やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑦

ラストナンバー468    D52(2)

“3年持てばいい”のD52でしたが、製造から2年後に戦争は終わってしまい、製造計画は中断します。粗悪なうえに、整備不良も加わって、戦後はボイラー破裂などの事故を多発します。山科の大築堤状で大音響とともにボイラーが破裂したのを、身を持って体験されたのが、大築堤の近くにお住まいだった須磨の長老で、その様子は「青信号64号」に詳説されています。さて戦後になって、状態不良のD52は廃車を進め、良好なカマは、長期の使用を見越し、戦時設計から改良が加えられました。一部のカマは、従台車を2軸にしてD62に、ボイラーを利用して旅客用のC62に改造されました。いっぽう、北海道へは、東海道、山陽の電化の進展で、余剰が生じたD52が昭和35年から順次、転属しました。軌道強化された函館本線の函館~長万部、室蘭本線の長万部~鷲別で貨物列車、一部で旅客列車を牽くことになりました。今回は、最大15両を擁した五稜郭機関区のD52のなかで、現在では京都鉄道博物館に保存され、ラストナンバーに当たる468号にスポットを当てました。

D52 468は、昭和21年の製造だから、戦争が終わってからの就役だった。三菱三原製作所の製造で、もともと同所では、468~492を製造する予定だったが、結局468のみ製造して、以降は中止となり、たまたま468がラストナンバーとなった。国縫(昭和47年3月)

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 やっぱり蒸機が好き!《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑥

D52 五稜郭機関区 (1)

太平洋戦争のさなか、“3年持てばよい”の考えのもと、徹底した戦時設計で建造されたのがD52でした。当時、最重要資源の石炭輸送は、鉄路だけでなく、航路もありましたが、攻撃の標的になることが多く、鉄路による重量物の輸送に変更され、急遽、当時の主力D51を上回る牽引能力を持った貨物用機が製造されることになり、昭和18年から300両近くが製造されました。計画ではさらに、増備の予定でしたが、終戦とともに中止、最終ナンバーは468号ですが、183両の欠番があり、実質の製造は285両となりました。しかし戦争末期の資材不足の約2年間で300両近くの大型機を製造したことは驚きに値します。その強力パワーで、東海道・山陽の二大幹線がその中心でしたが、昭和40年代にも、五稜郭機関区に10両のD52が配属されていました。夜の五稜郭機関区、扇形線に顔を揃えたD52136 D52468、昭和40年代、同区には最大15両のD52が配属され、函館~長万部~鷲別で、貨物列車、一部では旅客列車も牽いていた(昭和47年3月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名版》で巡る北海道の蒸機 ⑤

倶知安区 9600

北海道を代表する蒸機と言えば、スタイルは別としても9600でしょう。数こそD51より少ないものの、昭和43年時点では、北海道の蒸機の約3割、145両を占めていて、ほとんどの機関区に配属され、ローカル線の客貨牽引、入換えに活躍していました。デフの切り詰め、警戒色など、北海道らしい改造がされて、その好みは分かれるところですが、そのなかで最も特徴的なのは、倶知安区の二つ目の9600でしょう。

倶知安区9600の運用は、岩内線(倶知安~小沢~岩内)、胆振線(倶知安~伊達紋別)の貨物牽引、倶知安の入換用でした。二つ目は、カーブなど見通し不良区間での警戒のため、前照灯を二個にしたとの解釈が多いようですが、これは倶知安だけの理由とはならず、倶知安周辺では、冬期、前照灯に氷雪が付着して、前方の確認に支障があったと言います。そこで、風の流れができる、デフのステー上に前照灯を置くことによって、付着を防ぐ目的があったのではと言われています。

 

夕闇に二つ目が輝く倶知安区の79616

 

 

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 やっぱり蒸機が好き!《区名板》で巡る北海道の蒸機 ④

室蘭区 C55

“北海道のシゴゴ”と言えば、急行「利尻」も牽いた旭川区のC55が有名ですが、もうひとつ、室蘭区にもC55がいました。ただ撮影したのは、昭和43年の一回だけで、在籍もわずか3両、翌年にはC57に置き換えられ、一部は旭川へ転属しました。昭和49年まで宗谷本線で活躍した旭川区のC55と比べると、知名度としては低いものでした。しかし舞台となった室蘭本線はほぼ複線、大カーブ、日本一長い直線と、スケールの大きな区間を、スポーク動輪をカシャカシャ回転させながら走り去る姿は、なかなか魅力的でした。(以下、昭和43年9月)

室蘭区のC55のなかには、トップナンバーのC55 1がいたこと特筆される。白老~社台を行く小樽発札幌経由の室蘭行き722レ ゆるくカーブしているが、ここから沼ノ端まで、日本一長い直線区間28.7キロが続くことになる。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ③

D61 京都に現る

それはちょうど50年前、昭和46年11月のことでした。どこからともなく「梅小路にようけ蒸機が集まっとる」のウワサが流れてきました。BOXでも、その話で持ちきりとなり、ある日の午前、BOXにいたメンバーで実際に見に行くことになったのです。約10人で梅小路機関区のラウンドハウスへ行ってみると、な、なんと北海道のC622、C551、D52140、9633、九州のC612、D50140、D6031と、彼の地で夢中になって写していた蒸機がそろっているではありませんか。そのなかに、昨年に留萌で見たはずのD612も含まれて、横にはあのC622と並んでいるのです。なにか夢を見ているような瞬間でした。

突如、梅小路機関区に現れたD61 2、左に「梅小路」のネオンの一部も見える、ここは間違いなく京都、まだ蒸気機関車館が開業する前で、現業部門の機関区に、北海道、九州から人気の蒸機が集まって来たのか、この時はよく理解できなかったが、あとで理由を聞いて氷解した。(昭和46年11月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ②

留萌区 D61 〈2〉

D61の働き場所は、深川~留萌~築別であり、留萌本線、羽幌線の両方の区間で使われていました。当時は、築別から羽幌炭砿鉄道が分岐していて、終点付近には、良質炭の採れる羽幌炭坑があり、石炭を増毛、深川まで運ぶのがD61の役割でした。運用表を見ると、ほとんどが留萌~築別であり、D61の目的である、丙線での運用に合致していました。D61は二軸従台車のためキャブの揺れが少なく、D51より乗り心地が良かったと言われますが、軸重軽減のため空転が多く、途中には20‰勾配もあるため、補機が付く場合が多く見られました。今回は、今は無き羽幌線留萌~築別で撮ったD61の活躍です。

留萌に向かう872レが、D61 5+D51 543の重連で夕方の築別を発車。この日は鉄鈍爺さんと一緒だった。築別に着くとD61が蒸気を吹き上げて満を持している。聞くとまもなく発車だと言う。二人で必死になって線路上を走って駅の外れまで来ると、発車の汽笛が聞こえて来た。枕木を井桁に組んだ高台が見つかり、とっさによじ登って連写した。(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き!《区名板》で巡る北海道の蒸機 ①

留萌区 D61  〈1〉

「やっぱり好き!」シリーズ、昨年に掲載の九州から、今年は北海道へ移ります。北海道で蒸機が活躍していた昭和40年代には、夏冬に計4回行っています。そのうち半分近くは、今まで紹介したC62に費やしましたが、そのほかにもクローバー会会員ととも、各地で撮影をしています。昭和43年時点で、九州には458両、北海道には536両もの蒸機がいました。ただ、九州と比べると、手入れが悪いうえに、醜い改造があったり、後年になると“団結列車”も出現して、美しい形式写真など望むべくもありません。勢い、機関区でじっくり形式写真を狙うより、駅での編成写真や、駅間で北海道らしい走行写真を撮ることが多くなりました。

そこで今回は、九州編のように、機関区別に形式ごとに紹介するのを止めて、特徴的な蒸機を採り上げます。編成写真や走行写真を中心に紹介して行くことにして、今まで紹介のC62は除外しました。第1回は、北海道だけにいたD61、所属は、深川機関区留萌支区です。以下の写真を見ると、キャブの区名板は本区の〔深〕となっています。支区の〔留〕が掲げられていたかは不詳ですが、所属先を明確にするために、〔留〕とします。

留萌本線の峠下を通過するD61 6〔留〕の牽く石炭列車774レ、留萌本線が増毛まであって、留萌から日本海沿いに幌延まで羽幌線が伸びていた時代、沿線には、まだ炭砿が多くあって、両線には石炭列車が多く運転されていた。峠下は、深川と留萌の中間付近、文字どおり峠のすぐ近くにあって列車交換も盛んに行われていた。当時から人家は少なかったが、駅員もちゃんと配置されていた。転轍機を操作するため、広い構内に必要な自転車が置かれていたのも、当時らしいアイテム、4年前に、約50年ぶりに峠下を列車で通ると、ちゃんと列車交換があった。駅はとうの昔に無人化されていたが、保線要員の基地として駅舎もそのまま残っていて、50年前の既視感にとらわれたものだ。(昭和44年9月)

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 さよなら 近鉄特急色 〈6〉

近鉄特急色を見直す

しつこく同じテーマのことを書きますが、これで最後とします。私が近鉄特急色について、強く印象に持ったのは、中学生の頃に読んだ鉄道ピクトリアルで、「電車の色いろイロ」と題した、東京大学の学生が著わした記事がありました。昭和38年のことで、暗色の時代から、湘南電車、101系、こだま型と、カラフルな電車が続々と出現していますが、主流は上下二色塗りで、そのほとんどは、窓廻りはクリームなどの明色、下部は暗色に塗られています。

たしかに安定感のある塗り分けではあるのですが、窓部そのものは暗いため、窓周辺を明るく塗ると、視覚的なバランスを欠くと指摘しています。逆に、窓廻りは暗色、下部を明色にすると、暗い窓部が同化して一体感、軽快感が出るとしています。その代表が「こだま」であり、私鉄では、近鉄の新ビスタ101100系が挙げられてていました。特に新ビスタは、斬新な外形とあいまって絶賛されていました。当時のピクと言えば、電車の性能、来歴などの小難しい記事ばかりでしたが、はじめて外部色に言及した内容で、近鉄特急色が中学生の心に残ったのでした。今までの紹介は広軌線ばかりだったが、狭軌線の南大阪・吉野線にも近鉄特急色が走っている。いちばん華やかなのは、何と言っても𠮷野の桜が満開の頃だろう。山全体がピンクに染まった𠮷野駅、16000系が花見帰りの満員の客を乗せて発車して行く。 (2003年4月)

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 さよなら 近鉄特急色 〈5〉

塗装変更された ほかの特急車(1)

「近鉄特急のイメージが大きく変わります!」と近鉄がニュースリリースを配信したのが2015年11月でした。汎用特急のうち、主力の22000 系86 両の車内設備をリニューアルするとともに、カラーリングを変更し、クリスタルホワイトに、ブライトイエロー・ゴールドを加えた新塗装になるという内容でした。最初のリニューアル編成は、まもなく営業を開始し、22000系以外の汎用特急についても、同様のカラーリング に変更しますとも添えられています。しかし車齢の高い12200系だけは、このリニューアル、カラーリング変更の対象から外れ、将来、廃車となる予告がされたことを意味しています。今回は、12200系以外で、同じ近鉄特急色をまとっていた特急車両を見ていきます。12410系が山間部を行く。33パーミル区間を、異形式を連結した長編成が弓なりになって高速で駆け上がるのも、近鉄特急ならではの魅力。三本松(2002年3月)

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 さよなら 近鉄特急色 〈4〉

ギラリの12200系

先回も書きましたように、明日30日(土)から、近鉄特急の運休本数が一段と増加し、土休日は半減となります。改めて、明日からの時刻表をネット眺めると、京都~奈良特急は、奈良8:28発、京都17:30発のたった一往復だけ、難波~奈良は、完全運休のグレー色に塗りつぶされています。平日も運休が多く、残っていた12200系の活躍も、おそらく本日で終了したのではと推測します。

12200系の近鉄特急色も天候や時間帯によって、印象はさまざまに変化します。なかでも、私の好きなのは、夕方の斜光線に、オレンジ色が輝きを増す時間帯です。文字どおり、12200系が輝いていた時代でした。

 

 

 

 

 

ギラリを撮るのに、いちばん適した区間は、鶴橋~今里~布施の複々線区間だ。何よりも本数が多いから、スポットな時間帯でも、うまく列車が来るし、上本町・難波行きは、どの季節でも、真正面に陽が当たる。鶴橋(2002年11月)

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 さよなら 近鉄特急色 〈3〉

勾配区間の12200系

近鉄の路線延長は約500キロあって、前回〈3〉で紹介のように見どころは多いのですが、私が特急に乗って、いちばんワクワクするのは、桜井から始まって、伊勢中川付近まで延々と続く山岳区間です。33‰の連続勾配をものともせず、最高速度を維持しながら、グイグイと上がって行きます。以前、本の取材時でしたが、暮れゆく頃、駅のコンビニで買った100円コーヒーを飲みながら、流れ行く夕景を眺めたのは至福の時間でした。

大阪線の前身となる参宮急行電鉄は、昭和5年に上本町~山田が開通しました。長谷寺~榛原の約10キロに33‰の連続勾配が続き、榛原~三本松、伊賀上津~伊勢石橋にも33‰の勾配があります。トンネルも、最長の新青山トンネルをはじめ、12のトンネルがあり、鉄橋、大規模な築堤も連続する、日本最初となる山岳区間を走る電気鉄道でした。当時の2200系の最高速度は110キロであり、当時としてはまさに新幹線の出現でした。今回は、この山岳区間を行く12200系を眺めてみました。山岳区間では、昔から撮影地として有名だったのは、長谷寺から榛原寄りへ行った大築堤だろう。高橋弘さんのビスタカーが代表的な写真だ。手前が段々畑になっていて、高さが自由に変えられるのも魅力だった。その後、耕作がされなくなり、荒れ邦題、樹木も伸び放題になり、撮影ができなくなった。(2001年11月)

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 さよなら 近鉄特急色 〈2〉

12200系の行くところ

最近の情勢を踏まえて、鉄道各社では、優等列車の本数削減、終電の繰り上げなどが行われています。近鉄でも、一度リリースがあったあと、昨日、特急に関しては、さらに踏み込んだ運休計画が発表されました。なかでも驚いたのが、土・休日の特急半減です。土・休日の特急運転総数446本のうち222本が運休と、文字どおり半分が運休です。身近なところでは、観光乗車の多い京伊12本→6本運休、京橿56本→22本運休はまだしも、衝撃的だったのは、京奈61本→59本運休と、一日たった一往復の運転に。さらに阪奈に至っては、32本すべてが運休と、奈良線の土・休日は特急ゼロ線区になってしまいます。

ここ数年、近鉄特急の乗車率の低下は、身を持って体験していますが、いくらコロナ禍と言っても、これほどの運休とはホントに衝撃的でした。「当分の間」と書かれていますが、もう完全に元に戻らないのではと危惧します。それだけに、満員の乗客を乗せて、近鉄特急色の12200系が縦横に走り回っていた、つい最近までの状況が、もう何か遠い別世界のように感じられます。今回は、いかにも近鉄らしい風景とともに12200系を見ていただきます。

薬師寺西塔を見て、橿原線西ノ京付近を行く。西塔は昭和の再建だが、朱塗りの仏塔のすぐ近くを12200系が行くのは、いかにも奈良らしい光景。一角だけ田んぼが残っていて、真横から撮れたが、いまは大部分が駐車場に変わってしまった。

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 さよなら 近鉄特急色 〈1〉

12200系

久しぶりに気合いを入れて(?)投稿します。すべての活動が止まってしまった、この時期ですが、鉄道界では春のダイヤ改正に向けて静かな進化を続けています。身近な関西私鉄で見ますと、京阪(新)3000系の「プレミアムカー」、近鉄「ひのとり」増備などが目玉でしょうか。私など「プレミアムカー」も「ひのとり」も乗ったことも無いのに、もう増備が完了です。不透明な時期にも、つねに前を向いて進む鉄道事業者には敬意を表します。ただ、その影で、消えていく風景もあり、京阪、近鉄とも親しまれてきた塗装が見られなくなりそうです。

近鉄では、特急の主力車輌として活躍してきた12200系が姿を消すことになり、同時に、近鉄特急の象徴でもあったオレンジと紺の旧塗装が消えてしまうことも意味しています。まだ正式なリリースはありませんが、2月12日のダイヤ改正で姿を消すようです。この塗装の起源は、昭和33年、世界初の二階建て電車10000系ビスタカーだった。オレンジとダークブルー(当時の呼称)に塗られ、ブルドッグノーズの強烈なスタイルとともに近鉄特急の地位を確立した。最初は、窓部をオレンジ、上下がダークブルーだったが、新ビスタカー10100系に合わせて、逆転させて現在のような配色になった。以来、多少の濃度を変更をしながら、60年以上に渡って、近鉄特急を象徴するカラーリングになった。大和八木(2002年3月)

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 年末年始 臨時列車で賑わっていた時代へ 〈4〉

東北本線の普通列車、貨物列車

本テーマの最後として、東北本線の普通列車、貨物列車と参りましょう。優等列車の影で、日常の足としての普通列車も多く運転されていました。多くは115系電車ですが、この時期にはまだ長距離鈍行が走っていた時代で、「一ノ関」のサボを下げた旧型客車を、デッキ付きのEF57が牽く列車も残っていました。また、年末年始は、荷物、貨物輸送が激減するものの、そこは、大動脈の東北本線のこと、何本かの荷物列車、貨物列車を見ることができました。

123レを牽くEF57 13 123レはもともと上野~青森の長距離鈍行だった。昭和43年10月で短縮されて、上野~一ノ関になった。やや低い位置から構えて、突き出たパンタを強調してみた。栗橋付近(昭和50年1月)

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