街並みとともに ~京都のバス~  〈10〉

バスが集中した三条京阪前

私が市バスに興味を持ち始めたのは小学校高学年でした。銀行(三菱銀行だったと思う)のオマケとして、小型判の市電・市バスの系統図がありました。一系統ずつカラー印刷されていて、その径路をたどって行くのが楽しみでした。その図で、異様なまでに、バス径路が集中しているところがありました。それが「三条京阪前」でした。地図では、私の住んでいた丸太町通付近まで、三条京阪付近のラインが膨らんで来る始末でした。

これほど左様に、当時の三条京阪前にはバスが集中していて、当時は、市電は京都駅前、市バスは三条京阪前が、発着場のトップでした。三条京阪は、京阪線、京津線の結節点であり、繁華街にも近く、バスの発着場としては、好適地であることは言うまでもありませんが、市電の補完として空白地域へバス径路が伸びて、とくに市電の敷設が遅れた京都北部、東部に拡充されていった経緯や、バスが操車できる広大な土地が他に無かったことも挙げられると思います。

以下の撮影時期は、京阪は三条まで地下線の工事が本格化、出町柳までの鴨東線の工事も着手され、京津線は地上線の時代で、バスにとってはいちばん賑やかな時代でした。

三条大橋を続々と渡って、三条京阪前を目指す。交通結節点として三条京阪の地位がウンと低下してしまった現在では、こんなラッシュ風景は見られない。橋の上までの不法駐輪も今となっては懐かしい(昭和55、56年)。

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23日(金) カンテレ「報道ランナー」にチラリと出ます

「チラリと出ます」と言っても、何も私が出る訳ではありませんょ。関西限定ですが、関西テレビ8チャンネルの夕方の番組に「報道ランナー」があります(月~金、16:45~19:00)。毎週金曜日のコーナーとして、【兵動大樹の今昔さんぽ】と言う、兵動大樹が昔の写真を手に、 関西の街の「今と昔」を比べながら散策するコーナーがあります。

明後23日(金)は「北野天満宮の鳥居」について放映があり、このなかで私の保管していた北野線の写真がネタとして登場するはずです。ネタ明かしは番組に譲りますが、写真には鳥居があるのに、現地に行ってみると鳥居がない‥‥、という展開になると思います。ほかにも伏見線の市電も登場があるかも知れません。このコーナーは、通常は18時20分過ぎから始まります。この日は、東国で、オリンピックの開会式とやらが行われるようですが、ホント関西は盛り下がる一方ですね。いっとき、60年前の写真で息抜きしてください。5月のコーナーでは、新幹線と群がる見学者を紹介していた。東海道新幹線が初めて新大阪まで試運転をした日、鴨川鉄橋東の本町陸橋付近で撮られたもの。私もこの試運転(上り)を京都駅近くの高倉陸橋で撮っただけに懐かしい思いだった。

 街並みとともに ~京都のバス~  〈9〉

こんな通りを走っていた(2) 本町通を走った16号系統

“こんな道を走っていた”市バス続けます。「16」のバスが昭和の時代には走っていました。よく知られているのは、「上賀茂神社前-稲荷・藤ノ森神社」の方向幕の時代です。京都の市街地を北から南まで縦断し、とてつも長い距離を走っていた系統でした。しかも狭隘区間があって、遅くまで中扉のみのツーマン車で残り、車掌を乗せて繁華街の四条通を行く姿は、市民からも怪訝な顔で見られていたものでした。正月の祇園石段下、右折する16号系統の稲荷・藤ノ森神社行き、ほとんどがワンマン化されていた時代、初詣客のなかへ、いきなり現れた古いツーマン車。16号系統は、上賀茂神社前から、千本通、四条通、東山通を通り、稲荷・藤ノ森神社方面に向かって行った。昭和45年8月に一部径路を46号系統と統合し、終端部の藤ノ森付近がさらに複雑な径路になった。師団街道を南下して、聖母女学院、京都教育大学の東側を半周して、藤ノ森神社前へ出て、帰りは本町通を北上して行き、ちょうど「8」の字に一方循環していった(昭和49年1月)。

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈8〉

こんな通りを走っていた(1)

バスは系統の改廃も多いうえ、同じ系統でも、需要の変動や、交通事情、また地下鉄開業など基幹交通の変化によって、途中の径路もよく変わっています。また、市電が健在だった時代は、市電網から取り残された地域に、バス路線を設けることもありました。バスは、あくまで市電を補完する立場だったのです。今回は、昭和の時代、“こんな通りにもバスが走っていた”と思わせるシーンを集めてみました。

四条烏丸を行く7号系統の東寺西門行き、車両は京都22か2670、昭和55年式、いすゞK-CLM470、NSKボデー

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈7〉

初めてのマイクロバス

いま京都市バスには、小型、中型、大型と、さまざまなサイズの車両が走っていますが、かつては、すべて大型車のみでした。初めて小型のマイクロバスが走ったのは、昭和51年4月、衣笠(現・立命館大学前)~ 原谷のM1系統でした。原谷は、しだれ桜で有名な原谷苑もありますが、京都東北部の山あいを開発した新興住宅地で、公共交通は一切ありませんでした。急勾配、狭隘区間もあり、大きな需要も見込めないところから、初めてのマイクロバスの導入となりました。Mはマイクロの頭文字で、市バス系統に英文字が付けられるのも初めてでした。昭和51年4月に、京都市バスに初めて登場したマイクロバスを使ったM1系統、車両は、京22あ‥17、‥18の2両で、いすゞBY31、北村ボディだった(昭和50年4月、以下同じ)。

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈6〉

洛西ニュータウンの電気バス

“京都のバス”再開します。シリーズが途絶えている間に、私の住環境もすっかり変わり、二階の窓から見ると大通りを続々と市バスが走って行くのが眺められるスポットとなりました。良くも悪くも、京都の公共交通は市バスが中心であることを実感します。そんな京都とバス、昭和の時代を断片的に見ていきます。

京都市バスにも、以前には電気バスが走っていました。初代の実用車は、本欄でも紹介したトロバス改造の「みどり号」で、そのあとに登場するのが、これから紹介する、昭和54年にデビューした、洛西ニュータウンを走る6両の電気バスでした。

洛西ニュータウンのなかを行く京都市バスの電気バス、洛西営業所に配属された、ふそう製で、ボディは京都市バスとしては珍しい三菱ボデー、通称ブルドッグバス、洛西ニュータウンから阪急桂駅に向かう系統に使われた。写真の「梅津車庫」は誤表示(昭和61年2月、以下同じ)。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉑

ちょっと変わったD51

北海道で229両(昭和44年)が配置されていたD51ですが、“ナメクジ”のように製造当初からの変形機以外にも、北海道ならではの改造を受けた独自のスタイルや、個体差のあるD51がいました。いままで紹介した、“ナメクジ”なのに標準型になった54号機や、デフの端部が全くRのない、突き刺さりそうな942号機なども紹介しました。それ以外にも北海道ならではの改造を施した機です。

北海道と東北の一部に見られた長円形の煙突を持ったD51、「ギースル・エジェクタ」と呼ばれる煙突で、横から見ると逆台形に見える。単機で1200トンの石炭列車を牽く追分区に21両が配置され、旭川、岩見沢にもいて、北海道には最盛期27両が配置されていた。D51 167〔旭〕 旭川 (昭和43年9月)

 

 

 

 

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑳

雪の常紋を行くD51

常紋には雪のあった季節に、一度だけ行っています。昭和47年3月のことで、もうヤマ線のC62はなく、常紋は北海道を代表する撮影地となって、撮影者も多く見られるようになります。蒸機は、北見区D51、遠軽区9600が健在で、客貨の本務、補機を務めていましたが、旭川区にはDD51が配属されて、一部の客貨を牽き始めていました。今までの常紋は、DRFCメンバーとの撮影でしたが、今回は、自分一人の気ままな撮影でした。

この撮影で試みたことがある。この少し前の国鉄主催の鉄道写真コンクールで、大賞になったのが、降雪のなかの蒸機のタブレット交換だった。“これしかない”と、常紋では歩くこともせずに、もっぱら信号場でスナップ撮影を試みた。ホームのないところでの交換になので、助役が背伸びをして、タブレットを交換する瞬間だけに狙いを定めた。(以下、昭和47年3月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑲

常紋に挑むD51

前回の本稿では“ナメクジ”のD51を石北本線の常紋信号場付近でよく写したと書きましたが、そうは言うものの、圧倒的に多かったのは、標準型のD51でした。常紋は北海道では代表的な撮影地で、私も9月に二度、3月に一度行っています。9月は、いずれもC62重連の撮影のあとに行っていて、正直、D51を見ても感動はイマイチでしたが、C62が消えたあとの3月の時になると、DD51も入線し、トラ模様の9600も増殖していて、逆にマトモなD51も貴重になっていました。

常紋へ行く時は、夜行入りが必須で、食糧が手に入らないのは分かっていても、ほとんど食事なしの撮影で、睡眠不足、空腹という、撮影気力を低下させる二大要素を抱えたままの常紋行きで、結局、大した写真は残せずに終わりました。それだけに、今となっては、当たり前のD51も愛おしく思えて来るのです。急行「石北」に乗って遠軽で下車し、始発の523レに乗り換えて6時45分ごろ常紋(信)に着くと、まもなく上って来るのが590レだった。木造の小さなホームから見ると、Sカーブ上を、D51 157〔北〕が牽き、後補機9600を従えて、逆光線上にシルエットとなって迫って来た。このあと、信号場に挨拶に訪れて、リュックを置かせてもらい、トンネル内の電灯を点けてもらって、生田原側にある噂の常紋トンネルを抜けて行くのが、私の時代の常紋撮影の仕儀だった。D51 157は昭和48年に廃車されたあと、上川町で保存展示されていたが、のちに解体された。(昭和44年9月) 続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑱

北の“ナメクジ”③ 一桁番号の“ナメクジ”

1115両製造されたD51のなかで、製造番号一桁の機は1~9の9両しかありません。“ナメクジ”だけでも少数ですが、一桁となるとさらに貴重です。北海道には、そのうち4、6、7がいました。なかでも6、7は北見区にあって、石北本線の客貨を牽いていました。ただ、6は昭和44年、7は昭和46年に廃車されていて、蒸機最末期の人気撮影地となった常紋ではもう見ることができず、一桁番号の写真はあまり見たことがありません。今回は一桁番号の“ナメクジ”を見て行きます。

常紋(信)~金華 73レを牽くD51 6〔北〕、後部に9600の後補機を付けている。(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑰

北の“ナメクジ”②

D51のなかで初期に製造された95両の“ナメクジ”は、その構造ゆえ集煙装置が取り付けられないため、配置が限定されていました。たとえば、集煙装置が必須の大畑越えの人吉区や、旧北陸本線の敦賀区などには“ナメクジ”はゼロでした。いっぽう北海道には集煙装置を付けた蒸機は皆無のため、“ナメクジ”の割合が多くなったのかもしれません。ひとつのエピソードとして、山口線で蒸機復活が決まったとき、D51 1も候補に挙がったそうですが、集煙装置の取付けができないため、除外された経緯があります。今回は北海道にいた“ナメクジ”34両の中から、特徴のある機も集めてみました。

長野工場製の切取りデフを装備したD51 95〔滝〕 松本、長野区時代が長く、その時にデフが換装された。重油併燃装置も付けたまま、北海道へ転属した。旭川(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑯

北の“ナメクジ”① 岩見沢区

こちらも連載が開きましたが、北海道の蒸機めぐり、再開します。前回では、いちばん数の多かったD51のなかで、倶知安、長万部のD51を紹介しました。渡道して感じたことのひとつは、D51のなかで、“ナメクジ”の遭遇率が高いように思えたことでした。D51は1115両が製造された製造両数がいちばん多い蒸機ですが、大きく分けて3種類に分別され、一次形の1~85、91~100の95両は、煙突、給水加熱器、砂箱、蒸気ダメをカバーで収めた独特の形で、“ナメクジ”と通称されています。1115両のうち、“ナメクジ”は95両なので、その割合は約9%になります。ためしに昭和44年の車両配置表で調べると、当時の北海道のD51在籍229両のうち、“ナメクジ”は34両あって、その割合は約15%になり、たしかに北海道に“ナメクジが多かったことが分かりました。なかでも岩見沢区(のち岩見沢第一区)には、D51の34両のうち12両と、“ナメクジ”率が飛び抜けて高い区でした。

室蘭本線で長大なセキ編成を単機で牽く“ナメクジ”、このカーブを終えると、あとは延々と日本一の直線区間が続くことになる。D51 11 白老~社台(昭和43年9月)

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 私の好きな電気機関車たち   ⑩

山手貨物線のデッキ付き電機

電気機関車を撮っていた1970年代、関西で見られたデッキ付きは、阪和線のEF52や大阪駅のEF14ぐらいで、東海道・山陽本線では、デッキ付きのEF15は撤退して、箱型の電機ばかりでした。しかし、東京へ行けば、まだ多くのデッキ付き電機が、旅客、貨物を牽いていました。旅客は、以前に紹介した東北本線のEF57がその代表でしょう。貨物と言えば、その本数から言って、山手貨物線を走る貨物列車が挙げられます。形式も、EF10、11、12、13、15と多彩でした。まだ武蔵野線が全通する前で、時間帯によっては、実に多くの貨物が走っていて、デッキ付き電機の良さをしみじみ感じたものでした。

EF15 174の牽く自動車輸送列車、「ク」を連ねた貨物も、いかにもこの時代の特徴をよくあわらしている。EF15は200両以上も造られて、ほとんど廃車もなく、EF65に次ぐ両数だったが、関西ではもう見られず、貴重に映った。 続きを読む

 岡崎公園で 最後の京都市電

みどり豊かな岡崎公園にある観光案内所、京都市電1800形

京都・岡崎公園に、“市電コンシュルジュ”として、観光案内所に使われていた京都市電1800形1860号が、所期の目的を終えたことと、車体に破損もあることから、観光案内所としての使用を止めて、無償で譲渡先を募っていましたが、交野市で霊園開発を手がける会社に譲渡されること決まりました。本日、打ち合わせで岡崎公園へ行く用事があり、最後の別れに行って来ました。

交野市の霊園開発社と言えば、大宮交通公園に保存展示されていた北野線N電の引き取り先として知られています。N電は修復されて、現在では「ハピネスパーク交野霊園」の待合所として使われていますが、1860号の保存先については、別の霊園と聞いています。移送時期も不明ですが、梅小路公園での保存車以外では貴重な原型を保った京都市電だけに、岡崎公園から見られなくなるのは残念です。深い緑に囲まれて。

車内は閉鎖中とは言え、市電時代を知らない世代からも注視を浴びる。

赤い鳥居との組み合わせも岡崎公園ならでは。

 私の好きな電気機関車たち   ⑩

東北の赤い電機

久しぶりの掲示板投稿になりました。なかなか投稿頻度は上げられませんが、セッセと投稿を続けます。「電気機関車」シリーズ、前回はED70を紹介しましたが、赤い色に塗られた交流電機は、線区、周波数の違いで、多くの形式があり、とくに交流線区が多岐にわたる東北地方には、さまざまな交流電機が見られました。

東北本線の電化は黒磯を境に、北は交流50Hzと決定されて、昭和34年7月に黒磯~白河が開業した。北陸線用として、すでにデビューしていたED70をベースに50Hz用として、さらに高性能化したのがED71である。まず1~3が、別々のメーカーで先行試作されテストされ、写真の1号機が量産車として選定され、昭和35年の福島電化用に量産機が41両、さらに蒸機置換用として11両が新製され、全部で55両が揃った。昭和39年には寝台特急「はくつる」が登場、黒磯~仙台で、鶴をあしらった青いヘッドマークを輝かせた。その後、後継のED75がデビューし、活動範囲は狭められていくが、昭和57年まで働き、同じスタイルのED70より長命だった。写真の試作1号機は、当時貨物の補機専用に限定使用されていた。ED71 1 福島 (昭和46年9月)

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