Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ⑰

2005年8月26日ほか コンデジひとつで大阪の私鉄ターミナルをまわる

この年はまだサラリーマン時代、出版社の鉄道本の企画で、関西の私鉄のターミナル駅の本を出すことになり、連日、撮影に行っていました。実際に撮影したのは、先ごろ、急逝したSさんで、私は、編集者としての付き添いでした。一個人の場合、安全に配慮し乗客として立ち入りができる駅用地での撮影は、とくに規制されることはありませんが、商業出版物に掲載する撮影は、各社とも規制の網が掛けられて、さらに法外(?)な料金まで請求する社(あえて名を秘す)もあって、低予算の出版では大変な苦労を伴いました。毎日のようにして見慣れた駅の光景を、どのように出版物の口絵として纏めていくかも苦労した点です。まだ画素数も少ない、初期のコンデジでの補助的な撮影でしたが、見慣れた光景ほど、今となっては貴重な思い出となりました。

旧の梅田駅の改札前にあった、シャンデリアのあるアーチの大天井、昭和6年に建てられた阪急ビルの第一・二期ビルに設けられた。この年、阪急ビルの建て替え工事で姿を消した。▲▲改札口跡の上部もアーチになっていた。当時は、毎日のように、ここをくぐって電車に乗り、印象が残っているが、駅の改札口があったことを覚えているのは、われわれ70歳以上の世代になってしまった。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ⑯

1997年8月24日 京津線東山三条で夏の宵を楽しむ

8月も20日を過ぎ、京都では地蔵盆が行われる頃になると、例年なら朝夕は少し涼しくなって来ます。この年は、10月の京津線三条~御陵の廃止を控えて、何度も沿線に向かいましたが、三条通は、東西を向いた道路のため、午後からの直射日光には、きびしい残暑を感じます。そこで、夕方から夜へ、少し涼しくなってからの撮影となりました。京津線は過去にも載せていますが、夏の宵ならではの写真を選んでみました。

 

東山三条、京津線は直線のように思えるが、結構曲がっている。背後のビル群がシルエットになる頃、長タマを通して見ると、あの東山三条も、ちょっとフォトジェニックな光景となる。

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昭和の電車 改訂版(102)ー近鉄モ5621ー

二回続いて近鉄です。

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉛

佐々機関区  8620 C11

九州の西部、松浦線の途中には、佐々機関区がありました。配置されていたのは、C11のみが12両ほど配置されていて、タンク機のみの配置は、全国的に見ても、宇和島、加古川ぐらいで珍しい配置でした。松浦線の沿線にも小規模な炭坑があり、松浦線からさらに枝線も分岐していて、石炭の輸送に佐々区のC11が使われていました。重量物の石炭を、タンク機が牽くのも松浦線らしい光景でした。ほかに、昭和40年代前半には、松浦線にまだ多くの旅客列車が走っており、これらの牽引には、早岐区の8620とともにC11が牽いていました。

松浦線の江迎、到着する639レを牽くC11 259 当時の松浦線の旅客は、約半数がC11の牽く客車列車だった(以下、特記以外昭和45年9月)

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関先生からのお手紙・その2(デイとモヨについて)

先日掲載した「第100回 デイ100とモヨ100」にまほろばの鉄趣味住人さん、鉄鈍爺さんから疑問が呈されましたが、またまた関三平先生からお手紙が参りました。
前回分参照

昭和の電車 改訂版(100)ーデイ100・モヨ100ー

実は8月20日に受け取りましたが、暑さと体力消耗のため・・というのはウソで、先生のお手紙があまりの達筆のため、“解読”に手間取り、今日になってしまいました。関先生、ゴメンナサイ!
それでも一部意訳したところもありますが、間違っていたらご指摘下さい。

《「昭和の電車・デイとモヨ」へのレスポンスに一寸弁明、というか説明を。
官鉄の「汽車を走らせてやっているんだ。文句があるか!」的(ちょっと言い過ぎですが)やりたい放題の一つに、中途半端な高さの盛り土高架がありますね。私の仕事場横の梅田貨物線でも桁下1.4㍍ところが多く、なれぬ車が屋根を擦っており、歩く私たちも何故か官鉄様に敬意を表しているかの様に、かがまないと頭がつかえるところが多くあります。吹田あたりでは高さ1㍍というのもありました。

淡路の阪急と城東貨物線の交差部は、神崎川と淀川を渡らねばならないせいか、割と高さがあり、下を通る阪急は普通並のパンタの高さを保っておりました。もっともコンパウンドカテナリーの最上部の架線までガードをくぐらすと低くなるので、下の段(シンプルカテナリー分)だけをくぐらせ、最上部の架線はガードの両端で切られてガードにつながれていました。パンタの高さに関しては淡路駅周辺だけをとってみても昔ほど高く立ち上がらせている姿は見られなくなっていたように思います。道床整備で線路が高くなったことも関係しているのかも知れません。同じ京都線南方の手前で国鉄線をくぐるところは、阪急(当初の北大阪電鉄)が後で取り付けたので高さが低く、少し路面を強く掘り下げ、そのためちょっとの雨で路線水没するので、死電区間になっていたようで、通過時室内灯が一瞬暗くなったものでした。

城東貨物線は言われるように複線敷きで、東側が線路未設置で、ここにへたって下のデイ100などをよく撮ったものです。
イラストは向かって右側はこれで良いとしても、左側は確かに単線分ぐらいにしか見えないでもありません。デイ100の輪郭をハッキリさせるためのウソとも言えます(意識してないんですが)。
ただこのデイ100、先頭を143号にしていますが、これには確かに間違いがあり「P-6の神様」とでも言うべき吉岡さんには見抜かれました。
それは抵抗器暖房の形が試作型で量産型ではないのです。134、137の2両が試作型で、イラストの143号は標準型であるべきで、形態が少し違うのです。当初137号を描くつもりでー汽車会社第2次改造特殊型、つまり枕バネをコイル化、オイルダンパー・ボルスターアンカーも取り付けて、すっかり新しいアメリカンタイプとなっているのが気に入っていたので137号を採り上げたのですが、デイとモヨのエピソードでよく言われるように「デイの乗り心地の悪さに、モヨ(モタ)ではイコライザーバネの丈を極力高くして改善を図った」との通説を一目で判るようにとモヨ(こちらは終生ボールドウィンタイプのビルドアップ型。型式はメーカーによりKS-20、D-20、H-20などありますが)。これと対比すべく、デイの川崎全鋼グループではただ一両、原形のビルドアップ型(通称B型)の143号に、描いてる途中にのりかえてしまい、うっかり抵抗器暖房のことがお留守になり、気がついた時は後の祭、吉岡さんに指摘された次第ですが、デイとモヨのイコライザーバネの丈の差が感じ取ってもらえれば幸いです。また構図上、ガードを気にしてデイのヘッドライトを低く描いてしまったのは悔やんでいます。川崎全鋼車のヘッドライト取り付けステーは(特に大阪・非パンタ側)は二段折れとでも言うべき形態で、他メーカーのものより立派に見えたのにその雰囲気が出ておらず残念です。

次ぎに城東貨物線回送の件
ダイヤのことはトンと分かりませんが、電車などは配給車等業務用車のダイヤで運転される列車に併結、「生き」(協調連結運転)で運行されることが多かったようです。
添付の写真・淀川赤川鉄橋をの4連は、クモル3連にクモハ51(モハ60改系)が併結されています。

阪和社型はデイと同じTDKのES系制御器のまま省型と混結運用されましたが、進段及びパワーの違いなどで不具合も有り、車体更新以前より国鉄型CS-10制御器に取り替えられており、イラストでもその姿を描きました。
モヨは実見しませんでしたが、ノーシルノーヘッダーのモタ3000やクタ7000が写真のような形で「生き」で淡路のガード上を通過していく姿は二度ほど実見しています。

以上、思いつくまま。乱文にて失礼 (暑い・・・!)

2020-8-18             関 三平 拝  》

引用終わり
まほろばの鉄趣味住人さん、、鉄鈍爺さん、いかがでしょうか?
また、国電の大家、河 昭一郎さん、ぜひともお考えをお聞かせいただけませんか?

 

 

 

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉚

西唐津機関区 9600

しばらくマイナーな機関区が続きますが、「唐」とは西唐津機関区のこと、いまは路線の改廃で50年前とは、付近の鉄道地図がすっかり変わってしまった唐津付近ですが、当時、長崎本線久保田から分岐して、西唐津までの42.5kmの唐津線があり、沿線は炭坑が多くあり、筑豊や三池なとど比べると、小規模でしたが、途中の多久を中心にして多くの石炭列車が発着していました。しかも、多久は有明海と玄界灘の分水嶺に当たり、両側に25‰の勾配があって補機付き貨物も多く、意外なほど雄大な光景も広がっていました。西唐津区には当時、9600が15両配置されていて、ほかの形式はなく、9600が専属で唐津線の石炭列車を日夜牽いていました。そのような史実があったことすら、今となっては忘れ去られようとしていますが、かく言う私も、最初、昭和42年に西唐津機関区へ行ったものの、すごい雨で戦意喪失、一枚も撮らずに引き揚げ、昭和44年に再挑戦した時も途中で雨に降られて、1、2枚を撮っただけで退散してしまいました(以下すべて昭和44年3月)。唐津線の旅客はDC化されていたが、朝の一往復だけ、客車列車があって、西唐津機関区の9600が牽いていた。唐津線は久保田が始発だが、この客車列車を含めて、全列車が佐賀を始終発としていた。

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昭和の電車 改訂版(101)ー近鉄6201系ー

前回投稿時には、どなたからも反応がありませんでした。
我々の時代には、残っていなかったのでしょうか?

だれか知りませんか?

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉙

豊後森機関区 8620

「森」とは、久大本線にあった豊後森機関区です。蒸機時代の久大本線は、客貨とも大分区のD60牽引が中心でしたが、以前、久大本線は、旅客が8620、貨物が9600牽引でした。昭和30年代から順次D60が投入され、豊後森区の8620数両だけが残ることになりました。運転区間は、豊後森~日田~鳥栖で、勾配のある豊後森以東、由布院、大分方面には入線していませんでした。昭和45年10月の久大本線の蒸機廃止後も、扇形庫などは放置され、一時は荒廃していましたが、平成27年に、水戸岡鋭治氏のグランドデザインで豊後森機関庫ミュージアムがオープンし、扇形庫も修復され、往時の姿を偲ぶことができるようになりました。また本欄でも紹介のように、以前、久大本線で貨物を牽いていた9600が保存展示されています(以下、特記以外 昭和45年8月)。

朝陽を受けて輝く58689 漆黒の機体に「森」の区名板が映える。日田

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びわこ号が復活する?

昨日(8・21)の朝日新聞の記事に京阪「びわこ号」

が「復活」する、という記事が載っていました。

一瞬保存車が走るのかと思ったのですがそれは

できないことのようで、HPをみると9月14日から

603+604が復活色で石山坂本線を走るようです。

「面影は楽しめる」かな。

 

 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ⑮

2015年8月18日 大阪モノレールで分岐器を楽しむ

愛称の「大阪モノレール」は、社名が大阪高速鉄道でしたが、ことし6月、社名も大阪モノレールに変更されたばかりです。高いところを走るだけに、駅から邪魔もなく撮ることができます。この日は、万博記念公園駅のホーム東端から、本線、彩都線の両線が分岐して、さらに高度を上げて高架を行く、未来感覚あふれるシーンを撮りに行きました。とくに興味深いのは、5基ある分岐器で、PC軌道桁自身が動いて、路線を切り替えます。モノレールで支線があるのは、大阪モノレールしかありませんから、この独特の光景が見られるのも、万博記念公園ならではです。

万博記念公園を発車して、彩都線を行く大阪モノレール、太いPC桁がゆっくり動いて、ポイントを切り替える。 本線の千里中央行きと、彩都線が交換する。この年、千里中央~南茨木が開業してから25年に当たり、右の1631には、記念のステッカーが貼られている。この1000系も開業時の車両は、3000系の増備で順次なくなると言う。

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JR西日本「新快速」50周年、京都鉄道博物館で展示(マイナビニュース)

後ほどご本人から投稿があるかと思いますが、取りあえずマイナビニュースから第一報

新快速が50周年を迎えるにあたり、京都鉄道博物館で歴代の「新快速」車輌やマークなどを展示します。特に期間中、講演でクローバー会の福田静二さんがお話をされるのでぜひともご参加下さい。定員は40名だそうです。

以下、マイナビニュースから引用

京都鉄道博物館は18日、JR西日本の代表的な列車である新快速が今年、運行開始50周年を迎えることを記念し、新快速の歴史と魅力を紹介する展示・講演会・イベント「この秋は新快速で50! ~学んで、遊んで、しんかいそく!~」を9月19日から順次開催すると発表した。

新快速に関連した講演会は、第1弾として10月11日に、新快速(223系など)のデザインを手がけた鉄道車両デザイナーの南井健治氏による「新快速 – 車両デザインの50年」を開催(1日2回)。第2弾は11月1日、同志社大学鉄道同好会クローバー会の福田静二氏による「新快速が走り始めたころ113系、153系から117系へ」、鉄道ライターの伊原薫氏による「新快速が果たした役割と私の思い出」を開催(1日2回)する。講演会はいずれも各回先着40名とのこと。

その他にも、9月19~22日に新快速の車両前面をモチーフにしたハチマキ型サンバイザーのプレゼント(各日先着500枚)、9月19日から11月23日まで新快速の停車駅をテーマにしたオリジナルスタンプラリーが開催される。

 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ⑭

1996年8月17日 山崎へ夏の臨時列車を撮りに行く

この時期は、盆の期間に運転される東海道本線の臨時列車を撮りに、毎年のように近くの長岡京、山崎へ写しに行きました。以前の本欄でも「山崎を走った夏の臨時列車」として紹介しましたが、この日は、カラーポジに絞り込んで撮影しました。今から見ると、実に多様な列車・車両が走っていたことが分かります。しかも、ネバって撮ったものではなく、撮影メモを見ると、朝の7時50分から1時間の間に撮影できた列車です。

今から20年余り前、別に盆の期間でもなくても、いつでも見られた列車。新快速は221系、緩行電車は201系の時代だった。今と同様に山崎付近で併走が見られた。201系に「海へ」のヘッドマークが掲げられているのも、この時代ならでは。▲▲快速は113系オンリー、デカ目のライトが、朝の空気を切り裂くようにして走り去る。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ⑬

1996年8月16日 北大阪急行を新御堂筋の歩道橋から撮る

桃山台~千里中央に、新御堂筋、北大阪急行を跨ぐ歩道橋があります。ここから、千里ニュータウンをバックにして、北大阪急行、地下鉄御堂筋線の電車を撮ることができます。写真は、20年以上前のサラリーマン時代で、よく仕事で千里中央へ行くこともありましたが、この写真を撮ってからは、一度も北大阪急行沿線へは行っていない気がします。それどころか、最近は、大阪市内へも行くことがなくなり、今年になってから自分の行動範囲がどんどん狭まって来ていることを感じます。北大阪急行は、“ポールスター”こと8000系7編成が走っていた。後継の9000系の増備で、今では、7編成のうち、3編成が残るのみ、この8005Fも2018年に廃車されている。古さを感じさせない、昭和の時代の製造で、洗練された車内外は、地下鉄用車両の中では、今でも最も豪華な造りだと思っている。

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関先生からのお手紙(大阪市電3001型Zパンタについて)

8月8日に投稿した『大阪市電3001型』の書き込みに対して、関先生から反論が写真付きで送付されました!エラいことです!

昭和の電車 改訂版(98)ー大阪市電3001型ー

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑫

2004年8月15日 大井川鐵道で関西私鉄の競演を楽しむ

大井川鐡道は、1994年のクローバー会の40周年記念旅行で初めて行き、今回が2回目でした。この時は、乙訓の老人さん、準特急さん、逗子のTさんと一緒で、何度も行って沿線を熟知されている乙訓老人に連れられ、各所で下車して撮影しました。いまは、すっかり電車も世代交代しましたが、当時は、京阪、近鉄、南海からやって来たばかりの電車が、きれいな姿で走っていました。この日は、乙訓老人が行きつけの新金谷の駅前旅館に一泊、大宴会をした楽しい思い出も残っています。大井川鐡道は、先の豪雨で被害があり、家山~千頭が当分の間不通でバス連絡とされていますが、早く大井川の渓谷を行く蒸機、電車の姿を見たいものです。最初に降り立ったのが抜里、茶畑に囲まれた静かな山里の駅で、好ましい雰囲気の中で、懐かしい電車と再会した。

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昭和の電車 改訂版(100)ーデイ100・モヨ100ー

昭和の電車・100回記念の企画でしょうが、阪和線は京都人には異国の鉄道。
一度鳳区へ行ったことがあるが目的はED16・ED60・EF52で、モヨなどの阪和電鉄の電車は撮っていません。まったく馬鹿なことをしました。同行のパンツ松村君が撮っていたかも知れませんが彼は鬼籍の人。今度会ったときに聞いてみましょう。

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉘

南延岡機関区

続いて日豊本線にあった南延岡機関区です。大分~宮崎のほぼ中間にあり、運輸上の要衝でした。おもに配属されていたのはD51で、昭和43年当時は15両が在籍し、大分~宮崎の貨物列車を牽引していました。ほかに、当時はまだ走っていた細島線(日向市~細島)の貨物用、南延岡などの入換用に8620、日ノ影線(延岡~日ノ影)の貨物用にC12が配属されていました。当時から南延岡では、延岡の代表企業である旭化成からの貨物の発着がありました。現在でも、鉄道の現業部門は無くなりましたが、旭化成の専用線は残って、日豊本線のコンテナ貨物も南延岡を始終発としています(以下、特記以外昭和43年3月)。

立派なコンクリート製の扇形庫があった南延岡機関区。その前の側線で休む宮崎区のC5747 南延岡は、旅客列車の行き先として多く、当時は運輸上の要衝だった。ラウントハウスに名称を大きく標示しているのは全国的に見られた。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉗

柳ヶ浦機関区

九州に戻って蒸機巡りを再開します。まず宮崎、大分以外で、日豊本線にあった、そのほかの機関区へ行きます。昭和42年10月まで、D50、D60の配置区として賑わいを見せていた柳ヶ浦機関区です。区は明治45年に設置され、煉瓦造りの矩形庫、給炭塔、給水塔がコンパクトに配置されていました。門司港~大分の中継地に当たり、給炭・給水、蒸機の付け替え、乗務員の交代などが行われていました。別府、大分方面、急勾配の立石峠を控え、柳ケ浦から後部補機が連結されました。区は昭和42年10月改正で日豊本線の新田原~幸崎の電化が完成、蒸機の運用を廃止。支区に格下げされたあと廃止されました(以下すべて昭和42年3月)。

煉瓦造りの矩形庫で休む、柳ヶ浦区のD50310  D50341 訪れた昭和42年3月当時、柳ヶ浦にはD50が12両、D60が2両在籍し、日豊本線の貨物、補機を担当していた。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑪

2004年8月11日 琴電の旧型電車を初めて撮影に行く

高松琴平電鉄を走っている旧型電車も次第に数を減らしてきました。いま残っているのは、23、500、120、300の4両で、2021年5月に旧型電車の運転を終了する旨の告知が会社からありました。旧型電車を使った定期的なイベントも、この春からは中止されていましたが、今月30日には再開され。展示会、撮影会が行われるようです。私が初めて琴電を訪れたこの年には、冷房のない旧型電車は、窓を開け放して、ごく当たり前に定期列車の中で活躍をしていました。讃岐の国には、七つの富士があると言われるほど、円錐形の山が多い。白山もその一つ、長尾線の車窓からよく見える。公文明~長尾を行く300+760

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑩

2007年8月12日 真夏の田園地帯で小田急ロマンスカーを満喫

最前部まで客室があり、展望のきく小田急ロマンスカーは、関西の人間にとっても憧れの列車でした。ただ、なかなか撮影の機会に恵まれません。この年、仕事でもお世話になった高名な鉄道ファンが亡くなられて葬儀に行くことになり、不謹慎ではありますが、その前に、小田原で途中下車して、葬儀までの2時間ほどを撮影に充てました。急なことで、撮影地も分からず、田園地帯が広がっていると言う情報だけを頼りに、「開成」で下車しました。全く日陰のない、カンカン照りの田圃のなかに2時間、喪服を着た暑さはハンパないものでした。この時期の小田急ロマンスカーは、3000形、3100形はもう無く、7000形、10000形、20000形。30000形が主力で、2年前に50000形がデビューしたところだった。一眼デジを買ってから2年ほどの頃で、何枚撮っても値段は変わらないことを最大限に利用し、連写流し撮りに挑戦してみた。と言っても、歩留まりを良くするために、確実な1/125Sに設定、10000形HiSeを連写してみた。

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