昔も今も 紅葉は叡電で ②

デオ600さよなら運転

2008年には、叡電で最後まで残った、吊り掛け、非冷房、非ワンマン対応のデオ600の残り1編成が廃車になっています。これを記念した「さよならラストラン」が行われたのが同年11月1日(土)で、沿線では、早めの紅葉が見られました。この時は、乙訓の老人、ぶんしゅうさんと朝から出かけ、途中で、1900生さん、いまは亡きぷるぶるさんや、893-2さんとも出会い、クローバー会メンバーともに、秋の1日、たっぷり写し、デオ600を見送りました。宝ヶ池~八幡前の高野川鉄橋を渡るデオ600、比叡山もそろそろ色づき始めていた。この鉄橋での2連撮影は、立ち位置やタイミングに苦労する。 続きを読む

 昔も今も 紅葉は叡電で ①

デオ700系の原色時代

気がつくと、紅葉も散りはじめの時期となりました。桜よりは見頃が長くて、“遠方へ行って思いきり紅葉撮影”と思うものの、ことしも叶わず、結局は、いちばん近くの叡電に行って、短時間撮っただけで帰ってくることが、毎年の例となりました。でも、言い方を替えれば、叡電の記録をほぼ毎年続けることとなり、それはそれで価値はあることと自分を慰めています。デジカメを持って叡電へ行った、2007年以来の紅葉時の思い出を綴っていくことにします。

2007年当時は、まだ知られていなかった八瀬の瑠璃光院へ行くため、八瀬遊園(現・八瀬比叡山口)へ行くと、デオ720の初期色が2両並んで発車を待っていた。同系は、その後、「ひえい」に改造されたり、塗装も変更され、すっかり初期の面影はなくなってしまったが、京福電鉄グループを示すクリームにマルーンの塗り分けが、私にはしっくり来る。

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 やっぱり蒸機が好き 九州の蒸機 私鉄・専用線編④

鹿児島交通

長かった「九州の蒸機」もホントの最終回となりました。今回は私が見た唯一の私鉄蒸機、鹿児島交通です。ただ現役での活躍はとうの昔に終わっており、機関区のある加世田に、赤錆を浮かべた廃車体が、ズラリと放置されていた、墓場のような光景でした。以前、準特急さんからも、1967年に訪問された時の寄稿があります。私は、その2年後の1969年の訪問ですが、顔ぶれが少し違っていて、改めて写真を中心に紹介していきます。現在、加世田駅跡は、鹿児島交通加世田バスセンターとなり、南薩鉄道記念館もあり、野外に保存車両も展示されています。

鹿児島交通(枕崎~伊集院49.6km)の中間にあった加世田、ここに機関区があって、ホームからも稼働車と廃車体が同居する風景が一望できた。廃車体が長く放置されていたのは、大井川鐵道のように、蒸機を復活して観光資源にしたいという思惑もあったと言うが、その思いもむなしく昭和59年に大雨で被害が出て、復旧されることなく、廃止されてしまった。

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 三日間の写真展 ご来場ありがとうございました。

たった三日間の写真展が終わってから、三日間以上も経ってしまい、報告するのも気が引けるのですが、 “ヒマを持て余して困っている方だけ限定”と本欄でご案内した京都市電写真展、多くのクローバー会員の皆さん、またいつもコメントをいただくサポーターの皆さんに来場していただきました。改めて、御礼を申し上げます。

繁華街の裏通りの極小スペース、ふだんなら5、6人でも多いぐらいのスペースに、一時は十数人にご来場いただき、“密”どころではない、超過密な状態で見ていただいた。今回はテーマを絞り「秋、そして冬へ。」として、この季節に似合うシーンで構成、従来展示の流用もあったが、約半数は新規プリントして入れ替えた。

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 三日間だけ 京都市電写真展 またやります

「またか!」と思われるでしょう。はい、またやります京都市電写真展。ある筋から急に依頼があり、「頼まれ事は断わらない、最大限やってみる」を、老齢テーマに掲げている手前、必死になって準備し、何とか設営を終えました。会期はたった三日間、今日始まって、明後日にもう終わります。急なお知らせです。決して無理な強制はしませんよ。ヒマを持て余して困っておられる方だけに、そっとお知らせしておきます。

京都市電写真展「秋、そして冬へ~四季をめぐる京都市電~」

11月13日(金)~15日(日)11:00~18:00

会場「高瀬川・四季AIR」京都市下京区西木屋町通仏光寺下る天満町456-27(阪急京都河原町駅から南へ徒歩5分、高瀬川の西側に沿う細い道路が西木屋町通です。)

勘秀峰さんが、祖父、父、本人の三代に渡って収集された、京都市電の戦前からの乗車券、記念乗車券、乗換券なども展示されます。たいへん狭い会場ですが、感染症対策は十分に施したうえで実施します。どうぞ安心してお越しください。

「高瀬川・四季AIR」 昔は炭問屋をしていたと言う西木屋町通の京町家、画廊オーナーが古民家の再生をされている方と出会い、ギャラリー兼文化教室の会場になった。「高瀬川ききみる新聞」という地域の文化情報紙も発行されている。

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 やっぱり蒸機が好き! 九州の蒸機 私鉄・専用線編 ③

貝島炭礦 大之浦炭砿専用線

私鉄・専用線の蒸機は、国鉄以上に忘れ去られた感がありますが、紫の1863さんらの暖かいコメントにも励まされて続けます。筑豊の中心部に貝島炭礦大之浦炭砿専用線がありました。長らく出炭を続け、閉山による蒸機の廃止は昭和50年代に入ってからで、九州では、国鉄にはすでに無く、最後の蒸機となりました。しかも蒸機は、コッペル、アルコと言った輸入機です。魅力一杯の貝島ですが、アプローチが問題でした。国鉄最寄り駅は、宮田線の終点、筑前宮田ですが、一日数本の閑散線、そこからさらに先とあっては使いづらく、雑誌を読んでも西鉄バスを推奨、網の目に張り巡らされた、複雑な西鉄バスの路線、しかも飯塚、直方からは直通は無く、乗り換えが必要と言う難関ルートでした。当時の乏しい資料を何度も読み解いて最寄りの「長井鶴」バス停に降り立ったのが、昭和43年3月のことでした。長井鶴のすぐ近くに貝島の六坑駅があり、機関区もあって運輸上の中心となっていた。ここから、国鉄筑前宮田駅までの専用線が、当時のメインの路線、石炭を満載した自社の石炭車を多く連ねた、先頭32号 後補機22号の列車。

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 やっぱり蒸機が好き! 九州の蒸機 私鉄・専用線編 ②

明治鉱業平山鉱業所のBタンク機

筑豊本線飯塚から上山田線が分岐していて、途中の臼井から南西の方に、専用線が延びていました。それが、明治鉱業平山鉱業所へ向かう約2キロの専用線でした。ここでの輸送は、直方区の9600が担当していて、国鉄の石炭車が、平山鉱から産出される石炭を牽いて、若松などの積出拠点へと向かっていました。

昭和43年3月、私は臼井で下車して、専用線の上を黙々と歩いて、終点の明治鉱業平山鉱業所に着きました。ここには、2両の蒸機、236、237が、構内の入換として、使われていました。プレートの独特の書体からも分かるように、もとは、八幡製鉄所の構内蒸機で、無骨な産業機でした。B型のタンク機 236、石炭ホッパーに石炭車を押し込み、積み込みが終わると、引き出して、待ち受ける9600に引き渡すのが仕事だった。全体が粉塵のせいなのか、グレーになっていて、前梁はオレンジの警戒色が塗られ、いかにも専用線の蒸機という感じだった。

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 やっぱり蒸機が好き! 九州の蒸機 私鉄・専用線編 ①

豊国セメント苅田工場

ここで、ちょっと前のシリーズに戻します。「《区名板》で見る九州の蒸機」を掲載しましたが、もちろん全部が国鉄の蒸機で、考えたら、九州では私鉄・専用線にも、多くの蒸機が活躍していました。これらも紹介しないことには、シリーズも完結しません。とは言うものの、私鉄・専用線の蒸機は、国鉄よりも一歩先に姿を消していて、訪れた昭和40年代初頭では、その片鱗をのぞいたに過ぎません。とくに、石炭王国の筑豊には、地産地消とばかりに、多くの蒸機が専用線を走り回っていましたが、炭坑の閉山とともに蒸機も消えていきました。こんななかで、辛うじて残っていた専用線を訪ねることができました。日豊本線苅田駅には、山手側には、日本セメントの石灰岩の採掘専用線、海側には豊国セメントのセメント工場へ向かう専用線があり、採掘された原石は両線を通って工場へ送られた。その輸送を担っていたのが、豊国セメント苅田工場の2両のタンク蒸機だった。写真は、苅田駅構内の日本セメント専用線にやって来た5号機関車、距離標の1,634米は、専用線の終端境を示すものだろう。

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 そろり、ゆっくり、活動再開  【8】

夕景求めて 近場でチョイ撮り 大阪編(2)

大阪は、近代的な都市景観も提供しながら、片や路面電車も走る街であり、鉄道写真の材料を多く提供してくれます。その阪堺線も近年はよく行きました。それこそ、電停ごとに、写材が転がっていると感じました。今回は、阪堺線の路面区間である、上町線「北畠」へ、夕景のチョイ撮りに出掛けました。大阪の歴史を感じさせる電停名ですが、ここへ行って初めて気が付いたことですが、すぐ近くに著名な公立高校があって、夕方になると、下校する高校生が電停に群がり、大挙して阪堺線に乗ります。自転車通学では無く、高校生にはあまり縁がないと思われる路面電車に乗り込む、ちょっと嬉しい光景に、阪堺線の明るい未来を見たような気持ちでした。この日は、まず関空へ行って、人の全くいない空港ターミナルを見学したあと、夕方、天王寺駅前から上町線で北畠に降り立つと、早くも高校生の乗降が始まっていた。

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 京都市電北野線に寄せて(3) まるごと特集「レイル」発売

北野線の話題が“デジ青”を賑わすのに合わせたように、北野線をまるごと特集した雑誌「レイル」が発売されましたのでご紹介します。特集発行のきっかけは、平安神宮に保存されているN電2号です。本欄でも、Wakuhiroさん連載の「重文指定」の記事のように、N電2号が、ことし9月30日付の官報で国の重要文化財に指定されました。路面電車としては初めてのことです。

北野線を開業した京都電鉄は、そのあと市営に吸収されたため資料が乏しく、また京電研究の第一人者だった当会顧問の大西友三郎さんも亡くなられて集められた資料も散逸し、その実態は解明されない部分も多かったのです。重文指定を機に、京都在住の趣味・研究者の協力で、不明部分を解明しようとなりました。路線の歴史的経緯、京都電鉄から京都市に引き継がれた車両の番号、改番、仕様の一覧表がまとめられました。車体や台車などの組立図も掲載され、いずれも初公開です。また写真については、ベテラン鉄道写真家の未発表の鮮明な写真で誌面を飾ったほか、私が保管していた写真も活用していただきました。原稿も有志で協力、クローバー会のネットワークが活かされた号となりました。主要書店で発売中です。

クローバー会では、米手さんと私が、N電当時の思い出を担当。米手さんは、京都へ初めて写真店を開設された“千中”が賑やかだった思い出を、私は父に連れられて“天神さん”の日に見た、謎の駅舎について記述。左下の写真は、乙訓老人の千本中立売の写真、当時の賑やかさが伝わる、いい写真だ。

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 京都市電北野線に寄せて(2) 北野車庫付近を新旧対比

北野付近は、少し前には、母親の介護先があり、ほぼ毎日のように通っていたところでしたが、それも数年前に終了してからは、全く行っていませんでした。懐かしい思いで、商店街の一軒一軒を見て回り、柱に掲げられたN電の写真もじっくり見て回りました。この付近で先達が撮られた北野線の写真を、私も何点か所蔵しており、その新旧対比をしてみました。

北野商店街の柱に掲げられた北野線の写真、左は京福北野線の北野駅、右がN電北野線車庫。

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 京都市電北野線に寄せて(1) 車庫跡地「さよなら」展へ

京都市電北野線の北野車庫の跡地に建てられた、京都こども文化会館(愛称エンゼルハウス)が老朽化で閉鎖されることになり、10月18日、地元のきたの商店街による、一日限りのイベントが行われました。いつもお世話になっている、伏見チンチン電車の会の皆さんも、イベントに参加され、1/8のN電模型の運転、ペーパークラフト教室を出展され、私もお邪魔してきました。

昭和36年北野線の廃止によって、北野車庫も廃止され、跡地には、昭和57年に京都こども文化会館が建設されました。コンサートや催事が行われてきましたが、老朽化のため、11月13日限りでの閉館となったものです。イベントを主催された、きたの商店街は、千本中立売通~一条通の約400mに渡り100店舗が並ぶ商店街で、従来から、N電を模した商店街のロゴを作成したり、歩道にはN電の絵を埋め込んだりと、北野線の顕彰に努められてきました。今回の同館の閉鎖に当たり、商店街の柱にはN電当時の写真を飾ったり、商店街のホームページでも多くの写真を公開されています。

昭和36年まで北野線が走っていた中立売通に面した京都こども文化会館、こんな狭いところを、複線でN電が走っていたとは信じられない。 続きを読む

 そろり、ゆっくり、活動再開  【7】

夕景求めて 近場でチョイ撮り 大阪編(1)

近くの夕景撮影を続けます。つぎは大阪です。以前に掲載の阪急淀川鉄橋も同じですが、大阪らしい、ビル街バックのダイナミックな夕景が狙えます。今回は、何度か行っている京阪天満橋駅付近を採り上げました。天満橋~京橋で、淀屋橋行きと中之島行きが、線路別から方向別へ立体交差するところに、土佐堀通から大阪城方面に渡る歩行者・自転車専用の大坂橋があります。橋からの景観は大阪そのもので、大阪城天守閣、OBPビル群が望めますが、京阪電車も、梅田方面のビル街をバックにして、川の上で線路かが交差する、いかにも“水の都”らしい撮影が可能です。

大坂橋から、京阪天満橋駅へ向かって行く京阪電車を写す。ビル街の煌めきを撮るには、晴れた平日の日没直後が限定。大川周辺のライトアップも彩りを添える。

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 そろり、ゆっくり、活動再開  【6】

夕景を求めて 近場でチョイ撮り 奈良編

明日はクローバー会の信貴山ツアーですね。ちょっと天候が心配ですが、使われる切符は、近鉄の「1dayおでかけきっぷ大阪・奈良・京都版」1000円です。なにしろ、三府県内の近鉄路線が乗り放題、京都からだと、最遠の吉野までは往復2500円ですから、激安きっぷラッシュの中でも、その太っ腹ぶりは群を抜いています。久しぶりに発売のスルッとKANSAIの2dayチケットt(4400円)の有効区間は、近鉄吉野線は壷阪山までで、以降の吉野までは乗車不可で、これを見ても、いかにおトクな切符かが納得できます。先日、この切符を使って、以前から目を付けていた吉野線大和上市近くの吉野川鉄橋へ夕景狙いに行きました。吉野川鉄橋は、その雄大さや、周囲の風景に引かれて、今まで何度か訪れていた。鉄橋は大和上市を出ると、90度カーブして、南北方向に吉野川を渡るから、ちょうど夕陽が鉄橋の向こうに沈み、シルエット狙いには格好の場所だ。

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 そろり、ゆっくり、活動再開  【5】

夕景求めて 近くでチョイ撮り 京都編(3)

嵐電、叡電と来て、つぎは京都駅の0番ホームへと移ります。0番ホームを見下ろす、西跨線橋のいちばん端、0番ホーム寄りにある窓を自分で開けて、O番ホームを見下ろすのが、私の京都駅での撮影の指定席で、とくに夕方の列車の発着時、列車の進入、乗客の列、駅員の動きを俯瞰して、いかにも京都駅らしいシーンを撮ります。

 

O番ホームに発着する列車は、朝には新快速の発着もあるが、以降は、「サンダーバード」の発着、夕方には京都始発の草津線直通の発着、それに京都終着の特急がある。どう工夫しても不細工にしか撮れない683系も、陽が暮れると、白い車体が、周囲の暗部にコントラストを描き、駅員の見送りを受けて発車して行く。

 

 

 

 

 

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 そろり、ゆっくり、活動再開  【4】

夕景求めて 近くでチョイ撮り 京都編(2)

嵐電だけでなく、もうひとつの叡電も、最近、よく行っています。先日紹介の鞍馬線の不通区間の偵察のあとも、夕景の撮影に三宅八幡まで足を伸ばしました。同じところへ何度も行くものと、自分でも感心しますが、季節によって、日没の時刻・方角が異なります。時刻は違っても、電車はたくさん来ますから、ベストなタイミングをはずすことはありません。ただ、方角が違うと、太陽の位置によって、車両への陽の当たり方、シルエットの場合の抜けが違いますし、背後の空・雲の様子も異なります。地図である程度の予想は立てられるものの、やはり現地へ足を運んで、微妙な変化を感じ取ることが大事だと思っています。日没後のブルーモーメントの時間帯、最近のお気に入りは、鞍馬線の高野川鉄橋、三宅八幡方から河原まで降りて、日没後の時間帯にシルエットを狙ってみた。本数は多いが、ここは単行限定で、“抜く”ためには出町柳行きに限られるから、ベストタイミングは1本しかない。右手はホームセンターの敷地で雑然としているが、低く構えると建屋が隠れて、杉の木だけになる。

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 そろり、ゆっくり、活動再開  【3】

夕景求めて 近くでチョイ撮り 京都編(1)

「そろり、ゆっくり」投稿再開します。その後も魅力的な激安切符が各社から続々と発売され、食指が動かされます。ただ、なかなか遠出する気は起こらず、相変わらず、近隣の外出に留まっています。気に入った撮影地で、季節、時間帯を変えて撮り、その変化を感じ取りたい。これこそ鉄道写真の魅力と思うようになり、最近はもっぱら夕景狙いで出掛けています。前に見たようなネタばかりですが、最近の撮影を振り返ることにします。

京福嵐山線は、ほぼ東西に向いて線路があるから、夕景狙いにはちょうど良い。とくに、山ノ内付近の三条通の併用軌道は、真西に向かって走り、正面ギラリが期待できる。ただ、三条通はクルマの通行が多く、決まってジャマされる。そこで、経済活動も停止した、緊急事態宣言を千載一遇のとらえ出掛けてみたが‥‥。

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 叡電鞍馬線 不通区間を歩いて見る

本欄でも、2年前の広島豪雨の爪痕が残る山陽本線を行く、観光列車「エトセトラ」のレポートが西村さんからありました。ことし7月にも豪雨があり、肥薩線、久大線などの沿線では、復旧半ばの様子が報道されています。実は、京都でも、この7月の豪雨で不通になったまま、開通の見込みすら立っていない叡電鞍馬線があります。7月8日の早朝、二ノ瀬~貴船口で土砂崩れが発生したもので、復旧作業にも着手できず、現在、鞍馬線は、市原で折返し運転、以降は京都バスによる振替輸送が行われています。現場の様子が気になっていましたが、先日、歩いて現地を訪れることができました。土砂崩れの現場、鞍馬線貴船口から二ノ瀬寄り約400mのところで発生した。(ネットニュースから転載)

このため鞍馬線は市原止まり、市原~二ノ瀬~貴船口~鞍馬は、京都バスによる振替輸送が行われている。市原に到着した電車は、「出町柳」を出して折り返すが、ダイヤに変更はない。 続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㊱

早岐機関区(3)  C57

36回続けてきた九州の蒸機、いよいよ最終回は、いちばん紹介したかった「早」のC57となりました。多くの蒸機形式のなかで、軽快でスマートな印象のC57、そのキャブに輝く「早」は、蒸機と区名板のイメージを見事に体現した組み合わせと言えるでしょう。

早岐区のC57は、初めて訪問の昭和42年時点で、13両がいました。働き場所は、長崎本線、佐世保線、大村線の旅客の牽引でした。この時、優等列車の牽引は、前掲のC11は特例としても、ほとんどDD51に替わっていましたが、一部の定期、臨時列車は、鳥栖区のC60、早岐区のC57を牽くことがあり、まさに「早」に相応しい舞台が残されていました。

 

初めて訪れた昭和42年の春休み、鳥栖の外れで写していると、長崎行きは鳥栖区のC60、佐世保行きは早岐区のC57に牽かれて通過して行く。写真は、早岐区のC57 158の牽く京都発佐世保行き「平戸」。特急列車は、長崎、佐世保行きは併結されていたが、急行は別立てでの運転で、旺盛な旅客需要があった(昭和42年3月 以下特記以外同じ)。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉟

早岐機関区(2)  C11

早岐機関区に配置されていたC11は、昭和42年当時、6両あり、運用は、松浦線の旅客の牽引、これは佐々区のC11と分担していました。そして、前稿でも紹介した佐世保~早岐の小運転でした。小回りが利くタンク機に相応しい運用と言えるでしょう。その代表が、何と言っても、特急「さくら」佐世保編成の牽引でしょう。今までも本欄で紹介しましたが、DD51が本務牽引ですが、早岐で逆向になるため、本務機を機回しすることなく、C11が前部に付いて同区間を牽引する訳です。佐世保の構内は狭くて留置線もなく、編成はすぐ早岐に戻るため、客扱い前後の回送も含めると、2往復のC11「さくら」が見られました。地上駅時代の佐世保で発車を待つ C11 194牽引の東京行き「さくら」。昭和40年10月改正から、昭和43年10月改正までの3年間見られた。右は到着した呉発佐世保行き「出島」。(昭和42年3月)

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