日本の残存天守12カ所のうち四国には4カ所あり、高知城もその一つ。関ヶ原の合戦の功で土佐二十万石の大名となった山内一豊が築城。現存天守は延享4(1747)年に再築されたもの。桂浜に銅像が立つ坂本龍馬は長宗我部系の下級武士と聞く。
2007.8.26▼
はりまや橋付近と思われるあたりで土佐電最大両数の630形と城を入れてみた。▼
日本の残存天守12カ所のうち四国には4カ所あり、高知城もその一つ。関ヶ原の合戦の功で土佐二十万石の大名となった山内一豊が築城。現存天守は延享4(1747)年に再築されたもの。桂浜に銅像が立つ坂本龍馬は長宗我部系の下級武士と聞く。
2007.8.26▼
はりまや橋付近と思われるあたりで土佐電最大両数の630形と城を入れてみた。▼
鉄道開業150年という節目の日にも関わらず、全く盛り上がらない10月14日であったように思います。皆様はいかがお過ごしだったでしょうか。中国新聞の記事を引用させて頂き、古き良き時代を思い出すことに致します。
秋のイベント「上田電鉄ツアー」も明後に近づいて来ました。楽しみにしていますが、クローバー会では、今まで、みんなで、いろいろなところへ行き、思い出をつくることができました。ここでは、みんなで共有したBlue Momentを紹介していきたいと思います。今回は、2018年5月に行った明知鉄道です。ぶんしゅうさんのお世話で、国民宿舎の「恵那山荘」で一泊しましたが、快晴に恵まれ、新緑のまぶしい二日間となりました。
準特急さんが「お城と電車(9)伊賀上野城」を投稿されました。それで思い出したのが、昨年(2021年)の11月に伊賀鉄道の貸切列車のイベントをしたときの集会でご覧いただいた伊賀鉄道の昔と今の映像です。会員の方に写真を募集したところ3名の会員の方から写真を応募していただきました。それを動く写真にまとめてみました。ちょっと見てください。おまけに近鉄特急も出てきますよ。
[videopress cINzvsM2]
いかがでしょうか。もう少しうまくできたら良かったのですが・・・
大津の86様
貼り付けがうまくいかなかった分です。
築城の名手藤堂高虎が大和郡山から移された筒井定次の城郭を大改修し豊臣打倒のため有名な高石垣や五層の天守をあげた。現在残る三層の天守は1935(昭和10)年に再建されたもの。伊賀は忍者のふるさと、松尾芭蕉ゆかりの地であり、荒木又右衛門の仇討ちでも知られている。2004.8.8撮影 ▼
2021.11.7 現役生と共に開催された伊賀鉄道乗車会で上野市駅を出発する203で手作りのポスターが左側に掲載されている。元東急で鉄研三田会の荻原さんにはお世話になりました。▼
さて、貸し切り列車を見送った後は西大手-新居間で105の伊賀上野行きを撮影。▼
往路ではまだ西九州新幹線は未開業でしたので博多からは乗換なし直通で長崎へ向かえましたが、開業後は武雄温泉での同じホームでの対面乗換方式となっています。
今日は博多から再び長崎へと向かい戻りは新鳥栖で降りて九州新幹線に乗り換えて鹿児島へ向かい、今度は志布志港までリムジンバス、フェリーで帰る予定です。
福知山線列車の車窓に現れた福知山城です。貼り忘れですが、項目をおこしました。2018.9.8 ▼
福知山は山陰、福知山線のジャンクションで昔は北丹鉄道も出ていた。大阪、京都から長い旅(少なくともC57やDF50が牽引するオハ61系客車の頃はそのように感じた)を終えて福知山に到着する寸前に右手の丘に見えてくる。織田軍の丹波・丹後の基地として明智光秀が築城した戦国期の城で天守は1961(昭和36)年に復興された。ここも石垣に石塔や墓石が使用された粗野な野面積みである。3年間在城した。光秀は3年間在城し、善政で福知山の人々に慕われたという。尚、近くの商店街のような所にC5856が保存されていたがまだあるのかその後確認はしていない。
2013.8.30 福知山に到着する新大阪発城崎改め城崎温泉行特急「こうのとり15号」クロ181-14。左側に微かに復興天守が見える。▼
第3日目 9月23日 その1
昨夜ホテルへ戻ってから長崎のホテルの空室問い合わせを行いましたがどこもありません。これは参りました。今日は西九州新幹線に乗車して博多に行きます。博多ならホテルも多いと検索していましたらいつも宿泊するスーパーホテルに空室が見つかりました。ただ宿泊料金は15.800円といつもの倍以上します。それでもないよりはいいかと納得して予約を入れましたが・・。
11:30 一応、ホテルが決まったので西九州新幹線が開業した早速長崎駅へと向かいました。
▲ 駅前広場には開業式が行われたようでテントやブースが設営されていましたが工事中で雑然としているためなのか長崎駅からは離れた出島方向の長崎水辺の森公園がメイン会場になっていました。
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小浜線は、京都からは直線距離では、それほどでもないものの、アクセスは良くありません。どちら側から列車で入るにしても、遠回りを強いられて、着くのは昼ごろになります。走っているのも汎用機のC58では、訪問の優先順位は低くなります。近くの舞鶴線、宮津線も、よく似た路線ですか、そちらは、D51やC57、9600が見られるとあって、よく撮影に訪れたのとは対照的でした。
アクセスの悪さを救うために一計を案じたのが、夜行列車の利用でした。当時、北陸本線には、まだ大阪~新潟の夜行の鈍行が走っていました。京都23:48発、敦賀には深夜の1:37着、待合室で仮眠して、敦賀4:50の始発に乗れば、5時過ぎには撮影地に到着ができて、まるまる1日を有効に使うことができたのです。▲前稿のなかで、「十村に来たのは、あるミッションがあって」と記した。私が行く直前、仲間のI原さん、T田君が、小浜線を訪れていたのだった。彼らが目指したのが、この十村の近くの小高い山の上の神社で、“十村はエエでぇ”と吹き込まれていたのだった。聞いたままに、くだんの山に登ってみた。なるほど! 素晴らしい展望ではないか。敦賀方からの線路がずっと見渡せて、右に見える十村駅の到着も見える。二人が言うのは間違いなかった(以下、昭和46年8月)。
第2日目 9月22日 その2
12:40 長崎駅は在来線・新幹線のホームとコンコースは完成したものの駅前は新しい駅舎ビルは建築中で駅前通りには迂回を余儀なくさせられます。駅前のアパホテル、ドーミーイン等々を回って空き室があるかどうか問い合わせをしますがことごとく今日は満室と振られました。そして東横インでようやく1部屋だけキャンセルが出ましたと案内されました。ただ取れたのは今日だけで明日は満室です。
駅前で長崎市電の撮影を開始しましたが今日は車が多く歩道からの撮影には難儀しました。駅前電停は歩道橋で連絡しているのですがなぜか多くの市民の方々がおられます。新幹線開業前日のイベントでもあるのかと上がって聞いてみますともうじき航空自衛隊のブルーインパルスによるアクロバット飛行の予行練習が見られるというので待つことにしました。
▲ 13:30 真っ青の空の下、轟音をあげて6機の国産T-2超音速高等練習機が飛来してきました。
広島電鉄宮島線は本年8月に開業100周年を迎えました。宮島口駅も新しくなり、今はJR広島駅に高架で乗り入れる工事が進んでいます。低床連接車の増備が進むなか、旧型の単車や連接車は肩身が狭くなってきています。そんな中で、3100型3101の塗装が旧塗装に塗り替えられたそうです。10月1日付けの新聞記事をご紹介します。
新ネタも“デジ青”に載せながら、カビの生えたネタも仕入れて変化をつける。これが、高齢趣味者の定めと自覚し、色ものはしばらく休んで、蒸機ネタと参ります。以前、本欄で九州、北海道の機関区別の蒸機をお伝えしました。「本州はないんかいな」との声も聞きます。もちろん撮っていますよ。ただ機関区別に見ても、本州は、結構蒸機の運用範囲が広くて、まとまりを欠きますし、地域的なムラもあります。そこで、線区別に見ていくこととしました。
約50年前、日帰りでも行ける関西地方にも多くの蒸機線区がありました。それらを、順に紹介していきます。最初は、敦賀と東舞鶴を結ぶ「小浜線」です。その小浜線、ことしは全通100周年に当たります。先日は、丹鉄の「くろまつ」が初めて小浜線に乗り入れしたと聞きます。また「駅メモ!」とか言う、ワケの分からないキャラクターが出てくるキャンペーンが行われているのですが、高齢者には、何のことかサッパリ分かりません。▲昭和46年8月17日、小浜線を訪れた際の行程を撮影順に載せて行く。敦賀から始発列車に乗って、5:09に美浜に到着。駅で仮眠ののち、東美浜寄りに歩いて、敦賀発の922レを撮影、この列車、西舞鶴、綾部経由で終着は京都。C58 212[敦一]の牽引。補助灯が、前照灯並みの大きさ。
第2日目 9月22日 その1
昨夜は結構早く就寝しましたが夜2時前に起こされました。海は荒れていないのですがグーグーといびきが響きます。2席隣の同乗客から今まで聞いたことのないような迷惑ないびきです。とうとう朝まで再度寝てしまうことが出来なく不眠です。列車ならこんなことはなく心地良いジョイント音が子守歌に聞こえてくるのですがこれはいけません。すっかり寝不足になりました。ツーリストクラスではなく1クラス上げてのプライベートベットにしても隣にいびきをかく客が来れば一緒ですので判断が難しいところです。復路の隣人客がいびきをかかないことを祈るしかなさそうです。
▲ 5:48 今日の日の出時刻は6:01です。明るくなってきましたので甲板にあがって日の出を見ることにしました。瀬戸内海から別府湾に向かうフェリーの船上です。
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