また同じ場所か!と言われそうですが、新年の鳥羽港へ行ってきました。予定では1月5日に「にっぽん丸」が寄港するはずだったのが、海外でトラブルを起こしたようで寄港中止になってしまいました。このため本日まで待っていました、今日は「ぱしふぃっくびいなす(26,594トン)」です。天気も悪く今にも降り出しそうな空で、観客は僅かおじさん2名であります。ところがおじさんの話を聞いていると「まだ放水せえへんな」「去年は9時半から10分したのに…」と聞こえてきます、「今日は何がありますの?」と尋ねると「今日は出初式や、あの船から放水しよんねん」「え!」、そういえば消防艇のような赤い船と、海上保安庁らしき船がうろうろしています。駅からこの城跡にくる間も鳥羽市消防の制服を着た集団とも出会いました。これはいい日に来たと喜んで写したのがこの写真です。放水の時間内に伊勢志摩ライナーが間にあいました。 続きを読む
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ここはどこ?私はだれ?【増1】
あのときの上笠田
上笠田へ行かなくなってどれくらいになるだろうか。
一度だけ、彦根で単身赴任をしていた時に車で山越えをして上笠田に行ったことがある。その時はホーム1面の無人駅であった。その後、上笠田駅は線路だけ残った。
元祖ここどこの現況
年の初めはどですかでん
今年は題名と同じく「どですかでん」で始めるとしましょう。ちょっと3分ほど「幻想路面電車」にご乗車ください。それでは
いかがでしたか、乗り心地は
ここはどこ?私はだれ?(5)
ここはどこ?私はだれ?(4)
年末臨時どですかでん ここはどこ
京都駅にまつわる小ネタ集 (3)
平面クロスを渡って1番ホームに到着した特急列車
いつもコメントをいただく1900生さんから、京都駅にあった平面クロスについての思い出コメントがありました。私も、その豪快な通過音をよく覚えています。昭和40年代前半まで、京都~向日町の複々線は、南側2線が旅客線、北側2線が貨物線でした。このため、1番ホームに入線する上り旅客列車は、貨物線を横断しなければならず、下り貨物線、上り貨物線の2線分を平面クロスして、1番ホームに入線する珍しい構内配線になっていました。これは、何としても、京都駅の顔である本屋側の1番ホームに、特急などの優等列車を入線させたいとの思いがあったのでしょう。
昭和47年に構内配線が改良されて、下り貨物は、本線と奈良線の間の12番線(当時)に変更され、複々線の列車種別も変更されて、平面クロスは解消されました。現在でも、0番ホームに入線する列車は、当時の面影を残した入線シーンを見せていますが、あくまで分岐ポイントであり、豪快な平面クロスを聞くことはできなくなりました。▲貨物線と平面クロスして京都駅1番ホームに入る「白鳥」。まだ上野・青森行きの分割編成時代だったが、親不知付近だったと思うが、大規模な土砂崩れで北陸本線が不通となり、富山行きに変更されていた(昭和40年9月)。
昭和の電車 愛知電鉄デハ3300系
なんやかんや、いろいろあっての地下鉄梅田駅
以前の投稿「【95139】大阪市営地下鉄からOsaka Metroへ」にある写真の解説で「戦前に計画された谷町線のトンネルは今は天王寺行のホームに」とかコメントで「うまい具合に戦前に計画された谷町線のトンネルが利用できたのが幸いでした。」と記述しました。それについて、いつもデジ青をご覧になっている河様から経緯などを教えていただきたいとのコメントがありました。あまりええ加減なことをお教えすることが出来ないので出来る範囲で調べてみると私の知らないことがたくさんありました。図書館で調べたり、ネットで検索したりしたのですがとにかくややこしいのです。
中部便り
三重県に住みながら、せいぜい鳥羽辺りに出掛けることしかしていないのですが、今回は以前の会社の同期会で、鳥羽から海を渡って伊良湖まで行ってきました。行きは鳥羽港から「伊勢湾フェリー」で伊良湖まで、帰りは折角海を渡ってきたので豊橋・名古屋経由としました。切符として、鳥羽~(伊勢湾フェリー)~伊良湖~(豊橋鉄道バス+鉄道)~新豊橋間の¥2060は2日間有効で大変お得です。豊橋鉄道は渥美線・市内線とも始めて訪れます、同期会解散後、休暇村(宿泊先)から路線バスで「三河田原」まで行きそこで渥美線に乗り換えました。車両は全て(10編成)東急の7200系ですね。各編成には「カラフルとレイン」として名前がつけられおり、これは菖蒲です。
近鉄ファンへのプレゼント!
チキンラーメン、カブ、そして・・・・
キサハ34
キハ141系、キハ33に続きまして、客車改造の気動車キサハ34をご紹介します。
キサハ34は、0番代の1~2(オハ12 1000番代からの改造),500番代の501~502(スハフ12 1000番代からの改造)の合計4両の小グループでした。
1992年3月14日の時刻改正から運用開始しました。冷房付きキハ58・28とで氷見線列車が冷房化されました。
通常、朝のラッシュ時にキハ58とキハ28に挟まれた4両で氷見線を走りました。
廃車は1996年3月31日で、キサハ34は約4年という短命な形式でした。
境線のキハ33
キハ141系に続き、客車改造の気動車キハ33をご紹介します。といいましても1度撮りに行っただけの簡単なものです。
キハ33は1988年後藤車両所でオハ50から改造されて1001,1002の2両が誕生しました。いきなり1000番代なのはトイレがないからだそうです。
2004年に鳥取に移り、山陰本線で走っていましたが2010年廃車されました。朱色に塗られた1001が津山まなびの鉄道館で保存されています。
オハ50 5→キハ33 1001
オハ50 6→キハ33 1002
救援車銘板の怪
客車に限りませんが鉄道車両には銘板が取り付けられています。外妻や車内クシ桁にネジ止めされている多くは楕円形のプレートで、これによって製造・改造などがわかります。標記されている形式番号の他に現車の素性を知る手かがりにもなります。ですから通常は一度取り付けられたら廃車解体されるまでそのままのはずなのですが、なかにはいつの間にか違う銘板が付いていたという奇っ怪な例をご紹介します。
地上の京阪の駅(三条~七条)
「羽村さんが遺したアルバム」を拝見していて、羽村さんを思い出していました。
多分、私が羽村さんを知る最後の世代だと思います。
羽村さんは物静かでわりとシャイな感じの方でしたが、かなりシニカルな方で毒舌家でもありました。若くしてお亡くなりになりましたが、幼少時に患われた結核が原因でした。彼は終生独身でしたが、ご両親と同居されてた京大横の吉田山の麓の閑静なお住まいにも何度か訪れたこともありましたし、葬儀にも参列した記憶があります。
そんな彼の京阪の写真を拝見していて、京阪の古い駅を思い出していました。
1967年(昭和42年)夏に撮ったものですが、当時はまだ高価だったフイルムを使ってなぜこんなものを撮ったんだか・・・!?
ここも100年です
100年の田原本線は、どですかでんさんが詳しくレポートされていましたが、もう一つの100年「近鉄の生駒ケーブル」に行って来ました。海抜642mの生駒山上まで2000mの距離を2本の路線(宝山寺1,2号線と山上線)で結んでいます。特に「鳥居前(奈良線生駒駅に隣接)」~「宝山寺」までは複線のケーブルとして有名で、昭和元年に複線化されたそうです。 続きを読む