教えて下さい!

私は三江線を盛り立てようと心に決めて、4月に三江線応援ツアーに申し込んだものです。
この機会にジパング倶楽部なる秘密結社に加入して初めて利用するのですが、切符の買い方が分かりません。どなたかご親切な方、教えて頂けませんか?
実は、自販機以外で切符を買うのは卒業以来初めてです。九州均一周遊券や北海道均一周遊券の買い方は知っていますが、それとは少し違うようなので戸惑っています。
行程は
京都→(赤穂線経由)→福山→塩町→三次→江津→倉吉→(智頭鉄道線経由)→上郡→京都で、倉吉→京都は特急スーパーはくとを利用します。
乗車券は智頭鉄道線区間を引いたJR線は連続乗車として計算してくれるそうです。
その上で説明書を読むと、「片道、往復、連続で201km以上」となっています。

そこで質問です。
単純に京都→京都で乗車券を買った場合、全行程から智頭鉄道線区間56.1kmを引いた距離の乗車料金になるのか?と言うことです。かつて利用した時は一筆書きで書ける範囲が一枚、行きと帰りで重なる範囲が一枚、となっていましたが、もしそれと同じなら京都からルートを逆算して201km地点で前半と後半にわけなければなりません(具体的に言えば京都→湖山、湖山→京都+智頭鉄道線)。それとも重なっても良くなって京都→京都で買えるのかを教えて下さい。

今ひとつ
福山までは赤穂線経由で行きますが、山陽本線経由でも途中下車しなければ安い方で計算してもいいのでしょうか?

割引方法がややこしくなったわりに割引率が悪くなっていることに驚きながらおたずねします。
よろしくお願い致します。

丹波の山中に阪急電車

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阪急2861 福知山市雲原にて

先日 加悦から大江山を越えて福知山へ抜ける国道176号線を走っていたところ いきなり阪急2861に出くわし ビックリしました。帰って調べてみると3扉化されてはいるものの、2800系として最後まで残り、平成7年に嵐山線でさよなら運転をした1編成のうちのTcのようです。屋外放置ですが、傷みは少ないようでした。個人の敷地内なので道路からの撮影にとどめましたが、ここまで運んでくるのも大変でしょうから、よほど2800がお好きな人がおられるのでしょう。マルーン会長殿、何かいきさつをご存じですか?

津山扇形機関車庫が活況

旧津山機関区の扇形庫は現存する扇形庫のなかで梅小路に次いで2番目に収容力が大きい(17線)クラとして 経産省の近代化産業遺産、日本の近代化土木遺産、岡山県の近代化遺産に指定されています。ターンテーブルも現役で使われています。そして庫内に保存されている車両も次々と増えています。今回 更にDD16304が加わったようです。昨日の中国新聞井笠・おかやま版に紹介記事がありました。

H27-9-8 中国新聞

H27-9-8 中国新聞

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WANTED 皆さん、僕たちの組立式レイアウト、どうしたでしょうね。

 西村さんが模型の話題を投稿されていましたが、私も西村さんのように車両を本格的に製作することもあまりありません。そこで少し気になっていた「そんなん、口笛を吹きもってできるやん!」と言って枕木を1万4千本(一説には2万本?)を作っという人たちの超人的な活躍で出来上がった組立式レイアウトの写真がありました。その組立式レイアウトは現在、放浪の旅に出ているようで、どうも、どこでどうしているやら行方不明なのであります。その発見の手がかりになればと、どこで開催したかわからない運転会とEVEの時に撮った写真を公開手配写真として見ていただきます。EVEの写真は1971年11月27日に、そして運転会は1972年10月5日の木曽森林鉄道に行った時に少しフィルムが余っていたので撮ったものです。青信号29号の活動報告によると1972年10月14日、15日に枚方で模型運転会を行っています。どうも、この時のようです。それではEVEの時の写真からですが、室内なので暗く、手持ち撮影、フィルムはネオパンSSですので状態はかなり悪いものです。しかし、スキャンしてデジタル化すると最近の画像処理ソフトは優れているので、まあ何とか見れるようになりました。

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芸備線100年 追憶シリーズ その2

本日の朝刊から。

 

H27-5-23 中国新聞朝刊

H27-5-23 中国新聞朝刊

私は子供の頃 家に「米穀通帳」があったことは覚えていますが、闇米運びの光景は知りません。ところで この写真を見ていて変な感じを受けたのですが、デッキの向こうのドアが四隅にRのついた窓なのです。闇米運びがあった頃にHゴムの窓があったとは思えないのですが・・・。これは闇米ではなく 単なる大きな荷物を背負った人、もしくは行商人ではないかと。諸賢のご意見をお聞かせ下さい。

準特急さん、教えて下さい!

準特急さんは各地にある保存機関車を研究されていますのでお伺いします。
今から十数年前、まだ可部線が三段峡まで通じていた頃、親戚一行で墓参りをかねて観光に行きました。その時、駅前にC11が保存されていました。時間があったので一枚撮っておいた写真がこれです。
その後、可部線は寸断されて廃止されてしまいました。このC11はどうなってしまったでしょうか?もしご存じなればお教え下さい。
温井・三段峡10

管理人殿へ

いつも大変お世話になり 感謝いたしております。質問です。記事に対する少し長めのコメントを記入し、送信しようとすると最初は下に表示されていた名前記入欄や「コメント送信」ボタンが出てこなくなり、送信できません。コメントの行数、文字数に制限でもあるのでしょうか?あるいはやり方がマズイのでしょうか。ご教授願います。鈍くさい会員より。

ハロー!ネルソンくん!

朝日新聞に表題の記事が出ていました。

早速買ってきました。売ってくれたのは著者の女性です。「新聞を見て」というと、うれしそうにほほえんでくれました。

ところで諸兄にお尋ねしますが、記事文中にある「昭和13年まで東海道線の新橋-神戸間で急行列車などを引っ張るなど・・・」とありますが本当でしょうか?

この時期はすでに大型機関車が本線に投入されていた時期で、1080のような旧型タンク機関車が急行列車を牽引していたとは考えられません。あるとすれば勾配区間での補機でしょうが、諸賢の考証をお聞かせ下さい。

「ハロー! ネルソンくん!」の表紙

  • 写真・図版
  • 写真・図版
 

 梅小路蒸気機関車館(京都市下京区)に保存されている英国生まれの蒸気機関車(SL)の生涯を描いた絵本が出版された。絵と文を担当したのは、同館職員の河合都(みやこ)さん(32)。「絵本がきっかけで、子どもたちがSLに興味を持ってくれたらうれしい」と話している。

題名は、「ハロー! ネルソンくん!~うめこうじの なかまになった ネルソンくん」。1901(明治34)年に英国で製造された「1070形 1080号機」がモデルで、愛称ネルソンにちなんだ。全長約11メートル、重量48トンで、小柄なのが特徴だ。当時135両が輸入されたが、現存するのは この1両だけとなり、「幻のSL」と呼ばれる。

38(昭和13)年まで東海道線の新橋―神戸間で急行列車を引っ張るなど活躍。その後は新潟や栃木の鉱山で鉱石の運搬用に転身し、79(同54)年に引退した。その後、2009年9月に所有していた鉱業会社から同機関車館に寄贈された。

いいかげんな電車の現役時代

米手作市様のリクエストにお応えして いいかげんな電車が活躍していた時代の写真をご紹介します。訪問したのは昭和48年7月25日の1回だけで わずかな写真しか残っていません。まずは主役のデ7050型から。

当時は新高岡と称していた高岡駅前に到着した7051号

当時は新高岡と称していた高岡駅前に到着した7051号。
よく見ると窓際に立っている乗客がいる。多分座席のない
部分なのだろう。車体側面には「万葉閣」の広告ロゴが。当時から地元では万葉が身近にあったのだろうか。

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DD40の目撃者 おられませんか

掲示板には模型の話題が少ないので、あえて模型がらみのネタにしました。以前からマイナーな車両を懲りずに作っているのですが、このたびDD40が完成しました。DD40は昭和29年10月 三菱三原製 製番No.799の液体式DLです。

試運転中のDD401 場所は不明だが、糸崎駅か?

試運転中のDD401 場所は不明だが、糸崎駅か?

左から5Ton機、DD401,DD901

左から5Ton機、DD401,DD901。DD2両はパワトラ2個使用の全軸駆動で力持ちです。

 DD40は昭和31年5月から梅小路機関区に貸し出され、昭和35年5月からは吹田第一機関区に移って吹田ヤードや尼崎港線で試用され、昭和37年3月に三菱三原に返却されました。昭和37年の称号改正でDD921となっています。返却後は工場内の入換えに使われたようですが、いつの間にか消滅したようです。DD40は この時期各社が製作した試作DLのなかで 最も地味で情報の少ない機関車のようです。ちなみにDD901(もとDD411)は東芝製の電気式DLで大宮機関区にいたせいか、結構写真などが紹介されています。写真左の5Ton機は三菱三原が昭和26年2月に初めて製作したDLで 隣接する日本セメント糸崎工場の入換え用で使われたあと 三菱三原に戻り、現在も保存展示されている機関車です。この模型は箕面市の模型店「モデル8」が売り出していたエッチング板から作ったものですが、小さすぎて動力化は私の手に負えずモーターなしです。さてここからが本題のお願いですが、この地味なDD40を梅小路や吹田、尼崎港で見たことがあるとか 写真を撮っているという先輩諸氏がおられませんか? 何しろ私の小学生時代の機関車で全く接点がないのです。これから塗装しようと思うのですが、またしてもどんな色をしていたのか全くわかりません。DD13が登場したときのような茶色に黄色い帯で塗ろうかとは思っていますが、何か情報があれば教えて下さい。

教えて!専門家!(その1)

日頃から「鉄道マニア」を自称していると、とんでもない質問を受ける羽目になる。
最近、立て続けに聞かれて答えられないことがあったので、諸賢に助太刀をお願いする。

一昔前まで、ローカル線には混合列車が多く見られた。この編成は大抵が客車1両に貨車数両をつないで蒸機が引くものだった。この場合、一般的には客車は機関車側につなぐが、貨車をはさんで後部につながれることもあった。
そこで質問は、機関車の次位に客車が来る場合ではなく、間に貨車をはさんでいる場合の暖房方法である。
記憶を引っ張り出してもストーブを乗せている思い出はなく、かといって貨車を通して蒸機パイプを引いていたこともない。確かにSGのない電機用にヌ(暖房車)もあったが、ローカルの混合列車用ではなかった。ではどうしていたのか?これが質問です。

教えて!偉い方!

JR九州の「ななつ星」

ニュースによると、JR九州ではオリエント急行を彷彿とする超高級列車を作ったとか。
名前を「ななつ星」というらしいが、機関車をはじめ客車に関しての情報が全く出てこない。検索をしても機関車がDF2007001と言うことしかわからないが、JR貨物のDF200を改造したものか、基本性能をDF200と同じにして新たに作ったものかはわからない。客車に至っては新製車だろうが、形式などもわからない。機関車にしてもどこに型式番号を書いてあるのかわからない。

どなたか、機関車はじめ客車の基本性能諸元と、型式番号をご存じの方があればお教え頂けないでしょうか?

おたずねします。

以前に京都市バスの写真と資料が掲載されていたように思いますが見つかりません。
市バスなら藤本さん、と思ってさかのぼりましたが見つかりませんでした。
誰が書いたものか?いつの掲載か?どなたかご存じの方があればお教え下さい。

瀬戸内だより

広島からニュースを2件お届けします。

「トワイライト 呉線を走る」 

去る2月19日に続き、本日もトワイライトエクスプレスの車両を使った団体臨時列車が岡山から呉線経由で広島まで走りました。「トワイライトエクスプレス車両で行く瀬戸内ランチクルーズ」と銘打った企画ツアーで、食堂車での食事がウリのようです。3月以降計6回走るようです。3月19日、28日、4月2日、9日、5月21日、6月4日に予定されています。呉線に電機や客車が走るのは久しぶりで、平日にもかかわらず、レンタカーで追いかける人たちも大勢いました。私の撮影場所は須波ー安芸幸崎間です。来月以降は宮島口まで延長運転されるそうです。この企画ツアーの帰路は新幹線利用なので トワイラはセノハチを越えて空車回送されるはずですが、この回送ダイヤが不明です。田舎町では「ダイヤ情報」が手に入らないので、どなたか教えてください。IMG_6572-1

「ドルトムント電車レストラン 3月末で閉店」

千田町の広電本社前で営業してきたレストランが残念ながら店じまいするそうです。KAWANAKAさま お急ぎください。

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蒲原鉄道保存車両モハ1のこと

  以前にNHKの番組で録画した「思い出の鉄路 本州編1」を久しぶりに見ていた。順番に南部縦貫鉄道、小坂鉄道と見て、そして蒲原鉄道になってから現在の保存車両が写っているのを見ていると、どうも「信貴電の不思議 改訂版」で紹介した信貴電のデハ51とよく似ているのに気がついた。映像を戻し、一時停止してよく見てみるとやはり似ていた。デハ51の絵葉書と見比べてみたが、ドアと窓の配置と数が同じであった。見た感じの大きさも同じのように感じた。保存車両がモハ1となっていたのでインターネットで検索してみるとこの蒲原鉄道モハ1について投稿記事が多くあり、新潟県加茂市の文化財として県内最古の木造電車として加茂市の所有として保存されていることがわかった。蒲原鉄道のモハ1は全長11.455m 定員66名 自重20.03tである。信貴電のデハ51は信貴生駒電鉄社史の車両一覧で全長11.40m 定員65名 自重12.9tとなっていた。全長と定員についてはほぼ同じであることがわかった。

 大和川鉄橋を渡る生駒線の電車

 ∧ かつて信貴電のデハ51が走っていた大和川橋梁を望む。

信貴電デハ51は北大阪電鉄(現在の阪急千里線)のデハ1形(新京阪P1)として大正10年3月に梅鉢鉄工所製で8両製作されたものの中から信貴電に売却されたものであることが知られている。そして、蒲原鉄道のモハ1はインターネット上の投稿記事からまとめてみると当初はデ1、2の2両あり、保存されているのはデ2が倉庫として使用されているのを復元改修して現在の状態で保存されているということである。この電車は大正12年(1923年)に蒲田車輌製作所で製作されたとあった。さらに、この電車は目黒蒲田電鉄(東京急行電鉄の前身)の大正11年(1922年)汽車製造合資会社で製造されたデハ1形と寸法がほぼ同じとあった。そして信貴電デハ51と全長がほぼ同じということは・・・?

 デハ53号電車

∧ 再び信貴電デハ51形53号電車の絵 (信貴山下駅に停まっている絵葉書より作成)

 さて、蒲原鉄道デ1,2(現在の表示形式モハ1)、目黒蒲田電鉄デハ1、北大阪電鉄デハ1形の三つ巴の関係はいかに?まったく関係なく、たまたまに同じようなものがほぼ同じ時期に偶然存在したのか?それとも、なんらかのつながりがあったのか?名探偵金田一さん教えて~

山の上から見下ろすと

 我が街には瀬戸内海国立公園の一部にも指定されている筆影山(ふでかげ山)があります。標高311mと麓から山頂まで歩くにはちょうど良い山で、野鳥も多くよく歩きに行きます。山頂からは瀬戸内海の多島美が楽しめますが、途中の登山道から見下ろすと M重工の和田沖工場が足元に広がります。広い構内には各種試運転線があって、広電の連接車やゴムタイヤ式新交通の走行試験を見ることができます。平成18年3月に廃車になった広電550型555号が何故か試運転線上に留置されています。広電旧型車の置き換え用に新製されたと思われる3連接車?も見えます。また草むらには関東から来たと思われる電車の車体も置かれていますが、何鉄道の何型なのか私には判りません。どなたかご存知の方はご教授を。

広電555号。廃車から6年を経て かなり色あせている。

 

 広電旧型車の置き換え用新車?

手前は湘南モノレール401号。奥の電車は何者?

三山木駅は「みやまき」?「みやまぎ」?

 奈良の駅名研究家と名乗っている以上、適宜研究報告もせねばならない。記念すべき、駅名に関する初投稿内容は「三山木駅」についてである。
 さて、同志社大学京田辺キャンパス付近にはJR三山木駅、(近鉄)三山木駅があるが、同志社大学の鉄道ファンなら正しく読める駅名であることは間違いない。読み方は「みやまき」である。しかし、意外と大学生の中には「みやま」と濁点付で読む人もいる。駅名研究家としては、一般の方にも駅名を正しく読んで頂きたいという願望があるため、この間違え方はあまり気に入らないものである(だからこそ、私は全国の駅名を正しく読めるよう勉強している最中である)。
 そこで、次の写真をご覧いただきたい。これは某バス会社の「同志社大学正門2」停留所の行先案内である。「Miyamaki」と表記すべきものが「Miyamagi」となっている。ちなみに、このバス会社HPの運賃検索で「三山木駅」と入力するとしっかりと「みやまきえき」とふり仮名がふられる。
 「みやまぎ」と読む例もあるのか、ただの誤植なのか、真相は如何に。

↓「Miyamagi」は誤植なのか?

蒲田の電車?

先日終わったNHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」は、タイトルバックが楽しみでした。
そのタイトルバックは精巧にできた蒲田の町並みのジオラマで、人気があったようで、ジオラマを作った方が東京で作品展を開くとのニュースが、今日のネットで流れていました。

> NHK連続テレビ小説「梅ちゃん先生」は好評のうちに9月末で終了したが、そのタイトルバックに使われたジオラマ(立体模型)が、日本橋高島屋(東京都中央区)に展示されている。制作したのは、懐かしい街並みや庶民の暮らしをいきいきと再現するジオラマ作家、山本高樹さん(48)。初の本格的個展「昭和幻風景 ジオラマ展」が同店8階ホールで開かれている。<

毎日気になっていたのは、ジオラマで国電のような茶色の電車が2両で鉄橋を渡るシーンがあるのですが、この電車は何か?と言うことでした。窓は2段の引き上げ式、クハとクモハでどちらも2扉。場所は蒲田ですから国電か目蒲線でしょう。時代は昭和30年頃という設定ですからもちろん私は知りません。
このタイトルシーンは数組あるようで、夜のシーンでは、窓が少し大きく、はめ殺しのR付のようにも見えました。模型が2セットあるのかもしれません。

さて、この電車はなんでしょうか?推理できないでしょうか?教えて下さい。

お宝、発掘!

大学時代の恩師のお宅を訪問したとき、奥様から「あなたは鉄道に興味をお持ちだからこれを差し上げます」と思いがけないプレゼントを頂きました。恩師の教授はすでに亡く、奥様は私が「同志社大学鉄道同好会」のOBだとはご存じないようです。

さて、このお宝はプラスティック製のコースターらしきものですが、私には覚えがありません。多分展望車を走らせたときの記念品だと思いますが思い出しません。

こんな事に長けた方が多いと思いますので、これがどんなことで作られたのか、誰が考えたのか、だれの画なのか、など教えてください。

こんなん出てきました

京阪3000の見学会のネガを探していたら、同じネガのなかに模型運転会のスナップがありました。これも日時、場所不明です。昭和47年4月から8月のあいだです。どこかのお寺を借りて運転会を行った記憶はあるのですが、どこだったのでしょう?「明治チョコレート」の工場と言えば茨木、高槻あたりにありますが、そんなところまでレイアウトを運んだのか・・・?だれか覚えておられませんか。