江若鉄道白鬚駅復元工事(その7)

梅雨明け、水泳シーズンの開業を目指して工事を進めてきましたが、何とか完成に近づいてきました。あとは松並木が残っていますが、車両や建物と勝手が違って 手が止まってしまいます。とりあえず開業し、木はぼちぼち植えてゆくことにしましょう。というわけで完成間近かの様子をご覧下さい。

高島町、白鬚とできたのですが、こうなると次はどうするかということになります。浜大津、三井寺下、近江今津・・・。浜大津を作るとなると京阪浜大津も作りたくなるし・・・、近江今津は実は行ったことがないし・・・、三井寺下は再現したいが、部屋に収まらないような大きさになりそうだし・・・とあれこれ思案を始めています。三井寺下の構内配線はほぼわかるのですが、駅本屋、本社社屋など建物の写真がないのです。三井寺下の駅前風景など車両以外の写真があれば 是非ご紹介ください。

「電車は1両もええ 続編」補足

前回取り上げた丹波橋駅に停車中の三条行で、積み残し客が出る程満員であることが、お判りいただけると思う。(昭和39年5月10日)

準特急様が旧国鉄、JRの単行電車について書き込みされたが、文中で触れられている小野田線の支線「通称本山支線」と鶴見線の支線「通称大川支線」について補足する。

本山支線のクモハ42

平日、休日ともに運転は朝・夕のみで土曜日のみ学生の下校時間帯に1往復運転されていた。(現在は学校が完全週休2日制になったため運転されていない)私自身乗車したのは1度だけで撮影した前日の夕方1往復したが日没後のため撮影はしていない。翌日宇部新川駅で朝のラッシュ時に撮影後、雀田駅に行ったが午前中の運転は終了しておりパンタを降ろして昼寝をしていた。クモハ42の運行は平成15年3月14日までで、その後はクモハ123が運行されている。

 

雀田駅で昼寝中のクモハ42005(昭和49年1月20日)/本山支線の他、クハを連結して宇部線・小野田線の運用に入ることがあるため、下り向きには貫通幌が付いていた。

大川支線のクモハ12

平成8年3月15日までクモハ12051か052が単行で運行されていたが、3月16日のダイヤ改正で103系3連に置き換えられた。その際に武蔵白石駅の大川支線ホームが急カーブにより20m車が入線できないため撤去され、大川行は一つ鶴見寄りの安善駅との間の渡り線から上り線を逆走し、武蔵白石駅を通過して大川駅に至っている。平成16年8月より205系への置換えが開始され、103系は平成17年12月17日をもって引退した。

 

大川駅に進入するクモハ12052(昭和47年5月1日)

その他の単行

大垣~美濃赤坂間、大垣~垂井~関ヶ原間のローカル運用の昼間の閑散時間帯にクモハ40、クモハ12の単行が使用されていた。

 

美濃赤坂駅に停車中のクモハ40069(昭和39年9月21日)

【参考】

この時の主目的は西濃鉄道の蒸気機関車で、当時「2105」と「2109」が在籍しており、当日は「2105」が稼働していた。廃車後「2109」は大井川鉄道に行き、現在は日本工業大学で動態保存されている。

高槻電車区の職員通勤車

営業運転ではないが、高槻駅から電車区の間に職員通勤用にクモハ32002が運転されていた。車体の内外は営業車と同レベルに整備され、いつでも営業運転に使用できるようになっていた。現役の時、高槻電車区見学会の帰りに便乗させていただいたので参加された方は覚えておられると思う。

 

(昭和41年11月12日)

【参考】クモハ32について

クモハ32は、昭和9年7月20日吹田~須磨間の電化開業による電車運転開始時に、主として増結用に使用するために新製された両運転台付のモハ42を戦時改造で4扉化した電車である。13両中5両改造されたが、戦災と事故で2両廃車となり、生き残った3両が昭和28年の改番でモハ32000~002となった。昭和40年代は32000が岡山区、32001が淀川区に在籍し、通常の営業運転に使用されていた。

 

宇野線の8連の先頭に立つ32000(昭和47年7月30日)

 

片町線で中間に入った32001(昭和49年3月23日/住道駅)

 

牽引車代用として向日町運転所に貸し出された時(昭和41年11月28日)

青梅線・五日市線のクモハ40

五日市線の電化開業時、昼間の閑散時にはクモハ40の単行が見られた。この画像を見る限りでは単行に見えるが、実はラッシュ時の増結車である。当時、ラッシュ時は基本4両にクモハ40が1両増結され、5両で運転されていた。

 

クモハ40039(昭和49年5月1日/青梅駅)

 

クモハ40061他5連(昭和49年5月1日/拝島駅)

クモハ123

準特急様が塩尻~辰野間のクモハ123-1と身延線のクモハ123-602を紹介されておられるが、同形式について少し説明したい。

国鉄末期の昭和61年から分社後の63年にかけて手荷物・郵便輸送廃止により余剰になった荷物電車を旅客用に改造したものである。JR東日本はクモハ123-1が1両のみ、JR東海は123-41~45(改造により5041~5044・5145に改番)・601、602の7両、JR西日本は123-2~6の5両が在籍したが、JR東海は平成19年までに廃車、JR東日本とJR西日本は全車両健在である。JR西日本は宇部・小野田(本山支線を含む)線を主体に山陽本線の宇部~下関間で使用されている。

JR東日本 クモハ123-1(昭和62年1月15日/塩尻駅)

改造当初は白と緑のツートンであったが、走行区間に緑が多く目立たないことから現在の塗装に変更された。

 JR東海 クモハ123-5043+123-601+123-602

JR東海は当初、身延線の富士~西富士宮(一部は芝川)間と甲府~鰍沢口間の区間運転用に投入されたが甲府~鰍沢口で使用する車両の送り込みのため、富士~甲府間の全線を走破する運用も存在した。トイレがないことから乗客からの苦情が殺到したため、甲府~鰍沢口間の区間運転から撤退し、それに伴う富士~甲府間の全線通し運用もなくなった。但し、平成19年3月18日のダイヤ改正まで、沼津~身延間の4229Mに2連で使用されていた。富士~沼津間を3連で回送、沼津で検査後11時30分頃3連で出庫して、11時40分頃先頭の1両が回送で発車、後2両が11時50分発身延行となった。

 

上/クモハ123-5043 中/クモハ123-602 下/クモハ123-601(平成17年6月24日/沼津駅)

代理投稿:人間国宝より須磨の大老へ

湯口徹氏へ
52年前の海底トンネルの県境の写真、ありがとうございました。私はいつまで学生
服を着ていたか憶えていません?
喜々津ー大草間は湯口氏の記事の通り、誘われたに違いありません。3月22日(土)
夜門司駅で待ち合わせ、3月23日(日)昼過ぎ湯口氏と別れ、私は一旦京都へ帰っ
て3月28日(金)午後出発、夜行で九州へ。
29日(土)午後海老津の駅で再会し、翌3月30日(日)に喜々津ー大草へ撮影に
行ったということです。
                                  佐竹保雄

1957年3月19日西日本鉄道北九州線

この日は天気もよく、ずいぶんフイルムを費やした。それも西鉄北九州線砂津車庫で路面電車をバンバン撮ったのである。かような電車は拙老の最も不得意とする処であり、ともかく写真を羅列するので、解説は乙訓ご老人あるいは藤本哲男氏にお願いできないだろうか。何卒よろしく。


西日本鉄道北九州線79

80


101

156

204

618

1001

1009

1020

廃車体 パンタは後ろの車両のものである

先日ええ歳こいだ仲間の年中央での懇親=要は酒盛りで「年中会」と称す。勿論年末の忘年会もある=で広島に行き、翌日電車を借り切って走行、車庫で撮影会。そのうちの数名が松山で再泊。元気な二都市の路面電車をイヤというほど堪能した。思い出すまでもなく、かつては日本中に路面電車が走っていたし、その大方は元気だった。しかしともかく米国に倣えと、片端からひっぺがしてバスに切り替え、それこそが進歩だと、ジャーナリストも政治家も、心底信じ込んでいたのが1960年代以降であった。関西でも万博を控え、大阪青年会議所は声を大にして路面電車の撤廃を叫んでおり、特に阪神国道線を槍玉に上げていた。小生の知る限り、路面電車は残すべきで、米国ではなく、ヨーロッパに学ぶべきだと主張していたのは、奥野利夫氏ぐらいではなかったか。後悔先に立たたずとはいうが。

島君の近況

広島地方の酒造メーカーの御曹司であった1981年度生の島靖英君と

京都駅で20年ぶりくらいに再会しました。

貴重なる鉄道情報源の当会BBSで、個人の近況を載せるのは

いかがなものかという懸念はありますが、1980年前後の会員には

大変知りたい情報かと思い報告いたします。

会員連絡用の第2掲示板のようなものがあればいいのですが、

今の段階では無いので、2週間くらい載せてこの記事は削除しようかと

考えております。コメントがあれば欲しい気持ちもあります。

彼も48になり、営業担当責任者という職責は重いですが、大学ゼミの

交流会に出て来る程度の時間がとれるようになったので、私はOB会

行事への今後のふるっての参加を勧めました。

なお、「関西で白牡丹は飲めないのか」という私の質問に対し

「阪急オアシスに1銘柄だけ置いてもらっている」そうです。

早速池田駅のお店で買い求めたのがこれ。

「さらりとうまくち」720mlで750円くらいでした。

紙パックのトップには「うまさがちがう白牡丹」のコピーが。

この文面について1982年度生の諸君、解説(怪説)と感想を

述べよ。

電車は1両もええ 続編

 今回は国鉄・JR編である。本来ならこのあたりは小生の出る幕ではないが、長谷寺撮影でふともらされた電車少年さんの言葉から続編までに至った。学生時代は京都~西明石間各停やゲテモノの宝庫阪和線、片町線など旧型国電には恵まれた環境にあった。ところが、DRFC名物阪急・京阪戦に巻き込まれて私鉄に手を出し、その頃蒸機も無くなりつつあったので、結局、国電は殆んど撮っておらず、ましてや単行はない。

 旧型国電単行で最も有名であった宇部線の支線で活躍したクモハ42は遠すぎて行かず、鶴見線支線大川線のクモハ12はいつでも行けると思って撮影をのがす始末。どなたか、補足してもらいたいが、例によって拙写をのっける。

 

 唯一撮った旧型国電単行クモハ40071

 これは、当時の国鉄中央線支線で国分寺から北府中を通り、東京競馬場との間を往復していたクモハ40001。

1973.03.17 北府中~東京競馬場前 競馬場行きクモハ40071西ムコ

 

 JR四国7000

 学生当時、四国はディーゼル王国で私鉄を除いて電車など走るとは夢にも思わなかった。しかし、本線を単行が走ると何となく寂しい。

1998.05.03 予讃本線川之江~箕浦 伊予西条発観音寺行き1124M

 

 JR東海飯田線と身延線

 線名を聞くとかつての旧型国電の活躍舞台であり、各自思い出多き路線であるが、時代が変わって豊川~豊橋の区間電車は味気ない単行電車になっていた。身延線西富士宮~富士間の区間用は引退して今は見られない。

2005.04.09 下地~小酒井 クモハ119-5104 海カキ 438M

2007.02.25 入山瀬~竪堀 クモハ123ー602 静シス 西富士宮発富士行き

 

 JR東日本クモハ123-1

 中央線の塩尻~辰野間で今尚活躍する荷電改造車。1枚は有名撮影地で、かつてのD51の活躍舞台。言い訳になるが、夕方の塩尻発で写りが悪いので駅で撮影をもう1枚。

2007.09.16 塩尻~小野 165M 辰野行き クモハ123-1 長モト

2009.03.15 辰野 156M折り返し159M 雲は123-1 クモニ143を改造

 

 ビックリする様な意外性のある写真は皆無であるが、まだ、JRには単行電車があるはずである。どなたか発表して下され。尚、慣れない作業で飯田線の「小坂井」が「小酒井」に、最後の辰野駅の電車の「クモハ」が「雲は」と間違っており、訂正の仕方がわからずお許し願いたい。