に正面2枚窓、両運で運転台は右側である。他車とは制御器が異なり連結が不可能なため、モハ1207の単行かモハ1207+クハ1208の2連で使用されていた。平成2年3月、東急からの転入車と代替で廃車となった。

 

上 モハ1207 下 クハ1208 (46529 十和田市) 

(3)   たまにはバス (またバス?)

昭和50年に訪れた時は何故かバスを撮影している。今となれば結構珍しい車両もあるので紹介する。(撮影日は5091 十和田市) 

青2く6228/青森行急行バス 42年式 いすゞBU10P(川崎航空機)

 

青2く6234/ 42年式 ふそうMR620(クレハ)

「ふそう」中型車の元祖的なバスで、関西では京阪バス、江若バス、有田鉄道等に存在した。京阪バスはボンネットバスと共通運用で大津市内線、江若バスもボンネットバスと共通運用で和邇~途中線等で使用された。後にB6(B620等)シリーズ→MK(MK115→MK116)シリーズへと進化していった。

 

青2く6257/ 42年式 いすゞBU20KP(川崎航空機)

「オバQバス」と言われた車両で、関西では丹海バスの京都~間人間の快速バスに長く使用されていた。

 

青2く6267/ 42年式 ふそうMAR470(クレハ)

 

青2く6349/ 43年式 ふそうMAR470(川崎航空機)

比較的珍しい「ふそう」「川崎」の組み合わせであるが、登録ナンバーに注目していただきたい。登録ナンバーの下2桁「42」「49」は永久欠番の筈であるにも関わらず、「49」が付番されている。登録作業がコンビ―タ化される前、青2く6000番台が十和田観光電鉄の割当ナンバーで、自社で自由に付番できたことが原因と考えられる。ちなみに現在は希望により付番は可能である。

鉄道映画特集

京都駅ビル内「駅ビルシネマ」では10月14日の鉄道の日を記念して、

既に始まっておりますが、10月5日から19日まで、「鉄道のある風景」と銘打って、鉄道の登場する内外の作品を上映します。

詳しくはこちら

 

http://www.kyoto-station-building.co.jp/cinema/access.html

 ビデオテープ時代からDVDの現在に至るまで、映像ソフト化されていないものが多く、

名画座も消えた昨今では、またとない鑑賞の機会でしょう。

何とか都合をつけて行ってみようと思います。

忘れ物ですよー!

yomiuri onlineより

 5日午前8時半頃、名古屋市中区栄の服飾雑貨卸「センゾー」のビル1階に不審なアタッシェケース2個が置かれているのを清掃員の女性が発見、同社役員を通じ愛知県警に通報した。

 アタッシェケースからリード線が出ていたことから、愛知県警は爆発物の恐れもあるとして爆発物処理班を出動させ、約3時間後に回収した。

 発表によると、アタッシェケースは、縦40センチ、横50センチ、厚さ15センチのものなど2個。ビル1階の通用口付近に置かれていたという。県警がエックス線で調べたところ、ケースの中は、鉄道模型のジオラマだった。線路やトンネル、橋、山、川が精巧に作られており、県警は忘れ物とみて持ち主を探している。

 現場は、同市内を南北に走る幹線道路「本町通」に面しており、現場付近は100メートルにわたって、一時通行止めとなった。

2010年10月5日16時17分  読売新聞)
お心当たりの方、お申し出下さい。もしかしたら江若鉄道のレイアウトだったりして・・・

関西の電車・巡察の旅 その2

2日目:8月16日(月)。14日は“日本の客車・再版”祝賀会であった。鉄道ピクトリアル・今津編集長をお迎えして佐竹さんの功労を称える集いであった。須磨の大人の裏話、新規入会の通園さん紹介、美作の国で療養中の滝本君から見事な西瓜の差し入れがあり、酷暑の最中でも稔りの多いクローバー会であった。

さて2回目は西の果てへ。京都駅から新快速でぶっ飛ばせば2時間少々で行ける地であるが、5時間あればなんとかなるであろうと、1回目より1時間早く西向日640発とした。運賃と時間の節約を考えれば十三・三宮・高速神戸経由が正規のルートとなるが、後のことを考えると淡路・阪神なんば線経由にすれば変化が見込めそうだ。日本橋745に着くなり先ずWC。奈良からやって来た快急は10両編成で、鶴橋、上六ではどれだけ下車したか分らないが、先頭9726号の4扉から30人ばかりが下車した。残念ながら座れない。難波も同様。西九条からメガホン片手族が乗ってきた。虎狂ではないから静かなものだ。本日は地元校が2校出場する事になっている。伝法を出ると100km/h運転となる。10両ですぞ、50年前は2両だった。尼崎814着。高架留置線に55514Fが休んでいる。舞州へ移転した大阪車両工業が鋼体を造り、正雀のアルナ工機が艤装した、と言われている。この駅の蕎麦屋も何処へ行ったのか見当たらない。サンドウィッチとヨーグルトを購入した。

 

青胴車が伝法大橋を渡る姿は見られなくなった

青胴車が伝法大橋を渡る姿は見られなくなった

赤胴車も橋に向け福駅から力走

赤胴車も橋に向け福駅から力走

 目前に阪神なんば線からの普通が到着、全員降ろして折り返し線に。そこへ直通特急が到着するが1/3残して西へ向う。ガラガラの普通に先乗りしていたら、あぶれた1/3が乗ってきた。こちらも静かな車内。甲子園で降りて三宮行の快急を待つ。満員の近鉄1028号は、高校野球応援団を弾き出すと身軽になって走り出す。近鉄車で神戸入りが出来るとは夢にも思わなんだ。特急が停まる「御影」、外側線を最徐行で通過する快急6連は苦肉の策の一つだ。震災の日の週末から6週連続で神戸へやって来た。阪神復旧の日、625日まで何度も通った。戦災を知らない京都人には見るもの全てが勉強であった。

震災10日後は青木まで開通

震災10日後は青木まで開通

震災で壊滅した石屋川(新在家)車庫-酒井福三さん提供-

震災で壊滅した石屋川(新在家)車庫-酒井福三さん提供-

 三宮からしばらく乗りっ放しとなる。先ずWC。ホームに直通特急が到着した。それなりに乗っていた車内はガランとしてしまった。三宮914発。神戸高速鉄道は阪急阪神HDに統合されたのだから、運賃の一元化を先ずやって、それからスッルト関西を有効利用したら、客を増やせないかと思う。遅い遅いと言われるが、直通特急は明石・飾磨間3駅停車で35.2km28分走行である。新快速は明石・姫路間2駅停車で35.4km26分走行だ。昔、車庫のあった西新町を出ると110の目盛を維持するためにノッチのONOFFの繰り返しとなる。飾磨1013着。網干線乗り換え1020発。車庫を横目に高架線に上がり、降りて少し行って2ツ目の鉄橋、渡るのは夢前(ゆめさき)川、10年ばかり前、木村昌晴さん以下7人、河原でHO運転会をやった。動力源はバイクのバッテリー12Vだ。子供は勿論、大人も取り囲んでくれた。ポン友・木村さんは吉川文夫さんより一ケ月早く亡くなった。僅か15年の付き合いだった。「また来たよ」、黙祷。最西端・網干1038到着、所要時分3時間58分。思惑より1時間早く到着した。

姫路ライナーが加古川を渡る

姫路ライナーが加古川を渡る

 1998221日朝、木村さんと2人、網干駅ベンチで仲間の到着を待っていた。3人がやって来たところで腰を上げ835発で東へ向け出発した。飾磨で215日から走り出した大阪ライナーに乗り換え民鉄による電車最長区間、旅の始まりであった。インタァーバンの好きな木村・沖中コンビはその昔の電車王国アメリカで、2000哩のトロリィーカ-の旅が1910510日スタートしたことを知った。日本ではどうなるか、アメリカでは軌間が同一であったことで実現したのだが、日本ではそれが出来ないのが残念である。乗り換えを繰り返せば何処まで行けるか、西は網干から三河田原迄が最長となる。一度乗ってみよう、その日を姫路・梅田間の直通特急運転開始後としたのだった。

思い出の網干から姫路へ出た。姫路駅の山陽との上下切り替え後に通った事がないからである。これからどうするか、まっ出たとこ勝負で行こうと思う。神戸市内に入り板宿で神市交と接続している。名谷迄は行ったことがあるが、終点・西神中央は未だである。トンネル電車は谷底だけに明かり取り部分があり農村風景が見え、ホッコリする。終点の駅前ロータリィーが広いのにびっくりだ。折返し三宮に直行、ガード下で海鮮丼と生中1杯で満タンになったところで能勢電に行くことにした。

眼を見張った広い西神��央駅前に”そごう”健在

眼を見張った広い西神中央駅前に”そごう”健在

 準特急氏2度目の来阪の時は能勢電と神戸電鉄へ行った。紅葉シーズンなのに暖秋のため晩秋の装いはなく、案内役としては「ごめん」の気持ちが今もある。そして日生NTへは行った事がない。35年前、ニュータウン造成に向け沿線のそこかしこで線路規格向上、複線化工事が始まった。丹波へ仕事に行った帰途、時折り国道173号を南下して工事の進捗を観察した。日生線の開通直後、息子に「阪急の昔の電車に乗りたい」とせがまれた。一も二もなく能勢電にやって来た。320,380,500形がまだ残っていた。日生線は山下始発の320380形の2連で折り返し運転であった。本線は610系、500形の4連で川や崖沿いの線路をきしみながら走った。変わったと言えば大きな複線トンネルが出来たことで、能勢カーブ式電鉄であることには今も変わりはない。せがんだ息子は成人を前に野球一筋となり、今年は不惑を迎えている。その親父は膝小僧を抱いて欠伸をしているうちに日生NTに到着した。

広い構内は将来のため?
広い構内は将来のため?

ホーム端から線路端末まで42本が押し込めそうな留置線がある。延長計画のある北千里に良く似た構内線形だが、行方には山ががんばっている。バブルが何度も飛んでこないと山の向こうを引き寄せるのは無理だろう。駅前広場は西神中央と比べるとひっそりしていた。

これで本日の目的達成。日生中央1529発で帰宅の途についた。蛍が池からモノレールで南茨木へ、西向日1716着。全行程10時間26分、運賃5,610円也の巡察の旅だった。

 

 

 

 

 

教えて下さい!

 ネコ・パブリッシング発行の雑誌「国鉄時代23」-2010年11月号108頁、久保敏さんの常磐線1957~1960年準急「ときわ」・C62「はつかり」の時代で次のような写真説明があります。

 「水戸駅で給水するC6220。当時の拠点駅の典型的な情景で給水塔、荷物運搬用のテルハ、貨物ホームが見える。1959.9.22(原文のまま)」

 この荷物運搬用のテルハとはどういうものなのか、知っている方がおられましたら、教えて下さい。写真を見てもよくわかりません。なお、この雑誌は大きな書店では今月20日頃までは店頭にあります。宜しくお願いします。

175系??

DRFC関東連絡網で話題になっている185系湘南色の特急「あかぎ」の写真をお送りいたします。

本日、田端運転所で開催されましたJR東日本の旅行商品「びゅう」主催の「寝台特急 北斗星・カシオペア」牽引機関車撮影会の旅に参加しましたが、その都区内フリー乗車券を使って、撮影会前に東十条に出かけ、4004M特急「あかぎ4号」で運用中の写真です。

7連+7連の14両編成で、上野寄りに湘南色となった185系が連結され、前橋寄りは、従来の185系です。サロには、懐かしいグリーン帯が描かれています。

賛否両論ありますが、ここまで来たら、いっそのこと、登場時、153系の急行「伊豆」と併結していましたので、後ろも旧踊り子色にするとか、157系の特急「あまぎ」や「白根」をイメージしたものもあってもよいのではと思ってしまいます。

私的には、165系塗色(私にとって、80系より身近な存在でした。)の185系ですので、中をとって、175系と命名しました。

肝心の撮影会は、EF81の星カマとカシオペア色、EF510の北斗星色とカシオペア色 合計4両を並べた撮影会です。都区内パスと弁当、弁当の掛け紙(何ゆえか、弁当にかかっておらずご丁寧に封筒入りでした。)、市価1000円と書かれた北斗星携帯ストラップつきで3300円でした。高いか安いかこれも判断が分かれるところです。

 

夏の思い出 -2-

岡山へ バスと国鉄型を求めて

7月の末には、岡山・倉敷方面に向かいました。
掲示板には藤本さんやKH生さんからバスの報告がされています。私も以前、藤本さんとバスの同好会に加入し、鉄道そっちのけでバスを追い掛けた時期があります。さすがにその情熱は失せましたが、今でも、旅行中にわずかな待ち時間があれば、駅前でバスを写します。今回は、バスを主目的に、ついでに国鉄車輌も求めてのの旅でした。

 

新幹線に乗ってまず向かったのは水島臨海鉄道だった。平日の朝夕には元国鉄のキハ20が動いている。水島というところは近くて遠いところで、朝のキハ20を写すためには、前泊が必要とばかりに思い込んでいた。よくよく調べると、朝一番の新幹線で行けば、何本か写せることが分かった。
これはもう行くしかないと、倉敷に7時14分に降り立った。平日朝は、3編成
が運転されており、うち1本がキハ20の2両編成になる。水臨にはキハ20が4両あるが、2両が国鉄色、2両が水臨カラー。どのカラーかは運次第だが、最近は国鉄色2両が多いようだ。
倉敷駅からひと駅目の球場前駅を目指して歩く。この球場というのは、プロ野球の公式戦が時々行われているマスカット球場のことで、ちょうどこの日も高校野球岡山大会の決勝戦が行われるところだった。水臨はその球場を半周するように、築堤上にきれいなカーブを描いていて、撮影好適地となっている。緑に包まれるようにして、やってきたキハ20の国鉄色は、細かいところを言えば違うものの、国鉄時代を偲ぶに十分だった。単行でもない、3、4両でもない、ちょうど2両編成というところが、もっともキハ20らしい。

 

 

福山市内に福山自動車時計博物館がある。この地で財を成したオーナーが、無類のアンティーク好きで、私財を投げ打って博物館を作った次第。自動車時計博物館と言うものの、名物は何と言っても、各地からカキ集めてきたボンネットバス、近くのレストア技術者の協力もあって、自力走行できるにまで何台も再生した。
“昭和の町”として人気を集める大分県の豊後高田市内で周遊運転している「昭和ロマン」号も、元は自動車時計博物館が取得、修復したもの。豊後高田市で昨年7月から運行していたが、このたび広島市で行われた観光イベントで、一年ぶりに里帰りし、本日は、近くの鞆鉄道でも使われているボンネットバス、それに博物館所有のボンネットも加え、計5台が福山市内を里帰り記念のパレードを行った。駅前などで走行中を撮影して、博物館前で行われた記念のセレモニーに駆けつけた。カラフルに塗装された5台のボンネットが頭を揃えたのを見て、30年以上前に各地へボンネットバスを追い掛けた日々を思い出していた。

 

 

吉備線に乗車して、夕方に伯備線の豪渓に着いた。当ホームページのトップページに載っているEF64に刺激されて、伯備線でも貨物を牽引しているJR貨物岡山機関区のEF64を撮りに来たのだ。地味ではあるが、西日本エリアでは唯一の同機の働き場所だ。豪渓から倉敷寄りに歩くと、逆光ながら、連なる空コキもいただけないが、カーブを行く同機の写真を撮ることができた。考えれば、EF64の走行写真は、これが初めてだった。
帰りに乗った列車は、新見発姫路行き、時刻表を見ると、岡山周辺では、岡山駅をスルーするローカル列車が多く設定されるようになった。これに乗ると、姫路で1分で新快速に乗り継げる。新見~大阪が1回だけの乗り継ぎだけで4時間余りで結ばれる。18きっぷ族には嫌がらせのように、普通列車の乗り継ぎが年々悪くなっているが、逆にこのようなケースもあるものだ。

夏の思い出 -1-

季節はすっかり秋、今日は雨が降って寒いぐらいです。少し前のことはすぐ忘れてしまいますが、今年の夏はホントに暑かった。この暑い中、今年もヒマに飽かして各地に出かけました。準特急さん言うところの「老春きっぷ」を使って行った撮影のご報告を。

JR東海117系
JR東海の117系が、廃車を迎えそうです。平成22~24年度に313系120両を新製し、国鉄時代から継承した117系、119系127両を廃車するとアナウンスされています。本家たるJR西日本117系はまだ残るようで、京都周辺では引き続き元気な姿が見られそうです。何も遠くへ行かなくてもと思いますが、それはそれ、JR東海117系ならではの魅力もあるのです。

JR東海117系は、現在、2M2T4両編成18本がある。運転区間は浜松~米原間だが、昼間の主な働き場所は大垣~米原間となった。この区間には、117系のほか、211系、313系も入り、現在では30分ヘッドで運転されており、1時間も待てば117系をとらえることができる。昔からの撮影地、柏原~近江長岡の伊吹山山麓で117系を迎えた。この日は快晴で、JR東海色の117系も美しく映えていた。

近江長岡から上記とは反対に米原方へ歩くと、午後から伊吹を順光で撮れるところがある。この日は、山には雲がかかっていたが、やや見上げるようにして117の柔和な顔立ちをとらえられる。ちょうどやってきたのは、関西急電のリバイバルカラーを纏ったS11編成だった。なお、この区間、日中は、貨物もたいへん多い。とくに上り貨物は、ほぼ30分ヘッドでやってくるほどの貨物街道だ。

東海117系のもうひとつの魅力は、JR西日本ではもう見られない、新快速の運用が朝晩に残っていること。と言っても、メインの豊橋~大垣間の新快速は313系が独占しており、岡崎を発着とする補完的な新快速運用に残っているに過ぎないが、一度は新快速の運用から離脱したものの、再び復活した。「新快速」という響き、しかも8両編成と、かつての117系華やかなりし頃の活躍が頭をよぎった。

質問

そろそろ終の棲家を探し出してる今日この頃、妻に誘われて高野山へ行くことになった。結婚以来旅行で妻の希望を聞くのは初めてのこと、ましてや南海電鉄の支配地域などまさに人外魔境と思っていただけに未知の地域。時間表と最近便利だと言われているHPを見たが分からないことばかり。当会には人外魔境の鉄道にやけに詳しい人がいると聞くので分かる方がおられたら教えてほしい。

①帰りのキップが極楽橋ではなく、高野山発になっているがケーブルも含めて発券するのか?

②特急が高野山発になっているがケーブル以外に本線の駅があるのか?

③「天空」という特急があったように思うが気の迷いか?

④京都へ一番早く帰れる経路を教えてほしい。

⑤「こうや」「りんかん」の併結らしいがどちらがお薦めか?(なんで難波行きなのに併結なのか?)

⑥キハ55やスハ43を連結した列車があるはずだが見あたらない。

おしえてちょうだい!

川重製のみぶ型

「京22か 402」昭和49年11月4日 四条大宮/市電20系統代替の202系統 

青信号特派員さん投稿の「【9605】山陰線四条踏切のこと」のコメントでK.H生さんが「川重製のみぶ型」という表現をされておられた。私自身は初めて耳にした単語であるが、非常に的を得た表現であると思う。

「川重製のみぶ型」とはコメントで少し触れたが、昭和47年1月22日千本・大宮・四条線の廃止により壬生車庫が廃止になった際に代替バス用として新製されたバスのことで、シャーシはいすず、車体は川崎重工製で型式はBU06Dと称し、当時最新鋭の都市型低床バスであった。窓の大きい車体は京都市交通局の特注である。同形式のバスは、近畿圏では他の都市での導入例は無いと思われるが、関東圏では東京都営バス、東武バス、東急バス、西東京バス、国際興業等で導入された。

登録番号「京22か382~441」の60両が導入され、市電の代替系統に使用された。438~441のラスト4両は側面の方向幕が前後に設置され、市電代替系統以外でも使用可能なようになっていた。

当時の市バスは、均一系統は「前乗り運賃先払い」、整理券方式の多区間系統は「後乗り運賃後払い」であったが、代替系統は均一系統であるにもかかわらず「後乗り後払い」としたため必然的に専用車となった。配置は市電時代の壬生車庫が廃止されたので五条車庫となった。

その後、均一、多区間を問わず「後乗り後払い」に統一されたため、均一区間用車両の側面方向幕の後部への移設工事が行われた。

京22か 429 55年4月10日

 

京22か 440 51年1月8日/市電代替系統以外でも使用するため方向幕が前後に設置されている。

 

その他の47年式車について

47年式車はBU06D以外に、前期13両、後期65両合わせて78両導入されたが、後期車から、いすゞ西工車、ふそう車と日野車の窓の2段サッシ化、後扉の引戸化が行われたためスタイルが大きく変化した。

参考までにメーカー別に画像を表示する。

いすゞ

後期車は「京22か616~638」の23両が作られ、型式はBU05である。車体は616~625が西日本車体工業(以下西工と略す)、626~638が川崎重工である。前期車がBU06Dのため比較ができないので46年式車を表示する。46年式車は「京22か204~210、314~346」(342欠)の39両が在籍し、前者が型式BA30、車体は川崎重工、後者が型式BU05D、車体は西工である。

京22か 210  46年式BA30(川崎重工) 50年1月19日/「210」は市電10系統の代替系統で、この時期起点が当初の九条車庫から京都駅八条口に変更されている。その後、起点を京都駅、終点を玄琢に、系統番号を「6」に変更して現在に至っている。

 

京22か 316 46年式BU05D(西工) 50年6月15日

 

京22か 617 47年式BU05(西工) 50年3月16日

 

京22か 637 47年式BU05(川崎重工) 55年9月7日

 

ふそう

前期車は「京22か443~451」(449欠)で型式MR410、車体はクレハで44年式から続くスタイルである。

後期車は「京22か608~615・672~674」の11両で型式MR470、車体は608、672、673の3両が西工、609~615、674の8両がクレハである。

西工、クレハともに基本的なスタイルは変わらないが、窓の2段サッシ化と後扉の引戸化により印象が大きく変化した。

京22か 443 47年式MR410(クレハ)55年1月5日

 

京22か 613 47年式(クレハ)MR410 50年1月19日

 

京22か 673 47年式MR410(西工)50年1月19日

 

日野

前期車は「京22か455~459」で型式RE100、車体は帝国車体である。「山陰線四条踏切」の上から2番目に「京22か313」が写っているので、同一グループの「311」(46年式RE100、帝国車体)を表示する。47年式前期車は低床車となったが44年式から続くスタイルである。

後期車は「京22か639~671」(642、649欠)の31両で形式RE100、車体は639~663の23両が帝国車体、664~671の8両が西工である。

京22か 310  46年式RE100(帝国車体) 55年11月8日

 

京22か 645  47年式RE100(帝国車体) 50年1月19日

 

京22か 671  47年式RE100(西工) 58年1月1日

 

日産ディーゼル

47年式車は在籍しない。参考までに46年式車を表示する。46年式車は「京22か288~293」の6両在籍し、型式4R95、車体は西工である。

京22か 293 46年式4R95(西工) 50年3月16日

 

日産ディーゼル車は京都市交通局では少数派である。ちなみに、昭和51年9月末現在の在籍車両数は976両(定期観光車15両を含む)でメーカー別の内訳は、いすゞ321両(定期観光車2両)、ふそう278両(定期観光車7両、内1両休車)、日野340両(定期観光車6両)、日産ディーゼル37両)であった。

47年式「川重のみぶ型」の関連で、同年式車のスタイルの変化について簡単に触れたが、あまりバスの話をすると「あいつは何者」と言うことになりかねないので、ここまでにする。

【参考1】市電千本・大宮・四条線廃止時の代替バスの系統

201 みぶ~千本今出川~百万編~祇園~みぶ(1の代替)

202 白梅町~千本今出川~みぶ~祇園~岡崎公園(20の代替)

205 烏丸車庫~千本北大路~四条大宮(5の代替)

207 九条車庫~九条大宮~四条大宮~祇園~東福寺~九条車庫(7の代替)

210 九条車庫~京都駅~七条大宮~千本今出川~白梅町(10の代替)

217 九条車庫~四条大宮~祇園~岡崎公園(1・7の代替)

217甲 九条車庫~西大路七条~七条大宮~四条大宮~四条烏丸(17の代替)

221 九条車庫~九条大宮~四条大宮~千本北大路~烏丸車庫(21の代替)

205と221は西賀茂、210は三哲で担当した以外はすべて五条で担当した。

【参考2】BU06、BUO6Dの使用例

東京都交通局 46年式BU06D  58年6月30日 御茶ノ水駅前

 

東武バス 46年式BU06D 59年1月15日 足立営業所

 

東武バス 46年式BU06D 60年2月11日 新座営業所

多区間用の前後扉車で、スタイルは京都市の「みぶ型」と類似している。前扉が2枚共内側に開くグライドスライドドアー、後扉が引戸でなく折戸である点が異なっている。

 

東急バス 45年式BU06D 59年3月20日 大森操車所

 

西東京バス 46年式BU06D 59年7月24日 八王子営業所

江若鉄道三井寺下再現(その4)

(その2)でハ11の更衣室を紹介しましたが、藤本先輩からのアドバイスもあって 塗装(と言ってもアクリル絵の具の筆塗りですが)してそれらしくなりました。ついでにニ1(ヤ4574)のなれの果てであるペンキ小屋も作ってしまいました。お飾りばかりが先に出来て、本体工事はちっとも進んでいません。これらのダルマさんを置ける日はいつになるやら・・・。デジカメ写真にすると 出来の悪さ アラが目立ちます。遠目には満足しているのですが・・・。
ハ11の更衣室
ハ11の更衣室

 

二代目ニ1のペン繧・?屋

二代目ニ1のペンキ小屋

関西の電車・巡察の旅 その1

スルッとKANSAI夏の3dayチケットをプレゼントされた。このところ動かない老人にカンフル剤のつもりで送ってくださったのかもしれない。どうしようか、一思案の結論は、3日乗車で東西南北端まで「乗り鉄」となった。挙行に際して、①特別料金がいらない列車に乗る。②車種は不選別、来た列車に乗り必ず着席する。③老人はWCが近いから、余裕を持って行動する。④障害者手帳はないが、腰、右膝に配慮する。⑤行路途中で生中の相手を呼び出さない。さて、乙訓の五戒はどうなるか?

1日目:8月7日(日)、西向日・普通749発→烏丸805着、810発→竹田821着。ここでWCへ、やって来た天理行急行・828発に乗車する。西大寺で入庫中の阪神1000系を初めてみた。平城京1300年の沿線風景をぼんやり見ているうちに「この急行、平端で橿原神宮行に同ホームの乗り換え不能に気付き、郡山で下車した。後続の普通を待つ間にWCへ。大和八木に940着、大阪線下りホーム改修中に付き蕎麦1杯が駄目になった。944発の榛原準急に乗車。

小学校5年の夏休み、父の故郷で過ごすため130015501300の準急に乗っていた。桜井手前の変電所あたりに黒煙が上がっている。火事だ。変電所手前で列車はストップ。駅員がホームから飛び降り走って来た。駅まで走れと言って乗務員室に入って来た。列車は無事に桜井に到着、乗降あって朝倉に向け発車した。榛原で下車してその後を聞けば不通になったそうだ。桜井は吉野杉の集散地で製材所や卸問屋が国鉄線を背にして軒を並べていた。今もその片鱗が残る。

その桜井で後続の急行乗り換えのために下車。理由は終着榛原5番線にエスカレーターがないからだ。乗り換えた急行2619号車、先の準急9206号と同じ内装であるのに気付いた。老骨もリニューアルされると気持ちが良い。阪急33005300系のまだら化粧板は酷いと思う。大和朝倉を通過してスピードダウン、前に榛原準急が居るのであろう。7年半前、仁蓮上人を先頭に準特急、総本家、老人の4人で長谷寺・榛原間の御立ち台にやって来た。それぞれの御立ち位置に分散したところで、老人は黄土色に焦茶の縞模様の細長い物体を見つけた。「蛇やぁー!」、「ひぇー!」と奇声を上げたお人がいらっしゃった。保護色で50cm位の可愛い蛇だった。

長谷寺~榛原

榛原発車後「そのうち来るさかい、ちょっと待っていてや」と心の中で呟いた。榛原から南へ2里、父母の眠る墓がある。毎年この頃、兄夫婦とやってくる。酒樽でかくれんぼした思い出を従兄の3回忌の時にして、幼馴染をびっくりさせた一幕がある田舎だ。電車がらみと言えば叔父が戦争中にお伊勢さん、橿原神宮に連れて行ってくれたこと。青山越えの2200型の電制の音にびっくり、5600代の飾り窓に見惚れたのもその時だった。

名張1026着で下車。腹が「グウーッ」と鳴ったからだ。改札を出て蕎麦屋を探すが何処も開いていない。やむなくホーム売店でサンドと飲むヨーグルトを購入、ベンチで早弁とする。済ませた時、目前に急行到着。特急退避の上1051出発。伊賀神戸を前に西名張への経路を追うが分からなくなった。桔梗が丘住宅地が出来るまでは線路跡はくっきり残っていた。今は神戸駅手前の川筋位となった。

その神戸駅には863763のユニットが、海老茶に銀色のバンド姿で乗り換え客を待っていた。800系登場時の色でもなく、パンダ塗分け色でもない不思議な色だ、思わず下車してしまった。

伊賀神戸1114発、1424VVVF車は快調に走り青山町に1117着。これで本日の目的地、最東端到着となった。所要時間3時間29分、でも名張や神戸でウロウロしなかったら3時間前後で来られたであろう。でも早回りではないから、これでいいのだ。

伊賀鉄道

青山町から峠を望む

帰路は田原本から王寺を経て生駒に出ようと思いパンフを見たら不適用区間となっている。何故だろう?5年ばかりに前に乗った事があるが、その時はスルッとkansaiが使えた筈だ。大軌200形は8300系3連、信貴生駒1形は1020系4連となり、ワンマン運転にはびっくりだった。適用外区間は乙訓の戒に反するから乗る気はない。WCに行って、青山町から鶴橋に直行することにした。乗った急行は特急遅延のあおりを受け良く走る。名張-赤目口-三本松間の平坦部では110/h前後を維持している。2200形時代はどうだったのか、仁蓮上人に問うてみたい。名張3分延発は八木で取り戻し、ところが再び八木3分延発となり五位堂からノロノロ運転となる。国分で準急を抜くや再び猛ダッシュとなり、鶴橋1312着。名張-鶴橋間66.1㎞:70分(途中停車8駅)であった。50年前は66.2㎞:56分(途中停車3駅)で、かっての急行の筋を引いているのは現在、快速急行と名を変えている。所要時分57分、途中停車は5駅で、特急退避ありだ。

三本松~赤目口

三本松~赤目口

思惑より1時間早く着いてしまった。うだる暑さの中で時間つぶしを考える。そうだ、生駒山上に行こう、適用区間ではないか。王将で冷やし中華に生中をすすっている間に思い付いた。鶴橋1355発で生駒1414着。ケーブルは1420発車と係員が叫んでいる。雑誌で見たケーブル・カーは微笑ましく思ったが、現物を見ると少々グロテスクである。ガラガラの車内で発車。本日は臨時便ありで所要時分は、鳥居前(6分)宝山寺(7分)生駒山上と案内している。往復したら1516着で御帰還であった。

さあどうするか、けいはんな線へは開業草々に行ったが、トンネル電車で面白くない。さあ帰ろうか、WCに行って生駒1516発、ガタの来たアルミカーで堺筋本町、淡路を経由して起点・西向日1646着。全行程8時間57分、運賃5,050円也の巡察の旅だった。

山上線

宝山寺線

とほほ… 馬路村の魚梁瀬森林鉄道行けず

話は、今年京王百貨店で開催された「第45回 目指せ!駅弁日本一」というTV番組を見たことから始まります。その中で注目したのは、「馬路村の村おこし弁当」です。なぜに鉄道もない高知県山奥の馬路村から駅弁が、それも由緒あるイベントの出展できたのかが不思議でした。早速インターネットで調べてみると、かつて「魚梁瀬森林鉄道」が走っていて、廃線後観光用のトロッコがあるのを知りました。駅弁はトロッコの「馬路温泉前駅」で、日曜日と祝日のみ、山の幸をふんだんに1000円で限定で販売しています。これは行ってみたい、食べてみたいと思い訪問リストにおいておきました。

http://keio-ekiben.cocolog-nifty.com/2010/2010/01/post-0c07.html

6~7月の北の旅路以降、家庭事情で長期の旅が出来ず、それではと短期でいける青春18切符や新幹線指定券等々を購入しズボンに入れていましたら、日頃から洗濯好きのかみさんの藻屑と消え、新たに購入せざるをえなかった不幸となりました。今までにもお札を洗濯され何度も体験しており注意していましたが、お札は結構丈夫で藻屑は免れていましたが今回は無理でした。

再度購入しての乗り鉄をしましたが、この程度では溜まったストレスは解消しません。ちょっと違って、近場でいけるトロッコはないだろうかと、先日、湯口大先輩と神戸でお会いできる機会を得て、四国高地の「魚梁瀬森林鉄道」をお聞きしました。私は行ったことがないが、友人が行った時は運休していて撮影出来なかったと聞いたと言われました。やはり、なぜに駅弁があるのかと不思議がっておられました。

これは是非に確かめたいとチャンスを待っていましたら、9月23日からの連休が高速1000円ディにもなっているので、家を出られると、最近話題の別子鉱山も含めての3泊4日車中泊の食料等の旅支度をして、「ぶんしゅう7号」の出発準備を整えました。
ナビもセットして道路公団にもTELをして坂出ICに0時以降に通過すれば1000円割引が適用されると確認して、準備万端、さて出発となりましたが、湯口大先輩とお話した折に友人が行ったが、運転していなく見ることが出来なかったとの言葉を思い出しました。

自宅から約400キロ余り約9時間をかけての訪問です。念のために馬路村観光協会に電話をしますと、「申し訳ありません。1週間前から機関車の故障で運行していません。夏休みは元気でしたのですが、過労です。運行開始の見込みはたっていません。インクラインは運行していますがどうでしょうか。」との返事です。今、運転席でエンジンキーを回そうかとしていた状態でしたので、言葉を失いました。
湯口大先輩に電話しますと、ご友人の方は、まだ森林鉄道が営業している数10年前に、船・鉄道とバスを乗り継いで山奥に行かれたそうです。それはさぞかし大変な旅だったと思います。そして、運行していなかっただけでなく機関車は車庫に入っていて見ることも出来なかったそうです。それと比べれば、まだ行く前に分って良かったね。お酒でも飲んで忘れましょうと、慰められました。ご友人の落胆とは比較も出来ない程度でしょうが、ショックです。

今年の秋は、湯口大先輩お薦めの紀州鉱山トロッコや天川村のモノレール訪問等を予定しております。乙訓の老人、総本家さんともご一緒します。ご希望の方がおられましたら、ご連絡ください。

1955/57年熊本電気鉄道


旧海軍荒尾工廠のEB2と3 1~3とあって15t 41.3kW×2 国有財産だがこれは横領ならず返却(解体)された

宇部電気鉄道デハ2→宇部鉄道→買収→14 熊本電気鉄道最後の2軸車である

モハ14改造二代目工作車 かつこの時点唯一の2軸車 上の写真から3年後 パンタがなければ屋根で相撲がとれる

久しぶりである。書き込みをサボって読むだけに回るのに慣れると、それはそれで至極気楽なものである。乙訓ご老人も、総本家青信号特派員氏も、どうやら同じらしいと踏んだが。そういえば健筆とどまることを知らない「ぶんしゅう」氏も最近ややお静かな。

で、懲りもせず55年半/53年半前のカビの生えた写真をゾロ並べ、諸兄の非難がましい冷たい視線を浴びながら、只管耐えることにする。1954年高校修学旅行の際、観光を一切拒否して熊延鉄道と熊本電気鉄道を撮ったものを以前「無理やり」ご覧に供した。今回はその翌年および3年後で、ポール姿は1955年3月19日/パンタ装備は1957年3月21日の撮影である。

熊本電気鉄道は1955年時点まだポール集電で、敗戦後に緊急導入した旧海軍荒尾工廠の凸型電機EB1~3も残存し、国鉄モハ90005が入っていたがまだ手付かずで標記もそのまま。1957年ではパンタに、架線もカテナリーになり、2軸車は二代目工作車(←14)以外ことごとく姿を消していた。「もはや戦後ではない」と誇らしげに経済白書が謳いあげたのが1958年だが、その1年前でも木製車両がまだまだバリバリの現役=主役というより、半鋼車は101、102と国鉄から購入しまだ未整備の70型(旧モハ90)しかなかったのである。


日立1944年(銘板は前年)製の実にダッサェー電車 時節柄木製2軸電車の改造名義による新製だから?かも


この時点まだモハ90003広ヨワのまま 右端は旧海軍工廠EB2と3
モハ72は旧モハ90003

モハ71は旧モハ90005

この熊本電気鉄道は、菊池軌道として、3フィート軌間蒸気軌道で1911年10月1日上熊本-広町を開業し、1923年サブロク改軌及び電化し、菊池電気軌道に改称。1942年5月1日鉄道に変更し菊池電気鉄道に、1948年2月20日熊本電気鉄道に改称。1987年2月16日御代志-菊池(旧隈府)を廃止。

旧3フィート時代の車両は蒸気機関車9、客車10(定員合計370人)、有蓋貨車10、無蓋14であった。やはり3フィートの蒸気軌道で、約3か月おくれて開業した西大寺軌道(→1915年鉄道に変更)が、機関車4両、客車7両、貨車3両を引き取っている。

敗戦間際、空襲で甚大な被害=変電設備もやられた。近辺の鹿児島本線鉄橋迂回線建設のため、陸軍が持ち込んでいた100式軌道牽引車や貨車が、敗戦で放置してあったものを、緊急避難は確かとしても、無手続きで燃料とも横領し、緊急運転に充当した由。社長の松野鶴平は政治家で鉄道大臣も歴任し、俗に松野「ズル平」と呼ばれていたぐらい、よく言えば敏腕・したたかな実業家で、彼の政治力には違いないが、国有財産横領も間違いない。

何しろ横領だから、設計申請など、正規の手続きが踏めるわけもなく、1949年4月1日開業の北熊本延長線工事に使った。業務用車両は認可不要なのである。かような例はあちこちで見られ、西武の鉄道聯隊車両一式(後日一部の台枠・台車が山口線の客車に化けた)や、島原鉄道の旧海軍工廠車両横領などがある。

世の中がやや納まった頃、車両の設計申請の際、国鉄の旧車であれば、必ず国鉄資材局長との譲渡契約書の写し添付が義務付けられていた時期がある。すなわち当局もある程度実態を知っており、非合法取得した車両に監督庁がお墨付きを与えるわけにはいかなかったことを示す。

ところで熊本電気鉄道でも、勿論日立製の田舎くさく泥臭い3扉車101、102(谷岡ヤスジのマンガなら「イナカー」と吹き出しそうだ)もいたが。

最も両数の多かったモハ51型、55型は戦時中旧京都市N電のお古!やオリジナルのボギー車を改造したと称して木製食パン型車体を田中車両で新製したもの。焼失したものもあり、55~57は電装を外しホハ58、59、57に。愛想もクソもない四角い半鋼製車=京津22~27などは「鉄のハコ」というが、これは「木箱」、「折箱」か。


モハ55+コハ32 藤崎宮前 55はのちホハ57に


モハ56 のち電装を外しホハ59に
ホハ58モハ55の電装解除 旧ボギー電車1の改造名義である

ホハ58+57+41+コハ31=全部木製車 藤崎宮前
モハ54+コハ32 後者は電化当時客車不足で有蓋貨車を改造 さらに戦時中西鹿児島工機部でデッキ、中妻撤去、多客化改造 粗悪応急車のままで30数年経過
モハ201←国鉄モハ1型 台車はD16か

モハ202←国鉄モハ1型 101とは窓配置が違う

モハ201型+ホハ+モハ101型 半世紀以上前だから今ではぎっしり家が立ち並んでいるだろう

ホハ41←モハ41 モハ63型割り当てによる名古屋鉄道の供出車 元来尾西鉄道

オリジナルの旧ボギー電車車体 宿直用布団が干してあり 未成年の技工見習いが寝小便をしたんだろうと 皆からからかわれていたのが可哀想だった 妻面幕板中央に方向窓あり

1966年房総夏

 「房総1周は始めてで、今日は乗り鉄に徹しますわ」。9月3日、内房線の車内での総本家元祖青信号特派員さんの言葉。撮り鉄の総本家さんは学生時代全国機関区巡りを行い、201番まであるC57を番号別に6割以上押さえたが、千葉方面が漏れたとのこと。一部に廃車も出ていた時期であるが、6割とは見事なもの。 話が進み、「あの頃は特に四国と千葉の人気が無かったのはディーゼル王国であり、蒸機好きには敬遠されたのではないか」と言うのが二人の結論であった。

 1966年7月24日、人気の無かった千葉が賑わっていた。関東の海水浴は小田急の江ノ島、京浜急行の三浦海岸が有名であるが、国鉄の房総西線(現内房線)も全国各地から応援の車両を増結した臨時列車で賑わっており、史上最低と言われたキハ17系の急行やC57、C58が長編成の客車「かもめ」号を牽引し、そこそこ面白い時間過ごすことができる時期があった。電化して72系などが進出する前のことである。

1966.07.24 房総西線竹岡 143レ C5777[新小岩]

143レは千葉発安房鴨川行き143Dを輸送力の大きい客車に列車に置き換えたものと思われる。1両目の客車は3軸のマユニ7827とメモにある。

 

1966.07.24  房総西線竹岡~浜金谷 9133レ 「かもめ」2号千葉発館山行き C578[新小岩]

C578は九州から転属したカマ。

「かもめ」2号の後部客車テイルマーク。 山陽特急の「かもめ」に少し似ている。

1966.07.24 房総西線竹岡~浜金谷 9119D両国発急行「汐風」5号千倉行き

オールキハ17系7連は最低ではあるが、編成美はお見事と言いたい。

 賑わいの一端を紹介したが、メモを見ると144Dの先頭水タイとか118D「内房」4号に四カマ、117D「内房」4号に長ナノあり等の記録があり、じっくり編成を調べればさぞ面白かったことであろうと思う。車社会がこれからと言う時期で千葉鉄道管理局も各地から応援車をかき集めてしのいだことと思われる。

2010.09.03久留里線東清川 926D キハ30100

 さて、ディーゼル王国であった千葉管内の現在は第3セクター化された旧木原線(現いすみ鉄道)を除きJR未電化は久留里線のみになってしまった。久留里線には未だキハ30が残っている。撮影はお早い目に。

イラストは楽しめても……チンプンカンプン

米手作市さんは英語でお手上げらしいが、老人はフランス語らしき文字で説明文入りの書物をパリ土産でプレゼントされた。とても楽しいイラストが溢れかえっている。イラストの順を追うとどうやら鉄道の歴史を語っているようだ。時々「絵」が出てくがどう見てもパリのようだ。終わりの方で我が新幹線も出てくる。開通区間は岡山まである。printed in spain とある。図はとても精巧で、ほれぼれする。「絵」には着色したものがあるが油絵ではない。

本体は幅27.5×高30×厚2.5糎。240頁まで打ってある。表紙は厚紙、ずっしりと重い。新婚旅行に出る前に餞別を渡したら、パリの露天ガラクタ市で見つけてきたと言って、チョコレート代わりに渡された。どなたか引き取っていただけないでしょうか。ただ一つ条件ありで、11月7日のホームカミングディか、鬼の笑う来年の第3回総会でお渡し出来る人である事です。乙訓の老人宅へお出ましになることが一番うれしい。早いもの勝ちです。素晴らしい本です。

フランス語チンプンカンプンの乙訓の老人

ご希望の方、先着順でお譲りします。


友人から近鉄に勤めていた人からもらったのであげると、受け取った運転手の運行表と時計のケースです。
近鉄の社章入りのバックに入っているのが貴重だと思いますが、私はコレクターでありませんので、それほど興味がありません。DRFCの方でもしご希望の方がおられれば無償で、お譲りします。 宅急便の場合は、着払いでお願いします。

The Steam Railroad in America

という写真集を手に入れました。でも私には手に負えません。英文だからです。写真はとてもきれい、カラーと白黒のすばらしい写真です。

どなたかほしいという方に差し上げます。内容は1920~40年代のアメリカの蒸機写真集です。

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