やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉟

早岐機関区(2)  C11

早岐機関区に配置されていたC11は、昭和42年当時、6両あり、運用は、松浦線の旅客の牽引、これは佐々区のC11と分担していました。そして、前稿でも紹介した佐世保~早岐の小運転でした。小回りが利くタンク機に相応しい運用と言えるでしょう。その代表が、何と言っても、特急「さくら」佐世保編成の牽引でしょう。今までも本欄で紹介しましたが、DD51が本務牽引ですが、早岐で逆向になるため、本務機を機回しすることなく、C11が前部に付いて同区間を牽引する訳です。佐世保の構内は狭くて留置線もなく、編成はすぐ早岐に戻るため、客扱い前後の回送も含めると、2往復のC11「さくら」が見られました。地上駅時代の佐世保で発車を待つ C11 194牽引の東京行き「さくら」。昭和40年10月改正から、昭和43年10月改正までの3年間見られた。右は到着した呉発佐世保行き「出島」。(昭和42年3月)

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早岐機関区 (1) 8620

九州の機関区巡りも、最後の機関区となりました。シリーズを始める際、「漢字一文字で表す区名板を見ると、蒸機に定められた“運命”を示しているような、何とも暗示的で‥‥」と書いて、「門」「若」「行」「鹿」「人」「吉」「宮」「志」など紹介してきました。最後に紹介する早岐機関区、「早」こそ、蒸機の区名板として、これほどピッタリの文字はありません。なかでも旅客機8620、C57のキャブに取り付けられた「早」は、軽快そのものと言った印象です。「はいき」の読みも、いかにも九州的な伸びやかさを感じさせます。

早岐は、佐世保線が大村線を分岐するところにある区で、初訪問の昭和42年時には、8620、9600、C11、C57、D51と多彩な蒸機が配置され、運用は、長崎本線、佐世保線、大村線、松浦線に及び、広範囲な活躍をしていました。県都の長崎に機関区はあるものの、配置は無く、長崎へは、早岐、鳥栖の蒸機が乗り入れていました。

佐世保から東京・大阪に向かう優等列車は、早岐で逆向となる。早岐までは10km程度なので、本来の牽引機は後部に連結し、先頭には早岐までの蒸機が立つことになる。次項で紹介するC11「さくら」がその代表だが、急行列車にも同様の運転が見られた。これは大阪行き「西海1号」で、短区間ながら早岐区の58648が先頭に立つ(佐世保 昭和44年3月)

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 そろり、ゆっくり、活動再開  【2】

「西大垣」「東大垣」を訪ねる  

「西大垣」「東大垣」と言ってもJRの駅ではありません。それぞれ養老鉄道、樽見鉄道の駅で、大垣を出てから最初の駅となります。対称的な位置にあり、駅の佇まいや周囲の雰囲気に以前から注目していて、18きっぷでまとめ訪問してきました。

駅名標のフォントを見ると、それぞれの出自を物語っていることが分かる。養老鉄道西大垣は、もと近鉄らしく「UDゴシック」系、樽見鉄道東大垣は、もと国鉄らしく「すみ丸角ゴシック」系を使用している。

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 そろり、ゆっくり、活動再開  【1】

越美北線九頭竜湖で夕景を撮る  

やっと普段どおりの生活が戻り、趣味活動も、ほとんど制約なく外で活動ができるようになりましたね。たいへん喜ばしいことで、巷では “Go To”の文字や、鉄道事業者からも“半額”などの刺激的な惹句が躍りますが、私はどうしても気持ちが付いていきません。カネ・ヒマを使って遠方へ行くよりも、もっと足許に大事なものがあるのではないかと、自粛以前から思いを持っていましたが、さらにその思いを強く持つようになりました。

最初の活動再開は歩いて行ける範囲から、次にワンコインで行けるところまで、隣接する府県まで伸ばし、最近では、日帰りで行けるところまで行くようになりました。そんなとき、頼りになるのは、半額の新幹線ではなく、やはり18きっぷです。乗車時間が長くなるぶん、当然撮影には制約が加わりますが、かえって、それが自分の齢に似つかわしい行動様式に映ります。何も考えず、一人でボーッと列車のシートに身を委ねる時間こそ、何にも代えがたい貴重な時間となりました。

以前にも書きましたが、最近の撮影スタイルは、長時間ネバってガツガツ撮るのではなく、あるテーマを持って短時間だけ撮る、撮り直しができない緊張感が感性を磨いてくれるようにも思います。エラそうなことを書きましたが、要は、日没後の10分間程度あらわれるブルーモーメントの時間帯に、列車・車両を撮ることです。もちろん、その時間帯に対象がないことには撮れませんから、月日、場所が限定されます。それを見つけ出す楽しみもあるのです。そんな思いを抱いて、越美北線731Dの客となりました。この列車が終点の九頭竜湖に着く18時28分から折返しの18時36分発までの8分間に、ブルーモーメントの時間帯と合致するのが9月上旬です。

列車は、陰影を描く山肌に沿って、ひたすら上がって行く。

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志布志機関区(2) C11

「志」のC11、走行中の写真を中心に見ていただきます。昭和40年代の末期になると、蒸機の撮影スタイルも変わって来ました。初期のように機関区撮影に専念して一両でも多く撮ることから、自分好みの撮影地を見つけて走行中の撮影へと移行していきました。今回の日南線も、3日掛けて、各所で撮影。当時、宮崎から日南線沿線は、第一級の観光地として有名で、夏休みとあって、旅客列車も賑わっていて、沿線にユースホステルも多く所在し、並行する国道にも路線バスが多く走り、駅間移動も便利でした。以下、北から順に撮影地を巡って行きます(すべて昭和49年8月)。

いかにも日南線らしい、岩礁の見える海岸線を行く。油津~大堂津 391レ

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志布志機関区(1)

暑さや自粛に乗じて、デジ青投稿を怠っていましたが、めっきり涼しくなり、以前の行動様式に戻ったことから、心を入れかえて、キーボードに向かうことにしました。九州の蒸機、あと少しお付き合いください、と言うか、最後の2つの区こそ、いちばん紹介したかった区名板なのです。

まず「志」の区名板、いかにも前へ向かって突き進む、力強さを感じさせる、蒸機らしい区名板だと思います。当時、日南線の終点にあったのが、志布志機関区でした。「志布志」は、かな、漢字とも回文で、あとは石北本線の「瀬戸瀬」だけと言う、貴重な駅名でもあります。

日南線、志布志へ行ったのは、今までの九州訪問時より、もっと後年の昭和49年8月でした。昭和も40年代末になると、蒸機は急減に数を減らし、九州では、本線はほぼ全滅、辛うじて筑豊にキュウロク、ローカル線にC11、C12が走る程度になっていました。毎年、愛読していた車両配置表の蒸機のページが、どんどん減ってきて、昭和50年になると、梅小路の動態保存機も含めて、たった2ページになって、愕然としたことがありました。

日南線の開業は昭和38年のことで、旅客は最初からDCでしたが、貨物はC11が牽いていて、志布志湾にある石油基地へのタンク車輸送もあって、結構な本数の貨物が運転されていました。志布志区には、C11のほか、当時はまだ健在だった志布志線、大隅線のC58も配置されていました。まずは、形式別に「志」の蒸機を見ていきます。

海岸線に沿って走るのが日南線の魅力。大堂津付近 ▲▲DC列車の車内から見た「志」の区名板。バス窓も懐かしい。

 

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ⑲

2002年8月31日 名鉄へ 最後の“いもむし”を撮りに行く

8月最後のこの日、2002年は、名鉄へ“いもむし”こと3400系のラストランを撮りに行きました。3400系(モ3400+ク2400)は、名鉄本線の東部線用の特急用として、昭和12年に製造されました。当時のブームにならい流線型となり、スカート付きとなりました。名鉄の流線型では、同じ年に西部線用の8500系“なまず”も誕生しています。戦後は本線の特急として活躍しますが、パノラマカーに主役を譲って支線へ転じ、最後は犬山地区の普通列車として運転されました。その後、動態保存的に臨時列車などで運用されていましたが、この年8月いっぱいで廃車されることになり、8月の土日にヘッドマークを取り付けて、新岐阜~犬山~新可児~御嵩で、さよなら運転を行いました。新可児を発車する犬山発御嵩行き3400系のさよなら列車、3400系が各時代にまとったカラー4種を描いたヘッドマークが掲げられた。

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2017年8月27日 18きっぷ消化で、下山、和知へ

8月も終わりに近づくと、夏用の18きっぷの消化に追われて、近郊へサクッと撮影に行くことが多くなります。この年は山陰本線の下山、和知へ、午後から行って来ました。下山には、高い鉄橋が前後にあって、蒸機の時代には、何度か撮りに行ったところです。電化後に電車が走り始めると、とくに「こだま色」の特急車、183系、381系の撮影地として、知られるようになりますが、結局、こだま色の特急は、撮る機会がなく、訪れた時は、無表情な白一色の287系となっていました。山陰本線下山を降りて線路沿いの道を30分ほど歩くと、質美川が流れていて、山陰本線は、高い上路プレートガーダーで渡っている。そばには、蒸機時代の煉瓦積みの橋脚が残っていて、鉄橋の下で、C57の牽く「はしだてビーチ」を撮ったことを思い出した。周囲は山が迫っているが、この季節では、山の切れ目に夕陽が沈むため、日没直前まで、“ギラリ”の写真を撮ることができる。

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2005年8月26日ほか コンデジひとつで大阪の私鉄ターミナルをまわる

この年はまだサラリーマン時代、出版社の鉄道本の企画で、関西の私鉄のターミナル駅の本を出すことになり、連日、撮影に行っていました。実際に撮影したのは、先ごろ、急逝したSさんで、私は、編集者としての付き添いでした。一個人の場合、安全に配慮し乗客として立ち入りができる駅用地での撮影は、とくに規制されることはありませんが、商業出版物に掲載する撮影は、各社とも規制の網が掛けられて、さらに法外(?)な料金まで請求する社(あえて名を秘す)もあって、低予算の出版では大変な苦労を伴いました。毎日のようにして見慣れた駅の光景を、どのように出版物の口絵として纏めていくかも苦労した点です。まだ画素数も少ない、初期のコンデジでの補助的な撮影でしたが、見慣れた光景ほど、今となっては貴重な思い出となりました。

旧の梅田駅の改札前にあった、シャンデリアのあるアーチの大天井、昭和6年に建てられた阪急ビルの第一・二期ビルに設けられた。この年、阪急ビルの建て替え工事で姿を消した。▲▲改札口跡の上部もアーチになっていた。当時は、毎日のように、ここをくぐって電車に乗り、印象が残っているが、駅の改札口があったことを覚えているのは、われわれ70歳以上の世代になってしまった。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ⑯

1997年8月24日 京津線東山三条で夏の宵を楽しむ

8月も20日を過ぎ、京都では地蔵盆が行われる頃になると、例年なら朝夕は少し涼しくなって来ます。この年は、10月の京津線三条~御陵の廃止を控えて、何度も沿線に向かいましたが、三条通は、東西を向いた道路のため、午後からの直射日光には、きびしい残暑を感じます。そこで、夕方から夜へ、少し涼しくなってからの撮影となりました。京津線は過去にも載せていますが、夏の宵ならではの写真を選んでみました。

 

東山三条、京津線は直線のように思えるが、結構曲がっている。背後のビル群がシルエットになる頃、長タマを通して見ると、あの東山三条も、ちょっとフォトジェニックな光景となる。

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佐々機関区  8620 C11

九州の西部、松浦線の途中には、佐々機関区がありました。配置されていたのは、C11のみが12両ほど配置されていて、タンク機のみの配置は、全国的に見ても、宇和島、加古川ぐらいで珍しい配置でした。松浦線の沿線にも小規模な炭坑があり、松浦線からさらに枝線も分岐していて、石炭の輸送に佐々区のC11が使われていました。重量物の石炭を、タンク機が牽くのも松浦線らしい光景でした。ほかに、昭和40年代前半には、松浦線にまだ多くの旅客列車が走っており、これらの牽引には、早岐区の8620とともにC11が牽いていました。

松浦線の江迎、到着する639レを牽くC11 259 当時の松浦線の旅客は、約半数がC11の牽く客車列車だった(以下、特記以外昭和45年9月)

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西唐津機関区 9600

しばらくマイナーな機関区が続きますが、「唐」とは西唐津機関区のこと、いまは路線の改廃で50年前とは、付近の鉄道地図がすっかり変わってしまった唐津付近ですが、当時、長崎本線久保田から分岐して、西唐津までの42.5kmの唐津線があり、沿線は炭坑が多くあり、筑豊や三池なとど比べると、小規模でしたが、途中の多久を中心にして多くの石炭列車が発着していました。しかも、多久は有明海と玄界灘の分水嶺に当たり、両側に25‰の勾配があって補機付き貨物も多く、意外なほど雄大な光景も広がっていました。西唐津区には当時、9600が15両配置されていて、ほかの形式はなく、9600が専属で唐津線の石炭列車を日夜牽いていました。そのような史実があったことすら、今となっては忘れ去られようとしていますが、かく言う私も、最初、昭和42年に西唐津機関区へ行ったものの、すごい雨で戦意喪失、一枚も撮らずに引き揚げ、昭和44年に再挑戦した時も途中で雨に降られて、1、2枚を撮っただけで退散してしまいました(以下すべて昭和44年3月)。唐津線の旅客はDC化されていたが、朝の一往復だけ、客車列車があって、西唐津機関区の9600が牽いていた。唐津線は久保田が始発だが、この客車列車を含めて、全列車が佐賀を始終発としていた。

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豊後森機関区 8620

「森」とは、久大本線にあった豊後森機関区です。蒸機時代の久大本線は、客貨とも大分区のD60牽引が中心でしたが、以前、久大本線は、旅客が8620、貨物が9600牽引でした。昭和30年代から順次D60が投入され、豊後森区の8620数両だけが残ることになりました。運転区間は、豊後森~日田~鳥栖で、勾配のある豊後森以東、由布院、大分方面には入線していませんでした。昭和45年10月の久大本線の蒸機廃止後も、扇形庫などは放置され、一時は荒廃していましたが、平成27年に、水戸岡鋭治氏のグランドデザインで豊後森機関庫ミュージアムがオープンし、扇形庫も修復され、往時の姿を偲ぶことができるようになりました。また本欄でも紹介のように、以前、久大本線で貨物を牽いていた9600が保存展示されています(以下、特記以外 昭和45年8月)。

朝陽を受けて輝く58689 漆黒の機体に「森」の区名板が映える。日田

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ⑮

2015年8月18日 大阪モノレールで分岐器を楽しむ

愛称の「大阪モノレール」は、社名が大阪高速鉄道でしたが、ことし6月、社名も大阪モノレールに変更されたばかりです。高いところを走るだけに、駅から邪魔もなく撮ることができます。この日は、万博記念公園駅のホーム東端から、本線、彩都線の両線が分岐して、さらに高度を上げて高架を行く、未来感覚あふれるシーンを撮りに行きました。とくに興味深いのは、5基ある分岐器で、PC軌道桁自身が動いて、路線を切り替えます。モノレールで支線があるのは、大阪モノレールしかありませんから、この独特の光景が見られるのも、万博記念公園ならではです。

万博記念公園を発車して、彩都線を行く大阪モノレール、太いPC桁がゆっくり動いて、ポイントを切り替える。 本線の千里中央行きと、彩都線が交換する。この年、千里中央~南茨木が開業してから25年に当たり、右の1631には、記念のステッカーが貼られている。この1000系も開業時の車両は、3000系の増備で順次なくなると言う。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ⑭

1996年8月17日 山崎へ夏の臨時列車を撮りに行く

この時期は、盆の期間に運転される東海道本線の臨時列車を撮りに、毎年のように近くの長岡京、山崎へ写しに行きました。以前の本欄でも「山崎を走った夏の臨時列車」として紹介しましたが、この日は、カラーポジに絞り込んで撮影しました。今から見ると、実に多様な列車・車両が走っていたことが分かります。しかも、ネバって撮ったものではなく、撮影メモを見ると、朝の7時50分から1時間の間に撮影できた列車です。

今から20年余り前、別に盆の期間でもなくても、いつでも見られた列車。新快速は221系、緩行電車は201系の時代だった。今と同様に山崎付近で併走が見られた。201系に「海へ」のヘッドマークが掲げられているのも、この時代ならでは。▲▲快速は113系オンリー、デカ目のライトが、朝の空気を切り裂くようにして走り去る。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ⑬

1996年8月16日 北大阪急行を新御堂筋の歩道橋から撮る

桃山台~千里中央に、新御堂筋、北大阪急行を跨ぐ歩道橋があります。ここから、千里ニュータウンをバックにして、北大阪急行、地下鉄御堂筋線の電車を撮ることができます。写真は、20年以上前のサラリーマン時代で、よく仕事で千里中央へ行くこともありましたが、この写真を撮ってからは、一度も北大阪急行沿線へは行っていない気がします。それどころか、最近は、大阪市内へも行くことがなくなり、今年になってから自分の行動範囲がどんどん狭まって来ていることを感じます。北大阪急行は、“ポールスター”こと8000系7編成が走っていた。後継の9000系の増備で、今では、7編成のうち、3編成が残るのみ、この8005Fも2018年に廃車されている。古さを感じさせない、昭和の時代の製造で、洗練された車内外は、地下鉄用車両の中では、今でも最も豪華な造りだと思っている。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑫

2004年8月15日 大井川鐵道で関西私鉄の競演を楽しむ

大井川鐡道は、1994年のクローバー会の40周年記念旅行で初めて行き、今回が2回目でした。この時は、乙訓の老人さん、準特急さん、逗子のTさんと一緒で、何度も行って沿線を熟知されている乙訓老人に連れられ、各所で下車して撮影しました。いまは、すっかり電車も世代交代しましたが、当時は、京阪、近鉄、南海からやって来たばかりの電車が、きれいな姿で走っていました。この日は、乙訓老人が行きつけの新金谷の駅前旅館に一泊、大宴会をした楽しい思い出も残っています。大井川鐡道は、先の豪雨で被害があり、家山~千頭が当分の間不通でバス連絡とされていますが、早く大井川の渓谷を行く蒸機、電車の姿を見たいものです。最初に降り立ったのが抜里、茶畑に囲まれた静かな山里の駅で、好ましい雰囲気の中で、懐かしい電車と再会した。

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南延岡機関区

続いて日豊本線にあった南延岡機関区です。大分~宮崎のほぼ中間にあり、運輸上の要衝でした。おもに配属されていたのはD51で、昭和43年当時は15両が在籍し、大分~宮崎の貨物列車を牽引していました。ほかに、当時はまだ走っていた細島線(日向市~細島)の貨物用、南延岡などの入換用に8620、日ノ影線(延岡~日ノ影)の貨物用にC12が配属されていました。当時から南延岡では、延岡の代表企業である旭化成からの貨物の発着がありました。現在でも、鉄道の現業部門は無くなりましたが、旭化成の専用線は残って、日豊本線のコンテナ貨物も南延岡を始終発としています(以下、特記以外昭和43年3月)。

立派なコンクリート製の扇形庫があった南延岡機関区。その前の側線で休む宮崎区のC5747 南延岡は、旅客列車の行き先として多く、当時は運輸上の要衝だった。ラウントハウスに名称を大きく標示しているのは全国的に見られた。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉗

柳ヶ浦機関区

九州に戻って蒸機巡りを再開します。まず宮崎、大分以外で、日豊本線にあった、そのほかの機関区へ行きます。昭和42年10月まで、D50、D60の配置区として賑わいを見せていた柳ヶ浦機関区です。区は明治45年に設置され、煉瓦造りの矩形庫、給炭塔、給水塔がコンパクトに配置されていました。門司港~大分の中継地に当たり、給炭・給水、蒸機の付け替え、乗務員の交代などが行われていました。別府、大分方面、急勾配の立石峠を控え、柳ケ浦から後部補機が連結されました。区は昭和42年10月改正で日豊本線の新田原~幸崎の電化が完成、蒸機の運用を廃止。支区に格下げされたあと廃止されました(以下すべて昭和42年3月)。

煉瓦造りの矩形庫で休む、柳ヶ浦区のD50310  D50341 訪れた昭和42年3月当時、柳ヶ浦にはD50が12両、D60が2両在籍し、日豊本線の貨物、補機を担当していた。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑪

2004年8月11日 琴電の旧型電車を初めて撮影に行く

高松琴平電鉄を走っている旧型電車も次第に数を減らしてきました。いま残っているのは、23、500、120、300の4両で、2021年5月に旧型電車の運転を終了する旨の告知が会社からありました。旧型電車を使った定期的なイベントも、この春からは中止されていましたが、今月30日には再開され。展示会、撮影会が行われるようです。私が初めて琴電を訪れたこの年には、冷房のない旧型電車は、窓を開け放して、ごく当たり前に定期列車の中で活躍をしていました。讃岐の国には、七つの富士があると言われるほど、円錐形の山が多い。白山もその一つ、長尾線の車窓からよく見える。公文明~長尾を行く300+760

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