駅を旅する 〈3〉

若松

栄枯盛衰のある北九州の駅のなかでも、若松は劇的ですらあった。石炭とともに栄え、石炭とともに凋落していった。

明治期の鉄道建設期、筑豊興業鉄道の計画では、始発駅は、当時の地域の中心だった芦屋に置く計画だったとか。それが、地元の反対で若松に変更になり、明治24年に若松駅が開業した。

以来、石炭の需要の高まりとともに、若松駅は発展し、石炭の積出港として、日本一の貨物量を誇るまでになる。昭和30年代前半に石炭の最盛期を迎えるが、スクラップ・アンド・ビルド政策の推進で、以降は、斜陽化の一途となる。しかも、港への積み出しも、油須原新線を経由する、苅田港ルートもできて、私が訪れた昭和40年代の初頭、若松駅の石炭扱い量は激減していた。しかし、石炭の最盛期など知る由もない私にとっては、広いヤード、おびただしい石炭車の群れには、石炭がまだこの国の重要なエネルギー源だと強く思ったものだ。

現在でも、若松は、筑豊本線の始発駅に変わりはないが、現実は、黒崎~折尾~直方~桂川~博多が電化され、愛称「福北ゆたか線」に一体化されて直通列車が数多く運転されている。取り残された、若松~折尾と、桂川~原田は、それぞれ非電化のまま、若松線、原田線の愛称となり、完全な別線扱いのローカル線になっている。現在ではDC2連が若松~折尾を折り返している。

昭和59年に行われた再開発で、、機関区は廃止、駅設備もウンと縮小され、一面二線の頭端式の旅客駅になった。石炭で賑わった時代を偲ぶものは、駅前広場に保存展示されている、蒸機キューロクと石炭車だけである。若松IMG_0001sy▲高搭山をバックに若松駅を発車した香月行き425レ、逆行の58694〔若〕牽引。(昭和42年3月)

若松IMG_0008sy▲石炭の繁栄を語り継いできた、大正8年建築の旧駅舎。(昭和50年6月)

続きを読む

2013年 春の中国鉄路の旅 Part29 新緑の興隆森林鉄道 その4 レールバスの乗り鉄旅・後半

第27日目 5月27日
① 林鉄兴隆6:30(レールバス)→9:08東興
② 東興9:36→10:38二合10:52→11:54東興
③ 東興12:52→15:28林鉄興隆15:32(Taxi)→15:37国鉄興隆鎮
④ 興隆鎮15:45(K340次)→17:07哈尔滨19:16(T244次)→翌日7:10天津

13_東興813_東興9東興で乗り換えるはずだった小型のレールバスですが、いつに興隆から来ていたのでしょうか。追い抜かされたことはありませんので、昨日深夜か今日の早朝と思われます。
一般に知られていない運用もあるようです。

車両故障の修理部品が届かず運行不能となってどうするのかと案じましたが、急遽デルタ線で機回しの終わっていた大型レールバスを代役にバック運転で向かうことになりました。

9:36、東興を発車して奥地へと向かいます。我々に迷惑をかけないようにとの早い決断でした。
14_東興~新民3▲ 9:49、森林地帯に入りました。過ぎると右側に1971年に建設された香磨山ダム湖が見えだしました。この路線では珍しい光景です。ダム湖周りには耕作地が広がっていました。
14_東興~新民4

続きを読む

広電の現役中高年たち

先週 INUBUSE氏が広電の七夕電車を紹介されました。七夕には出遅れたのですが、熱中症対策も万全に広島市内を歩いてきました。七夕電車、すなわち1000型の投入によって 旧型車が順次お役ご免になる日も遠くないものと思い 現役バリバリで活躍中の旧型車の姿を中心に追いました。写真はすべて7月17日撮影です。

 まず元神戸市電の582号です。広電では570型として17両の仲間がいたのですが、今ではひとりぼっちになってしまいました。広電では神戸時代の更新年を新造年として扱われていますが、実際の生まれは大正13年で神戸ではJ車と呼ばれたグループの一員です。神戸で戦災をまぬがれ、改番と昭和34年に車体更新を受けたのち神戸市電の廃止に伴い 昭和46年11月に広島に来ました。最近では仲間もいなくなり、車庫で眠っている日が多かったのですが うれしいことに参議院選挙が公示されたため、出番が回ってきました。この啓蒙看板は570型に合わせて作られたようで、この日もはりきって3号系統を何往復もしていました。この選挙が終われば次の出番はいつになるのでしょうか。今年の11月に広島県知事選挙があるので 少なくともそれまでは元気でいてくれると良いのですが・・・。広電では生え抜きの150型、650型が被爆電車として有名ですが、この神戸市電も戦争を生き残った車両です。

582号 福島町にて

582号 3号系統西広島行き   福島町にて  清き一票を呼びかけ

新己斐大橋を渡る 3号系統西広島行き

新己斐橋を渡る582号 3号系統西広島行き

続きを読む

駅を旅する 〈2〉

門司

“九州の玄関口”、と言えば門司港を指すかも知れないが、在来線での乗車なら、九州に第一歩を印すのは門司となる。

明治24年に九州鉄道の大里駅として設置、のち明治40年に国有化される。昭和17年には関門トンネルが開通、その際、門司が門司港に改称され、大里が「門司」となった。

初めて九州に踏み入れた昭和42年の高校2年生以来、幾度となく、関門トンネルを抜けて門司に到着した。心なしか、見渡す車窓の風景も違う、空の青さも違うようにも思えた。やはり、ここは九州なんだと感じたものだ。門司駅は乗り換えで利用するだけでなく、交直接続のため、牽引機の付け替えも撮影の対象となった。当時は、旅客列車だけでなく、貨物列車も門司で付け替えを行っていた。

そして、門司機関区の下車駅としてもよく利用した。門司区は、昭和42年の蒸機の配置両数が53両、青森、岩見沢に次ぐ配置両数で、電機81両、DL6両を加えれば、ダントツ日本一の動力車配置区だった。蒸機・電機の配置は、通常、一区・二区に区分されていたが、門司だけは区分がなかった。

新幹線開通後は、小倉を中心とした列車体系に改められ、門司の凋落は著しい。JR九州のデータによれば、乗車数は一日6千人程度で、九州管内で29位となっている。平成16年に駅は橋上駅化されたが、駅設備はごくささやかなものになった。門司IMG_0012sy▲初めて訪れた門司駅は、まだ蒸機の天下だった。1番ホームに停車する門司港発柳ヶ浦行き1523レ、C57178〔大〕牽引。当時、日豊本線の電化は新田原までで、電化区間が短いため、客車列車は門司港から架線の下を蒸機が牽いていた。右に駅舎の裏側が見える。(昭和42年3月)門司IMG_0007sy▲当時の無骨な駅舎は、昭和27年の建築。これでも、九州初の民衆駅だったと言う。この駅舎を出て、路面電車沿いに西へ向かい、何度も門司機関区へ行ったものだ。(昭和42年3月)

続きを読む

2013年 春の中国鉄路の旅 Part28 新緑の興隆森林鉄道 その3 レールバスの乗り鉄旅・前半

第27日目 5月27日
① 林鉄兴隆6:30(レールバス)→9:08東興
② 東興→二合→林鉄興隆(Taxi)→国鉄興隆鎮
③ 興隆鎮15:45(K340次)→17:07
哈尔滨19:16(T244次)→翌日7:10天津

今日はレールバスに乗車して95キロ先の奥地「二合」まで行きます。かつて中国最大の総延長500キロ以上を誇った興隆森林鉄道の一端を味あう乗り鉄旅です。淡々とした紀行記になりますのでご辛抱ご了解ください。

二合ではご一緒させていただいた皆さんとはお別れです。皆さんは路線バスで哈尔滨へと向かわれ帰国の途につかれます。一方の私は折り返しのレールバス乗り鉄を続けて兴隆镇に戻って列車で哈尔滨へ、そして夜の夜行列車で天津への一人旅に戻ります。
01_レールバス02_車内1▲ 6:30、定期のレールバスに乗ってのスタートです。大型レールバスですが一昨日、昨日見た車両ではありません。初めて見るレールバスでした。

乗車率は約70%、通路には普通は乗せないと思われるマキ木の束も乗せていました。

02_車内2今日はチャーターではありませんが、途中で気に入ったところで止まっての撮影の了解が取れているそうです。これは最高です。

途中から運転手さん横の席に座れました。皆さんから適当な撮影地があれば停車させるように指示がありました。昨日まで撮っていた大峰までは無視して、以降で撮影ポイントを探します。

続きを読む

駅を旅する 〈1〉 

サラリーマン時代、世話になった出版社の方から久しぶりに電話があった。北九州市に在住されていた高名な鉄道趣味人が、昨年、亡くなられ、その一周忌に合わせて、故人を偲ぶ平成筑豊鉄道の貸切列車が運転され、それに乗車したと言う。

筑豊地方の現状も聞かせてもらったところ、初耳だったのは、直方駅が新しく建て替えられたことだった。古風な駅舎は、水戸岡ナイズされた瓦屋根を持つシックな駅舎に変わったとのことだ。調べると、一昨年にリニューアルされたようだ。

久しく筑豊地方へも訪れていないが、その間に、駅もどんどん新しくなっていく。車両のようにニュースになりにくいから、駅は“いつの間にか”消え去ることが多い。改めて時代の移り変わりを感じたものだ。

近くの門司港や折尾も駅舎の工事に入っている。重文指定の門司港は、大掛かりな補修工事のため、しばらくその姿を見ることができない。折尾では、鹿児島本線、筑豊本線の共同駅を造る大規模な工事が始まり、さくら色に塗られた、下見板張りの駅舎もついに解体されてしまった。

駅は、鉄道旅行の出発点であり、終着点でもある。そして、格好の写真撮影の場でもあった。私も、数知れないほどの駅に乗り降りして、写真を撮ってきた。

ところが、昨今、“駅を利用しない、鉄道に乗らない、鉄道写真愛好家”が増殖している。鉄道写真の原点たる駅の存在が忘れられている。

直方IMG_0020sy▲かつての直方駅舎。正面ペディメントを支える柱にエンタシス風の膨らみがある。初代の博多駅舎を移築したものとの説が一部であったが、解体の際の現地調査で、木材の転用の痕跡がないことから、その説は否定されてしまった。

前置きが長くなったが、直方駅改築のニュースを聞いて、九州の駅の思い出を写真とともに語ってみたくなった。よく本にあるような、特徴のある名物駅の紹介ではなく、あくまで、駅で写した当時の車両写真である。

ごく最近、北九州育ちのKH生さんからも、当地の懐かしい話を聞かせてもらい、なおのこと、その思いが強くなった。

いま痛切に感じているのは、一日一本のため、何時間も歩いて写した、大自然の中の写真より、駅での待ち時間にチョイと写した写真が、はるかに、時代を雄弁に語り、記録的価値が高いと思っている。

IMG_999_13▲日本最初の立体交差駅として誕生した折尾駅。いま付近の地形までも変えてしまうほどの大規模な工事が始まっている。大正5年建築の洋風駅舎も、保存運動もむなしく、解体されてしまった。

 

2013年 春の中国鉄路の旅 Part27 新緑の興隆森林鉄道 その2

第26日目 5月26日
① 林鉄兴隆12:02(レールバス)→大嶺
② →18:44林鉄兴隆

02_林鉄興隆駅1午後から夕刻まではC2型蒸気機関車牽引の運材列車をチャーターしてのフォトランをいたします。

12:01、昼食後に林鉄兴隆站に向かいますと、すでにC2は車庫から公園前の站に着いていました。02_林鉄興隆駅202_林鉄興隆駅5
12:17、留置線に止めてあった運材貨車を取りに行ってから出発準備完了です。

途中で転車台やデルタ線がありませんので、往路は逆向き牽引です。
02_林鉄興隆駅302_林鉄興隆駅6▲ ここで我々はレールバスに乗って先行します。運材列車はその後を追います。

12:20、2つの列車は出発しました。

続きを読む

C5756急行『大和』を曳く(続)

C5756の画像は1枚きりと書きましたが、他にもありました。しかも同じ『大和』牽引です。
▼1964年12月6日(曇り)、急行203レ、機C5756【奈】、加太-中在家信号所間。
先の2月28日より2ヶ月前、こちらの方が夜明けが遅く、しかも曇りでした。車両後部がはっきりしません。
09704

097051964年12月6日、「加太会」発祥の記念日でもありました。

続きを読む

2013年 春の中国鉄路の旅 Part26 新緑の興隆森林鉄道 その1

第26日目 5月26日
① 林鉄兴隆07:02(レールバス)→
② →10:09林鉄兴隆

01_朝飯今日は1日興隆森林鉄道の撮影です。朝6時に宿を出発して朝飯を仕入れてから林鉄兴隆站(興隆駅)へと向かいました。

6:20、ホテル前から林鉄と交差する広い道に入りますと、6:30に発車する定期レールバスが入線しているのが見えました。
前回はこの大型が前日に脱線したので代わって小型が運用に付いていました。こうして大型レールバスが客扱いしているのを見るのは初めてです。
02_興隆駅レールバス102_興隆駅レールバス202_興隆駅3▲ 踏切を挟んでの反対方向です。興隆森林鉄道の運材列車は雪が降り積もって伐採した原木が集材場へ運搬できる頃から走り出します。そして春になって雪が溶けると休止します。この時期はもう運材列車が走ってはいませんので、前もって原木を積載した貨車を少し残してもらってのチャーターです。見える貨車は我々のために留置されていました。

続きを読む

人と鉄道と-機関士編-

「人と鉄道と」3回目は蒸気機関車の機関士です。

▼1962年3月23日、日豊線・竜ヶ水-鹿児島間、機D51687【人】の単機運転。機関士らしき右側の人、ヘッドライト装着で保線区員らしき左の人。二人して敷物に座り、線路や設備の移動点検でしょうか。まさか、右手の噴火湾見物とは違うでしょう。こんな光景の出会いは最初の最後でした。06736
▼1965年8月29日、福知山線・篠山口駅、ホームに写る機影は逆行運転のC11280【吹一】、上り客736列車の機関士がC11の日陰で、下り準急『丹波1号』との離合を待っていました。11432
▼そして今度は5ツ先の駅、福知山線・相野駅。急行『白兎』との離合待ちで機関士は一服。真夏の車内は暑くて、子供はホームに出たが、ホームもかんかん照り、思わず頭に手を。
11434
 
▼1966年10月1日、関西本線・加太駅、京都発亀山行き、上り客728列車、急行『かすが3号』との離合待ち。腕章を巻いた機関士と助士がホームの片隅で一服。出発時刻は20時59分です。135012

▼同上、728列車全景。さしずめ「夜も撮る」でした。ホームには駅員の姿も見えます。
13501

▼1964年3月17日、東北本線・小繋駅、本務機の機関士と助士が動輪周りを点検中です。前に2両のD51補機を付けた、所謂蒸機機関車「三重連」です。
09108

2013年 春の中国鉄路の旅 Part25 北満一人旅 その8 大連から興隆鎮へ

第24・25日目 5月24日、25日
① 大連21:52(T261次)→翌日7:30哈尔滨
② 翌日 哈尔滨13:32(K7109次)→15:26興隆鎮

お好み焼き屋「かっちゃん」でゆっくり夕食とネット三昧後は、ホテルに預けた荷物を取りに行ってから大連站へと向かいました。
今夜乗車するのは特快261次哈尔滨行きです。乗車距離は946キロながら、停車駅は瀋陽のみで所要時間は9時間38分です。表定速度は99.6km/hと在来線を走る特快客レとしては速い列車です。
ちなみに哈大旅客専用鉄道(921キロ)ですと、大連北~哈尔滨西は夏季ダイヤで最短4時間7分で走破します。表定速度は238.2km/hとなっています。運賃は夏季は1等645.5元(約10,700円)、2等403.5元(6,700円)しますが、高架橋を走ります。トンネルは少なく車窓からは満州の広大な大地の眺望を楽しめます。私は開業時に乗車しましたのと、移動は夜の方がホテル代が浮くので今回選択しませんでしたが、まだの方は乗って見られる価値は十分にあるとお奨めします。

そして哈尔滨からは、今回最後の撮影地の興隆森林鉄道へと向かいます。

01_走行地図_101_切符01_T261
【 重複した切符 】

実はこの列車の切符は先に瀋陽で買ってあったのですが、忘れてしまっていて東方紅でも買ってしまい重複しました。気が付いたのは帰国してからで、351元(約5,800円)を無駄遣いしてしまいました。
しかし中国鉄路では実名制切符になっています。同じ人間が同じ日に他の列車切符を買うことができないシステムです。同じ列車切符購入はなおさら発券できません。なのになぜか買えてしまっています。どうしてなんだろうと切符を見ながら考えますと、印刷されているパスポート番号に謎解きがありました。
御覧のように左側は「083***」、右側は「TK083***」です。後から買った東方紅站の切符売り場で駅員が「TK08***」では発券拒否が出たので、気をきかせて「TK」を外して発券したものだろうと考えます。
01_切符3
最近、駅入場口には切符のQRコード読み取り機が設置されているのをよく見かけるようになってきました。切符を提示するとディスプレイに顔写真・名前・住所・生年月日・民族・身分証番号が表示されます。これを職員が見て切符を持っているのが本人かどうかを確認できるようになっています。
しかしこの読み取り機は、人民だけが持つ身分証のみしか対応しておらず、外国人パスポートは識別できません。切符とパスポートを目視確認しなければならないのですが、「TK」が外してあっても窓口で間違えたもの程度で済ませたのだろうと思われます。
盲点はあるものですね。本来、実名制切符はダフ屋撲滅と不穏分子の移動監視対策でもあるので外国人は除外されているのでしょうか。しかし、倹約の旅なのにもったいないことをしました。
今回は15枚もの切符を購入していました。チェックはしていたつもりだったのですが、ボケ進行が邪魔しました。

続きを読む

オーストリアのたび(その1)

6月12日~20日までオーストリアに行ってまいりました。HPを見ていて、オーストリア政府観光局のサイトに「ノスタルジーSLのたび」というページがありオーストリア各地に残るSLの情報が出ていたのがきっかけです。それに加え別のサイトにはオーストリアの保存鉄道、登山鉄道、狭軌鉄道などを紹介したものもあり、興味がわいてきました。オーストリアは小さい国でちょうど北海道と同じくらいの大きさですが、限られた日程ではそんなに多くを廻ることができず、ウィーンからインスブルックへの幹線に近いところに絞って訪問しました。

シュタイヤタール鉄道

ここはAustrian Society for Railway History(ÖGEG)と言う団体が運営している保存鉄道で、1974年にリンツで発足しました。標準軌のアムフェルバング機関車公園、狭軌のシュタイヤタール鉄道、ドナウ川を航行する外輪船の3つの部門からなっており、今回訪問したのはシュタイヤタール鉄道です。ここはオーストリアで一番古い760mmゲージで、1889年に開業、1982年に廃止されましたが1986年にÖGEGが引き継いで保存鉄道として復活しました。現在6月は日曜のみ、7月から9月は土日にシュタイヤーからグリュンブルグの約17kmの間を1時間かけて、最大3往復運行されています。 続きを読む

2013年 春の中国鉄路の旅 Part24 北満一人旅 その7 大連の路面電車2

第24日目 5月24日
① ホテル5:30(徒歩)→8:50春海街(路面電車)9:00→9:45大連火車站

② 勝利橋12:03→12:08世紀街13:30→13:57市場街
② 市場街15:00→15:08大連火車站15:18→15:36世紀街20:30→20:55大連火車站
③ 大連21:52(T261次)→7:30哈尔滨

今日は夜行列車で哈尔滨へと向かいますが日中は大連の路面電車の撮影です。撮影地は昨日の反対方向にしました。朝夕は車の通勤ラッシュで路面電車撮影は難しくなりますので、早目の出発です。
00_201路線図02_イベント2
5:30、大連站前からは徒歩で向かうことにしました。

朝から威勢の良い太鼓の音が聞こえてきます。電車通りに面した電気屋さんの前で同じ紅い服を着た10数名のおばちゃま達が元気よく太鼓を叩いておられます。電気屋さんのイベントの予行演習なのでしょうか、面白そうなのでしばらく見学しました。
02_イベント100_駅名104_火車駅~勝利橋1▲ 5:57、駅前の電車通りのお店は早餐です。横を大連站前に向かう2267号車が走り抜けていきます。

続きを読む

2013年 春の中国鉄路の旅 Part23 北満一人旅 その6 普蘭店駅、大連の路面電車

第23日目 5月23日
① 普蘭店10:15(2728次)→11:23大連
② 大連火車站(路面電車)13:54→14:15興工街

今日は復州湾塩場ナローを撮る予定でした。しかし是非に撮りたかった路線が運休となっていましたので、2日早くに大連に向かい路面電車撮影に切り替えました。

地図路線名・駅名_1
01_切符1
列車は普蘭店に来た時に乗車した2728次が時間的にも良かったので選択しました。
大連までの所要時間は約1時間です。
02_普蘭店時刻変更

昨日切符を買いましたが、切符売り場内には5月15日時刻改正についての公示が張り出してありました。
中国鉄路ではこんな風に公示されますが、見てみますと公示は5月9日と約1週間前です。日本では考えられませんね。

哈大旅客高速鉄道についても冬期最高速度200km/hから夏季300km/hへとスピードアップしたようで、5月25日からは増発もされていました。
01_哈大高速鉄道ダイヤ1▲ 哈大旅客高速鉄道(大連~哈尔滨西)の時刻表です。日本の新幹線駅では当たり前に掲示してありますが、中国鉄路で一覧になった時刻表を見るのは初めてでした。
※ 詳しくご覧になりたい方は、上の時刻表を一旦デスクトップにドラッグ&ドロップしてから開けて見てください。詳細が分かります。

また、大連北站へのアクセスが悪いので大連発着があればと思っていましたら、1/3は大連発着になっていました。これは便利になりました。そして新たに北京~大連の動車が設定されています。時刻表には載っておませんが、これ以外にも北京・天津~瀋陽・長春・哈尔滨西の動車があります。

続きを読む

2013年 春の中国鉄路の旅 Part22 北満一人旅 その5 復州湾塩田ナロー

第22日目 5月22日
① ホテル5:40(Taxi)→6:20復州湾(チャーターTaxi)→五島運輸駅

② 五島運輸駅12:30(Bus)→13:40普蘭店駅

今日は、昨日ちょっとだけ訪問した復州湾で塩田を走るナローを撮影予定です。このナローは以前から注目していて、いつかは行こうと思っておりましたが中々機会に恵まれずでしたので、今回の旅のメインとして日程を空けての訪問としました。

【 復州湾塩場ナロー 】
大連からは車で約2時間、約90キロにある復州湾一帯は古くからの塩の産地で、広大な塩田が広がっている地域です。日本統治下時代には大連は自由港であったため関税収入が見込めず代わりに塩税が関東州の財政を支えていたそうです。関東州も積極的に塩の生産拡大を図り、やがて塩田の90%以上は日本企業の経営となり、ソーダ工業の原料用として内地に大量に輸出され、日本の化学工業を支えていました。
天日製塩のために広大な塩田が造られ、その輸送のために762㎜のナローゲージ鉄道が敷設されました。機関車は当初からDLだったようで蒸気機関車はなかったそうですが、北碚のグースが牽引したのと同じような小さなトロッコを牽いて海を渡る姿はとても可愛いと、ナローファンが訪れる所となりました。

地図_復州湾1

01_往路101_往路25:10、朝目覚めて外を見ますとさわやかな青空で、絶好の撮影日和です。
張り切ってホテルを出ましたが、駅までのバスが中々来ません。するとホテル前でたむろしていたTaxiの運転手からどこへ行くのかと声がかかりました。復州湾というと80元(約1,300円)でどうかと言います。

考えましたが、現地には早く着いた方が動きに余裕が出ます。OKを出しました。
途中の町中を除いては、片側1車線の田舎道ですが路面状況も良くTaxiはぶっ飛ばします。
6:00、バスの半分の約40分で復州湾の町中に着きました。
ナローが走るには十分余裕です。まずは腹ごしらえと市場の食堂に参りました。

続きを読む

人と鉄道と-乗客編(2)-

現代が『車社会』と呼ばれるなら、半世紀前のそれは鉄道で、さしずめ『鉄道社会』でしょうか。人との出会いも別れも、多くの場合に鉄道を通じてであり、人々の日常生活で、鉄道はそれはそれは大事な役目を果たしていました。

▼1962年3月、飯山線・西大滝駅。大勢の子どもと大人から見送りを受け、我々と同じ列車に乗った人は、きっと学校の先生でしょう、乗客として画像には登場しませんが、思わず万歳を唱えている人や、見送る人の明るい笑顔から先生の人柄もしのばれるような気がしました。ホームにはテープが伸びています。車掌の顔も見えます。なお、見送り人の姿にだけ”ぼかし”を加えています。 04726▼先生を乗せた飯山線のC56牽引貨客混合列車、長野行き。春の山々にはまだ雪が残っていて、まるで墨絵のよう。筆者の旅行は、同期のDRFC会員、亀田君(この時、鶴亀コンビとDRFC内で話題になった)と北陸線・杉津、飯山線、小海線を巡った時の一コマでした。 04728

続きを読む

富士山と鉄道に寄せて-富士山と煙

準特急さんのすがすがしい富士山と鉄道の写真に魅せられていましたが、筆者にも少しばかり画像がありました。富士山と蒸機を狙って何度か挑戦し、3度か4度目かにやっと快晴に恵まれました。東京への出張の前日でした。
煙ばかり目立ち、D52や列車がはっきりしません、余りよい画像ではありませんがご覧下さい。

11711
  ▲▼1965年12月1日、上り貨物(列車番号不明)、機D52(機番不詳)、岩波-藤岡間。
C2008
 ▼同日、上り926レ、同上区間、機D52(機番不詳)。11718▼沼津駅構内、手前C50149【沼】、その後ろにD52。富士山の頂上がかすかに。
C2018

午前中は快晴で雲一つなく、午後御殿場-足柄間に移動したときは少し雲がかかり、3時過ぎにはまた晴れて来ました。午後の下り927レは列車だけで富士山とのマッチングはできませんでした。

 

2013年 春の中国鉄路の旅 Part21 北満一人旅 その4 綏芬河から大連へ、復州湾塩田ナローへのアプローチ

第20・21日目 5月20日、21日
① 綏芬河 12:54(2728次)→翌日10:12普蘭店
② 普蘭店駅11:00(Taxi)→11:10ホテル13:30(Bus)→14:00普蘭店駅
③ 普蘭店14:30(Bus)→14:30復州湾16:00→17:00普蘭店
④ 普蘭店駅前17:30(Bus)→17:50

02_切符2国際列車撮影後の午後からは再び列車に乗って大連へと向かいます。綏芬河~大連は、走行距離1,494キロ、所要時間22時間29分です。

3連チャンの夜行列車の旅となりました。
3日間の移動距離は2,760キロと大したことはありませんが、3列車に乗っての所要時間は46時間19分はまずまずです。
狭いながらも我が家となった軟座寝台で大連への出発です。

ちなみに乗車するこの2728次は、5月14日に今までの瀋陽止まりが延長されてできたばかりの列車です。02_車内

01_2728次走行路線2

02_綏芬河2▲ 改札前の待合室です。座って待っていますと突然に切符と身分証を見せるようにと公安官がきました。全員の切符と身分証を見て確認しています。私がパスポートを出すと、手で「お前はいい」と無視されました。外国人はどうでもいいのでしょうか。国境の駅だけあって前回よりも警戒が厳しくなっていました。 待合室にWiFiの表示は初めて見ました。これは国際線接続駅としてのメンツなのでしょうか。
02_綏芬河
隣のホームには先ほど撮った国際列車が発車待ちです。まだ改札はされていないようで、機関車横では兵士が警戒しています。
ホームの真ん中に設置された柵だけが通関の境界線です。
窓越しにカメラを向けていると見つけたのか止めるように注意を促します。

続きを読む

2013年 春の中国鉄路の旅 Part20 北満一人旅 その3 ロシアとの国境の町、綏芬河の国際列車

第20日目 5月20日
① 哈尔滨 前日21:25(K7023次)→ 7:47 綏芬河
② 綏芬河 12:54(2728次)→翌日11:23大連

今日は绥芬河到着後ロシアへと向かう国際列車を撮って、お昼の列車で大連へと向かいます。3連チャンの夜行列車乗り鉄旅です。
01_車窓1綏芬河に来ますのは、昨年11月18日に次いで2度目です。
前回は瀋陽からこの列車の後に続く2727次で参りましたが車窓は雪景色でした。
今日は新緑の森林地帯を走行していますが、空はどんよりとはっきりしない天気です。
午前中だけでも雨は降らないで欲しいと願っての到着でした。
02_;綏芬河駅1▲ 7:45、定刻より若干早くの到着です。このK7023次はDL+荷物車+硬座4両+硬臥6両+軟臥3両+電源車の15両編成でした。ロシア国境に向かう接続列車でもありますので同じ国境へ向かう黒河行きと同様に軟座寝台車の連結が3両と多くになっています。
绥芬河では東方紅と違ってたくさんの降車客がおられました。
続きを読む

人と鉄道と-乗客編-

人が造り、走らせ、人を運ぶ鉄道。その様子を表現した手段の一つに鉄道写真があります。それには、都会や自然を背景にして走る写真が多く、『人』を撮り込んだ写真が案外少ないようです。ところがDRFC会員諸氏の写真には、逆に多い気がするから不思議です。DRFC写真展の第1回から、それらを拾ってみました。

故天野克正さんの『家路』、『雪の晴れ間』、湯口徹先輩の『湯治場温泉駅』、『通票投下』、沖中忠順先輩の『満員御礼』、中林英信さんの『おじいちゃんおばあちゃんまた来てね』、『全員乗せて下さいね』、『通過待ち』、吉田耕司さんの『遠足列車』、田野城喬さんの『各駅停車』、『無題』、宮本郁男さんの『集荷』、早川昭文さんの『豪雪のターンテーブル』、『遠足帰り』、川中勉さんの『春のローカル線』、藤本哲男さんの『軌道線の朝』、福田清二さんの『祇園の雨』。

全51作品の内、実に17点、ちょうど1/3。まるで『人を主題にした鉄道写真展』の様相でした。他のグループや、他の写真展では見られない特徴です。それは第2回写真展にも引き継がれています。そしてこのデジタル青信号にも。最近の発表作、福田清二さんの『雨も撮る』もそうで、たくさんの『人』が登場しています。DRFCの皆さんは『人』好きなのです。ぶんしゅう旅日記さんにも中国をはじめ、各国・各地の人々が登場します。

前置きが長くなりました。筆者にも『人』を扱った写真が少しあります。かなり前の撮影です。筆者のHPにも同じテーマで列挙したことがあります。シリーズで並べて見ます。先ずは乗客編。

▼1961年5月、京都市電・北野線、堀川今出川。夕刻時、電車から降りたおばあさんの財布から切符か、お金がなかなか出てきません。傘も荷物も停留所にほおり投げて懸命です。運転手は身をのり出して待ち、車掌も心配顔で覗き込んでいました。 02010

▼手には何かを持ち、運転手に見せているのか、渡しているのか。停車時間が長いので、本来なら次の電車に乗るはずの乗客までが乗れることになってしまいました。 02011

▼後からのご婦人を乗せ、電車は北野神社に向け出発しました。おばあさんは、荷物を持ち、傘を杖にゆっくりと家路に就きました。 02012
続きを読む