能勢電に「日生エクスプレス」と言う阪急梅田直通の特急がある。趣味誌の阪急特集では必ずその姿が紹介され、一度は記録したいと思いながら今日に至っていた。今回、小学校の同窓会参加を理由にその撮影機会ができたので、古い写真と併せて報告する。
能勢電は妙見山参詣を目的に設立され、先ごろ100周年を迎えた変貌著しい鉄道である。北摂を走る参宮電車(参宮は特に伊勢参りに使われる言葉であるが)のような存在で、始発駅川西能勢口を出た所と鶯の森~鼓ケ滝の猪名川橋梁には京阪電車顔負けの大カーブが存在した。 また、1960年代後半には多田グリーンハイツの開発に進出した西武グループの株買占めがあり、阪急が防衛したとの話も聞く。

2010.9.30 平野~一の鳥居 特急「日生エクスプレス」梅田行き8106
生憎の雨であった。十三のホテルを出てとりあえず山下まで行ってみる。通勤客が傘をさして並んでいる所に割り込んで撮るのも気が引けるので平野に戻り、一の鳥居寄りの山間ムードの残る踏み切りで撮影。それにしても昔の田舎電車風景は完全に消え失せていた。日本の鉄道で最も激変したのがこの能勢電であると思う。

2010.10.1 豊中 梅田行き特急「日生エクスプレス」 8041
翌日は阪急宝塚線豊中駅で撮影。人間永いことやっていると雨の日も晴れの日も交替と言おうか平等にやってくる。雨でもくさらないこと。雨上がりの好天に恵まれ、連続してやってくる阪急ご自慢の電車の中で赤いマークの特急「日生エクスプレス」は一際際立って見えた。尚、余談であるが、以前阪急宝塚線には特急が走っていた。今は、急行が宝塚側終点部分が各駅停車となる以前の運行形態であり、、スピード制限が多いことも相俟って関東の相模鉄道に似た感じがしないでもない。

1965.10.29 平野 29
新京阪P-4、P-5がポールを振りかざして走行し、鋼体化された単行の車両も居た頃で、妙見山を始め沿線の行楽地も賑わったであろう時代である。小生も小学校時代にこの電車に乗り、猪名川渓谷一庫(ひとくら)温泉でキャンプをしたり、秋の遠足で多田神社に行ったことがる。端正なスタイルの木造車であったP-4、P-5一族も翌年訪問した時はパンタ化されていたが、その後、阪急の小型車投入により間もなく消滅していった。なお、当時のメモに詳細な記録がなく、フィルムネガの前後から撮影した場所は平野駅と推察した。因みにこの頃の交換駅は絹延橋(車庫があった)、鶯の森、多田、畦野、山下で他に平野~一の鳥居に塩川信号所、笹部~妙見に隊道東口信号所があった。平野は妙見に向かって右側にホームがある行き違い不能の駅で写真からそう推察した。

1983.11 山下 日生線323+320
320型は阪急小型車のうち最後まで原型に近い姿を保っていた。日生線と言うニュータウン開発に伴ってできた新線内専用に活躍する320型最後の頃の姿である。よく見ると後の320のパンタグラフは撤去されている。能勢電入線当初は500型と同じくステップをはずしていたが、阪急2100系改め能勢1500系入線とともに再びステップをつけたものと思われる。宝塚線急行の先頭に立っていた頃がこの電車の絶頂期である。

1983.11 笹部~光風台 妙見口行き610
500型のモーター、台車等を利用して車体新製した車両で小型車ながら整ったスタイルで人気が高かった。最初の車両は800型と同じ様に非貫通スタイルでこれは人により好き嫌いがあった。

1983.11 笹部~光風台 川西能勢口行き1501
元阪急2100系。能勢電の昇圧は1995年3月であり、この時期はまだ600Vで、この車両は600V車両として新製後昇圧→降圧→昇圧を経験して今日に至っている。この頃の能勢電はまだ単線ではあるが大型車両が入り始め、田舎電車から準大手並みに脱皮する過度期にあった。写真ではわかり難いが、山の上には戸建て住宅が見える。
激変した能勢電車であるが、まだまだ探せば自然をバックに撮れるかもしれないと淡い期待を持ちつつ又、来年の紅葉の頃に再訪したいと考えている。
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