“デジ青”から 湯口 徹 さんのご活動をしのぶ

湯口さんへの思いは、日時が経るにつれて、より強く敬慕の念が募って来ます。ホームカミングデ-での含蓄のあるスピーチ、見学会での舌鋒鋭い解説など、湯口さんのクローバー会での活動の日々を改めて思い浮かべています。

いっぽう当「デジタル元祖青信号」でも、たくさんの記事投稿をしていただきました。ちなみにトップ「投稿者」のヘッダーから「湯口徹」を検索していただくと、実に多くの興味深いタイトルが並び、それは病に倒れられた2017年12月まで、連綿と続いています。湯口さんの記事・写真は、趣味誌・単行本に多く発表されていますが、“デジ青”でしか味わえない、滋味あふれる「あの話、この話」に満ちています。ぜひ、湯口さんの思いを感じていただければと思います。湯口さんは、定例的に行われる、クローバー会写真展「鉄路輝く」にも、必ず出展をいただいた。この時は、湯口さんが同志社在学中に撮られた京津線の電車を展示、トークショーで興味深いエピソードを披露していただいた。

また「旧掲示板」でも多く発表され、そのなかの「おじん二人ヨーロッパ軽便」は、2005年10月から始まって、途中で「おじん2人+1人」に変わってからも、延々と続き、2008年9月まで、実に約90回(正確なカウント不能)にも渡って長期連載されました。また2006年3月連載の「サンパチ豪雪横断記」は、「レイルマガジン」誌の特集記事にもなるなど、多くの素材が、出版・マスコミ界に生かされています。

ここでは、表記のように、湯口さんがクローバー会での活動の様子を、ほかの投稿者からの記事で数点挙げてみました。最後にリンク先を表示していますので、ぜひ記事もご覧ください。

2009年3月8日「とりあえず総会写真速報」 この年の総会は犬山市のホテルで行い、宿泊後、明治村を見学、保存されていた蒸気動車ホジ6014を見学、湯口さんは、たまたま「蒸気動車」の本を出版中で、床下までもぐって詳細な解説に、参加者は興味津々で聞き入っていました。とりあえず、総会写真速報 | DRFC-OB デジタル青信号

2009年8月10日「〈速報〉湯口さん「島秀雄記念優秀著作賞」祝賀会が行われる」 この年、湯口さんは、その「日本の蒸気動車」で、鉄道友の会「島秀雄優秀著作賞」を受賞されます。会で祝福することになり、その会場の様子が紹介されています。表彰状の類いは、小学校の皆勤賞以来60年ぶりとかで、湯口さんは名誉をある賞をいたく喜ばれるとともに、会の連帯を強く感じられたのでした。【速報】湯口さん「島秀雄記念優秀著作賞」祝賀会行われる | DRFC-OB デジタル青信号

2013年11月21日「オロナイン軟膏3個 今年のホームカミングデー」 この年のホームカミングデーは新装なった良心館で行われ、湯口さんに講演をお願いしました。テーマは「軌陸車」、いかにも湯口さんらしい、ニッチなテーマですが、貴重な資料、写真を駆使して発表をいただきました。湯口さんには出版計画もあったと聞きますが、ついに実現せずに終わりました。なお記事では、そのあとの懇親会の様子も紹介されていますが、記事の最後の写真、右から沖中忠順さん、湯口徹さん、奥山直秀さん、お三人とも鬼籍に入られてしまうとは、思いも寄らないことでした。オロナイン軟膏3個! 今年のホームカミングデー  | DRFC-OB デジタル青信号

2014年5月15日「北近畿タンゴ鉄道 あかまつ・あおまつに乗りに行こうツアー開催」春の一泊旅行は、新緑の北近畿タンゴ鉄道へ。宿泊後、チャーターバスで加悦SL広場へ。ここも保存された内燃動車の宝庫、湯口さんにマイクを付けていただき、解説をしていただきました。解散後、私は湯口さんと福知山市のポッポランド館を見学、展示されていた北丹鉄道の細かい資料を一点ずつ丹念にカメラで複写されていた姿が印象に残っています。一流の趣味人でも、地道な調査・研究が不可欠だと思いました。 クローバー会2014年春「北近畿タンゴ鉄道(KTR) あかまつ・あおまつに乗りに行こう」ツアー開催 次期会長公募について | DRFC-OB デジタル青信号

ホームカミングデーのあとの懇親会でも、会活動の指針となるスピーチをしていただいた。「趣味活動を長く続けるには三つの要素が不可欠、少しのカネ、自由に使える時間、そして語り合える仲間」と、よく湯口さんから示唆していただいた。「こうして懇親会で酒が飲めるのも、三つが満たされているからこそ、みんな実に幸せ者」と結ばれた。

沖中・湯口 両先輩を偲んで

1961(昭和36)年、浪人中だった私は、模型も写真もやめて趣味の鉄道は読書のみに縮小していました。11月下旬に鉄道ピクトリアルを買ってくると、同志社大学鉄道同好会による私鉄車両めぐり48・京阪電気鉄道が掲載されていました。戦時中に空襲をのがれ大阪市から先祖の地である京都府宇治市に疎開していて、京阪電車は幼いときから身近な電車だったのはさておき、こんな記事を掲載させる実力のある鉄道同好会があるんや!これは何がなんでも同志社大学に合格せんとあかんと年末年始も猛勉強して1962年度生として入学できました。入学式を終えるや鉄道同好会を探し回り無事入会できました。
京阪電車の記事の主筆、沖中先輩・湯口先輩は大学入学の恩人です。円山公園の長楽寺でのコンパをはじめ、同好会では鉄道を種に広く雑学なるものを学ばせてもらえ、その後の人生に少なからず役に立ったと思っています。早いもので入学してから60年余り、仲良くお二人、ご逝去の2022年は感慨深い年になりました。
沖中忠順さん湯口徹さん、本当にありがとうございました。

鉄道ピクトリアル 私鉄車両めぐり48 京阪電気鉄道の一頁目と編集後記です。難産のうえ、お二人を中心に4回にわたって掲載された大作であることが分かります。

 

 ありがとうございました。湯口 徹 さん

既報のとおり、クローバー会会員、湯口 徹 (ゆぐち とおる)さんが、去る12月11日に、お亡くなりになりました。享年86でした。当掲示板を通じて、会内外の皆様に、謹んでお知らせ申し上げます。

湯口さんは、昭和11(1936)年9月、佐賀県鳥栖市に生まれ、高校時代から京都市に居住、同志社大学経済学部に進学されました。在学中に、故・沖中忠順さんらとともに、鉄道同好会を設立され、初期段階に鉄道ピクトリアル誌上で私鉄車両めぐり「京阪電鉄」を発表され、斯界から注目を浴びました。OB会の設立後は、メンバーの中心として活躍され、当掲示板にも、多くの投稿をしていただき、会メンバーは多大な薫陶を受けるとともに、当会の名を広めていただきました。

活動は会だけに留まりませんでした。「一次資料しか信用しない」「他人の原稿も信用しない」、その強い意志で、数々の著書を発行され、鉄道趣味界、なかでも、内燃動車の研究においては第一人者の確固たる地位を築かれました。お上に汲みしない、歯に衣着せぬ明快な論理は、“湯口節”として、出版社や読者から信頼を得て、多くの湯口ファンも醸成されました。しかし、その影には、公文書館や図書館へ一週間続けて筆写に通うなど、地道な調査、ご自身の努力があったからこそ、なし得られた境地でした。

クローバー会にとっては、今年7月の沖中忠順さんに続いての悲報で、まさに“巨星墜つ”でした。謹んで、お悔やみ申し上げます。

ご逝去の報は、米手さんから第一報を入れていただきましたが、改めてご遺族の了解を頂いたうえ、掲示板でお知らせするものです。

追悼 湯口徹先輩が亡くなりました

以前から静養中だった湯口徹先輩が、12月11日に逝去されました。
脳梗塞の再発によるとのことです。心よりご冥福をお祈りすると共に、鉄道趣味界、同志社大学鉄道同好会OBクローバー会へのご尽力に感謝申し上げます。
2015年12月15日 広島電鉄1911号車内にて車内にて

駅名喫茶店(第18回:東海道五十三次の駅名)

皆様のお陰で、駅名喫茶店も第18回を迎えました。年内には第20回まで書けたらよいですね。当初はネタで困るかと思っていましたが、皆様からたくさんのリクエストを頂戴し、むしろネタが多く、執筆の優先順位をつけるのが難しい今日です。

さて、今回は東海道五十三次の駅名をまとめてみました。宿の名は果たして駅名として、どれほど残っているのでしょうか。まとめてみました。

今回の執筆にあたり、準特急様の温かいご支援を賜りました。改めて御礼を申し上げます。 続きを読む

広島から新聞ネタ3題

令和4年も余すところ2週間となりました。コロナはじわじわと増え始めており、5度目のワクチン接種は済ませたものの、やはり出控える日々が続いています。さて、ここ数日、中国新聞紙面に鉄道ネタが続いて掲載されたので、ご紹介します。先に投稿しました「迷惑な瑞風」と「スカイレール廃止」の続報などです。

まずは「瑞風」から。

令和4年12月17日 中国新聞朝刊より

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お城と電車(13)甲府城

甲斐の国と言えば武田信玄であり、その城は甲府城ではなくもう少し北にある躑躅ケ崎館である。甲府城は武田氏滅亡後将軍家に最も近い親藩の城となった。築城は1583(天正11)年とも1585(天正15)年とも言われ家康が建てたとの説が有力である。三橋美智也の武田節には「人は石垣、人は城」とあるがこの石垣はどこのものなのだろうか。関東には石垣があるのは江戸城、小田原城、甲府城、沼田城(山梨県は、天気予報やニュースなど関東、甲信越と一括りになっている)くらいだと聞いたことがある。幕末の戊辰戦争の末期には幕府から新選組組長近藤勇に甲陽鎮撫を命ぜられたが、目指す甲府城に行きつかず板垣退助に敗れ敗走し最後は板橋で処刑されている。明治の廃城の後に現在のJR中央本線が開通しており城は分断されている。

写真の左部分にも再建の城建物があるが下手な撮影で右の櫓のみ 2018.4.8 17:25身延線ホームより撮影 ▼

50年前の大和川検車区

一昨日は奈良の駅名研究家さんが計画された阪堺電軌161形の乗車会に行ってきました。天王寺駅前から浜寺公園までの乗車で、途中我孫子道でトイレ休憩という計画でした。我孫子道では車庫の方に入りそこで下車となりました。降りたあたりで撮影していると同乗していた係員の方から奥まで来てもらっても結構ですよと言われ、車庫内も見学させてもらいました。ここは我孫子道車庫とも言われていますが正式には大和川検車区で、すべての車両が配属されています。私のDRFC現役時代に見学会で来たことがあり、今回2回目の車庫見学となりました。乗車会についてはまた報告していただくとして、昔の見学会を振り返ってみることにしました。↑ 当時主力のモ250形の前での記念撮影です。50年も経っていて、皆さん大分お変わりになっておられるのでそのまま出させてもらいました。 続きを読む

駅名喫茶店(第17回:漢字表記が1字である駅名)

以前の回 駅名喫茶店(第14回:わ行の駅名)で「蕨」に触れたところ、漢字一字の駅名に関するコメントを頂戴いたしました。これならば、すぐにリストアップできるだろうと思い、調査を始めましたが、結構多かったですね。

リストをスクロールしながら探していく作業は困難を極めました。おそらく、抜け落ちがあろうかと思いますので、その際は遠慮なくお知らせくださいませ。

では、いきましょう。漢字表記が1字である駅名一覧です。

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大津線110周年ラッピング電車

京阪大津線は今年110年を迎え8月15日から記念のラッピング電車が走っています。京阪大津線の京津線前身の京津電気軌道は大正元年(1922年)8月15日三条大橋-札ノ辻間が開通し、(国鉄東海道線旧線との立体交差部分の工事が遅れ、当初はこの部分を徒歩連絡し、工事が完了したのは12月14日)石坂線前身の大津電車軌道は大正2年(1923年)3月1日に最初の大津(現在のびわ湖浜大津)-膳所間(現在の膳所本町)が開通しました。同じ年度にこの二線が開通し今年度が丁度110年となりました。これを記念して石坂線の600形(601,602)にラッピングとヘッドマークが、600形(603,604)にはヘッドマークが取り付けられています。また、京津線800形(801,802,815,816)にもヘッドマークが付けられています。↑ 石坂線600形には260形、京津線800形には京津1形の写真のヘッドマークがついています。

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保存蒸機とその現役時代(50)C551

前回京都鉄道博物館でC621の横に並んでいたのが同じくトップナンバーC551。昭和10(1935)年川崎車輛の製造で小樽築港、旭川、室蘭、旭川とずっと北海道内で活躍した。C55はC51→C54→C55と続くライトパシフィックの位置づけでスポーク動輪が最大の特徴であった。それまで二つあったコブも一つにまとめられそのスタイルはボックス動輪化されたC57に引き継がれていった。C57は完成された亜幹線用の旅客用機関車で貴婦人と呼ばれるようになったが同じライトパシフィック機ではC55の方が貴婦人だという人もいた。名古屋区の関西線や福知山、豊岡区の山陰線、福知山線、播但線等関西地区でも見られたが、転属、廃車で北海道、九州に集約されていった。蒸機ブームの始まるころにはC55、C57の姿を求めて若者は遠隔地を旅行したが、今はお爺さんになって同じような昔話に花を咲かせている。

京都鉄道博物館に静態保存中のC551 2011.4.23 ▼

1966.9.4 東室蘭のC551 この写真はプロ野球大洋、巨人で駿足好打の選手として活躍した屋敷要さんの「遥かなる鐡路」に掲載されたもの ▼

1966.9.4 東室蘭 同機のナンバープレート他 ▼

関連写真として台湾彰化で見た入れ替え作業中のC55形CT252 1968.3.23の撮影で台湾は国共内戦で台湾に逃れた蒋介石総統の時代で大陸は毛沢東であった。▼

駅名喫茶店(第16回:「学園」を含む駅名)

奈良県には、帝塚山学園に由来する「学園前」という駅名が存在します。他にも結構な数があるだろうと思い、今回は「学園」を含む駅名を調査しました。実は、調査自体はだいぶ前に済ませておりましたが、トップ画像を撮れていなかったため、遅れての投稿となりました。

駅名喫茶店のマスターはあくまで「副業」です。ご容赦くださいませ。

大阪難波駅で、ならしかトレインに遭遇しました。12月5日(月)にデビューしたばかりの列車です。この時間帯は、阪神線直通の快速急行でなく、東花園行きの普通運用でした。東花園到着後は回送となり、大和西大寺へ向かい、一旦車庫方面へ走っていくところまでは確認できました。

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お城と電車(12)熊本城

熊本城は慶長12(1607)年築城の名手と言われた加藤清正により建てられ、その後加藤氏改易後小倉から細川忠利が入城し細川家が幕末まで続いた。城は明治10(1877)年、日本の最後の内戦西南戦争の戦地となり、原因不明であるが焼失している。その後昭和35(1960)年に大小天守が復元された。平成28(2016)年の熊本地震により損傷を受けて現在は修理中である。熊本城は別名銀杏城と言われている。城内には宇土櫓という遺構が残存し小西行長の宇土城の移築と言われたが真相は不明である。有名な櫓であるが写真が見つからず割愛させていただいた。また、熊本城の石垣の勾配は見事で武者返しと言われているがこれも写真紛失で割愛した。どなたか特徴ある姿を撮っておられ追加していただければ幸いである。熊本城は江戸城は別格として大坂城、名古屋城とともに三名城と言われていることは前に述べたが、もう一つ規模的なことを考慮して三大名城というのがあるが、これは大坂、名古屋、姫路城であるがいろいろな説があり三名城自身も三大名城とも言われはっきりしない。

1988.5.1  昭和35(1960)年再建の大小天守 ▼

城内には西南戦争で西郷隆盛と戦った官軍熊本鎮台司令長官谷干城(たにたてき / たにかんじょう)の銅像があったが、現在は他の公園に移されている。▼

熊本市交通局の電車は皆さん何回かデジ青で発表されている。私は市電にあまり熱心ではなく、ついでに撮った数枚のみである。何れも1988.5.1熊本城前付近である。1032▼

1093②健軍町行きと読める ▼

同じく9703 ▼

 

 

 青い瞬間(とき) -Blue Momentを追いかけて-17-

万葉線

万葉線の庄川口、青い空に待合室の照明が際立つ、向こうが万葉線の庄川橋梁で、右に国道415号の新庄川橋が並行している(2011年3月)。

北陸シリーズ、つぎは万葉線です。高岡駅前から越ノ潟まで、12.9キロを結ぶ軌道線と鉄道線に分かれる路線で、Blue Momentに最適な鉄橋が2ヵ所あります。一つは中新湊~東新湊にある立山連峰を望む内川橋梁、もう一つは六渡寺~庄川口にある長大な庄川橋梁です。何度か訪れて両方の鉄橋へ行ったことがあります。前者は、以前にクローバー会の写真展に出展されたInubuseさんの、青い空に満月が浮かぶなか、電車が渡って行くシーンが印象的でした。今回は、後者の庄川橋梁をご紹介して行きましょう。庄川橋梁は全長416mもある堂々とした鉄橋で、橋梁に並行して国道415号の新庄川橋があって、真横からの撮影も可能なうえ、この季節は、真向こうに陽が落ちるため、夕方から夜にかけてのさまざまな時間帯で、移りゆく空の変化を楽しめます。

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 青い瞬間(とき) -Blue Momentを追いかけて-16-

福井鉄道

福井鉄道の福武線は、越前武生と福井市の田原町を結ぶが、古くからの集落を縫うように走るから、意外に開けたところがない。唯一、三十八社の付近だけ、人家のない田園地帯が広がる。日没を遮る山もなく、ほぼ地平線に近いところで日没を迎える。天候に恵まれると、青から赤へのグラデーションとなる(2015年11月)。

北陸シリーズ、つぎは福井鉄道です。現存する中小私鉄のなかで、好きな私鉄のひとつです。いま復刻作業が行われている200形や、土日に特別運転している、シュツットガルトの「レトラム」(F10形)など、好ましい電車が揃っていました。沿線風景も変化が富んでいます。福井や武生、鯖江の市街地から、三十八社付近の田園地帯まで、さまざまに撮ることができます。

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 青い瞬間(とき) -Blue Momentを追いかけて-16-

「記念消印」は、しばらく休んで、また、もとのBlue Momentに参ります。まだまだ撮ってます。ここは氷見線の越中国分駅、氷見線が工場地帯を抜けて、富山湾を望む景勝の地へ飛び出たところにある駅。何の変哲もない無人駅だが、向こうに海が見えるのがポイントだ。

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駅名喫茶店(第15回:〇〇港)

〇〇港といっても、今回は〇〇空港を除外としました。筆者は、いつかフェリーさんふらわあに乗船してみたいと思っております。まずは、南海フェリーでもよいかもしれませんが。

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駅名喫茶店(第14回:わ行の駅名)

9,000を超える駅名ですが、わ行となると65駅名しかございません(奈良の駅名研究家調べ、誤りがあればご指摘願います)。そこで今回は、その65駅名をすべてご紹介します。読者の皆様はこの中でいくつの駅を訪ねたことがあるでしょうか。

山陰本線には和知駅があります。

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迷惑な「瑞風」

2017年から運行が始まったJR西の豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス瑞風」はコロナ禍でも運行が続けられてきたように思います。私も何度か撮影に出向きましたが、乗るものではなく、見るもの、撮るものという高嶺の花です。昔風に言えば、電気式気動車ですが、電車風に言うと4M6Tです。寝台列車ですから寝台車にはエンジンを搭載せず静粛性を確保する代わりに、両先頭車(キイテ87)、ラウンジカー(キラ86)、食堂車(キシ86)の4両の床下に発電用のディーゼルエンジン(コマツ製SAD140HE-3)を2基ずつ搭載し、計8基のエンジンで発電機を駆動し、すべての電力をまかなっています。長時間停車時でも、空調などのために常時発電するため、エンジンを止めることはありません。撮影しやすい尾道駅での長時間停車を撮りに行った際に、その騒音の大きさに驚いたものです。案の定、夜間長時間停車の糸崎駅周辺住民からの苦情が新聞に載りました。

令和4年12月1日 中国新聞朝刊

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 道東の“駅”を「記念消印」で巡る  ⑦

釧路湿原のなか、車窓に釧路川を眺めながら、細岡に到着する。いかにも道東の駅らしい、ゆったりとして、きれいに掃き清められた駅だった。C58 127の牽く、網走行きの混合列車と交換する。

細岡 (ほそおか)

広大な釧路湿原を眺めて到着する。昭和2年の開設、駅名の由来は、鉄道建設の際に監督官の姓であるとする説もある。当時は二線の相対式の駅構造だった。通過する釧路発根室標津・小樽行き「大雪3号」。

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