四日市のさくら

三重県に住んでいながら、つい大阪や奈良に足が向いてしまいます。青山トンネルを越えて東へ向かって行くのは、なにか文化・風土の違う土地へ行くように思えてなりません。しかし今年は折角さくらが遅くまで咲いているので雨で散る前にと、思い立ちました。いつも近鉄ばかりなので違ったところで四日市あすなろう鉄道(半分くらいは近鉄ですか)です。最近では、雪の降った時に行ったことがあり、その時桜の咲きそうな場所を見たのを思い出しました。日永~南日永の「なろうブルー(161+ )」です。 続きを読む

河内・大和たより

今年は桜の開花が遅く、名張近郊でもやっと満開に近づきました。まだ例年に比べて気温の低い日もあり長続きはしそうです。この土日にいつもの場所ですが出掛けてきました。最初は国分の大和川です。近鉄の特急列車は塗装変更とグレードアップが進んでおり、旧特急色を見るのは少なくなってきました12200はそのままで淘汰されていくとも聞いているのですが。 続きを読む

京阪大津線の歴史を調べて(1-4漣駅)

4.漣駅
大正11年5月15日に三井寺までの延伸を果たした大津電車軌道はさらに北への延伸を画策し、昭和2年に太湖汽船、湖南鉄道と合併した琵琶湖汽船鉄道として昭和2年に三井寺-坂本間を高規格で開通させた。
この区間は開通後、駅の名前の変更、移転、休止など目まぐるしく変わったが、漣駅は旧大津電車軌道部分を合併した京阪電鉄が昭和4年10月10日開業し、昭和19年8月15日廃止された。
設置されたのは当時の錦織駅(現在の近江神宮前から南に約200mのところで、屁ノ尻川沿いに県道から駅に行く道が作られ、対面式のホームが作られた。県道から駅に行く道は現在もそのまま残っており、線路を横断する踏切は漣踏切となっていて駅があったことが偲ばれる。資料7:漣駅付近図、県道から駅への取付け道路が屁ノ尻川に沿って作られている。(県政史料室歴史史料、大と50より作図)

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京阪大津線の歴史を調べて(1-3紺屋関駅)

紺屋関駅の歴史は古い。明治22年東海道線が全通し、馬場-大津間の旅客営業は廃止されたが、明治31年に旅客扱いが復活、その後紺屋関には湖南汽船の大津港があり、乗り換えの便から大津電車軌道発足前の明治35年1月1日、鉄道院大津支線の駅として設置された。大正2年3月1日の大津電車軌道開通と同時に、院線の駅であった紺屋関駅は大津電車軌道の駅となって開業した。当初の院線は単線であり、順次待避線と複線化が進んだ。この過程も県政史料室の歴史史料に残されているが、まだ詳しく読み解けておらず、後日別途発表したい。

資料6:紺屋関駅付近図 浜大津貨物駅に分かれる狭軌の線路の分岐も書かれており、この位置は1969年の江若鉄道廃止当時と変わっていない。(滋賀県政史料室歴史史料昭と6より作図)

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 江若鉄道展 ちょっといい話 (2)

「江若鉄道廃線50年 懐かしの写真展&鉄道模型運転会」、三日目の土曜日は、今までの最高の入りを記録し、朝から会場は大賑わいでした。クローバー会の皆さんや趣味仲間に来ていただき、有り難いことでした。なかでも元江若鉄道のC111を動態保存に向けて補修中の東武鉄道のHさんがご来場いただき、びっくりしました。Hさんは、同機の移送に最初から取り組まれた功労者で、本日は、修復中の写真をお届けいただいたのでした。
「最後の二日間」では、さりげなくDRFCの告知もしている。営業最終日の前日の晩9時頃、「江若鉄道にDRFCのヘッドマークを付けたい!」と突然思い立った。この時間では材料も調達できない。家にある材料でやるしかない。そこで、妹の使っていた画用紙を使い、マジックインクで下手なレタリングをして「湖国を走り続けて半世紀 さようなら江若鉄道 同志社大学鉄道同好会」と書いて、色鉛筆で縁取りした。写真展に使った木製パネルに貼り付けたが、ちょっと華やかさに欠ける。一計を案じて、押し入れの中から、クリスマスツリーに使うモールを見つけ、周囲に取り付けた。これで材料費ゼロで、ヘッドマークが出来上がった。夜も白々と明けてきた。結局一睡もせず、京津線の一番電車で、浜大津へ向かった。午後から三井寺下機関区を訪れた際に区長に「付けてください!」と直談判した。即座にOKになり、もう少し難航するのかと思っていたのに拍子抜けしてしまった。あまり写真を大きくするのも嫌味なので、少し小さいサイズにしてDRFCへのリスペクトとした。

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京阪大津線の歴史を調べて(1-2大橋堀駅)

2.大橋堀駅
大橋堀駅は現在のびわ湖浜大津駅の東隣にあった駅である。当初大津電車軌道が路線申請した時は、現在の浜通りを拡幅して、石場から旧東海道を走る併用軌道で予定していたが、拡張費用がかさむことから、馬場より西側は明治22年東海道線が全通して枝線となった鉄道院の大津支線を借用することとなった。この区間が大津電車軌道として開通したのは大正2年3月1日である。大橋堀駅も資料は少なく、開通と同時に駅ができたのかどうかは諸説あり、大津市歴史博物館の大津市制100周年記念企画展「大津の鉄道百科展」図録には駅の開業時期が記載されていない。資料3:大橋堀停留場附近平面図(滋賀県政史料室歴史史料「昭と大6」より作図)大橋堀を渡る鉄橋と坂本町、橋本町(いずれも旧町名)の境界線から場所が特定できる。

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桜井線便り

ダイヤ改正後の桜井線に行ってきました。といっても227にはお目にかからず、105が変わりなくのんびりと走っていました。桜井線についてはその名前(万葉まほろば線)が示すように、沿線には、古墳や山之辺の道といった古代ロマン溢れるものが数多く見られます。このような背景の中を走る列車を撮りたいと常々思っており、先日の三輪山をはじめ、105の居る間にと、出掛けています。巻向から三輪~桜井~畝傍の区間で大和三山が狙いです、まず最初は箸墓です。桜井市「箸中マップ」によりますと、この古墳は3世紀中~後半に初めて日本に出現した前方後円墳(全長280m)で、卑弥呼の墓とも言われています。第7代孝霊天皇の皇女ヤマトトトヒモモソヒメノミコトの大市墓に陵墓指定され、立ち入りが制限されています。 続きを読む

市電写真展から桜井線

昨日、終了2日前となりますが市電写真展行ってきました。会場内は大盛況です、4~5人のグループで来られている方もあり、町内会・学校の同窓会の様相を呈していました。そのグループ・個人が福田さん、佐々木さんを取り囲み懐かしい話に花がさいています、皆さん当時の情景を休みなく話されそれぞれの話の中心に、お二人がおられます。来場者は次から次へ来られますので食事どころかお茶一杯のむ時間も無いのかと想像できます。デジ青で話題沸騰となっている写真も大きな実物で見ることが出来ました、さらに来場者のコメントがそれぞれの写真に添えてあり、この写真展を心から懐かしみ、また楽しんでおられることが実感できます、いいアイデアと思います。写真展は今日10日で終了ですが、ぜひ次のステップに繋げて行ってください。京都まで来たので帰りはどですかでんさんの情報で桜井線も今のうちと思い桜井で途中下車し、三輪まで行きました。

桜井駅での、クハ104-510+クモハ105-519です(架線の影が気になりますがご容赦ください)。 続きを読む

海南島の鉄道

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平成3年の8月26日、27日中国は海南島の鉄道に八所から三亜まで乗りました。今や海南島も高速鉄道が走っているとのことですので、隔世の感がありますが、当時は蒸気機関車牽引の混合列車で機関車は解放型でした。客車は、往きは硬座車でしたが、帰りは軟座車で、これが公務車GW97380という車で、コンパートメントとマイテ49の展望室のように大きなソファが並んでいました。ネットで検索してみると昭和16年製の日本製で蒋介石の専用車だったという記述もあります。なんとこの車は海南島の省都である海口の鉄道博物館で現存しているらしいのです。そんな歴史的な車両に乗車できたのは僥倖としかいいようがありません。当時は鉄分の薄い時代で、コンパクトカメラで少し撮っただけだったので、今から考えるともったいないことです。ご笑覧いただき、コメント、知見をいただければ幸いです。 続きを読む

 京都市電写真展 明日からです!

“そばぼうろ”だの“かわみち屋”だの、本論以外のところで、かまびすしいデジ青コメント欄ですが、皆さん、ホントは写真展のこと、お待ちかねと勝手に決め込んでいます。はい、お待たせしました。本日、勘秀峰さんとともに設営作業を行い、準備万端整いました。明日1日(金)午後から、招待券不要の内覧会を行い、2日(土)から通常の午前11時開場となります。
揃いも揃った河原町丸太町付近の写真、対象の地域は限定的ですが、京都市電に愛着を持った、すべての皆さんに見ていただきたい内容です。

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滋賀県県政資料室の歴史史料

昨年総本家青信号特派員さまからお誘いいただいて、「レイル」誌の「京都・大津の鉄道遺跡を訪ねる」の大津部分を担当させていただきました。以前から地元を歩いていろいろ調べてはいたのですが、所詮ネット頼みの調査で推測の部分も多く、今から思うと全く恥ずかしい内容となってしまいました。それと相前後していつもお世話になっている大津歴史博物館の学芸員の方から、滋賀県庁にある県政史料室には鉄道関係の資料もいっぱいあるよというお話を伺いました。ネットで調べてみると確かにいろんな資料がありました。ただ、閲覧には申請が必要で、一度にたくさんの資料は閲覧できないとのことでそのままになっていました。 続きを読む

伊勢のJR

どですかでん様の田原本から、大和八木・名張・伊勢中川と話の路線が展開してきて、鳥羽までやってきました。コメントに複数の写真を入れるテクニックが分からないので新たな投稿とさせていただきます。コメントでは「近鉄と海」ばかり考えていましたが、1900生様のコメントでJRを思い出しました。参宮線はいまやキハ58、キハ47も見なくなり寂しい限りで、鳥羽まで行ってもJRには目もくれない有様です。しかし「海」を入れるとなると1900生様の言っておられる場所を思い出しました(私の思っているのと同じ場所かどうか分かりませんが)。1999年頃に行ったきりでその後は行っていませんので周辺は変わっているかも分かりません。やはり近鉄の「池の浦」から国道を鳥羽とは反対側(北方向)に進み、「堀通橋南詰」交差点を右側海方向に歩いていくとJR線が海の中を横切っている場所がありました。写真は干潮の時刻ですが、満潮に行けば海面がもっと近づいてくると思いますし、線路の両側に海のあることがよく分かると思います(再度チャレンジしてみます)。

細島線跡

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久々の投稿です。2月14日、宮崎県日向市に所用あり、細島線の跡がないかと思い出し訪ねてみました。終着細島駅のホーム跡、枕木を見ることができました。旅客営業は昭和40年代初頭に廃止、貨物専用線としてその後少しの間存続していたとのことです。宮崎県は高千穂線、妻線と素敵なローカル線がありましたが小生はいずれも未乗に終わりした・・・画像の配置がうまく出来ず申し訳ありません・・・

 

鳥羽港便り

また同じ場所か!と言われそうですが、新年の鳥羽港へ行ってきました。予定では1月5日に「にっぽん丸」が寄港するはずだったのが、海外でトラブルを起こしたようで寄港中止になってしまいました。このため本日まで待っていました、今日は「ぱしふぃっくびいなす(26,594トン)」です。天気も悪く今にも降り出しそうな空で、観客は僅かおじさん2名であります。ところがおじさんの話を聞いていると「まだ放水せえへんな」「去年は9時半から10分したのに…」と聞こえてきます、「今日は何がありますの?」と尋ねると「今日は出初式や、あの船から放水しよんねん」「え!」、そういえば消防艇のような赤い船と、海上保安庁らしき船がうろうろしています。駅からこの城跡にくる間も鳥羽市消防の制服を着た集団とも出会いました。これはいい日に来たと喜んで写したのがこの写真です。放水の時間内に伊勢志摩ライナーが間にあいました。 続きを読む