【生田緑地】 35.608637, 139.560677 2016年10月30日撮影
スハ42 2047
3年前の10月29日、クローバー会の江ノ電撮影会と大宴会に参加し、その後東京へ行って旧新橋停車場近くのホテルに泊まった。翌30日、汐留から都営大江戸線で新宿→小田急で向ヶ丘遊園まで行き、10数分歩いて生田緑地東口に着いた。入口近くに多数の古民家があり、その脇を通り抜けた木陰にスハ42 2047が置いてあった。また、近くにD51 408が保存されている。このような公園を毎日散歩できたらなあと羨ましく思った。
北海道のスハ42は消滅したようなので、現存する唯一のスハ42であろうか。
◆スハ42 47(1948年12月15日新製 日支)→1955年5月31日更新修繕 大宮工→(1962年5月16日電暖追設 大宮工)スハ42 2047→1975年8月5日体質改善C5 大宮工→1985年廃車
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客車廃車体訪問記 内地編43 埼玉県-1
【北斗星食堂車 グランシャリオ】 35.871090, 139.748288 2018年3月18日撮影
スシ24 504
武蔵野線東川口駅南東徒歩数分の、ピュアビレッジなぐらの郷にある、「北斗星食堂車 グランシャリオ」というレストランであった。現在は「ベーカリーレストラン グランシャリオ」という屋号に変わっているようだ。車内はできるだけ現役時のままにしてあるらしい。傍にあった軽トラックも同じイメージのブルーに塗装されていた。元々同じ敷地のレストランの駐車場だったが、そこにレールを敷き食堂車を搬入してレストランとして開業したものである。
◆サシ481-64(1973年新製 東急)→(1988年改造 新津工)スシ24 504→2016年廃車
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マルーンさん何とも言えない侘しい笹部駅ですよ。おまけつき
頃は昭和46年、西暦では1971年11月16日。EVE(同志社の学園祭)で能勢電をフォトルポで展示しようということになって、何回かにかけて撮影行。朝早くに阪急との乗換をするラッシュの駅風景を撮ったりしたのであった。その中で無人駅の笹部駅はマルーンさんが言われるように信じられないような無人駅。撮った写真の内で選んだ3枚を・・・
客車廃車体訪問記 内地編42 宮城県-3
【船岡駅前公園】 38.059004, 140.767093 2018年4月29日撮影
オハフ61 2527
山陰本線の船岡ではなく、沿線の桜並木が有名な東北本線船岡駅南側の公園に、ED71 37とともに保存されている。上りホームに石川啄木の歌碑があり、ホームからも大変よく見える。上屋はなく、状態は良いとはいえないのが気に掛かる。
◆ホハフ25700(1922年新製 日車)→(1928年改番)ナハフ24101→(1953年鋼体化改造 長野工)オハフ61 527→(1965年電暖追設 土崎工)オハフ61 2527→1984年廃車
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昭和の電車 改訂版(23)ー能勢電60型ー
この記事は2011年5月2日の投稿で、コメント欄には藤本さんの解説と湯口さんの能勢ー京都間の鉄道敷設に関する逸話がでていますので、是非読んで下さい。
さらに遡ること半年前の2010年11月21日に「ポール時代最末期の能勢電」で藤本さんが「借入中の阪急40形(大正12年藤永田造船所製)の40・41を昭和29年9月に譲り受けてナニワ工機で鋼体化改造して30年1月に竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。60は同年12月に廃車となり、残った61は川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった」と写真入りで解説されています。
客車廃車体訪問記 内地編41 東京都-3
【アタゴール】 35.672355, 139.806163 2012年1月30日撮影
オロネ25 901
江東区の首都高速木場ランプすぐ北にあるフレンチレストランである。通常はこの客車を眺めながら食事をする。ここのオーナーシェフはオリエント急行のシェフを務めたことがあるらしい。訪問時は工事中であった。
◆オロネ25 901(1989年新製 日車)→2014年廃車
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客車廃車体訪問記 内地編40 福岡県-3
【福岡市 貝塚公園】 33.632279, 130.423940 2013年11月23日撮影
ナハネフ22 1007
西鉄貝塚駅の西側、西鉄と国道3号に挟まれた貝塚公園に49627と一緒に保存されている。ナハネフ22になる前はスハ32が保存されていた。ここには他にプロペラ飛行機も保存されている。貝塚交通公園ともいうらしい。
◆ナハネフ22 7(1965年新製 日車)→(1977年改造 幡生工)ナハネフ22 1007→1987年廃車
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客車廃車体訪問記 内地編39 愛知県-1
【蒲郡市博物館】 34.822476, 137.218831 2017年11月7日撮影
オハフ33 2424
駅前ロータリーに白いヨットがある蒲郡駅からぶらぶら歩いて蒲郡市博物館に行った。地味な蒸機(浜松工場生まれで梅小路のD51 200と兄弟分)と地味な客車であるが、良好に保存されているのはうれしい。
◆オハフ33 424(1947年新製 日車)→オハフ33 2424→1982年廃車
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客車廃車体訪問記 内地編38 和歌山県-1
【浦島ハーバーホテル】 33.478717, 135.787818 2013年1月2日撮影
オハフ50 66,211,218,240
串本の浦島ハーバーホテルでプールの更衣室や休憩所、食堂等として利用されていたようである。
銘板から、プール側の画面左はオハフ50 218、右はオハフ50 66と確認できたが、海側の残り2両は確認できなかった。車内には何か手掛かりがあったかもしれない。
浦島ハーバーホテルは2016年3月31日で閉館し、その後最近になって大江戸温泉物語が引き継いだ。現在でも存在しているだろうか。
◆オハフ50 66(1978年新製 新潟)→1991年廃車
◆オハフ50 211(1980年新製 新潟)→1991年廃車
◆オハフ50 218(1980年新製 富士)→1991年廃車
◆オハフ50 240(1980年新製 新潟)→1991年廃車
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客車廃車体訪問記 内地編37 福岡県-2
【関門海峡めかり駅前】 33.960724, 130.967006 2013年12月31日撮影
オハフ33 488
関門海峡の壇ノ浦古戦場跡を間近に望む九州の北の端、山陽新幹線の新関門トンネルのほぼ真上に位置する。松本清張「時間の習俗」に登場する和布刈神社が近い。天気が良く、本州が川の対岸のように見えた。
九州鉄道記念館-関門海峡めかり間は、平成筑豊鉄道が第2種鉄道事業者で、門司港レトロ観光線として営業している。保有している第3種鉄道事業者は北九州市である。暖かかったので、門司港駅まで歩いて戻った。
◆オハフ33 488(1948年新製 日車)→1978年廃車
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客車廃車体訪問記 内地編36 徳島県-2
【小松島ステーションパーク SL記念広場】 34.011652, 134.585838 2010年11月20日撮影
オハフ50 272
小松島ステーションパークは、1985年に廃線になった旧小松島線の廃線跡で小松島駅より少し中田寄りにある。上屋付のホームがあるが、角度は旧小松島線に対して直角である。
◆オハフ50 272(1980年新製 富士)→1992年廃車
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阪和電鉄オリジナル
天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 (19) 秋編
加太で写したカラー
ホントによく行ったものです。前稿でも採り上げた「鉄道ファン」別冊の撮影地ガイド本の原典となった、本編の52号に加太の撮影地ガイドが載っていました。その前から憧れの地で、記事で全体を把握して、高校1年の時に初めて行きました。まだ特急「あすか」が走っていた時でした。DRFCに入ってからは、新入生歓迎旅行、打上げ旅行、現地闘争などと称して、メンバーとともに頻繁に行き、会社に入ってからも、蒸機が無くなる直前まで通ったものでした。
ただ狙いは蒸機、山間地の勾配区間とあれば、勢いモノクロ写真となり、カラーでは、わずか昭和47年の秋に訪れた以下の数点を写しただけでした。少し前にあった江若鉄道の廃線跡ウォーキングを終えて、浜大津で飲んでいると、向かいに座っていた、ご近所の無印不良品さんから、「加太の駅を降りて、村田屋へ行く途中の川に蛍が無数にいてなぁ、ホンマにきれいやった。一生忘れられへん」と語ってもらったのが、印象に残っています。▲秋の日曜日、加太では運動会が行なわれていた。ちょうど、村田屋の向かいにあった加太小学校、多くの地区家族も参加していた。その向こうをDC急行が下り勾配を駆け下りて行った。
客車廃車体訪問記 内地編35 高知県-2
【㈱技研製作所 記念の森】 33.549669, 133.727105 2019年7月15日撮影
オハフ50 189
㈱技研製作所の記念の森プロジェクトとして開発中の工事現場に仮置きのような感じで置いてある。
記念の森プロジェクト公式ブログ(http://gikenkinennomori.blog59.fc2.com/page-3.html)によれば、2008年7月15日(火)にスタートしている。奇しくも11年後のジャスト同日に訪問したことになる。しかし、ブログは約2ヶ月後の2008年9月25日を最後に途切れている。何か事情がありそうだ。11年経っても現場はブログの最初の画像(オハフ50も写っている)の状態から大きくは変化していないように見えた。
現地には完成予想図の看板もあり、近年オハフ50に屋根(金属パイプにビニール張りであるが)も付けたし、現場事務所もあって、祝日だったので少数だったが働いている人もいて、工事はなにかしらしているようである。
できれば近い将来に、記念の森が、化粧直ししたオハフ50をマスコットとしてオープンしてほしいと願う。
◆オハフ50 189(1979年新製 富士)→1990年廃車
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福塩線昭和37年3月15日時刻改正前後の時刻表
昭和37年3月号が見つかりましたので、お目にかけます。
↑150頁
↑151頁 内容は3月15日時刻改正前です。
昭和29年4月と比較して、府中-下川辺間電車運転廃止直前の福山発着の電車は各30本に増加していましたが、下川辺発着は各3本に減少していました。電車は3往復になりましたが、府中-三次間の列車は差引増加しました。
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客車廃車体訪問記 内地編34 岡山県-2
【岡山市東区沼 グリルアルプス跡】 34.703305, 134.033356 1997年10月25日撮影
オハ46 2043
スハフ42 2255
↑オハ46 2043 奥にスハフ42 2255の後位寄り妻面が少し見える。
現在の岡山市東区で、かつての国道2号(現250号)のドライブインだったが、訪問時には店は閉鎖、客車の両端と国道側(南側)は背の高いフェンスが張られて殆ど見えなくなっていた。北の田圃側からオハ46 2043と、スハフ42 2255の妻面が見えただけである。2010年に撤去されたそうで、現在は跡形もないと思う。
ここは在来線からは見えたが、新幹線からは沼城跡とトンネルの間の一瞬しか見えなかった。
◆オハ46 43(1955年新製 日立)→オハ46 2043→1986年廃車
◆スハフ42 255(1954年新製 日車)→(1961年電暖追設)スハフ42 2255→1986年廃車
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福塩線昭和29年4月10日時刻改正前後の時刻表
西村さんから福塩線下川辺駅のご報告がありましたので、それに関連して福塩線の昭和29年4月9日までと昭和29年4月10日からの時刻表をお目に掛けます。日本交通公社の『時刻表』昭和29年4月号と5月号です。
↑昭和29年4月号p.62
内容は4月10日の時刻改正前の時刻です。昔は、4月の時刻改正が4月号に掲載されないことがありました。
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昭和の電車 改訂版(19)ー阪急115号ー
客車廃車体訪問記 内地編33 岡山県-1
【柵原ふれあい鉱山公園】 34.943476, 134.081371 2018年4月19日撮影
オハ35 1227(片上鉄道ホハフ3002)
↑オハ35 1227(茶色の客車)
改札を入って、誰もいないと思って客車のあるホームへ行くと、ベンチでオッサンが寝ていたのて一瞬驚いた(わかりにくいが、上の写真の青いホハフ2004の前のベンチ)。ホームレスでもなさそうな様子であったが、一通り撮影を終えて帰る時もまだ寝ていた。
◆オハ35 1227(1947年新製 日車)→1955年更新修繕-Ⅰ 幡生工→1980年廃車→(1981年)片上鉄道ホハフ3002→1991年廃車
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P-6のちょっとした思い出
趣味誌の中では私は鉄道ピクトリアルを懐メロ的に捉えておりこの歳になっても購読を続けている。要するに自分と関係のある時代の古い写真が好きなのである。同誌の2019年10月号は「阪急電鉄京都線特急」の特集であり、掲載写真をみるとDRFC-OBからも5人の方、そして会友である河昭一郎さんのお名前も見られる。その中で圧巻は40~41頁桂川橋梁上の132の超特急である。
さて、本題のP-6であるが、同誌10月号本文の最初に掲載された鉄道友の会会員であり京都大学鉄道研究会OBの山口益生さんの「”P-6”にまつわる話」という記事に非常に興味を持った。改めてその部分を取り出してみて一部をそのまま引用させていただき私の久しぶりの投稿とした。
まず、我々はP-6、P-5(P-4)はよく知っているが、P-1は新京阪が買収した北大阪の車両ということで私はよく知らない。さらにP-2は電動車60両、P-3は付随車16両計76両の3扉16m級クロスシート木造車とのことであるが、いろいろと事情があって幻となったようである。このあたりは古い資料をよく発表されたと思うが見たことがない人間にはピンと来ない。
P-6の最大の特徴である幌は画竜点睛と称されている。これがないとP-6の顏でないと思っている人は私を含め多いと思う。この幌も雨天時に油を含んだ汚水が乗務員の制服を汚すということを聞いたことがあるが、幌が出っ張り過ぎて夜間作業員の姿が見え難く人身事故を起こしてしまい廃止されたということは始めて知った。
▼私は幌付きのP-6を見たことがなく、車庫で着脱式のそれを見たことがあり高橋先輩から「珍しいよ」と言われて撮るには撮ったが納得できるものではなかった。1968.05.30 桂