京都市電と市バスの共存 ② ~ ここらでバスでもシリーズ

続いて京都市電烏丸線(昭和49年3月廃止)、今出川線(昭和51年3月廃止)の撮影で、市電とバスが一緒になった写真を見ていただきます。

今出川大宮の停留場で市バスと顔を合わせた、市電12系統1648号は、水色の系統板を付けている。この時期、12号系統は、白梅町~円町で径路が重複する循環系統のため、識別するため、通常の白地とは異なる別色の系統板が付けられた。市バスは59系統宇多野・山越行きワンマンカー、いまも径路を変更して、同志社前も通る馴染みのある系統。車両は「京2い・580」で、昭和44年式ふそうMR410。

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 京都市電と市バスの共存 ① ~ ここらでバスでもシリーズ

四条・千本・大宮線の時代

古いネタを懲りずに出していますが、蒸機だったら何でも共感が得られるはずとt勝手に思っていても、読者の感覚・嗜好はさまざまです。蒸機と決めつけず、もっと鉄道の魅力を引き出すテーマが必要だと痛感しています。ここらでガラリと方向を変えて、「バス」に頭を突っ込んでみようかと思っています。

バスは、レールがないだけで、あとは鉄道趣味と共通点が多いと解釈しています。私もバスに熱中していた時期があり、今でもチャンスがあれば記録をしています。本欄においても、過去にはバスの記事もあり、先般も、電気バスの過去記事に、外部の方からコメントをいただきました。そろそろ私をバスを蔵出し‥、と思ったのですが、ストレートにバス車両だけでは抵抗があるかとも思っていたところ、“そやったら鉄道とセットにしたらエエ”という妙案(?)が浮かんだのです。

バスと鉄道、とくに路面電車とは共存・競争の間柄ですから、路面電車を撮っていたら、ジャマをするバスがよくありました。でも、バス好きの身には、市電、バスと一粒で二度おいしい絶好の機会と、その組み合わせを楽しんでいました。そこで、身近な京都で、その例を見てみました。今から約50年前、四条・千本・大宮線がなくなるころ、市電を撮っていると、ファインダーに入ってくるバスに、さまざまなスタイルがあることに気がつき、バスに手を染めるきっかけにもなったのです。

四条線、千本線、大宮線が、三方向へ分岐する四条大宮、市電17系統1627号の右折を待っているのは、車体を泥だらけにした、市バス28系統の大覚寺行きツーマンで、いまもほぼ同じ径路で京都駅~四条堀川~大覚寺を結んでいる。車両は「京2い・237」で、昭和40年式いすゞBR20で、中扉のみのツーマンバスだった。この角度から見る四条大宮は、看板が違うだけで今も全く変わっていない(昭和47年1月)。 続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑩ 

D52 室蘭本線を行く

最後のD52に参ります。実際、私もこれだけのD52を撮っていたとは、今回記事を書くまで分かりませんでした。北海道は、われわれの時代、どうしてもC62に引っ張られて、その後の思い起こしもC62が占めることになり、ほかの機が疎かになっていたことを痛感しました。しかし、山科の人間国宝さんは、ことあるごとに「いちばん好きな蒸機はデゴニです」と言っておられるように、私もD52が蒸機本来の魅力である力強さにあふれた蒸機であること、改めて思いました。今回は、そのD52が本領を発揮した、長万部~鷲別の室蘭本線での活躍です。まるで、かつての東海道・山陽本線を見るような、スケールの大きな舞台でした。

北海道へ渡って3日目、Kさんと快適な長万部ステーションホテルに泊り一番列車で静狩へ向かった。今日も快晴で、停車中のD51は全身に浴びて、光り輝いていた。安全弁の気忙しい音が、朝の冷気を伝って響き渡り、今にも発車しようとするなか、彼方から室蘭本線の雄、D52の牽く貨物がゆっくり姿を現した(「青信号」23号鉄道写真展作品集のコメントを再録) 右:252レ D52 136。(昭和44年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑨

D52の往くところ② ~噴火湾に沿って~

「北海道にもデゴニがいる」。これを知ったのは、小学校6年の時に読んだ「鉄道ファン」の初期号の北海道特集でした。D52は東海道・山陽本線の専用機とばかり思っていたのに、当代一の鉄道写真家のHさんがとらえた「噴火湾に沿って」タイトルの雪にまみれたD52の写真は、小学生には衝撃的でした。

前記の大沼を出た函館本線は二手に分かれ、大沼公園回りの本来の函館本線と、勾配緩和のために戦時中に設けられた、海岸回りの砂原線回りとなり、森で再び合流し、噴火湾に沿って、長万部に向かいます。今回は、大沼~森~長万部のD52の活躍を見てもらいます。

勇壮な煙を上げて長万部を発車する  D52 414 (昭和46年3月)

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 やっぱり蒸機が好き!《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑧

D52の往くところ① ~駒ヶ岳を見て~

北海道に渡った蒸機の撮影者が、まず訪れるのは、やはり大沼付近でしょう。函館から一時間足らずで到着でき、すべての列車がボトルネックのようになって、函館に向かいますから、何でもありの夢のような区間でした。しかも優れた風景が続き、なかでも大沼から国道沿いを歩いてすぐ、函館本線を見下ろす小高い丘の上から、正面に駒ヶ岳、左手には小沼と、絵葉書のような光景が広がっていて、私もクローバー会会員と一緒に訪れたものでした。D52の走るところ、まずは大沼付近から。

春浅き小沼畔を行くD52の牽く下り貨物。これには後日譚があって、学鉄連の打ち合わせで交通科学館へ行って、図書室の西尾克三郎さんに、この写真を見せていたところへ、東京からマツケンさんが来られ、ちょうど編集中の豪華本「D52・D62・E10」にぜひ使いたいとなり、写真を差し上げた。後日、50年前の価格で4500円也の豪華本と写真料が送られて来た。一枚の写真で、おいしい目ができた、古き良き時代だった(昭和46年3月)。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑦

ラストナンバー468    D52(2)

“3年持てばいい”のD52でしたが、製造から2年後に戦争は終わってしまい、製造計画は中断します。粗悪なうえに、整備不良も加わって、戦後はボイラー破裂などの事故を多発します。山科の大築堤状で大音響とともにボイラーが破裂したのを、身を持って体験されたのが、大築堤の近くにお住まいだった須磨の長老で、その様子は「青信号64号」に詳説されています。さて戦後になって、状態不良のD52は廃車を進め、良好なカマは、長期の使用を見越し、戦時設計から改良が加えられました。一部のカマは、従台車を2軸にしてD62に、ボイラーを利用して旅客用のC62に改造されました。いっぽう、北海道へは、東海道、山陽の電化の進展で、余剰が生じたD52が昭和35年から順次、転属しました。軌道強化された函館本線の函館~長万部、室蘭本線の長万部~鷲別で貨物列車、一部で旅客列車を牽くことになりました。今回は、最大15両を擁した五稜郭機関区のD52のなかで、現在では京都鉄道博物館に保存され、ラストナンバーに当たる468号にスポットを当てました。

D52 468は、昭和21年の製造だから、戦争が終わってからの就役だった。三菱三原製作所の製造で、もともと同所では、468~492を製造する予定だったが、結局468のみ製造して、以降は中止となり、たまたま468がラストナンバーとなった。国縫(昭和47年3月)

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 やっぱり蒸機が好き!《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑥

D52 五稜郭機関区 (1)

太平洋戦争のさなか、“3年持てばよい”の考えのもと、徹底した戦時設計で建造されたのがD52でした。当時、最重要資源の石炭輸送は、鉄路だけでなく、航路もありましたが、攻撃の標的になることが多く、鉄路による重量物の輸送に変更され、急遽、当時の主力D51を上回る牽引能力を持った貨物用機が製造されることになり、昭和18年から300両近くが製造されました。計画ではさらに、増備の予定でしたが、終戦とともに中止、最終ナンバーは468号ですが、183両の欠番があり、実質の製造は285両となりました。しかし戦争末期の資材不足の約2年間で300両近くの大型機を製造したことは驚きに値します。その強力パワーで、東海道・山陽の二大幹線がその中心でしたが、昭和40年代にも、五稜郭機関区に10両のD52が配属されていました。夜の五稜郭機関区、扇形線に顔を揃えたD52136 D52468、昭和40年代、同区には最大15両のD52が配属され、函館~長万部~鷲別で、貨物列車、一部では旅客列車も牽いていた(昭和47年3月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名版》で巡る北海道の蒸機 ⑤

倶知安区 9600

北海道を代表する蒸機と言えば、スタイルは別としても9600でしょう。数こそD51より少ないものの、昭和43年時点では、北海道の蒸機の約3割、145両を占めていて、ほとんどの機関区に配属され、ローカル線の客貨牽引、入換えに活躍していました。デフの切り詰め、警戒色など、北海道らしい改造がされて、その好みは分かれるところですが、そのなかで最も特徴的なのは、倶知安区の二つ目の9600でしょう。

倶知安区9600の運用は、岩内線(倶知安~小沢~岩内)、胆振線(倶知安~伊達紋別)の貨物牽引、倶知安の入換用でした。二つ目は、カーブなど見通し不良区間での警戒のため、前照灯を二個にしたとの解釈が多いようですが、これは倶知安だけの理由とはならず、倶知安周辺では、冬期、前照灯に氷雪が付着して、前方の確認に支障があったと言います。そこで、風の流れができる、デフのステー上に前照灯を置くことによって、付着を防ぐ目的があったのではと言われています。

 

夕闇に二つ目が輝く倶知安区の79616

 

 

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 やっぱり蒸機が好き!《区名板》で巡る北海道の蒸機 ④

室蘭区 C55

“北海道のシゴゴ”と言えば、急行「利尻」も牽いた旭川区のC55が有名ですが、もうひとつ、室蘭区にもC55がいました。ただ撮影したのは、昭和43年の一回だけで、在籍もわずか3両、翌年にはC57に置き換えられ、一部は旭川へ転属しました。昭和49年まで宗谷本線で活躍した旭川区のC55と比べると、知名度としては低いものでした。しかし舞台となった室蘭本線はほぼ複線、大カーブ、日本一長い直線と、スケールの大きな区間を、スポーク動輪をカシャカシャ回転させながら走り去る姿は、なかなか魅力的でした。(以下、昭和43年9月)

室蘭区のC55のなかには、トップナンバーのC55 1がいたこと特筆される。白老~社台を行く小樽発札幌経由の室蘭行き722レ ゆるくカーブしているが、ここから沼ノ端まで、日本一長い直線区間28.7キロが続くことになる。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ③

D61 京都に現る

それはちょうど50年前、昭和46年11月のことでした。どこからともなく「梅小路にようけ蒸機が集まっとる」のウワサが流れてきました。BOXでも、その話で持ちきりとなり、ある日の午前、BOXにいたメンバーで実際に見に行くことになったのです。約10人で梅小路機関区のラウンドハウスへ行ってみると、な、なんと北海道のC622、C551、D52140、9633、九州のC612、D50140、D6031と、彼の地で夢中になって写していた蒸機がそろっているではありませんか。そのなかに、昨年に留萌で見たはずのD612も含まれて、横にはあのC622と並んでいるのです。なにか夢を見ているような瞬間でした。

突如、梅小路機関区に現れたD61 2、左に「梅小路」のネオンの一部も見える、ここは間違いなく京都、まだ蒸気機関車館が開業する前で、現業部門の機関区に、北海道、九州から人気の蒸機が集まって来たのか、この時はよく理解できなかったが、あとで理由を聞いて氷解した。(昭和46年11月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ②

留萌区 D61 〈2〉

D61の働き場所は、深川~留萌~築別であり、留萌本線、羽幌線の両方の区間で使われていました。当時は、築別から羽幌炭砿鉄道が分岐していて、終点付近には、良質炭の採れる羽幌炭坑があり、石炭を増毛、深川まで運ぶのがD61の役割でした。運用表を見ると、ほとんどが留萌~築別であり、D61の目的である、丙線での運用に合致していました。D61は二軸従台車のためキャブの揺れが少なく、D51より乗り心地が良かったと言われますが、軸重軽減のため空転が多く、途中には20‰勾配もあるため、補機が付く場合が多く見られました。今回は、今は無き羽幌線留萌~築別で撮ったD61の活躍です。

留萌に向かう872レが、D61 5+D51 543の重連で夕方の築別を発車。この日は鉄鈍爺さんと一緒だった。築別に着くとD61が蒸気を吹き上げて満を持している。聞くとまもなく発車だと言う。二人で必死になって線路上を走って駅の外れまで来ると、発車の汽笛が聞こえて来た。枕木を井桁に組んだ高台が見つかり、とっさによじ登って連写した。(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き!《区名板》で巡る北海道の蒸機 ①

留萌区 D61  〈1〉

「やっぱり好き!」シリーズ、昨年に掲載の九州から、今年は北海道へ移ります。北海道で蒸機が活躍していた昭和40年代には、夏冬に計4回行っています。そのうち半分近くは、今まで紹介したC62に費やしましたが、そのほかにもクローバー会会員ととも、各地で撮影をしています。昭和43年時点で、九州には458両、北海道には536両もの蒸機がいました。ただ、九州と比べると、手入れが悪いうえに、醜い改造があったり、後年になると“団結列車”も出現して、美しい形式写真など望むべくもありません。勢い、機関区でじっくり形式写真を狙うより、駅での編成写真や、駅間で北海道らしい走行写真を撮ることが多くなりました。

そこで今回は、九州編のように、機関区別に形式ごとに紹介するのを止めて、特徴的な蒸機を採り上げます。編成写真や走行写真を中心に紹介して行くことにして、今まで紹介のC62は除外しました。第1回は、北海道だけにいたD61、所属は、深川機関区留萌支区です。以下の写真を見ると、キャブの区名板は本区の〔深〕となっています。支区の〔留〕が掲げられていたかは不詳ですが、所属先を明確にするために、〔留〕とします。

留萌本線の峠下を通過するD61 6〔留〕の牽く石炭列車774レ、留萌本線が増毛まであって、留萌から日本海沿いに幌延まで羽幌線が伸びていた時代、沿線には、まだ炭砿が多くあって、両線には石炭列車が多く運転されていた。峠下は、深川と留萌の中間付近、文字どおり峠のすぐ近くにあって列車交換も盛んに行われていた。当時から人家は少なかったが、駅員もちゃんと配置されていた。転轍機を操作するため、広い構内に必要な自転車が置かれていたのも、当時らしいアイテム、4年前に、約50年ぶりに峠下を列車で通ると、ちゃんと列車交換があった。駅はとうの昔に無人化されていたが、保線要員の基地として駅舎もそのまま残っていて、50年前の既視感にとらわれたものだ。(昭和44年9月)

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 さよなら 近鉄特急色 〈6〉

近鉄特急色を見直す

しつこく同じテーマのことを書きますが、これで最後とします。私が近鉄特急色について、強く印象に持ったのは、中学生の頃に読んだ鉄道ピクトリアルで、「電車の色いろイロ」と題した、東京大学の学生が著わした記事がありました。昭和38年のことで、暗色の時代から、湘南電車、101系、こだま型と、カラフルな電車が続々と出現していますが、主流は上下二色塗りで、そのほとんどは、窓廻りはクリームなどの明色、下部は暗色に塗られています。

たしかに安定感のある塗り分けではあるのですが、窓部そのものは暗いため、窓周辺を明るく塗ると、視覚的なバランスを欠くと指摘しています。逆に、窓廻りは暗色、下部を明色にすると、暗い窓部が同化して一体感、軽快感が出るとしています。その代表が「こだま」であり、私鉄では、近鉄の新ビスタ101100系が挙げられてていました。特に新ビスタは、斬新な外形とあいまって絶賛されていました。当時のピクと言えば、電車の性能、来歴などの小難しい記事ばかりでしたが、はじめて外部色に言及した内容で、近鉄特急色が中学生の心に残ったのでした。今までの紹介は広軌線ばかりだったが、狭軌線の南大阪・吉野線にも近鉄特急色が走っている。いちばん華やかなのは、何と言っても𠮷野の桜が満開の頃だろう。山全体がピンクに染まった𠮷野駅、16000系が花見帰りの満員の客を乗せて発車して行く。 (2003年4月)

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 さよなら 近鉄特急色 〈5〉

塗装変更された ほかの特急車(1)

「近鉄特急のイメージが大きく変わります!」と近鉄がニュースリリースを配信したのが2015年11月でした。汎用特急のうち、主力の22000 系86 両の車内設備をリニューアルするとともに、カラーリングを変更し、クリスタルホワイトに、ブライトイエロー・ゴールドを加えた新塗装になるという内容でした。最初のリニューアル編成は、まもなく営業を開始し、22000系以外の汎用特急についても、同様のカラーリング に変更しますとも添えられています。しかし車齢の高い12200系だけは、このリニューアル、カラーリング変更の対象から外れ、将来、廃車となる予告がされたことを意味しています。今回は、12200系以外で、同じ近鉄特急色をまとっていた特急車両を見ていきます。12410系が山間部を行く。33パーミル区間を、異形式を連結した長編成が弓なりになって高速で駆け上がるのも、近鉄特急ならではの魅力。三本松(2002年3月)

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