お正月も三日が過ぎます。明日から仕事が始まるようです。
年末正月の臨時便の需要もそろそろお終い。
最後のイッパツはホンキの本気!
でも、よーく見てください。皆さん、ほぼ百パーセントとは言いませんがほとんどの方が数年間にこの線路から50m以内を通っているはずです。
では最終問題です。牽引しているのはDD13。れっきとした国鉄線です。
平面クロスを渡って1番ホームに到着した特急列車
いつもコメントをいただく1900生さんから、京都駅にあった平面クロスについての思い出コメントがありました。私も、その豪快な通過音をよく覚えています。昭和40年代前半まで、京都~向日町の複々線は、南側2線が旅客線、北側2線が貨物線でした。このため、1番ホームに入線する上り旅客列車は、貨物線を横断しなければならず、下り貨物線、上り貨物線の2線分を平面クロスして、1番ホームに入線する珍しい構内配線になっていました。これは、何としても、京都駅の顔である本屋側の1番ホームに、特急などの優等列車を入線させたいとの思いがあったのでしょう。
昭和47年に構内配線が改良されて、下り貨物は、本線と奈良線の間の12番線(当時)に変更され、複々線の列車種別も変更されて、平面クロスは解消されました。現在でも、0番ホームに入線する列車は、当時の面影を残した入線シーンを見せていますが、あくまで分岐ポイントであり、豪快な平面クロスを聞くことはできなくなりました。▲貨物線と平面クロスして京都駅1番ホームに入る「白鳥」。まだ上野・青森行きの分割編成時代だったが、親不知付近だったと思うが、大規模な土砂崩れで北陸本線が不通となり、富山行きに変更されていた(昭和40年9月)。
以前の投稿「【95139】大阪市営地下鉄からOsaka Metroへ」にある写真の解説で「戦前に計画された谷町線のトンネルは今は天王寺行のホームに」とかコメントで「うまい具合に戦前に計画された谷町線のトンネルが利用できたのが幸いでした。」と記述しました。それについて、いつもデジ青をご覧になっている河様から経緯などを教えていただきたいとのコメントがありました。あまりええ加減なことをお教えすることが出来ないので出来る範囲で調べてみると私の知らないことがたくさんありました。図書館で調べたり、ネットで検索したりしたのですがとにかくややこしいのです。
三重県に住みながら、せいぜい鳥羽辺りに出掛けることしかしていないのですが、今回は以前の会社の同期会で、鳥羽から海を渡って伊良湖まで行ってきました。行きは鳥羽港から「伊勢湾フェリー」で伊良湖まで、帰りは折角海を渡ってきたので豊橋・名古屋経由としました。切符として、鳥羽~(伊勢湾フェリー)~伊良湖~(豊橋鉄道バス+鉄道)~新豊橋間の¥2060は2日間有効で大変お得です。豊橋鉄道は渥美線・市内線とも始めて訪れます、同期会解散後、休暇村(宿泊先)から路線バスで「三河田原」まで行きそこで渥美線に乗り換えました。車両は全て(10編成)東急の7200系ですね。各編成には「カラフルとレイン」として名前がつけられおり、これは菖蒲です。
キハ141系、キハ33に続きまして、客車改造の気動車キサハ34をご紹介します。
キサハ34は、0番代の1~2(オハ12 1000番代からの改造),500番代の501~502(スハフ12 1000番代からの改造)の合計4両の小グループでした。
1992年3月14日の時刻改正から運用開始しました。冷房付きキハ58・28とで氷見線列車が冷房化されました。
通常、朝のラッシュ時にキハ58とキハ28に挟まれた4両で氷見線を走りました。
廃車は1996年3月31日で、キサハ34は約4年という短命な形式でした。
キハ141系に続き、客車改造の気動車キハ33をご紹介します。といいましても1度撮りに行っただけの簡単なものです。
キハ33は1988年後藤車両所でオハ50から改造されて1001,1002の2両が誕生しました。いきなり1000番代なのはトイレがないからだそうです。
2004年に鳥取に移り、山陰本線で走っていましたが2010年廃車されました。朱色に塗られた1001が津山まなびの鉄道館で保存されています。
オハ50 5→キハ33 1001
オハ50 6→キハ33 1002
客車に限りませんが鉄道車両には銘板が取り付けられています。外妻や車内クシ桁にネジ止めされている多くは楕円形のプレートで、これによって製造・改造などがわかります。標記されている形式番号の他に現車の素性を知る手かがりにもなります。ですから通常は一度取り付けられたら廃車解体されるまでそのままのはずなのですが、なかにはいつの間にか違う銘板が付いていたという奇っ怪な例をご紹介します。
「羽村さんが遺したアルバム」を拝見していて、羽村さんを思い出していました。
多分、私が羽村さんを知る最後の世代だと思います。
羽村さんは物静かでわりとシャイな感じの方でしたが、かなりシニカルな方で毒舌家でもありました。若くしてお亡くなりになりましたが、幼少時に患われた結核が原因でした。彼は終生独身でしたが、ご両親と同居されてた京大横の吉田山の麓の閑静なお住まいにも何度か訪れたこともありましたし、葬儀にも参列した記憶があります。
そんな彼の京阪の写真を拝見していて、京阪の古い駅を思い出していました。
1967年(昭和42年)夏に撮ったものですが、当時はまだ高価だったフイルムを使ってなぜこんなものを撮ったんだか・・・!?
100年の田原本線は、どですかでんさんが詳しくレポートされていましたが、もう一つの100年「近鉄の生駒ケーブル」に行って来ました。海抜642mの生駒山上まで2000mの距離を2本の路線(宝山寺1,2号線と山上線)で結んでいます。特に「鳥居前(奈良線生駒駅に隣接)」~「宝山寺」までは複線のケーブルとして有名で、昭和元年に複線化されたそうです。 続きを読む
キハ141系の編成がわかる列車写真も少し撮影しました。走行写真は、人工物ができるだけ写らない石狩太美駅から北東方向の踏切付近で何回か撮影しました。初めて行った時、撮影後そのまま石狩当別まで行こうと思って石狩太美駅前のタクシーを呼んだら女性の運転手で驚きました。
キハ143のうち、1995年1月31日に苗穂工場でオハフ51 34から改造された104には着雪防止対策を施して登場しました。781系電車の運転室上と同様のスタビライザーや後位妻面の装置が目立ちました。他には床下機器箱の変更などで、落成後効果の検証が行われたそうです。いつ撤去したのでしょうか。
天気が良いので近場をお散歩。行き先は近鉄田原本線大輪田駅界隈。界隈というと何やらにぎやかなイメージであるがそんなことはない。以前、田原本線の電車に乗っていて、ふと窓から外を眺めていると五輪塔が目にとまった。ちょっと気になる。ということでその場所へ行ってみようと考えた。電車の窓から見えるのであるからその場所からは電車が撮れるはずだ。それと開業100周年記念で10月14日からの行先サボが付けられているか。気になるのである。家から新王寺駅まで数種類あるお決まりのルートを歩いて行く。行先サボが取り付けてあればいいのにと思いながらブラブラ歩いていると新王寺に着いた。駅に停まっている電車を見ると
赤の電車に行先サボが取り付けてあった。さあ、赤の電車に乗って大和田へ行こう。
1994年3月に新形式の中間付随車キサハ144 101~103,151が登場しました。101~103はオハフ51 7,9,10から、151はオハフ51 33から4両すべて苗穂工場で改造されました。101~103は戸袋窓が小さいのが特徴です。
101~103にはトイレがなく、151はトイレ付きでしたがのちに撤去され104に改番しました。
また、登場時は非冷房でしたが、その後冷房化されました。