投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
私の好きな電気機関車たち ⑨
赤い電気機関車 EF70
赤い色した交流機、つぎはEF70です。同機は、昭和37年6月、北陸トンネルの開通による敦賀~福井の電化開業に向けて製造された、初めてのEF型の交流機です。北陸トンネルは、当時、日本最長の延長1万3870m、それまで一位だった清水トンネルより約4km長く、東海道新幹線開業前の国鉄では最大級のプロジェクトでした。北陸トンネルで思い出すのは、記念切手も発行され、絵柄に間違いが多くてのちに話題になったこと、そしてもうひとつ、6月10日にあった開通式を、日曜午後のゴールデンタイムにNHKがナマ中継(一部録画)をしたことです。北陸地方の話題に留まらず、全国民が注目していたことが伺えます。十河国鉄総裁のテープカット中継や、福井・敦賀からの多元中継と、力の入れようも飛び抜けていて、私は目を凝らしてテレビを見続けていました。外は梅雨で雨が降り続いていたことも覚えています。テレビはもちろん白黒で色までは分かりませんが、画面を行き交うEF70を確認したものでした。
▲雪原を行く、EF70 1の牽く上り貨物列車、木ノ本付近(昭和50年)
私の好きな電気機関車たち ⑨
赤い電気機関車① ED70
またしばらく電気機関車、続けます。交流機を示す赤い色をした電機は、今では近くでも日常的に見ることができますが。昭和40年代には、その数は限られていて、線区も限定されていて、遠くへ出掛けなければ見られない機関車でした。京都・大阪からいちばん近くで見られたのが、北陸本線田村以遠で働いていたED70、ED74、EF70でした。米原から交直接続機に牽かれて田村に着くと、目に飛び込んできたのが真っ赤な機関車、“遠くへ来た”思いを実感する瞬間でした。
▲昭和32年に開業した初の営業用の交流電化路線、北陸本線の田村~敦賀に投入されたのがED70だった。昭和30年からの仙山線の試験線区では、メーカーの違うED44、ED45が造られテストが続けられ、優秀な成績を収めたED45が選ばれた。これを母体にして初の量産型交流機ED70 1~19が製造され敦賀第二機関区に配置され、田村~敦賀で旅客・貨物を牽くようになった。写真は糸魚川発米原行き234レを牽くED70 1 田村付近(昭和41年8月)
また明日から鉄道写真展 当会から3名が参加
また直前のご案内となりましたが、明日5月20日(木)から、鉄道写真展が開かれます。と言っても会場は東京・池袋。行くことが可能な方は限定されると思いますが、写真展は70名余りのファンが参加する、有数の鉄道写真展です。当会からも、佐竹保雄さん、早川昭文さん、私の三名が参加しています。
もともと写真展は、昨年5月に開催の予定でしたが、最初のコロナ禍に見舞われて秋に延期、その秋も緊急事態宣言に見舞われて、再延期の末、ようやく開催されることになりました。“三度目の正直”だけに、関係者にとっては待望の写真展です。
私自身は延期また延期で、いったいどの写真を出したのか、分からないほど待たされましたが、お世話になった皆さんの挨拶も兼ねて、5月23日(日)午後に会場へ行く予定をしています。また早川さんは24日(月)15時まで受付予定です。来場を考えておられることがありましたら、これに合わせて来場いただければどうでしょうか。
街並みとともに ~京都のバス~ 〈5〉
ターンテーブル上の前中扉バス
市電伏見線が廃止されたのが昭和45(1970)年、その市電ルートをトレースする代替バス81系統が新設されたほか、そのほかの系統も中書島を経由・発着するようになります。市電乗り場は、京阪中書島駅の北側の一線分のみスペースしかなく、バスの折り返しには十分なスペースがありません。昭和48年11月、近くに横大路車庫が開設された際に、終端部分にターンテーブル(転回場)が設けられ、バスは一回転して向きを変えて乗り場に着くようになります。ほかにも京都周辺でも、狭くて方向転換が困難な終点にターンテーブルがありますが、社用地内が多く、ここ中書島は、乗り場のすぐ横から自由に観察ができました。
▲まだツーマンが多かった時代、当時のバスは10年程度で新車に置き換えられていた。狭隘区間があったりして、新車ワンマン化が困難な事情もあり、ついにツーマンの新車が昭和47年にデビューしている。それが「京2・799」のいすゞBU04で、798~800の3両があった。この時期の市バス新車は、すべて前後扉にあって、3両だけの貴重な前中扉、しかも好みのNSK“カマボコ”スタイル、しかも行先は「淀」一字のみ、長い行先名の多い京都には珍しい潔さだ(昭和49年)。
街並みとともに ~京都のバス~ 〈4〉
醍醐を走った市バス
京都市バスと街並みを続けます。平成9(1997)年10月に、京津線の一部が廃止され、地下鉄東西線が開業し、山科・醍醐地区にも地下鉄が走るようになります。それまで市バスは、山科・醍醐地区でも稠密な路線網を張り巡らせて、醍醐車庫には多くの市バスが配置されていました。それが地下鉄の開通によって、市中心部~山科・醍醐のバス路線は廃止されるなど、路線の再編成が行われ、同時に市バスは撤退して運営は京阪バスに一元化されることになりました。それに先立ち、昭和56年には、醍醐車庫の系統は、すべて頭に「東」を冠した系統に変更されますが、今回はそれ以前の様子です。
▲市バスを本格的に撮り出したのは、Fさんと一緒に行った醍醐車庫の市バスが始まりだった。ワンマン化が始まったものの、狭隘区間があり、まだ多くの系統がツーマン車で運転されていた。市中心部は、ほぼワンマン化されていて、山科・醍醐のバス事情は明らかに一歩遅れていた印象だった。撮影場所は、おそらく醍醐車庫の近くだったと思うが、周囲はいかにも開発途上の荒涼とした風景だった。バスは「京2い・743」で、昭和41年製の日野RB10のワンマン・ツーマン兼用車(昭和49年)。
保護中: 行って来ました 鶴田 裕 さん写真展
保護中: 明日15日(土) 写真展見学会
街並みとともに ~京都のバス~ 〈3〉
“天神さん”前の市バス
かつてのN電こと市電北野線の終点だった「北野」、そのN電が廃止されて、代替バスの50号系統が北野まで走り始めたのが昭和36(1961)年8月1日ですから、今年でちょうど60年になります。当初、50号系統のルートは、N電と全く同じでした。堀川通から中立売通に入って、千本通も渡って西進し、北野車庫のあった下ノ森で右に折れて、終点の北野に到達していました。
▲終点の「北野」に到着して折り返す50号系統。バスは、一の鳥居前にある広場でUターンし、時間調整のあと京都駅前方面行きの北野バス停に向かって行った。バスは「京2い・259」で、昭和40年製いすゞBR20、ボディは西日本車体(NSK)で、カマボコ型のさらに一世代前のスタイルで、バスを写し始めた頃にたくさん走っていた懐かしいスタイルだった。なお撮影直後の昭和51年4月から、千本今出川経由のループ状の運転となり、鳥居の前で折り返す光景は見られなくなった(以下、昭和51年)。
街並みとともに ~京都のバス~ 〈2〉
四条通のバス
では昭和の京都を走ったバスを、街並みとともに見て行きます。繁華街である四条通も、昭和47年の市電四条線の廃止後、代替バスも含めて、公共交通はバスが中心になります。単区間のワンマンもありましたが、郊外から入る系統には多区間のワンマンカーが走り、まだまだツーマン車が多く走っていました。
▲四条河原町を行くツーマン、16号系統みぶ行き、バスは「京2い・239」で、昭和40年製いすゞBR20のツーマン車、16号は始終発、径路をたびだひ変更していたが、この時期は藤森神社~みぶだった。南部に狭隘区間があり、長らくツーマンのまま残っていた。背後は「京阪特急」の大型ネオンも懐かしい四条河原町東北角で、いまは阪急系のコトクロスになっている(昭和52年)。
街並みとともに ~京都のバス~ 〈1〉
京都駅前のバス
京都市電の写真展から早くも一ヵ月が経過しました。いまも快い達成感の余韻を味わっています。なかでも写真展イベントの目玉として、須田寬さんを写真展会場にお招きして「京都市電の思い出をお聞きする会」は、この状況下から思うと、絶好のタイミングでできたものと思っています。ささやかな写真展に須田さんをお招きすると言う、自分の無茶ぶりに恥じるばかりですが、それに応えていただいた須田さんには感謝の気持ちで一杯です。須田さんの過去の思い出だけでなく、近未来の京都に向けた提言など、利用者の立場に立った、広い見識に改めて思いを新たにしました。また須田さんは、市電だけでなく、市バスにも深い知識をお持ちで、系統、径路についての変遷については、たいへんよくご存じです。
私も先に本欄で「市電と市バス」をテーマに記してきましたが、須田さんの話に勇気づけられて、今回は、市バスだけの単独テーマで書くことにしました。ただ、バス車両だけでは趣旨に反します。考えたら、バスは路側を走りますから、中央を走る市電より、より街並みに近いところを走るわけです。そこで、今シリーズは、今では見られない、当時の懐かしい街並みをバックに走るバスを並べてみました。
▲始まりは、やはり京都駅前から。三代目駅舎をバックにした市バス、と言っても市バスの観光バス車両で、当時は京阪バスと市バスが定期観光コースを共同運行していたが、合い間には、ドライブウェイ系統の路線バスとしても使われていた。これは104号系統の嵐山高雄パークウェイ経由の高雄行き。昭和40年に開設、春秋シーズンのみで、平日2本、日祝6本程度の運転で昭和57年に廃止されている。車両は「京2い・871」で、昭和45年製ふそうNR470、車体はその形状からNSKボディーと分かる(以下、昭和52年)。
私の好きな電気機関車たち ⑧
東海道・山陽本線のデッキ付きEF電機③ EF59
山陽本線の“セノハチ”こと瀬野~八本松は、22.5‰勾配が10km余り続く難所で、上り列車は補機を連結して越えていました。蒸機時代はD52がその役目で、電化した昭和38年からは、EF53、EF56を改造した専用の補助機関車としてEF59が登場し、昭和46年までに24両が登場しました。その改造は、歯車比の変更(2.63→3.67)、総括制御化、さらに走行中に解放作業を行なうため自動解放装置も取り付けられました。
▲セノハチの勾配区間専門の補機EF59が配置された瀬野機関区。EF59は、EF53(左)、EF56(右)の2形式から補機用に改造された。外観の印象はずいぶん違うが、電動機は同じで性能としては共通である。背後の山は、今ではニュータウンとして開発されて、スカイレールが山肌を登って行く(以下、昭和50年)。
私の好きな電気機関車たち ⑦
東海道・山陽本線のデッキ付きEF電機② EF14
前々回に紹介の初の国産大型電機EF52、その増備として昭和6年にはEF528、9の2両が製造されました。歯車比を小さくして、高速性能を持たせるなど、1~7とは性能が異なっていたため、翌年の昭和7年には、形式を変更して、EF54 1・2となりました。その後、貨物用として使うため、EF53と同じ歯車比して低速化して、昭和18年にEF14と形式変更され、中央線で貨物を牽くようになります。しかしEF13に追われて、吹田二区へと転属します。
▲大阪駅へ行くと、いつも決まって9番ホームの神戸方の切り欠きホームに単機で止まったままだったEF14、私は結局、このシーンしか知らなかったが、今月の鉄ピク「昭和の鉄景」には、9番ホームで郵便・荷物車に連結していたEF14が載っていた。神戸方に専用ホームも持って待機していたのは、東海道・山陽本線の客車列車では、下り方に郵便・荷物車が連結されていて、入換えには便利だったからである。これは、郵便車から下ろされた郵袋を扱う中央郵便局の位置も同様で、東京、名古屋、京都、大阪の中央郵便局は、いずれも駅前の下り方に立地していた(昭和41年)
私の好きな電気機関車たち ⑥
東海道・山陽本線のデッキつきEF電機① EF18
前々回に阪和線のEF52を紹介しましたが、われわれ世代にとってデッキ付きEF電機には、特別の思いがあったと思います。なにせ、あの山科人間国宝さんが鉄道写真を始められたきっかけもデッキ付きEF電機だったと伺いました。昭和23年、自営されていた模型店の仕入れで東京へ行かれた際、人から借りたカメラで東京区、沼津区で電機を撮影されています。当時、東海道線は東京~沼津が電化区間で、両端の区にはEF53などの電機がいました。東海道線は、翌年の昭和24年にやっと静岡まで電化します。
終戦直後まで国鉄の電化は、ごく限られた線区でした。東海道線以外では、中央線が飯田町~甲府、トンネル区間の多い上越線、仙山線、関門トンネル、あとは横須賀線、伊東線ぐらいと東京周辺が多く、関西には大型電機は皆無でした。その状態は、東海道線の全線電化が完成する昭和30年代まで続きます。それだけに、とくに関西在住者にとってデッキ付きEF電機は憧れだったと思います。
私も気がつけば、京都周辺でEF15は見られなくなっていました。ただ東海道・山陽本線では、本線の貨物牽引がなくなったあとも、意外な用途でデッキ付きEF電機を見ることができました。それが、浜松周辺の入換をしていたEF18、大阪駅へ行くといつも見られたEF14、そしてセノハチの後押しとして命を長らえたEF59でした。
▲見込み生産で製造中のEF58 32~34の3両の歯車比を変更して、貨物用に転用したのがEF18だった。EF58と下一桁で関連を持たせるため、EF17となるべきところを欠番にしてEF18となった。写していた当時は、浜松周辺の各駅の入換えに使われていた。これは、大井川鐵道へ行った折に金谷で写したもの。大井川鐵道からの貨車の受け渡しも担当していたのだろう。EF18 33(昭和49年6月)。
保護中: 〈鉄道写真展〉 もうひとつ、通りすがりで‥‥
保護中: 〈鉄道写真展〉 通りすがりですが‥‥
私の好きな電気機関車たち ⑤
EH10 重量感あふれる、これぞ貨物機
▲真っ黒な機関車が、これまた真っ黒な貨車を50両近く連結して、モーターの唸りを残してゆっくり眼前を通過して行く。山崎~高槻(昭和50年)
昭和30年代に入ると、東海道線の電化が西進し、昭和30年7月には稲沢~米原の電化が完成することになり、この区間を走る電機の選定が問題となります。当時の貨物機はEF15で、1200t牽引が定数ですが、関ヶ原付近の連続勾配は、電動機の温度上昇の懸念からD52と同じ1100tとなります。EF15重連なら1200tは可能ですが、今後予想される輸送量の増大にも対応するため、その上を行く1500tの輸送力列車を東海道線全線電化の際に運転できる機関車が求められ、8動輪を持つ、先台車のデッキなしのB-B B-Bの動輪のみ足回り、車体も2分割してED型の永久連結としたEH10が誕生しました。
私の好きな電気機関車たち ④
EF52 国産初の電機
昭和35年ごろ、小学生の時代にさかのぼります。家族で南紀へ旅行に行った帰り、白浜から天王寺まで客車列車に乗りました。時刻表を見返すと準急「しらはま」だったようです。白浜では、たしかに蒸機C57かC58の牽引でした。ところが、天王寺に着いた時には、デッキの付いた、京都でも見られない古くさい電気機関車に代わっていました。乗降客で混雑する活気のある天王寺駅には、およそ不似合いなスタイルでした。それが、EF52との出会いでした。同じデッキ付きでもEF57のような洗練されたスタイルはなく、輸入機から国産機への過渡に当たる、無骨そのものの大型電機に魅力を感じます。
▲昭和40年代前半、阪和線から紀勢線へ直通する列車には、まだ客車列車が多く残っていた。その牽引には、ED60にまじってEF52も先頭に立って活躍していた。新宮行き124レを牽くEF52 3 通風器の形状が、ほかとは異なる。鳳(昭和41年3月)
