さよなら 近鉄特急色 〈4〉

ギラリの12200系

先回も書きましたように、明日30日(土)から、近鉄特急の運休本数が一段と増加し、土休日は半減となります。改めて、明日からの時刻表をネット眺めると、京都~奈良特急は、奈良8:28発、京都17:30発のたった一往復だけ、難波~奈良は、完全運休のグレー色に塗りつぶされています。平日も運休が多く、残っていた12200系の活躍も、おそらく本日で終了したのではと推測します。

12200系の近鉄特急色も天候や時間帯によって、印象はさまざまに変化します。なかでも、私の好きなのは、夕方の斜光線に、オレンジ色が輝きを増す時間帯です。文字どおり、12200系が輝いていた時代でした。

 

 

 

 

 

ギラリを撮るのに、いちばん適した区間は、鶴橋~今里~布施の複々線区間だ。何よりも本数が多いから、スポットな時間帯でも、うまく列車が来るし、上本町・難波行きは、どの季節でも、真正面に陽が当たる。鶴橋(2002年11月)

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 さよなら 近鉄特急色 〈3〉

勾配区間の12200系

近鉄の路線延長は約500キロあって、前回〈3〉で紹介のように見どころは多いのですが、私が特急に乗って、いちばんワクワクするのは、桜井から始まって、伊勢中川付近まで延々と続く山岳区間です。33‰の連続勾配をものともせず、最高速度を維持しながら、グイグイと上がって行きます。以前、本の取材時でしたが、暮れゆく頃、駅のコンビニで買った100円コーヒーを飲みながら、流れ行く夕景を眺めたのは至福の時間でした。

大阪線の前身となる参宮急行電鉄は、昭和5年に上本町~山田が開通しました。長谷寺~榛原の約10キロに33‰の連続勾配が続き、榛原~三本松、伊賀上津~伊勢石橋にも33‰の勾配があります。トンネルも、最長の新青山トンネルをはじめ、12のトンネルがあり、鉄橋、大規模な築堤も連続する、日本最初となる山岳区間を走る電気鉄道でした。当時の2200系の最高速度は110キロであり、当時としてはまさに新幹線の出現でした。今回は、この山岳区間を行く12200系を眺めてみました。山岳区間では、昔から撮影地として有名だったのは、長谷寺から榛原寄りへ行った大築堤だろう。高橋弘さんのビスタカーが代表的な写真だ。手前が段々畑になっていて、高さが自由に変えられるのも魅力だった。その後、耕作がされなくなり、荒れ邦題、樹木も伸び放題になり、撮影ができなくなった。(2001年11月)

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 さよなら 近鉄特急色 〈2〉

12200系の行くところ

最近の情勢を踏まえて、鉄道各社では、優等列車の本数削減、終電の繰り上げなどが行われています。近鉄でも、一度リリースがあったあと、昨日、特急に関しては、さらに踏み込んだ運休計画が発表されました。なかでも驚いたのが、土・休日の特急半減です。土・休日の特急運転総数446本のうち222本が運休と、文字どおり半分が運休です。身近なところでは、観光乗車の多い京伊12本→6本運休、京橿56本→22本運休はまだしも、衝撃的だったのは、京奈61本→59本運休と、一日たった一往復の運転に。さらに阪奈に至っては、32本すべてが運休と、奈良線の土・休日は特急ゼロ線区になってしまいます。

ここ数年、近鉄特急の乗車率の低下は、身を持って体験していますが、いくらコロナ禍と言っても、これほどの運休とはホントに衝撃的でした。「当分の間」と書かれていますが、もう完全に元に戻らないのではと危惧します。それだけに、満員の乗客を乗せて、近鉄特急色の12200系が縦横に走り回っていた、つい最近までの状況が、もう何か遠い別世界のように感じられます。今回は、いかにも近鉄らしい風景とともに12200系を見ていただきます。

薬師寺西塔を見て、橿原線西ノ京付近を行く。西塔は昭和の再建だが、朱塗りの仏塔のすぐ近くを12200系が行くのは、いかにも奈良らしい光景。一角だけ田んぼが残っていて、真横から撮れたが、いまは大部分が駐車場に変わってしまった。

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 さよなら 近鉄特急色 〈1〉

12200系

久しぶりに気合いを入れて(?)投稿します。すべての活動が止まってしまった、この時期ですが、鉄道界では春のダイヤ改正に向けて静かな進化を続けています。身近な関西私鉄で見ますと、京阪(新)3000系の「プレミアムカー」、近鉄「ひのとり」増備などが目玉でしょうか。私など「プレミアムカー」も「ひのとり」も乗ったことも無いのに、もう増備が完了です。不透明な時期にも、つねに前を向いて進む鉄道事業者には敬意を表します。ただ、その影で、消えていく風景もあり、京阪、近鉄とも親しまれてきた塗装が見られなくなりそうです。

近鉄では、特急の主力車輌として活躍してきた12200系が姿を消すことになり、同時に、近鉄特急の象徴でもあったオレンジと紺の旧塗装が消えてしまうことも意味しています。まだ正式なリリースはありませんが、2月12日のダイヤ改正で姿を消すようです。この塗装の起源は、昭和33年、世界初の二階建て電車10000系ビスタカーだった。オレンジとダークブルー(当時の呼称)に塗られ、ブルドッグノーズの強烈なスタイルとともに近鉄特急の地位を確立した。最初は、窓部をオレンジ、上下がダークブルーだったが、新ビスタカー10100系に合わせて、逆転させて現在のような配色になった。以来、多少の濃度を変更をしながら、60年以上に渡って、近鉄特急を象徴するカラーリングになった。大和八木(2002年3月)

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 年末年始 臨時列車で賑わっていた時代へ 〈4〉

東北本線の普通列車、貨物列車

本テーマの最後として、東北本線の普通列車、貨物列車と参りましょう。優等列車の影で、日常の足としての普通列車も多く運転されていました。多くは115系電車ですが、この時期にはまだ長距離鈍行が走っていた時代で、「一ノ関」のサボを下げた旧型客車を、デッキ付きのEF57が牽く列車も残っていました。また、年末年始は、荷物、貨物輸送が激減するものの、そこは、大動脈の東北本線のこと、何本かの荷物列車、貨物列車を見ることができました。

123レを牽くEF57 13 123レはもともと上野~青森の長距離鈍行だった。昭和43年10月で短縮されて、上野~一ノ関になった。やや低い位置から構えて、突き出たパンタを強調してみた。栗橋付近(昭和50年1月)

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 年末年始 臨時列車で賑わっていた時代へ 〈3〉

東北本線 特急・急行列車

臨時列車で賑わっていた年末年始の東北本線ですが、もちろん定期列車も数多く運転されていました。東北新幹線の開業前、昭和50年3月改正で見ますと、東北本線の上野口では、特急33往復、急行18往復程度の定期優等列車が運転されていて(途中、日光線、磐越西線など分岐を含む)、在来線としては、いちばんの特急・急行の頻発線区でした。この改正では、急行列車を格上げして、24系25形客車の新造による、寝台特急の増発もあり、特急が主役へと代わっていきます。撮影したのは昼間の時間帯で、寝台特急の撮影はできていませんが、昼行の特急・急行、夜行急行を数多く撮ることができました。東北本線の特急の中で、本数から言っても代表格は上野~仙台の「ひばり」だろう。昭和36年に誕生以来、増発、編成増強を続けて、ピーク時の昭和53年10月改正では15往復に達して、エル特急の代表にもなった。栗橋付近(昭和50年1月)

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 年末年始 臨時列車で賑わっていた時代へ 〈2〉

昭和の時代 東北本線の臨時列車

新年のご祝詞を申し上げます。穏やかな天候で明けて、昨日も、恒例の阪堺線撮影に出掛けました。電車は大増発ですが、肝心の乗客は、ざっと見て昨年の半分程度で、座って行ける状況に拍子抜けしました。鉄道を取り巻く状況は年が明けても厳しいようですが、鉄道はなやかなりし頃の年末年始の様子を見ていきます。昭和50年、51年と、2年連続で東北本線へ写しに行っています。約45年前で、いずれも、Fさんに連れって行ってもらい、当時、熱中していたボンネットバスや、廃止予定の仙台市電の撮影の帰途に撮影したものです。東北新幹線が開業するのは、昭和57年6月の大宮~盛岡の先行開業まで待たなければならず、在来線である東北本線には多くの列車が運転され、列車輸送のピークを迎えていた時代です。EF57が牽く、座席車ばかりの臨時急行は、年末年始の東北本線を代表するシーンだろう。上り「八甲田56号」「おが53号」EF57 8牽引 栗橋付近(昭和50年1月)

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 年末年始  臨時列車で賑わっていた時代へ 〈1〉

大阪駅で夜行列車を撮る

誰もが想像すらしなかった一年が終わろうとしています。最大の書き入れ時である年末年始の鉄道界も、普段よりも空席が目立つとニュースが伝えています。臨時はもちろん定期列車ですら運休、終夜運転の取りやめと、長く鉄道に接してきた我々にとっては、信じられないような年末となりました。

少し前までは違いました。長距離移動は、新幹線、航空機、夜行バスに移行し、在来線の長距離列車はほぼ絶滅していたものの、年末年始になると、帰省客、スキー客のために、JR在来線に多数の夜行列車が運転され、国鉄時代の再来を思わせました。夜間の短時間に集中して発着するため撮影効率が良く、年末の恒例として、三脚持参で、始発駅の大阪駅へ向かったものでした。今から約20年前、年末の状況を振り返ってみました。スキーが絶頂期の時代、スキー場まで寝て行ける「シュプール」号が多数運転されていた。興味深い車輌ばかりだったが、これは正調ボンネットの485系で運転されていた神戸発「シュプール妙高・志賀11号」、ヘッドマークも愛らしい(1993年12月29日)。

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 やっぱり蒸機が好き! 《九州》列車・線区編 8 高森線

続いて高森線の後編です。この紀行文のもととなった旅行は、学生生活を終えて、社会人の一年生の時でした。たしか、当時の有給制度は、入社半年後にしか取得できず、7ヵ月後に2日の有給を使って、上司の反対を押し切って、行ったものでした。まだ土曜日はすべて出社していた時代、日曜と組み合わせて、三日間の旅行となりました。馴れない仕事に忙殺されていた時期、何とも貴重な時間となったこと、いまも思い出します。

晩秋の南阿蘇を行く立野行き、C12+貨車+客車の列車。長陽付近(特記以外、昭和47年11月)。

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 やっぱり蒸機が好き! 《九州》列車・線区編 7 高森線

過去の寄稿を再録する列車・線区編、つぎは高森線です。豊肥本線立野から分岐する国鉄高森線は、高森までの17.7kmの路線、昭和61年4月に第三セクターの南阿蘇鉄道に転換されました。2016年4月の熊本地震で、トンネル・路盤に大きな損傷があり、いまも立野~中松が不通のままで、中松~高森で離れ小島のように運転しています(以下、特記以外昭和47年11月)。

 

立野を出てすぐの立野橋梁を行く高森線の列車、トレッスル橋脚で、長さ136m、高さ34m、下まで降りる道があって、川底からでも撮れた。

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 やっぱり蒸機が好き! 《九州》列車・線区編 6 室木線

室木線の始発となる、鹿児島本線の遠賀川は、北九州と福岡のほぼ中間にある駅です。室木線は列車本数は少ないもの、本線を行く列車は頻発しています。新幹線の開業前だけに、東京・大阪発の優等列車から、貨物列車まで、さまざまな列車が、発着していました。今回は、蒸機に限らず、室木線のすぐ横を通り過ぎた、鹿児島本線の列車を見ていきます(すべて昭和47年11月)。室木線の8620が入換えに励む横を、481系熊本発岡山行き「つばめ3号」が高速で通過して行く。撮影当時、新幹線は岡山まで。岡山を発着とする特急、急行が多数、鹿児島本線を走り抜けていた。

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 やっぱり蒸機が好き! 《九州》列車・線区編 5 室木線

本日の牽引は38629〔若〕、パイプ煙突でおとなしい印象のカマ、ホームが嵩上げされているが、これは長年の採掘による地盤沈下のためと言われる(昭和46年12月)。

室木線は、沿線の石炭を搬出する目的で鞍手鉄道が計画し、これを買収した九州鉄道の手で着工されますが、国有化されたため、明治41年6月29日に官設鉄道によって開業しました。すぐ近くの香月線と同日開業で、両線の性格・規模も酷似しています。開業後は、沿線で小規模な炭鉱が操業を開始し、石炭採掘量も増加、設備の改善を進めていきますが、昭和30年代後半になると石炭産業の衰退とともに、小規模な炭鉱から真っ先に閉山に追い込まれていきます。以後は、ほかの筑豊のローカル線と同じ道を辿って行くことになります。

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 やっぱり蒸機が好き! 《九州》列車・線区編・4 ~室木線

寄稿文を再録する「列車・線区編」、つぎは室木線です。鹿児島本線遠賀川から南へ分岐し、筑豊本線とほぼ並行しながら走り、終点の室木に至る11.2kmが室木線でした。訪れた昭和40年代は、全列車が若松区8620の牽く客車列車、または混合列車でした。昭和49年に蒸機の活躍は終わったものの、牽引がDE10に代わっただけで客車列車はそのままでしたが、第一次特定地方交通線に指定され、昭和60年4月に廃止されています。いかにも筑豊らしい雰囲気が好きで、とくに終点の室木は、折返し列車の撮影も可能で、昭和40年代には何度も訪れたものでした。以下の原稿のもとになったのは、社会人となった直後の昭和47年11月、「桜島」に乗って、4時40分、真っ暗な折尾に着いた時から始まります。 駅長の発車合図とともに、朝靄を突いて列車は出発して行った。室木 824レ

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 昔も今も 紅葉は叡電で ④

最初で最後の紅葉を

結局、今年の秋も遠出はもちろん、近場へもほとんど行けずに終わり、紅葉撮影は、叡電の一日だけで終わってしまいました。前回掲載の723号以外の写真を見ていただきます。いつものコース、三宅八幡から、線路沿いの道路をブラブラ歩いて、八瀬比叡山口までの約1時間の撮影でした。

三宅八幡近くの3号踏切から八瀬比叡山口方面を見ると、全山が紅葉した比叡山をバックに、出町柳行きの電車をアウトカーブからとらえられる。この722号は、昨年に車体がリニーアルされて、“沿線の社寺仏閣をイメージした”朱色の濃淡のカラーリングにとなり、車内設備も一新された。

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 昔も今も 紅葉は叡電で ③ 

リューアルされた723を初めて撮る

紅葉の季節も終わってしまいましたが、叡電紅葉シリーズの残りを続けます。叡電700系と呼ばれるデオ710、720、730形は、在来車の下回りを流用して1987年から造られましたが、その後、台車・駆動装置を京阪の廃車発生部品などを流用して一新され、空気バネ台車、カルダン駆動に改造されましたが、建造後30年以上が経過したため、車体そのものもリニューアルされています。その代表が、観光電車の「ひえい」723であり、ほかにも、722号が“沿線の神社仏閣をイメージした”赤系統のカラーリングとなり、車内設備も一新されました。このたび、沿線の“水が豊かで山紫水明の地である洛北の自然を表現した”青系統のカラーリングに塗られて、リニューアルした723号が走り始めています。

10月18日から走り始めたリニューアル723号、「ひえい」のようなインパクトは無いが、落ち着いた京都に相応しい改造車となった。三宅八幡~八瀬比叡山口 

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 やっぱり蒸機が好き!   《九州》列車・線区編・3

前夜に門司港を出た1121レが大畑のループで朝を迎える。煙をまとった編成が朝の光線に浮かび上がった。鹿児島本線、肥薩線、吉都線と九州を横断する1121レ最高の舞台だった(昭和46年12月)。

肥薩線が人吉から進路を南に向けると、そこには熊本・宮崎・鹿児島3県境にまたがる九州山地の山塊が待ち受けていた。明治時代、鉄道技術者は、長大トンネル、ループ線、スイッチバックで難所に挑んだ。明治42年に最後の矢岳第一トンネルの完成を待って全通、この時、日本を縦貫する幹線鉄道網ができた。肥薩線は、昭和2年の鹿児島本線の全通まで、九州を縦貫する幹線の一部だった。

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 やっぱり蒸機が好き!  《九州》列車・線区編・2

30.3‰勾配が続く大畑ループを逞しく上って行く1121レ(昭和44年3月)

発車10分前になると門司港駅では改札が始まった。頭端式の櫛形ホームへ推進運転で客車編成がゆっくり入線、通常は、ニ1輌+ハ4輌の身軽な編成、始発駅まで来た甲斐があって大きな混雑も見られず、思い通りの席を確保して一安心する。23時30分に門司港を発車、380キロ先の都城を目指す。ある時は“蛍の光”が流れ、その演出に驚いたことがある。車内のオルゴール音とともに車内放送が始まり、夜行列車らしく、停車駅が長々と続く。「八代、人吉、吉松…」と、翌朝に下車する駅が告げられると胸が高鳴ってきた。

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 やっぱり蒸機が好き!   《九州》列車・線区編・1

夜行普通 1121レ  (1)

九州の蒸機、機関区別に国鉄蒸機をしつこく紹介、わずかな専用線・私鉄も残らず紹介し、自分として完了! と思っていました。しかしスペシャル版(?)が残っていました。過去、雑誌などに、九州の蒸機をテーマにいくつか寄稿していたことを思い出しました。思い出の列車や、撮影でよく訪れた線区を、写真とともに回想しています。自分としては、精一杯がんばって表現した内容です。発行されてから、数年が経ち、自分でも忘れていたぐらいで、世間的にはまず認知されていないと思います。本欄で紹介するのも、改めて自分の足跡を見直す機会と思い、改めて列車・線区編として掲載する次第です。二重投稿の嫌疑を受けないよう、文章は見直して、削除、追記のリライトをしています。まずは愛用の夜行鈍行、門司港発、鹿児島本線、肥薩線、吉都線経由の都城行1121レの思い出です。

前夜、門司港を出発した1121レは、大畑のループ線を越えるころ朝を迎える。逆光線上に、澄んだ冬の空気が築堤の1121レを際立たせる(以下写真、昭和46年12月)。

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