1955/57年北九州福岡2

西日本鉄道宮地岳線多々良車庫の車両は当然もっとある。モ2は木製車体の3扉車で、博多湾鉄道汽船―非電化時代の1925年ナハ1~3として川崎造船所で作られた、100%電車タイプのいわゆる「電車型客車」―方向幕窓まであった。
すなわち将来電化を予想していたわけで、このような客車は佐久、筑波、河東、東武、松阪電気鉄道など結構あり、予定通り電車になったケースも勿論あるが、客車で終始した例も少なくない。博多湾鉄道汽船では1929年めでたく電装され、デハ1~3に。

西鉄宮地岳線モ2←デハ3←ナハ3 

モ6←デハ6 電化に際し日車で製造された半鋼製車 窓配置が古めかしいが小田急モハ1→デハ1101型と寸法は殆ど同じだそうな

ク59←国鉄モハ316←鶴見臨港鉄道モハ316 台車は長軸だからTR11であろう

ク61←国鉄クハ6005

ク62←国鉄クハ17074 仮台車を履いている

ク62

ク55←サ55←国鉄キハ5026←北九州鉄道キハ9 西鉄で片ボギー車を両ボギー化 偏心台車は先回アップした旧中国鉄道ガソリンカーのものと思われるが、菱枠が三角リブで補強されている 元来は汽車会社製の無骨な60人乗り気動車

東芝製標準凸型電機202

吉塚駅前は3線式になっていて 1067mm軌間には木製で独特のB電機がセムを曳き続行運転をしているのが珍しかった 右手にオート3輪車が覗く

西鉄1012 電機か電貨か迷うが前者らしい オート3輪車も全盛期

西鉄1014 これも電機より電貨がふさわしそうだがやはり電機に分類されている

北の大地へ2010年初夏編 Part3 三菱美唄鉄道、三笠鉄道記念館

第4日目 2010年6月27日
昨夜は「道の駅三笠」に到着後、隣接する超大型スーパーで食材のお買い物をして、出発時の舞鶴港同様にテーブルをひろげてのアウトドアの夕食をゆっくり楽しみました。私は、家族や友人達とアウトドアを楽しんでいましたので、慣れたベテランですが、総本家さんは学生時代DRFC合宿以来です。抵抗があるかなと思いましたが、旅行慣れでこだわりなくよく食べておられましたので安心していました。

食事後に入浴されるのが習慣だと、隣接する温泉に行かれましたが、20:30で入館は終わっていて、入浴料も1500円と高かったとがっくりとして帰られてきました。温泉施設は全国各地に行っていますが、20:30が入館最終時間と聞くのは初めてです。1500円という入浴料も、超有名旅館の日帰り入浴並みです。道内は500円が相場です。我々の一日当たりの食費に匹敵する高さです。

昨日は、真夏日だったので、洗面所で汗を拭くだけでは不快だったと思います。加えて高速・主要道そばでの連泊ですので熟睡できなかったと、見ていてもハッキリと分かる程、身体全体に疲労が充満しています。私も移動距離が長いので運転疲れで限界です。今夜は安い温泉宿をとって、早めにゆっくりすることにしました。撮影地は、富良野線ですので、白金温泉の露天風呂付きのペンションを早め予約しました。

朝からは、静態保存の4110形蒸機を見学予定でしたが、10:00開園となっていたのでそれまでの間に、函館本線を走行する多彩な列車を撮影する事にしました。美唄までの約15kmが候補地ですが、決まった場所はありません。

▲ 9:09、峰延→光珠内 大人気のキハ183系0台4両編成の特急「旭山動物園号」。今日は、なぜかチンパンジー号が連結されていない。

地図帳にはない線路沿いの道を見つけては、併走してロケハンをします。直線区間ですので、踏切で撮れれば良いのですが、遮断機は架線電柱より後方にあって身を乗り出しても電柱が邪魔します。といって線路近くに立てば、130km/hで走行する電車に吹き飛ばされますし、下手をすれば止めてしまう結果になります。

▲ 8:51、光珠内→峰延 789系1000番台「スーパーカムイ10号」。

▲ 9:46、光珠内→美唄 キハ183系5100番台「フラノラベンダーエクスプレス3号」

9:35、美唄→光珠内 旭川発岩見沢行きの2154M。まだまだ元気な711系。
区間列車は、711系3両編成が使用されている。
DF200牽引の貨物列車やDE15牽引の工事用列車等、まだまだ紹介したい様々の車両が走行する函館本線です。

走っては止まって降りて、編成が収まるかどうかアングル等を丹念に確認しながらのロケハンです。ようやく、線路際の下草が刈り取られている場所を見つけては撮りました。同じ場所ではつまらないので、また場所を変えて撮り続けました。



美唄駅前では観光案内板で、場所を確認後に展示場所に向かいました。坂道を上がっていくと三菱鉱業美唄鉄道の東明駅があり、その奥にピカピカに塗装された4110機が眠っていました。丁度、東明駅保存会の方2名が来ておられましたので、許可をいただき入場しました。



お聞きしますと、「6月25日に美唄市塗装業組合ボランティアの方々の職人技をもって塗装しなおしてもらった。ホーム周りも雑草ぼうぼうだったが、保存会ボランティアの方々が協力して、刈り取って整備した。

炭鉱が栄えた頃は約90,000人もの住民がいたが、今は約20,000人近くに激減した。全国へと散ってしまったかつての住民が時々見に帰ってこられるが、余りの変貌に落胆をされておられる。せめて皆が利用したこの東明駅を復旧して、古きよき時代を思い出してもらいたいので努力している。今後は、駅舎内を整備して見てもらえる様にしたい。」と言われてジ~ンときました。

三菱美唄記念館や炭鉱メモリアル森林公園となった立坑巻揚櫓だけが残る終点の常盤台駅跡にも行きましたが、昔の姿は写真でしか見られませんでした。



▲ キハ82-100+キハ80-150+キシ80-27+キロ80-52+キハ80-145+キハ82-87
折角のキハ82系が揃った5両編成だが、窓ガラスが投石されて割れていたり、塗装もはげてきて保存状態が悪くなっています。

約30分を走り11:151882年(明治15年)11月13日に北海道最初の本格的鉄道として開業した幌内鉄道「幌内太駅」(昭和18年三笠駅に改称)跡に整備された三笠鉄道村クロフォード公園に到着。前回はブルーシートで覆われていた車両群や展示室を見る事ができました。

11:50、坂を上がった所の三笠鉄道記念館幌内ゾーンに移動。日曜日とあって多くの家族連れが来られていました。途中の線路跡2.5kmは、エンジン付きトロッコが運行されていました。これはおもしろそうなので後で乗りたかったのですが、三笠鉄道記念館見学にゆっくりしすぎて時間がありませんでした。


三笠鉄道記念館では動態保存のS304号機がトロッコ列車を牽引して構内を折り返し運転していました。また運転体験する「SL機関士体験クラブ」運転も実施されていて、50回以上も運転された方も全国から多数おられます。動態保存機がある大井川鉄道や他でも実施されたら人気がでるでしょうね。



▲ 静態保存機としてC12-2と59609の2両がいます。

塗装が剥げたりして、保存状態が悪くなっていた展示車両ですが、錆落としパテ塗りが始まっていて、今年中には全車両の修復を完了させたいと言われていました。修復中で見られない車両もありましたが、それでも多くの展示車両がありました。
館内には、北海道で初めて走った鉄道の歴史を貴重な資料や映像で、見る事ができました。
展示車ですが、久しぶりに食堂車で昼食を撮った後、14:30C304発車を見届けて富良野へと向かいました。


▲16:23、上富良野→西中 733D キハ150系2連 大雪山連峰が見える日は少ない。

山間の山越え道はカーブが延々と約120km続き、信号は殆どありません。絶好のバイクツアーコースで、何度も10数台のツーリング族とすれ違います。周りは、まばゆい新緑一色で目には良いのですが、単調です。
ラベンダー畑で有名なファーム富田に立ち寄りましたが、まだ満開に至らず観光客が多いので明日にしました。富良野線沿いの道を走りますが、稲作が多く、お花畑は丘陵地帯です。それでもバックの残雪の大雪山連峰が順光で見えましたので、車を止めて撮影しました。

太陽は高く夕焼けに輝く大雪山連峰も良かったのですが、今日は早く限界近い身体を休める事が最優先です。17:20には、白金温泉のペンションに到着、直ぐに温泉に直行しました。そして夕食時は素晴らしい夕焼けが待っていました。

宵山の京都から

北海道余話、ぶんしゅうさんと連携しながら書き進める必要もあり、その調整として、別テーマでちょっと横道にそれることにしました。
きょう7月16日、京都は祇園祭の宵山で賑わっていました。
以前は、電車と祇園祭を組み合わせを写すために、京阪四条駅や、古くは市電四条河原町新京極へよく行ったものでした。
今では、鉾町から離れたJR京都駅で、それをかろうじて叶えることができます。
毎年、烏丸口改札の上に駒形提灯が掲げられ、コンコースに祇園囃子が流れ、祭りへの高揚感を演出しています。
そんな中、今や1往復にまで減ってしまった485系「雷鳥」が0番ホームに到着します。折からの、急な夕立落雷でホームが混雑する中、懐かしい国鉄色はひときわ存在感を持っていました。

今年が最後? 485系「雷鳥」と祇園祭

北の大地へ2010年初夏編Part2 旧白滝駅・丸瀬布森林鉄道

第3日目 2010年6月26日
昨夜は小樽港到着後すぐに札樽自動車道、札幌から道央自動車道を眠気感じる砂川SAまで走り、宿泊しました。

5:00前に起床、すでに太陽は内地と比べると、はるかに高く上がっています。SAも内地と違って、大きなキャンピングトレラーや普通乗用車も多数泊まっていました。ここから北の大地1番目の撮影地石北本線白滝付近までは、約2時間の所要時間です。


7:05、「村名”白滝”発祥の地」記念碑前に到着。白滝を見下ろす高台が、湧別川沿いに走る石北本線撮影地です。

7:21、上川から網走への始発列車4624Dが、新緑一杯のまばゆい中をゆっくりとやって来ました。

撮影後、秘境駅として有名な旧白滝駅へ参りました。頭に”旧”と付く駅名は、非常に珍しく、他には神戸地下鉄海岸線の旧居留地・大丸前駅だけです。総本家さんは、ここで夕焼けをバックに写真を撮りたいのですが、一日4本しか停車しません。網走方面行きは、先ほど撮った列車が始発であり、最終の1本きりです。残念ですが、19時前後の列車はありません。撮れるとしたら、季節を変えて16:53が良いとは思いますが、太陽がどのあたりに沈むかも問題です。

この後、白滝駅へ向かい、少なくなったキハ183系「特急オホーツク」をルピナス満開の駅構内で撮影、上川方面にそびえ立つ残雪が綺麗な手塩岳をバックに9:16発の4623Dの入線を待ちましたが、逆の遠軽方面からキハ40単行がやって来て思惑は外れました。遠軽~白滝間の区間列車は一日3本もあるのですが、駅の発車時刻表だけを見ていたので、到着して折り返す列車を見過ごしてしまいました。

2人で来て、撮影前は必ずお互いで確認をしているのですが、それでも最初から、こんな初歩的な失敗をしてしまいます。40数年も鉄道を撮り続けているベテランなのに恥ずかしい限りです。

約40分を走り9:50、丸瀬布駅に到着。駅舎は立派な木造で新築されていますが、改札口はなく、そのまま構内に入れます。1963年(昭和38年)まで走っていた武利森林鉄道の起点であり、かつての木材集積場としての広い構内が見渡せます。

ここから待望の雨宮21号が走る「丸瀬布いこいの森」まで、はやる気持ちを抑えながら、旧森林鉄道に沿った国道を向かいました。

10:16、約15分で到着。既に始発列車が出て周回軌道を走っていました。道路に車を止めて、早速撮影開始です。外気温が高く白煙は出ていませんが、走る姿は本物です。
総本家さん、すっかりしびれたようです。戻ってきた雨宮21号牽引列車に初乗車です。期待した以上と大はしゃぎで、興奮は見ていても伝わってきました。

発車してすぐに川を渡るトラス橋を走行します

S字カーブもあります。
出発駅に戻って、草原地帯を走ります。


すがすがしい新緑の森のトンネルを走ります。

昨年10月来た時は、ブルーシートで覆われていた車庫は整備され、車両も綺麗に磨かれています。最盛期は80kmを越えた路線は、今は観光用のわずか約2kmですが、トラス橋・S字カーブ・新緑のトンネル・草原等々変化に富み色々とアングルを変えて、順光・逆光の撮影も楽しめます。

10:00~16:30まで30分間隔で運行されますが、12時台のみ1本の運行ですので、この間は中央にある郷土資料館に入り、開拓当時の生活、雨宮21号等のナロー蒸機達を見学しました。

昼を過ぎると、紫外線もさらに強烈となり、気温も上昇し蒸し暑ささえ感じます。とても北の大地の気候ではありません。日陰を求めて、丸瀬布温泉の食堂でもりそばを求め一息つきました。

13:00、再び撮影開始しましたが、次の13:30が来ません。ゴーカート切符売場のおばちゃまに聞くと、乗客がいない時は運行しないと言います。次は、来るように祈って頑張るぞと意気揚々とボルテージが上がる総本家さんを横目に、ここで私は、久しぶりの長距離運転疲れとこの暑さでギブアップです。休んで、温泉に入ることにしましたが、暑いときに熱いお風呂に入っても疲れは取れません。

夕刻そろそろ旧白滝駅での撮影時刻が近づきましたので、外へ出ましたが、総本家さんいません。見ると、また列車に乗ってはしゃいでいます。よっぽど気に入ったのですね。

途中で見過ごした下白滝駅を見学してから旧白滝駅に着きましたが、初夏の太陽は沈むどころかまだまだギラギラです。最終の20:06発はどうかなと、未練たらたらの総本家さんを山間なのでもう無理といさめて、今日の宿営地「道の駅三笠」へと向かいました。

初夏の北海道 余話-1-

旧白滝を訪ねる

待望の連載”ぶんしゅう旅日記 初夏・北海道編”、今回は、当特派員も同行させていただいての二人旅となりました。特派員にとっての北海道は、社会人時代に観光や仕事で行ったことはあるものの、鉄道写真の撮影となると、実に学生時代以来、約40年ぶりとなりました。
それだけに、見るもの、写すもの、すべてが新鮮で驚きの連続でした。詳細な旅行記は、今後もぶんしゅうさんが記されますので、当特派員は、印象に残った事象を採り上げ、昔話も交えながら綴っていくこととしました。
北海道へ上陸して、まず向かったのは、丸瀬布の「いこいの森」ですが、開場前の時間を利用して石北本線旧白滝を訪れました。この駅の存在が、以前から気掛かりで、この眼でまず確認しておきたかったのです。


この世に”新”を冠する駅名はゴマンとあるが、”旧”が付くのは、ここ旧白滝だけだ。しかも、石北本線には、奥白滝、上白滝、白滝、旧白滝、下白滝と”白滝”の付く駅のオンパレード(奥白滝はのちに廃止)。
この謎は
、現場へ行ってみて氷解した。もともとこの地域、地名すらないような人跡未踏の地であった。地域を流れる湧別川に大きな滝があり、飛瀑で付近は白く見え、いつしか”白滝”が地名となり、村名も白滝になったという。事実、石北本線の撮影名所地になっている旧白滝~下白滝間には、「白滝発祥の地」の碑があり、この由来を説明している。

旧白滝は、この地域で真っ先に入植が行われ、のちに集落の中心が現在の白滝へ移ったため、その後に建設された石北本線の駅名には「旧白滝」の名が採用されたようだ。駅への昇格は1987年のことで、それまでは乗降場扱いであった。駅はホーム一面の棒線駅で、典型的な北海道の無人駅スタイルだ。もっと山深いところかと想像したが、意外に開けたところに駅は所在し、国道からも容易にアプローチできる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうひとつ、旧白滝を有名にしたのは、発着本数の少なさだ。上りこそ午後に3本あるものの、下りに至っては7時16分発の1本のみ。始発列車が終列車と揶揄されたものだ。どうしてこのような偏った列車ダイヤになったのか。おそらく1人か2人はいたはずの通学生の利便を考えたものだろう。朝に丸瀬布・遠軽方面への列車を停車させ、午後は選択できるように3本設定している。この需要以外にこの駅での乗降客は考えられず、それ以外の普通列車はすべて通過扱いだ。 

待合室をのぞいて見ると、他の駅にも見られる備え付けのノートが一冊置かれていた。それを見ると”秘境駅”にも認定されたこの駅には、毎日のように訪問者がいるようだ。「いこいの森」で撮影の後、16時53分発の上り旭川行きを迎えた。ホームには旅行者が一名待っていた。彼は約3時間前の上り列車で来たのだろうか。キハ40の2両編成が、35度を超す暑い空に、紫煙を上げて、まっすぐな線路に消えて行った。

 

餘部橋梁 塗装塗替の頃

去る、平成17年8月30日餘部駅を訪れた処、運良く(?)塗り替え工事中でした。それまでは列車撮影ばかりに気になっておりましたが、塗装作業を目の当たりにしますと橋梁の構造に大いに興味が引かれ、その鉄組等備に見るに付け先人の知恵と苦労に敬意を払わざるを得ません。

架橋工事から既に100年の月日が経って、足下に及ぶ風雪によく耐えたものと感傷に浸っておりました。ご覧のように腐食が甚だしい部分も散見せられます。

完成イメージ図も発表せられておりますが、私のような世代にとって鉄橋の記憶が強すぎて馴染むのは何時のことになりますやら。

帰りは「快速 あまるべロマン号」普通のキハ47 2+キハ47 15 編成でした。残念。
草生した餘部駅は、混凝土に覆われた駅になるのでしょうか。

ライブカメラ
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1270077904503/

北の大地へ2010年初夏編Part1 行きがけの駄賃

第1・2日目 2010年6月24・25日
①舞鶴港0:30(新日本海フェリー)→20:45小樽港

2009年10月の紅葉前線を追いかけての北の大地は、道南以外は既に紅葉は終わった後で、初冬を迎えていました。道内各地の鉄道資料館等は殆どが冬季閉鎖で見る事ができず、初雪に追われるように引き上げざるをえなかった悔しい思いをしました。
次回にリベンジを誓ったので、今年は本土が梅雨に入る頃に梅雨のない北の大地へ訪問するのが一番と思いました。今回もぶんしゅう7号を相棒に一人旅予定でしたが、最近一人旅ゆえの撮影列車時刻の見過ごし等のミスが発生してきて、確認のためにも相棒が欲しくなっていました。

近くにDRFC-OBの総本家 青信号特派員さんがおられます。ただ、鉄道写真は鉄道で移動しながら撮る事を信条とされておられますので、お誘いするのは難しいかなと思っていましたが、昨今のローカル線は勿論幹線でも列車本数が激減して、撮りたい列車が移動に乗車するため撮れないとの現実に直面しておられました。同行の打診をいたしましたところ、車で宿泊移動する長旅は未経験だが、約40年ぶりとなる北の大地を見るのは良いなあとなりました。

という事で、年は1つ下ですが、撮影の腕前は数段優れた強力な同行者を得ました。ご存知のとおり.私は、いつも下調べは程々に、現地ロケハン乗車と嗅覚を頼りに動いていますが、総本家 青信号特派員(以下略名;総本家)さんは、資料を調べて無駄なく綿密に予定を組まれておられています。私の希望として、乗車も撮影もした事がない厚岸~根室間は是非とも行きたいと申し上げて、行程はお任せしました。

と言っても撮影は天候に左右されます。観光用とは言え動態保存蒸機が走る丸瀬布森林公園いこいの森三笠鉄道村は最優先として晴天時に訪れたいと、運行される土日を2度行程日に組み込んで、最初が雨なら2度目を狙えるように柔軟性を持たせ、出発日は、6月24日木曜日と決まりました。

小樽へのフェリーの出航時刻は翌日となる0:30です。舞鶴まで普通に走って約2時間で、時間が十二分にあります。13:00に出発して、舞鶴線で来春2011年から287系が導入され老朽化淘汰される183系特急「まいづる」の撮影をすることにしました。

真倉駅付近をロケハンしましたが道路が近く、また工場もあって邪魔なバックが多いので駅構内での撮影にしました。総本家さんによると、約40年前は、C58の通常運用の他に、夏季には天橋立や若狭海岸等の海水浴輸送にC57、D51まで借り出されていた。今の223系5500番台2両とは違って、5~7両の客車を牽引していたといいます。1971年(昭和46年)5月14・15日に小浜線合宿がありました。京都駅からC57牽引客レ、綾部からはC58228牽引客レに乗車しました。どちらも長大編成で今とは隔世の感がありました。

小浜線客レ C58-228機

小浜線貨物 C58-49機

小浜線 タブレット交換 C58-57機

ここは山間ですので夕刻には山影になりますが、少し走ると邪魔物がない北近畿タンゴ鉄道の由良川鉄橋があります。定番の撮影地ですが、二人とも夕刻にこの場所で撮影した事がありません。ひょっとしたらと絶景になるかもと淡い期待を持って向かいました。
走ること約30分、16:30北近畿タンゴ鉄道東雲駅着。列車時刻を駅掲示の時刻表と確認すると直ぐに上下の列車が来ます。丹後神崎駅見学は後にして由良川鉄橋たもとへと向かいました。踏切直前で左折して。線路沿いの砂道を川へと走ります。四輪駆動の見せ所です。最後は徒歩でブッシュをかき分けて川に出ました。

17:34、初夏の太陽は、まだまだ高く川面はギラギラ状態です。太陽が沈む位置が分らずですが後の楽しみにして、まず鉄橋横でKTR703単行の238Dを、河口の海べりまで行き順光で、KTR8000形タンゴ・ディスカバリー号で運行している239Dを撮影して、約2時間後に通過する本命列車を待ちました。

18:40、鉄橋の対岸の山に夕陽が沈みました。そして空は、期待したオレンジ色に染まってきました。夕焼け雲も現れ、川面も空の色を映し出して絶景の鉄橋です。岸辺の堤防を上がったり下がったりして、アングルを探しました。

撮影可能な19:24丹後神崎着の244Dまで撮った写真は、いずれも“行きがけの駄賃”にしては、十分すぎるほど満足いけました。幸先良いスタートです。ゆっくりと小樽までのフェリーが出航する舞鶴フェリーターミナルへと向かいました。

フェリーは、何か都合ができても変更できるように2日前に予約をしました。復路は苫小牧にしようかと迷っていましたら、インターネットで見ると6月28日~7月22日まで『舞鶴若狭道無料化記念割引プラン』として、舞鶴~小樽間29,500円の片道運賃が20,000円と激安になっています。それも昨日21日の発表です。往復割引は止めて、復路は申込期限内3日前に購入することにしました。昨年10月乗船時は、『フェリー航路利用促進実証運航』と称して乗用車1台当たり船内限定の4,000円の金券、小樽のお土産2,000円相当、小樽フェリーターミナル「パノラマ」入浴券800円相当のプレゼントがありました。今回の乗船中は出航40周年記念のビンゴゲームで賞品を出しておられました。良い機会に乗船しました。

海が荒れることもない出航でしたが、翌朝は一転ビビリ振動と上下に揺れがでました。それでも晴天は続き、19:20船上からの日の入りを見る事ができました。船上から見た北の大地は、積丹半島の山々にまだ残雪が残っていました。遅い初夏を迎えているのだろうと思いましたが、到着して高速道路を走っていると、夜間外気は22度で生暖かささえ感じました。梅雨のない涼しい絶好の季節と思いきや、翌日からは京都より暑い真夏日が待っていました。

1955/57年北九州/福岡

高校を卒業し浪人になった1955年と、何とかドーヤン生になれる権利を確保した57年とも、3月に九州に行っている。1955年18~21日まで、1957年は19~24日までで、特に吉塚~福岡市内は撮影対象も重複するので、2年の差異はあるがまとめて記すため、話が少しややこしいかもしれない。

1957年は西鉄北九州軌道線砂津車庫から到津遊園地へ。ここに旧大川線の2号コッペル機が保存してあるからで、入口ゲートから見える。もぎりの親父に、あの機関車の写真を撮るだけだから、切符なしで入れてくれ、ものの2分もかからないし、質草にこのバッグを預けるから、と掛け合ったが、貧しい浪人(まだ大学生の身分は取得していない。学割証だけはうんとこさ持っていたが)生は友好的な返答を得られなかった。致し方なく身を切る思いで何十円かで入園券を買わされたのは、後年犬山遊園で蒸気動車を撮った時と同じ。これだけありゃ、腹いっぱい食えるのに。


到津遊園地の大川線4号機 コッペル1911年製 

これは大川鉄道1→西鉄大川線(大善寺-大川、1951年9月25日休止、1966年5月6日廃止)4で、軌間こそ1067mmでも、軽便同様の8トン機で、国鉄との貨車乗り入れもなく、連結器も最後まで螺旋連環式。この旧大川線4号は、撮影時点かなり荒れており、前部バッファーは左側ががっくり首を垂れ、後部は失われていた。キャブ内も当然荒れっぱなし。今ではどうなっているんだろうか。

ところで話は2年前に戻る。その年(1955年)に卒業したS先輩と一緒に、長門鉄道を一覗き後九州入りして鹿児島本線を西南へ。香椎から箱崎、吉塚のあたり、国鉄と西鉄が並行する区間があるが、まず気づいたのが松林の中にズラリ並んだ路面用木製2軸単車の一群で、直ちに衆議一決、次なる駅で下車。


松林の中の単車5両

窓こそ下段上昇に改造され、折り戸も付されているが、ポールは1本。福岡市内線の廃車であろう。そして貝塚に近い宮地岳線(→貝塚線)車庫には、我々好みの車両―元車両を含め―がどっさりいた。旧博多湾鉄道汽船は吉塚以東が戦時中買収で勝田線になったが、電化残存部分が現在の宮地岳線で、車庫最寄駅は確か競輪場前といわなかったか。撮影は1955、57両年のものが混じっている。


これは2年前松林に並んでいたうちの1両だろう さざえ食堂と落書きしてある

上下とも旧大川線ガソリンカーの成れの果て フォードV8装着のキハ6、7だった


これらの旧2軸客車は博多湾鉄道汽船や大川線等の残党であろう



これは旧中国鉄道キハニ161→省キハニ161→西鉄ク58 台車はTR11に振り替えられている 同僚だった旧キハニ160はク57に 共に加藤車輛製作所1934年製

木製国電末期の姿だが手入れは良い クハ17072→西鉄ク63
モ8 電化で新製された半鋼製電車 小田急モハ1→デハ1101型と貫通扉以外同型の由

モ12 これは汽車1936年製デハ10→ クロスシート車だった由

江若鉄道 三井寺下駅・本社

西村様
江若鉄道の復元工事が着々と進んでいること、同慶の至りです。つぎの目標は、三井寺下駅周辺のこと、ここには、江若鉄道の本社・車庫の所在駅であり、いつ行っても個性揃いの車両がびっしり詰まっていたことを思い出します。
今回の探求は、駅舎・本社ということで、探してみました。なんとか2点は撮っていました。復元工事のお役に立てば幸いです。
三井寺下の駅舎は、大通りから一歩下がったところにありました。本社・車庫の所在駅だけに、他駅に比してかなりの大きさでしたが、乗降客はわずかなものでした。廃止直前の姿で、正面には廃止の挨拶看板が立てかけられています。
一方の本社は、駅舎の左手にあり、駅用地とは塀で仕切られ、「江若鉄道株式会社」の門標もありました。ご覧のように木造下見板張りの2階建てで、この建屋は、鉄道廃止後も、江若交通の本社として長く在りました。撮影時は、駅・車庫用地すでに撤去後で、手前には新設の道路が見えます。この本社も昭和60年前後に付近の再開発に伴い、取り壊されたと記憶しています。

▲三井寺下駅駅舎、右手にホームがあり、車庫に留置された車輌も見える

▲右手が江若鉄道本社、左は組合の建物か。鉄道廃止後15年後の姿

江若鉄道白鬚駅復元工事(その7)

梅雨明け、水泳シーズンの開業を目指して工事を進めてきましたが、何とか完成に近づいてきました。あとは松並木が残っていますが、車両や建物と勝手が違って 手が止まってしまいます。とりあえず開業し、木はぼちぼち植えてゆくことにしましょう。というわけで完成間近かの様子をご覧下さい。

高島町、白鬚とできたのですが、こうなると次はどうするかということになります。浜大津、三井寺下、近江今津・・・。浜大津を作るとなると京阪浜大津も作りたくなるし・・・、近江今津は実は行ったことがないし・・・、三井寺下は再現したいが、部屋に収まらないような大きさになりそうだし・・・とあれこれ思案を始めています。三井寺下の構内配線はほぼわかるのですが、駅本屋、本社社屋など建物の写真がないのです。三井寺下の駅前風景など車両以外の写真があれば 是非ご紹介ください。

「電車は1両もええ 続編」補足

前回取り上げた丹波橋駅に停車中の三条行で、積み残し客が出る程満員であることが、お判りいただけると思う。(昭和39年5月10日)

準特急様が旧国鉄、JRの単行電車について書き込みされたが、文中で触れられている小野田線の支線「通称本山支線」と鶴見線の支線「通称大川支線」について補足する。

本山支線のクモハ42

平日、休日ともに運転は朝・夕のみで土曜日のみ学生の下校時間帯に1往復運転されていた。(現在は学校が完全週休2日制になったため運転されていない)私自身乗車したのは1度だけで撮影した前日の夕方1往復したが日没後のため撮影はしていない。翌日宇部新川駅で朝のラッシュ時に撮影後、雀田駅に行ったが午前中の運転は終了しておりパンタを降ろして昼寝をしていた。クモハ42の運行は平成15年3月14日までで、その後はクモハ123が運行されている。

 

雀田駅で昼寝中のクモハ42005(昭和49年1月20日)/本山支線の他、クハを連結して宇部線・小野田線の運用に入ることがあるため、下り向きには貫通幌が付いていた。

大川支線のクモハ12

平成8年3月15日までクモハ12051か052が単行で運行されていたが、3月16日のダイヤ改正で103系3連に置き換えられた。その際に武蔵白石駅の大川支線ホームが急カーブにより20m車が入線できないため撤去され、大川行は一つ鶴見寄りの安善駅との間の渡り線から上り線を逆走し、武蔵白石駅を通過して大川駅に至っている。平成16年8月より205系への置換えが開始され、103系は平成17年12月17日をもって引退した。

 

大川駅に進入するクモハ12052(昭和47年5月1日)

その他の単行

大垣~美濃赤坂間、大垣~垂井~関ヶ原間のローカル運用の昼間の閑散時間帯にクモハ40、クモハ12の単行が使用されていた。

 

美濃赤坂駅に停車中のクモハ40069(昭和39年9月21日)

【参考】

この時の主目的は西濃鉄道の蒸気機関車で、当時「2105」と「2109」が在籍しており、当日は「2105」が稼働していた。廃車後「2109」は大井川鉄道に行き、現在は日本工業大学で動態保存されている。

高槻電車区の職員通勤車

営業運転ではないが、高槻駅から電車区の間に職員通勤用にクモハ32002が運転されていた。車体の内外は営業車と同レベルに整備され、いつでも営業運転に使用できるようになっていた。現役の時、高槻電車区見学会の帰りに便乗させていただいたので参加された方は覚えておられると思う。

 

(昭和41年11月12日)

【参考】クモハ32について

クモハ32は、昭和9年7月20日吹田~須磨間の電化開業による電車運転開始時に、主として増結用に使用するために新製された両運転台付のモハ42を戦時改造で4扉化した電車である。13両中5両改造されたが、戦災と事故で2両廃車となり、生き残った3両が昭和28年の改番でモハ32000~002となった。昭和40年代は32000が岡山区、32001が淀川区に在籍し、通常の営業運転に使用されていた。

 

宇野線の8連の先頭に立つ32000(昭和47年7月30日)

 

片町線で中間に入った32001(昭和49年3月23日/住道駅)

 

牽引車代用として向日町運転所に貸し出された時(昭和41年11月28日)

青梅線・五日市線のクモハ40

五日市線の電化開業時、昼間の閑散時にはクモハ40の単行が見られた。この画像を見る限りでは単行に見えるが、実はラッシュ時の増結車である。当時、ラッシュ時は基本4両にクモハ40が1両増結され、5両で運転されていた。

 

クモハ40039(昭和49年5月1日/青梅駅)

 

クモハ40061他5連(昭和49年5月1日/拝島駅)

クモハ123

準特急様が塩尻~辰野間のクモハ123-1と身延線のクモハ123-602を紹介されておられるが、同形式について少し説明したい。

国鉄末期の昭和61年から分社後の63年にかけて手荷物・郵便輸送廃止により余剰になった荷物電車を旅客用に改造したものである。JR東日本はクモハ123-1が1両のみ、JR東海は123-41~45(改造により5041~5044・5145に改番)・601、602の7両、JR西日本は123-2~6の5両が在籍したが、JR東海は平成19年までに廃車、JR東日本とJR西日本は全車両健在である。JR西日本は宇部・小野田(本山支線を含む)線を主体に山陽本線の宇部~下関間で使用されている。

JR東日本 クモハ123-1(昭和62年1月15日/塩尻駅)

改造当初は白と緑のツートンであったが、走行区間に緑が多く目立たないことから現在の塗装に変更された。

 JR東海 クモハ123-5043+123-601+123-602

JR東海は当初、身延線の富士~西富士宮(一部は芝川)間と甲府~鰍沢口間の区間運転用に投入されたが甲府~鰍沢口で使用する車両の送り込みのため、富士~甲府間の全線を走破する運用も存在した。トイレがないことから乗客からの苦情が殺到したため、甲府~鰍沢口間の区間運転から撤退し、それに伴う富士~甲府間の全線通し運用もなくなった。但し、平成19年3月18日のダイヤ改正まで、沼津~身延間の4229Mに2連で使用されていた。富士~沼津間を3連で回送、沼津で検査後11時30分頃3連で出庫して、11時40分頃先頭の1両が回送で発車、後2両が11時50分発身延行となった。

 

上/クモハ123-5043 中/クモハ123-602 下/クモハ123-601(平成17年6月24日/沼津駅)