Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑩

2007年8月12日 真夏の田園地帯で小田急ロマンスカーを満喫

最前部まで客室があり、展望のきく小田急ロマンスカーは、関西の人間にとっても憧れの列車でした。ただ、なかなか撮影の機会に恵まれません。この年、仕事でもお世話になった高名な鉄道ファンが亡くなられて葬儀に行くことになり、不謹慎ではありますが、その前に、小田原で途中下車して、葬儀までの2時間ほどを撮影に充てました。急なことで、撮影地も分からず、田園地帯が広がっていると言う情報だけを頼りに、「開成」で下車しました。全く日陰のない、カンカン照りの田圃のなかに2時間、喪服を着た暑さはハンパないものでした。この時期の小田急ロマンスカーは、3000形、3100形はもう無く、7000形、10000形、20000形。30000形が主力で、2年前に50000形がデビューしたところだった。一眼デジを買ってから2年ほどの頃で、何枚撮っても値段は変わらないことを最大限に利用し、連写流し撮りに挑戦してみた。と言っても、歩留まりを良くするために、確実な1/125Sに設定、10000形HiSeを連写してみた。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑨

1991年8月11日 小浜線へ海水浴列車を撮影に

盆に掛かろうとするこの時期は、そろそろ海水浴の臨時列車も終わりを迎えます。この日は、小浜線の臨時列車を写しに行っていました。京都から見れば、その径路は綾部、西舞鶴ルートしか考えられませんが、1990年に、JR西日本は行楽列車全般の改定に乗り出します。愛称を従来の「◎◎ビーチ」から「マリン◎◎」に変更、小浜線への径路も、大阪発の場合は、東海道・湖西・北陸線経由で敦賀から入る列車も新設、車種も、65系、181系DC、12系、14系客車など多様でした。ちょうど大阪湾の海水浴場が汚染が社会問題化した頃で、“水のきれいにな日本海へ”のキャッチで、若狭、但馬方面に向けて、毎年、需要に応じて変更・増発が続きました。快速「マリンたかはま」、大阪発小浜行きの列車で、これは綾部、西舞鶴経由の列車だった。リゾート塗装の14系客車をDE10が牽いた。加斗~勢浜

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑧

2016年8月9日 表紙撮影で ようやく思い通りの「しまかぜ」撮影

この年は、出版社から委託された『近鉄電車』の企画・編集・撮影に、春ごろから打ち込んでいて、撮影のラストとして、表紙の企画を立てました。対象は、いちばん新しい特急車両「しまかぜ」50000系で決まりですが、撮影地、構図は考えあぐねていました。候補としては、本数の稼げる山田線が通過時刻の頃の光線状態もよく、車上から観察、また候補地に何回か下車してテスト撮影もして、表紙に適した、タテ位置、アウトカーブ、順光で撮れる撮影地として、漕代~斎宮の漕代3号踏切を選びました。

この本のシリーズの表紙は、今まで正方形にデザインされていたが、少し前から体裁が変わり、全面タチキリになった。写真上部には題字が入るので、空を大きく入れたい、順光であるのは、もちろんだが、アウトカーブのやや低い位置から、「しまかぜ」のボリューム感を出したいのが、その理由だった。あとは、天気だ。幸い、「しまかぜ」3列車は、当地を11時30分過ぎから15分おきに雁行するから、どれかは“当たり”になるだろう。結果2列車目が最も満足のいく結果となり、何とか表紙を飾ることができた。

 

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑦

2012年8月9日 空いた時間 都電の夕景を楽しんでみた

この日は東京にいました。翌日、クローバー会の面々との撮影も予定されていて、前乗りして、書店巡り、ギャラリー巡りなどをしていました。用件は明るいうちに終了、出先で急に空いた時間は、“何をしようか”と楽しみになります。この時は、宿泊の予定でしたので、夜間まで可能です。手近で撮れる‥‥となれば、やはり都電です。ホテルに荷物を置いて、カメラ一台を持って、さっそく出掛けました。たそがれ時の「町屋駅前」、都電が踏切を通過すると、たくさんの人が横断する。通勤帰り、買い物客、子ども達と、庶民の乗り物、都電らしい雰囲気を取り入れてみた。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑥

1999年8月8日 敦賀港へC56のイベント列車を撮りに

敦賀港が開港して百年を迎えたこの年、「つるが・きらめき・みなと博21」が敦賀市内で開かれ、その一環のイベントとして、梅小路蒸気機関車館で動態保存中のC56160を使用した、イベント列車「SLきらめき号」が、8月8日、9日に敦賀~敦賀港2.7kmで各2往復が運転されました。敦賀港の歴史は古く、大阪・京都からのロシア航路連絡も目論んで、現在の北陸本線の最初の区間として明治15年に開業しました。当初は金ヶ崎の駅名で、賑わいを見せますが、現在の北陸本線のルートが開通すると、敦賀~敦賀港は貨物支線となりました。敦賀を発車、北陸本線と分かれて、左へカーブする、C56160+12系客車の「SLきらめき号」

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑤

2013年8月7日 いちばん海に近い廃止駅、池の浦シーサイドへ

参宮線に夏の海水浴シーズン限定の臨時駅「池の浦シーサイド」がありました。たしかにホームの横は海ですが、海水浴場までは徒歩で15分ほど掛かります。列車に乗って、炎天下を歩いて行くような真面目な(?)海水浴客など微々たる人数で、次第に、営業日・停車列車も限定され、訪れた頃には、営業日は真夏の土日の数日のみ、停車する列車も朝夕の数本だけになっていました。年間の乗降数は数十人、しかし、ほぼ全員が鉄道趣味者の記念乗降で、実際の海水浴客は、ほぼゼロという状態でした。結局、2016年から営業日ゼロの休止状態になり、ことし2020年の3月のダイヤ改正で正式に廃止となりました。すぐ横は鳥羽湾、いちばん海に近い駅だった。暑中見舞いの絵柄にピッタリの写真が撮れたが、肝心の海水浴客の下車はゼロに近く、ついにことし3月のダイヤ改正で廃止されてしまった。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道④

2007年8月4日   阪急十三駅のホームから淀川花火を撮ってみた。

夏の風物詩“花火”も、今年はほぼ中止のようです。私は暑いのと人出が苦手で、花火見物に行ったことがありませんでした。ただ一度だけ、阪急電車との組み合わせを求めて、淀川花火大会へ行ったことがありました。最初は川沿いへ行こうと思っていましたが、すごい人出に恐れをなして、十三の駅で撮ることにしました。淀川から見るよりは、距離もあって、邪魔も入りますが、ある時代の阪急電車としては、これはこれで記録になりました。この淀川花火大開も、今年は中止です。

十三のホームを歩き回って、神戸線の梅田行きホームの神戸方がいちばん撮りやすいことが分かった。珍しく三脚をセットして、停車中の電車と絡めて、バルブ撮影を始めた。 続きを読む

 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道③

2018年8月3日 空気の澄んだ日、京都タワーから撮ってみた

京都の夏は、最高に暑くて、地上が熱せられると上昇気流が起こり、“かげろう”ができて、どうしても見通しが利きません。ただ、時には、空気が澄んで、遠くまで見通しが利く時があります。こんな日を狙って、京都タワーの展望台に上りました。目的は、その時に進めていた鉄道誌の扉写真として、京都の街並みのなかに奈良線の103系を入れて写すことでした。まだ103系は何編成かが残っていて、難なく撮ることができました。せっかくの恵まれた条件で、所期の目的だけでは勿体ないと、夕方までネバって写しました。

陽が傾き始めた頃、西を見ると、新幹線の高架がずっと伸びている。さすがに、夏なので、金色に輝くことはないが、それでも、交換する上下の編成が、輝き始めた。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道②

1996年8月2日 本山支線で現役最古のクモハ42を撮る

クモハ42は、昭和9年、東海道本線の京阪神電化に際して投入された42系のなかの両運車で、20m、2扉、クロスシート車でした。宇部線に残っていましたが、クモハ123が投入されて旧型車は消えたましたが、クモハ42だけは両運が幸いし、雀田~長門本山の”本山支線”専用として生き残りました。最後のクモハ42001は、当時、JRで1両だけ残った営業用の旧型国電でした。終点、長門本山のクモハ42001 「ムーンライト」に乗って、朝の本数の多い時間帯から写し始めたが、朝から青空が広がっていた。 続きを読む

 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ①

長かった梅雨が明けて、久しぶりの青空tが広がっています。8月は、ほかの月に比べて格別の思いがありますね。ただ今年は、その高揚感がありません。“外へ出ない”が、新しい生活様式として定着し、計画のない真っ白な予定表があるだけです。こうなると、毎日の楽しみ、生きる支え(?)の“デジ青”は、どうあるべきか、最近のテーマとなりました。

冷房が入っているのも構わず、列車の窓を思い切り上げてみた。身体は冷えているのに、顔だけは生暖かい潮風が当たった。これぞ8月だった(五能線 2019年)。

 

新規ものもありません。モノクロも、大量の押しつけは嫌われます。そこで近年のカラーに眼が行きました。以前からカラ-も試行錯誤で投稿していますが、ネガ、ポジ、デジと年代によっては違い、とくにポジ・ネガは、モノクロの補助として散発的に撮っていたただけに、繋がりが少なく、体系的な発表を難しくしています。

 

一直線に続く線路を驀進する。湾の向こうを沈みゆく太陽が追いかけてきた(大湊線 2019年)

 

 

 

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉖

大分運転所(3) D60

つぎは久大本線で客貨列車を牽いていたD60です。D60と言うと、どうしても筑豊で石炭列車を牽く姿をイメージしますが、久大本線とD60の歴史は深く、後期の機では、昭和29年に、D50から改造後、すぐに大分区に配属され、一生を大分で終えた機もありました。穏やかで、やさしい風景が続く久大本線は大好きな路線のひとつですが、一ヵ月前の豪雨で、鉄橋が流出したり、土砂が流入したりして、いまも向之原~日田が運転見合わせです。

D60

余剰気味だったD50の従台車を二軸に改造して軸重を軽くし、乙線から丙線へも転用を可能にした。昭和26年から浜松工場などで78両がD50から改造された。久大本線でも、旅客の8620、貨物の9600を置き替えた。運転台の下の従台車が二軸になったため、乗り心地が向上し、乗務員から歓迎されたと言う。由布岳を望んで、水分峠への25‰勾配を上る、大分区D60の代表的なシーンだった。由布院の駅から、ひたすら歩いて、峠のトンネルの手前まで来て、大分発鳥栖行き638レを写した。由布院~野矢 昭和44年3月

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉕

大分運転所(2) C58

大分にはC58が5両配置されていました。働き場所は、豊肥本線の大分~豊後竹田の旅客牽引と、大分~宮地の貨物牽引でした。豊肥本線は早くから旅客はDC化されていましたが、朝夕のラッシユ時には、大分口、熊本口にそれぞれ蒸機牽引の客車列車が残っていて、大分区のC58は、大分~豊後竹田で、平日3往復を担当していました。

大分C58で写した唯一の駅間の走り、朝の列車を撮るため、豊肥本線の列車に乗ったが、どこで降りたらいいか分からない。奥まで行ってしまうと、交換してしまうため、なんのアテもなく、緒方で下車、適当な山に登ると、C58 350に牽かれた貨物が通過した。緒方~朝地 昭和46年12月

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉔

「大」と言っても、なかなか実名が出てこないでしょう。大分機関区、正確には大分運転所の蒸機でした。「大」を名乗る区名は、ほかにも大館、大宮、大垣が思い浮かびます。「キト」「オサ」など二文字であらわす駅の電略は、重複しないよう、命名に苦心の跡が見られますが、区名板は、遠隔地であれば、重複していても支障はないとしていたのでしょう。さて、同じ日豊本線の蒸機でも、宮崎と比べると、大分は印象の薄いものでした。しかし、昭和42年に大分区を訪問した時は、C57が21両もいて、ほかにもC58が5両、D60が12両、8620が3両と計41両在籍していて、その数は、鳥栖や直方などに匹敵するほど、九州有数の機関区でした。実際、その時には、九州へ入った途端、門司で大分区のC57を写せるほど、広範囲な活躍をしていました。日豊本線の電化が南下して、とくにC57の活路が急に狭められ、“SLブーム”の頃には、すっかり目立たない区になっていました(以下、特記以外昭和42年3月)。

大分運転所(1) C57

日豊本線は、昭和42年10月に幸崎までの電化が完成しているが、それまでの大分区のC57は、門司港~柳ヶ浦~大分~南宮崎~宮崎と、広い範囲で活躍していた。昭和42年の配置は21両で、4号の若番から199号のラスト近くまで、多様な番号が揃っていた。幸崎電化後は、多くが宮崎へ転属して、同区のC55を置き替えた。この年の幸崎電化を控えて、架線が張られた大分駅を発車した、大分発鹿児島行き2523レを牽くC57 196 右手には貨物駅があり8620が入換中、左手に機関区があった。大分駅周辺は、その後の再開発で、駅は4面8線の高架駅となり、車両区は移転してしまい、この頃の面影は全く残っていない。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉓

宮崎機関区(3) C61

昭和46年10月、奥羽本線の秋田~青森の電化が完成しました。およそ宮崎区の蒸機とは、何の因果もないはずと思われていたところ、余剰となった青森区のC61が6両とも宮崎区に転属することになりました。今までも、状態の悪い蒸機の代わりに、検査期限に余裕のある蒸機を長距離転属させる例は、多く見られましたが、異なる形式が全機転属という例は珍しいことでした。国鉄の財政状況が逼迫していて、見張り番の会計検査院からの勧告があったと言われています。C61は東北での実績から、勾配区間の宮崎~鹿児島に投入予定のところ、ストーカーが十分に発揮できずに断念、結局、平坦区間の南延岡~宮崎に変更されました。

青森から宮崎に移ったC61、補助灯を付けた東北スタイルのまま、南延岡~宮崎で客貨列車を牽き始めた。537レを牽くC61 24 宮崎神宮~宮崎(昭和46年12月、以下すべて)

C61

青森区から転属したのは、 2、18、19、20、24、28の6両、昭和47年3月改正で、南延岡~宮崎の客貨は、すべてC61牽引に置き換わり、C57は相当数が廃車・転属となった。なおC612は、宮崎区でしばらく働いてから、梅小路蒸気機関車館に移動され、動態保存されている。残りの5両も昭和48年には休廃車となり、実働期間は短かった。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉒

宮崎機関区(2)

つぎは宮崎区のC57へ移ります。宮崎区のC57といえば、半年間だけ返り咲いた急行「日南3号」の牽引復活や、お召を三日間にわたって牽引したことなど、後年は、華やかな話題を提供しました。いずれも昭和48年のことで、私はもう社会人の頃で、どちらも行くことが叶いませんでした。今となっては行っておけばと思わないでもありませんが、当時は、“お召だけ”、“C57急行だけ”で宮崎まで行くと言う発想はありませんでした。それだけ、昭和42年から毎年訪れて、美しいC57とともに過ごした時間は悔いを残すことのない、充実した時間でした。

C57

C55を置き換えるため、大分区などから転入した。昭和42年には、C55が14両、C57が4両だったものが、同43年にはC55が8両、C57が10両と逆転し、翌44年には、C55を一掃し、C57は17両と増えて、その時点で日本一のC57配置区となった。以降も昭和46年までの3年間、顔ぶれに全く変化はなく、C57王国を築いた。ナンバーも、若番の4号から、ラストに近い199号まで揃い、とくにC59似の四次型(190号以降)が4両配置されていた。その後、東北からC61が転属し、C57は次第に減少、最後は昭和50年3月の「さよなら列車」で、日豊本線の蒸機に終止符を打ちました。

大淀川橋梁を行くC57、朝と夕方にさまざまな表情を見せた。川沿いにはユースホステルもあり、食事後にゲタを履いて撮りに行くこともあった。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉑

宮崎機関区(1)

また投稿が途絶えてしまいましたが、《区名板》めぐりを再開します。つぎは宮崎区へと行きます。宮崎にも砲金製の区名板を装備したC55・C57がいて、「宮」に相応しい高貴さを漂わせていました。私が初めて訪れたのは昭和42年、この時はC55が幅を利かせていて、臨時急行を牽く姿も見られました。この時は機関区で撮影するだけで、本格的に走行中を駅間で写したのは、その翌年、宮崎にこだわりを持つI原さんと現地で合流し、田野へ向かったものでした。まずは形式別にC55から見ていくことにします。

C55

昭和42年の宮崎区の配置は、C55が14両、C57は4両で、C55の配置区としては、いちばん多く、文字どおり“C55の牙城”でした。仕業は、南延岡~宮崎~鹿児島で、旅客だけでなく、貨物も牽引していました。

宮崎区のC55には、流線型改造機が多かった。その特徴は、キャブの出入り口(寒冷地ではないため扉は撤去していた)と、下の“ヒレ”と呼ばれる三角形の突起で、砲金製の区名板とあいまって、宮崎区のC55を印象づけていた。雨の田野~門石(信)、清武川橋梁を行くC55の牽く貨物列車(機号不明)。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑬

 “散歩鉄”で 電機を撮る(2)

青空に似合う電機は?となると迷わずEF510を上げたい。19.5mの長い大きな車体、胸の張った前面、ドイツで見た赤い電機101形、111形を思わせる電機で、東海道線で赤い交直機が見られるのも、この区間ならでは。正面勝ちに青空を大きく入れて、その魅力に迫ってみた。長岡京~山崎

雨がもう一週間以上降り続いています。九州の鉄道も大きな被害を受けましたが、地元、叡電鞍馬線の貴船口付近でも土砂崩れが発生し、復旧までには相当日数掛かる見込みです。叡電は2年前の台風でも大規模な倒木、土砂流入で長期間不通になりました。やっと復旧したと思ったら、その傷跡がまだ癒えないうちの災害で、鉄道事業者の落胆はいかばかりかと思います。ここしばらく“散歩鉄”も出かけられず、自粛期間以上に家で籠ることが多くなりました。青空のもとで、気ままに貨物列車を撮っていた、つい先週までの行動様式に早く戻りたいものと、今回は、良い天気の下で各種の電機が牽く貨物列車見てもらいます。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名版》で巡る九州の蒸機 ⑳

人吉機関区(3) 8620 & 肥薩線川線をカラーで偲ぶ

人吉機関区の蒸機としてD51、C57を紹介しましたが、地味ながらも、もう一形式がありました。それは8620で、つねに2両が区に配置されていました。おもな運用は、湯前線の貨物牽引で、人吉~湯前を一日3往復していました。ほかには人吉駅での入換が仕事で、2両はデフ付き、パイプ煙突と、地味で目立たない8620でしたが、なんと、そのうちの一両が、現役復帰して「あそBOY」「SL人吉」などを牽くことになる58654なのです。そして、もう一両も来歴を調べていくと、今回と同じように球磨川の増水、土砂流入で土砂に埋まるという、今回と同じような災害に見舞われていたことも分かりました。夜の人吉機関区で憩うハチロク ちょっと不似合いな大型の切取り式デフ、パイプ煙突と、どちらかと言えば冴えないスタイルだが、なんとこのカマがJR九州の復活蒸機であり、「あそBOY」「SL人吉」を牽く58654の50年前の姿 昭和46年12月(以下同じ)

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑫

 “散歩鉄”で  電機を撮る (1)

5087レが近所を通過するのは14時前後、ちょうど昼食後の腹ごなしに格好の列車だ。しかも貴重なEF65が牽くとあって、昼前の天気予報と“貨物ちゃんねる”の牽引機チェックが日課となった。山崎~長岡京

少し前までの外出自粛の期間、日課となったひとつが“散歩”でした。最初は家の周囲を黙々と歩くだけでしたが、同じ歩くなら、趣味活動も兼ねた散歩にしたいと、近所の東海道本線まで行って、撮影もすることにしました。ターゲットは電気機関車です。この時期ですからイベント列車こそ走りませんが、通常の混載コンテナを牽く貨物は運休もなく走っており、専用コンテナ列車や、レール運搬、新車の輸送など、電機の牽く列車は多彩です。
さすがは天下の東海道本線、時間帯によっては、1時間もいれば、お腹いっぱいになるほど多くの電機を撮ることができて、散歩途中の撮影としては最適な対象です。基本的に歩いて写すか、入場券を買ってホームで撮るか、乗車しても最低運賃の範囲内で撮影するかのいずれかで、この一ヵ月前後の東海道線の電機の現況を綴っていきます。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑳

人吉機関区 (2)  C57

人吉には、もうひとつ注目すべきC57がいました。前記のように、肥薩線の人吉~八代、球磨川に沿った“川線”と通称される線区で、旅客、一部の貨物も牽いていました。“美しき南九州のパシフィック”などと賞賛されるC57です。その両数においても宮崎区のC57を指す言葉でしょうが、その影に隠れて、黙々と客貨を牽いていた人吉区のC57のほうに、愛着を感じていました。昭和45年時点で、7両いたC57ですが、砲金製の区名板、手入れの行き届いた機体、そして、番号ごとに個体差があって、“何番”と言うとすぐに姿が思い浮かぶのもC57の良さでした。八代~人吉は昭和48年3月改正でDL化が完了し、C57は撤退しています。

夜行鈍行1121レをC57 9が牽いて一勝地で交換列車を待つ。ひと桁ナンバーのC57は貴重で、特に憧れを持った。門司港区の時代は「かもめ」も牽いた。昭和44年3月

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