2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part13  阜新煤礦鉄路 その3

【上遊型のプロフィール】
前回の投稿でプルプルさんより「機関車のスペックも記載して」とのご注文が出ました。専門外ですが分かる範囲でまとめてみました。ベースとなったミカロとD51との比較もしてみました。


▲ 表でもお分かりのように蒸気機関車上遊型は、南満州鉄道のミカロを参考に製造されていています。
上遊型詳細公表がないのでの真偽性は不明ですが、極めて類似しています。製造開始当時は製造の基礎知識は欠落していたと思われますので、おそらく殆どがコピーされたものと推測します。前回の投稿で、朽ち果てた上遊型の写真を掲載していますが、その中に1台、番号不明ながら「JF****」と読み取れる蒸気がいました。外観を見ましても類似していました。

ミカロの写真は、2010年10月27日に瀋陽鉄道博物館訪問時に撮影しました。訪問記の詳細はこちらへ。 続きを読む

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part12  阜新煤礦鉄路 その2

第9日目 5月26日 午後

ようやく見つけた五龍炭鉱前の庶民食堂で遅い昼食後、平安站ヤードへの路線を歩きながらロケハン再開です。


▲ 14:54、早速ZF型ホッパ車5両とC50型石炭車1両の編成を後押しで1210号機が上がってきました。ホッパ車に積載されているのは残土ですが、石炭車には発電所から出る廃土「フライアッシュ」だとO氏は言われます。フライアッシュは石炭燃焼時にガスとともに吹き上げられる微粒子で、そのまま捨てると風にまって、吸い込むと人体に悪影響が出る産業廃棄物です。日本では捨てず、吸水性が良いのでセメントと混ぜて使用されて処理されているとのご説明です。O氏は定年退職されるまで某大手製鉄会社にお勤めでしたので、この道の専門家なのです。日本では輸送する際にはタンク車が使用されていますが、ここでは無蓋車に積んでいます。当然、撒き散らしながらの輸送です。勿論ここに住む人民や働く職工には知らされていないでしょう。撮影される際はマスクが必需です。


▲ 15:22、続いて1818号機が3両のホッパ車を牽引して山を下って行きました。バックの橋はかつての路線です。海州露天鉱への架線を張った路線も残っていました。先のカーブには今まで見たこともない6本のレールを使っての補強がされていました。

▲ 15:34、先に進むと、カーブをホッパ車5両と車掌車を牽引した1319号機が下りてきました。

▲ 15:41、ちょっと変った踏切小屋のありました。ホッパ車5両の牽引機は1195号機です。

▲ 平安站付近でTaxiに乗ってヤード向うの太平站方面に向かいました。16:32、5両のホッパ車を牽引して黒い爆煙を上げて発車する0988号機、平安方面に向かいます。

ぼちぼち陽も傾いてきました。ヤードに沈む夕日が綺麗と言われている場所に再度Taxiを捕まえて移動しました。


▲ 17:41、ヤードに到着しましたが、冬場では中央に沈む夕日もこの時期はマンション右側で斜光を期待するしかありません。 真っ先に来たのは東風5D型0068号機が牽引する客車6両の職工通勤列車でした。

その後、0988、1210、1320号機と発着しますが、夕日はぼやけてきて斜光は期待できず引き上げることにしました。この日までに確認できた上遊型は合計8台でした。


▲ 帰り道は、ヤードから見えていたマンション群を抜けていきましたが、車庫の中には朝見た職工通勤列車の他にYZ22-79004、79005、79008の客車と、朽ち果てた上遊型0036、0076、0127、0391、0576の他ナンバー不明の2台の計7台が放置されていました。かつては相当数の上遊型が運行されていたことが分かりました。

▲ 今夜も夕食は
蒙古族の料理で、「羊肉火鍋」です。ホテルから歩いて約5分にレストランが並ぶ繁華街がありますが、1番多いのが羊肉火鍋のお店です。
  Part13  へ続く

 

梯子をくくりつけた電車

窓間柱を利用したくくりつけは1954年8月、琴参電鉄樫藪変電所に留置されているデハヨ27号で最初に見た。
5年後、9月15日に山形交通三山線を訪問、間澤終点(車庫所在)では工事用車が目の前で窓間柱と扉の保護棒を利用してくくりつけ、作業に出掛けて行った。先のデハヨ撮影に1955年行ったら廃車解体スミであった。
102号は工事用となっており、車内はノンシート

102号は工事用となっており、車内はノンシート

入口の取っ手と窓荳・?に繝・?プ掛してぶら下げた
入口の保護棒と窓中柱にロープ掛してぶら下げた

定時に回復いたしました。相模5000型

関先生の記事によると、この当時(昭和30年前後)の関東私鉄車両は意欲的な物が多かったのがよくわかります。関西でも阪神や京阪にはその後の電車を大きく変える新技術が試されていました。ただ顔だけは関東ほど86を気にしていたかは疑問です。権威に弱い関東と権威ほど見て見ぬふりをする関西の違い、といえば関東の人に怒られるでしょうか?

都電荒川線「2011路面電車の日」記念イベント


「花100」と阪堺カラーの「7511」(方向幕は「あびこ道」を表示

6月13日「【13564】阪堺電車撮影会開催
!」で小西啓文氏が「阪堺電車祭り」をレポートされたが、東京都交通局でも6月12日、荒川車庫で記念イベントが開催された。当日、午前中のみではあるが時間が空いていたので見学に行った。


内容は、東京交通局が100周年を迎えたので「都営交通100周年記念」と「都電×阪堺線100周年記念」のヘッドマークを装着した8800形、秋以降に運行予定の花電車、3月に引退した7500形の展示が行われた。例年通り「都電広場」横に交通局グッズを販売するブースの他に、東関東大震災で大きな被害を受けた「ひたちなか海浜鉄道」と「三陸鉄道」のグッズ販売ブースが設置された。特に「ひたちなか海浜鉄道」は社長自ら社員の方と共に来所され、正午から会場で挨拶をされた。

イベントは10時に開始され「都営交通100周年記念」のヘッドマークを付けた8807と「都電×阪堺線100周年記念」のヘッドマークを付けた8805が展示された。

11時からは7510を改造した花電車「花100」が展示された。東日本大震災により花電車の運行中止を検討されたようであるが、秋以降に運行されることになった。 

12時から「ひたちなか海浜鉄道」の吉田社長の挨拶があり、3月13日限りで運行を停止した7511と7512がヘッドマーク付きで展示されたが、残念ながら時間切れのため撮影はできなかった。代わりに現役時代最後の写真を貼っておく。7511は3月13日営業運転最終日、7512は震災当日出勤途中に撮影した。


 荒川車庫には、7505、7515、7520が解体されずに残っている。展示された7511、7512は3月31日付で廃車されている。

 

「ひたちなか海浜鉄道」と「三陸鉄道」のブースで僅かでも復興に足しになればと思い、買物をした。「ひたちなか海浜鉄道」では「阿字ヶ浦―勝田」(裏面は那珂湊)のサボを購入したが包装紙が無く、むき出しのまま持ち帰るハメになり、都電の車内はともかく、町屋からの地下鉄、JRの車内では他の乗客から怪訝な目で見られていたに違いない。ちなみに値段は3500円であった。

同鉄道は、地震で壊滅的な被害を受けたが、6月25日に那珂湊~中根間の1駅のみであるが復旧し、1日2往復運転が再開された。7月3日には勝田~平磯間の復旧工事が完成し営業が再開される予定である。残る平磯~阿字ヶ浦間も7月末には復旧工事が完成する予定で、全線の営業再開まであと一息である。その時には、懐かしい国鉄カラーの気動車や、はるばる三木鉄道から輿入れたミキ300に会いに行きたいと思っている。

 

花巻電鉄軌道(鉛)線 その2


軌道線デハ3の室内 座席奥行はもたれとも304.8mm その間隔は座席の約倍

仕掛け人の米手作市氏から、軌道線デハ5の「側面に竹梯子」とは何ぞやとのご質問が出た。写真が見つからないが、木製車体のデハ5は現役を外れて架線修理車になっており、その際使用する竹梯子を側面窓下に釣って―引っ掛けていたのである。

某氏から、写真はもっとある筈。出し惜しみするなとの警告?メールも。はいはい、出しますとも。ただ例のネオパンSSヴィネガー・シンドロームでネガは散々で見る気もしないが、幸いプリントしてアルバムに貼り付けていたので、ピント精度は当然落ちるが、それからのスキャンでご覧頂くことにする。なお前回軌道線半鋼ボギー車を、木製デハ4、5とほぼ同じと記したが、木製ボギー車は窓が2個×5、半鋼ボギー車は吹き寄せなしの10個等間隔である。


1926年雨宮製24人乗りサハ2 扉が2枚引戸に改造され開口部がやや拡げられている

サハ3 車体はサハ2とほぼ同じだが妻面が電動車と同じでボギー化改造されている

両側に民家がつらなり拡幅不能の西公園石神間 道路幅は2間半=15尺=4.55mだろう

先回は終点近くの狭い箇所をご覧いただいたが、今回は起点に近い狭隘箇所を。写真で見るとそれほどとも思えないかもしれないが、軌間が762mmだから、それを物差しとすれば、恐らくこれは当時としても「広くない」基準である「2間半」と思われる。なお機械関連では早くからフィート・インチ法を使ったが、土木関係では長らく尺・間・町・里が幅を利かし、川幅や橋梁長にも間(=6尺)が使われた。フィート・インチとの混同も多く、2フィート6インチを「2尺5寸」とする公文書などに事欠かない。

この区間は先回の鉛-西鉛間よりはマシだが それでも「なるべく」軌道内に車馬が入ってほしくない気持ちがありあり。それでもバスやトラックには、この道しかない。電車が来れば離合は「かなり」難しい。


離合設備があり駅員もいる石神 乗降用に木箱がおいてある 右は岡持を下げた出前のおばさん

デハ4とデハ1 狭幅車+広幅サハ同士の離合 やってくるデハ1(右)牽引の半鋼サハから「前の景色が見える」のが納得されよう

本来「路面と同一」であるべきレール面はこんな状態(まだいい方)

路面は不陸(ふりく=土木用語で平らならざる状態)続きで、雨上がりだから水溜りだらけ。車が通る度にその泥水を浴びる周囲の家も泥だらけ。この箇所はそれでも若干拡幅されており、何とか電車とバスと離合できるが、バス同士だと片方は軌道内に踏み入らざるを得ない。だから線路班が土を均しているのだが、さしたる効果があるとも思えない。

2011年 春から春から夏への中国鉄路の旅 Part11  阜新煤礦鉄路 その1

第9日目 5月26日 午前

今日は平庄煤礦鉄路に続いて上遊型が現役で残る阜新煤礦鉄路を訪ねる。阜新市は遼寧省省都である瀋陽市の西北西約200キロに位置する地級市です。阜新駅周辺の地図はこちら

朝6時にホテルを出発して上遊型が客車を牽引する唯一の通勤列車の撮影を目指しました。

▲ 6:22、約20分で中国鉄路の阜新站に隣接した 阜新煤礦鉄路平安站近くの踏切に到着しました。站は近くにあり屋根もある立派な?ホームです。この日に見た最初の上遊型は1319号機。平安站はこちらへ。
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花巻電鉄軌道(鉛)線


鉛温泉に到着する上り鉄道線用広幅車 道路もここだけ若干広くバスとすれ違えるが 右のミゼットから奥は離合不能である 1960年3月18日

乙訓老人からチョッカイが出た。通常なら須磨から乙訓へ、やれコメントせよ、ソレ何か言えと迫るのに今回は逆だが、事花巻の、それも軌道(鉛)線とあらば、須磨老人が黙っているわけに参らない。早速挑発に乗り、シコシコとキーボードを叩き始めることに。

開業時の電車デハ1 窓数とモニター窓数は通常一致するものだがこれは後者が1個多い

花巻電気として開業以来、盛岡電気工業、花巻温泉電気鉄道、花巻電気鉄道、花巻温泉電鉄、最終が花巻電鉄(1953年6月1日)と社名を変えた。鉄道線は1925年8月1日盛岡電気工業として開業し、軌道線は1921年12月25日同社に合併されたのである。

軌道線は1913年8月3日特許、1915年9月16日西公園-松原間8.2kmを開業した。車両は24人乗り、オープンデッキのデハ1が1両のみ、他に無蓋貨車2両。メーカーは大日本軌道鉄工部(→雨宮製作所)で、恐らく雨宮としては電車の処女作であろう。15馬力×2、営業時間が「自日出、至日没」とあってもたったの4往復で、西公園発7時30分、10時、13時、15時30分、所要41分。松原発は8時41分、11時30分、14時19分、16時36分。こんな列車数でよく電化したと思われるだろうが、元来電気会社だからで、蒸気機関車なら走行用より待機中の保火用石炭の方が沢山要るだろう。電燈用の間隔の広い電柱をで架線を保持したため、盛大にたるみ、最後までポールで過ごし、電車走行を真横から眺めると、ポールの部分だけ架線が持ち上がっていた。

何分共道路が狭く、恐らく15尺=2間半(4.55m)程度しかなかったので、車体幅が5フィート2インチ(1,575mm)と狭いものだった。2両目のデハ2は1918年製、デハ3は1923年製であった。


1926年製サハ2、3 この時点では扉が1枚引戸で開口部が狭い
1926年製デハ4 1928年製のデハ5も同形 後者は竹梯子をサイドに装着して最後まで残存
半鋼製デハ1(軌道線) 西鉛温泉 奥に無蓋車が1両いるが無人停留場である
恐ろしい急カーブにさしかかる鉄道線デハ4 車体幅は2,134mm(7フィート)あり、車体前後も絞ってない 山ノ神-鉛温泉間
この母子は電車が近づいてきて店内に逃避した このあたりは少なくとも道路の広い側の枕木は露出していないが 幅は2間半あるんだろうか 軌間と比較してご推定あれ

この電気軌道は1918年1月1日花巻(後中央花巻)に若干伸び、岩手軽便鉄道と接続。1920年4月志度平-湯口を延長開業。1922年5月1日馬車軌道だった温泉軌道(大沢温泉-鉛温泉)を合併し、その後電化。最終1923年5月4日湯口-大沢温泉に達し、18kmが全通した。

ボギー電車は木製のデハ4が1926年、デハ5が1928年に登場。車体前後を絞り、最大幅は1インチ拡がった5フィート3インチ(1,600mm)である。車輪は一人前の34インチだから、床高は空車で38インチ(965.2mm)。モーターは30馬力×2、定員40人(内座席22人)。


車内幅は間柱内面間で4フィート5インチ1/2(1,359mm)で 座席が左右各背もたれ共1フィートだから 座席間は749mmしかない しかもその後定員を50(内座席28)人に増加させた

恥ずかしながら26年前の拙著『私鉄私鉄紀行 奥の細道(上)』(レイル14号)から引用する。
「(前略)奥行きの恐ろしく浅いロングシートが両側にあり、しかもその上吊革もちゃんと2列に並んでいる。普段はさすがに千鳥にしか人は座れない。すなわち座席定員の半分しか座れない。その間をぬって車掌が乗車券を売りに来る。混んでくるとまさに膝が突き合いへしあいで、結構吊革にも人がぶら下がり、それでいてやっぱり車掌がやってくるのは神技である。ここの車掌はふとった人では絶対に勤まらない。」

1931年6月15日記号番号変更届で2軸車のデハ1をサハ1に、デハ2をデハ1に繰り上げ、サハ1に旧デハ1の台車モーター等を装着しデハ2とした。ところが8月16日に車庫火災があり、デハ1、3、4、サハ1を焼失。電気機関車も焼損したが、翌年復旧している。

1931年新製のボギー車デハ1、3、4は、ほぼ木製デハ4(焼失)、5をそのまま半鋼にしたもので、やはり両端は絞ってあり、その狭い妻面は「義理堅く」3枚窓なのも同じ。これが本稿主題(であるべき)「馬面」電車である。


西鉛温泉を出た「馬面」デハ1+ワ 流石に道路横断部分は併用の法定仕様に「やや」近い

ここになると路面と「軌道施工基盤」が同一=道路の約半分を事実上軌道が排他的に独占し バスやトラックとは離合不能

上の写真は道路が旧態依然―道路幅2間か2間半しかなく、しかも軌道がその約半分を独占使用しているのが分るだろう。本来併用軌道とは、道路を軌道と車馬とが仲良く使えという主旨なのだが。実はこれにも古い歴史?がある。1918年認可当局職員の現地視察復命書を引用する。
「(前略)道路ノ不良ナルニ加ヘ軌道ノ敷設亦頗ル乱暴ニシテ『軌条間ノ全部及其ノ左右各一尺五寸通ハ木石砂利其ノ他適当ノ材料ヲ敷キ鉄軌面ト路面ト高低ナカラシムヘシ』トノ命令書ノ条項ハ熊野停留場附近約半哩間ヲ除キテハ殆ント遵守セラレタル所ナク(尤モ路面ソノモノニ甚シキ高低アリ)枕木面ト路面ト同高ナルヲ常態トシ甚シキニ至リテハ施工基面ト同高ナル場所少ナカラス(殊ニ二ッ堰志度平間ニ於テ甚シ)。」

会社側にも言い分があって、当初は法定通り施工した(という)が、道路の余りの不良ぶりに車馬は少しでも状態の良い軌道上を走行。「電車ヲ避クル際軌道ヲ斜行シテ甚シク軌道ヲ損ゼシメルヲ以テ会社ハ自衛上殊更ニ軌道間ノ土砂ヲ除去」した由。すなわち場所によっては軌道を全く掘り起こして車馬の乗り入れを物理的に排除したわけで、狭い道路の約半分を事実上、排他的に独占使用していたのである。しかも道路管理者からも別段苦情や注意はなかったと見え、実に1969年9月1日の軌道線廃止まで続いた。こんなケースは全国的にもそうザラにあるものではない。

もう一点、この狭い併用軌道に、なぜ前後車体絞りもない、車体幅7フィートの鉄道線電車が平然と走っているのか。実は狭い軌道線電車ですら、カーブでは狭い側の法定残余(3フィート)に5インチ不足していたというのに。

1926年会社は全通により浴客激増輻輳を申し立て、夏季のみ軌道線に鉄道線電車の使用を、いわば「緊急避難」的に申請。「軌道線ノ道路使用幅員ハ之レカ為左右僅カニ9寸ツツ増大」「該軌道布設ノ為メ荷馬車ノ往来ノ如キモ極メテ僅少ニシテ自動車ノ如キハ殆ント往復ナク交通上支障」ないと強弁。10月31日までとの限定ながら、西花巻-西鉛温泉間への広幅車両の乗り入れを勝ち取ったのである。

ところが翌年もシャアシャアと同じ申請をし、当局は「其ノ後道路拡築ノ手続モ採ラス同様ノ申請ヲ為シタルハ穏当ナラス」と、これはマトモな対応だったのだが、どうしたことか1928年10月5日すんなり?認可。恐らく会社は認可の有無などお構いなく運行を続けていたのであろう。しかもこれは爾後完全に既得権となり、我々の時代でも平然と行われ、廃止まで続いたのであった。


鉄道線用広幅付随車に乗っていても、前頭の電車が狭幅なら前の景色が見えるという証拠写真 志度平温泉 こんな駅でも駅員が数名いた 

花巻電鉄デハ1型

私が入院している間のシリーズは3回ありました。正確には秋保電鉄の後にトロリーシリーズが1回、ここから昭和20年代の東京私鉄シリーズが始まっていました。抜けた部分の新聞が産経新聞から届くまでに東急5000型の記事を掲載したものですからちょっと間抜けな事になり、関三平先生の編集に水を差したようになり申し訳なく思っています。

ポール電車シリーズの最後はみちのくの名車、花巻電鉄デハ1型です。乗った方は多くはないでしょうが知らない人はいないと思います。私は乗らなかったが見たことがある派です。乗ったらよかった、と悔やんでいます。

京滬(北京~上海)高速鉄道             開業日は7月1日に決定!正式発表!

先日現地にて、鉄路関係者より京濾高速鉄道の開業日を6月28日との情報を得ましたが、本日23日、中国共産党建党90周年にあたる7月1日を正式開とするとの現地報道発表がありました。訂正させていただきます。
尚、以前に6月中に開業と発表したため開通式典は前日の6月30日に行われます。開通式典と開業日が異なるのは日本人には理解しがたいところですが、これが中国です。
最高運転速度のスピードダウンと同様に二転三転と、中々スムーズに発車できない京濾高速鉄道ですが、運行は問題なくお願いしたいものです。1日約90往復が予定されています。
昨日帰国したばかりですので、しばし様子を見てからの初乗車を目指します。

青蛙と赤蛙

東急電鉄初代5000形をなぜ青蛙と言うのだろうか。京都人は市電600形を【青電】と言っていたではないかと、漫才のネタになりそうな話題だ。理屈っぽい江戸人も京都流にすんなり幼児感覚で画期的な新型電車の登場を祝ったのだろう。比良山系一隅の小池が繁殖地として知られている【もりあお蛙】を、息子が小学生の時に見せてやったが、背は青でなく緑であった。

屁理屈はさておいて、1989年GWに九州へ電車の旅をしている。5月2日、仕事を手早く済ませ午後の新幹線で先ず小倉へ、門司港から夜行「かいもん」で西鹿児島へ、午後3時頃に熊本へ移動。翌日午後2時頃に市電で上熊本到着。そこで眼にしたのが【あおがえる】。ピク誌を通じ蛙の上陸は知っていたが、まさか単車で使われているとは……。後の行程もあり走行中の姿は諦め、北熊本の車庫へ向かった。車庫には検修要員の方だけであったが、蛙の運転台増設に至る経過を話していただいた。老人は静岡100形がワンマンカ-となり使われているのだと思っていたのでびっくり仰天となった。休日で要員が2人という事もあり、全身が撮り易い位置への移動は遠慮した。

その4年後、大井川鐵道から伊豆箱根鉄道駿豆本線に行こうと思い、3番電車で新金谷を出発した。吉原で眼にしたのが赤蛙。新幹線利用が多くなった東海道線の旅、岳南鉄道なんて忘れていた。次駅で降りて吉原にトンボ帰り。近郊電車区間並となりこうした事が出来るようになった。戻ってみると次列車が出迎えてくれた。これに乗って途中下車。貨物列車と煙突が背後にあるところで一景、これが今回の一枚となった。その後3回訪れることになった岳南鉄道。2年前の春は雨となり写真どころではなかった。青蛙に復元された編成があると知り終点まで行ってみたが8000系2連のみで、5000系は解体されたのか何処にもなかった。何でも東急電鉄が青蛙については引き取った?とかの話を耳にしたが、どうなのか知りたいものだ。

モノコック構造電車のはしりとして今も現役で残る熊電の2両、今月21日発売のピクトリアル誌№851の表紙を飾っている。米手作市氏の紹介はタイミングばっちり。今後の迷図作家氏の発表を楽しみにしている。河さんのピク誌での国電話も佳境に突入した。

本日は晴天なり、電車をボイコット!

本日は晴天なり、電車をボイコット!

下部が広がり、おっちんすわりの蛙の姿
下部が広がり、おっちんすわりの蛙の姿
この姿が譽・?なのだが、なぜか2パンタとなっている。
この姿が正位なのだが、なぜか2パンタとなっている。
この端面に運転台が増險・?れていた
この端面に運転台が増設されていた
本来こうした2連で走っていると思っていた
本来こうした2連で走っていると思っていた
貨車、煙突、煙の3本柱がここには必要
貨車、煙突、煙の3本柱がここには必要

ユースで巡った鉄道旅 -11-

大社線を行く

回からの山陰つながりで、もう一軒、大社のユースについて触れてみます。出雲大社の参道沿いの「ゑびすや」というユースです。例によってユースの記憶が全く残っていませんが、昭和46年9月、山陰本線で撮影したあと、夕方に投宿、翌日、大社線で撮影しています。
名前からすると、大社の門前旅館に併設されたユースと想像されます。もうすっかり消えてなくなっていると思い、念のため検索してみると、まだ盛業中なのが判明しました。立派なホームページもあり、なんでもユースの場所は、阿国歌舞伎の劇場跡に建てられ、明治の時代から旅館としての歴史を有し、戦後すぐにユースを開設したという老舗のユースだったのです。

社線は、当時、典型的な赤字盲腸線だったが、そこは由緒正しき、出雲大社への参宮路線、ひと味違う列車が走っていた。大社へは、大阪から直通の急行「だいせん」がなんと3往復(夜行2、昼行1)、名古屋からも小浜・宮津線経由で「大社」が運転されていた(すべて大社線内は普通列車)。大阪からの直通急行は、昭和10年から運転されていると言い、わずか7.5キロの路線ながら、歴史と格は違っていた。C11261の逆行で大社駅に到着したのが「だいせん崩れ」の125レ。C11の次位に荷貨客共用貨車で、パレット輸送用のワサフ8000を連結しているのが、この時代を反映している。

戻りの上りとなると、大阪行きは1本のみで、残り大阪・名古屋行きは車両基地のある、出雲市からの発車となるため、大社に到着した列車は、客扱いのまま普通列車として出雲市へ戻って行く。出雲高松駅で下車して、すぐの大カーブで、上記列車の返しとなる126レを捉える。営業はしていないものの、ロネ、ハネ、ロザを連結した、12両編成の豪華な普通列車が出現する。

大社線の中間駅は、出雲高松、荒茅の2駅のみ。126レを撮ったあと、少し歩いて、出雲名物の築地松の見える地点で、128レを待って、C11261+無蓋車+客車を撮る。混合列車が、この時代でもまだ運転されていた。米子区のC11は、全機シールドビームで、回転式火の粉止めを付けた姿は、末路を暗示しているようだった。

ユース宿泊に先立つ7年前にも、臨時急行「伯耆」に乗って、大社線に乗っている。以前にも記したが、その牽引機はC51、それも化粧煙突の米子区の80号機だった。カーブに差し掛かると、窓から乗り出してハーフサイズのカメラで編成を撮っている。中学3年生にとっては精一杯の撮影行為だった。大社線では、この出雲高松~荒茅間のこのカーブが唯一で、あとはすべて直線で、上記126レを捉えた位置と同じだった。なお、戻りの列車は、キハ06の単行だった。

昭和46年訪問時は、出雲高松駅で128レに乗って出雲市へ向かい、大社線を離れる。駅は棒線一本のみの駅。格式のある参宮路線も、次第に輸送密度が低下してきた。大社駅へ降りても、出雲大社へは1.5キロほど歩かねばならず、参拝客は徐々に自動車、バスへ転移していく。結局、特定地交線の第三次廃止路線に指定され、平成2年4月に廃止となる。出雲高松駅ホーム跡は今も残っているという。

有名な大社駅の駅舎は、大正13年に全面的に改築された二代目である。著名な社寺の最寄り駅を、社寺を模した駅舎とすることが、流行った時代の産物でもあった。大社線の廃止の前年、平成元年に乗ったキハ40単行の列車は110%の混雑で、大社駅も最後の賑わいを見せていた。

大社駅には、翌年の廃止の予告看板が早くも掲げられ、廃止前のイベントが行われていた。大社造りと称される二層屋根の神殿風の駅舎は、廃止後も線路とともに残され、国の重要文化財にも指定されている。その後の廃線跡は、ほとんどがサイクリング道として整備されている。

京滬(北京~上海)高速鉄道 開業日は6月28日に決定

注目の中国版新幹線、京滬(北京~上海)高速鉄道の開業日は未公表ながら現地で確認しましたところ6月28日に決定したとの情報を得ました。

上海虹橋駅に行ってみますと、すでにビジネスクラス専用のラウンジの準備が行われておりました。




東急のアバンギャルドな5000型

アバンギャルドを知らなかったので調べました。“前衛的”だそうです。

前回は人気がなかったようですが今回は大東京の渋谷駅前にある人気者です。皆様の薀蓄を楽しみにしております。なお、前回の秋保電鉄のあと、今回の東急までの間に三回の掲載がありましたが私が入院中だったため未投稿です。順次投稿いたします。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part10  平庄煤礦鉄路から阜新煤礦鉄路へ

第8日目 5月25日

① 平庄9:32(4210次)→16:14阜新

今日は阜新までの337キロをゆっくりと6時間42分、表定速度50.3km/hで向かいます。叶赤線を終点の叶柏寿まで走り、ここから錦承線を途中の义县から分岐した新义線と3路線を走行していきます。
出発までゆっくりとホテルの朝食を食べておりましたら、お二人が撮影から戻ってこられました。朝5時頃に部屋の窓からお出かけが見えていました。O氏は昨日の列車の半分が切り離されて五峰站に留置されていたので、ひょっとしたら朝に回送機がやってきて1ヶ月に1度走るかどうかと言われた五家鎮に向かって行くのではと期待して向かわれたそうです。

昨日私が帰った後、その路線をロケハンされると撮影ポイントが数多くあったのでどうしても撮りたかったと言われました。残念ながら昨日も今日朝も望みは叶えられなかったと悔しがっておられましたが、気迫には頭が下がります。一方、F先生ももっと早くに装煤站ヤード方面に向かわれていました。 朝焼けの空をバックにしての撮影にのぞまれたそうです。元々風景写真を撮っておられた写真家らしい発想です。お二人にかかっては私はまだまだひよっこだなあと思いました。

この2日間でロケハンで歩いた経験をもとに路線図を作成しましたのでご覧ください。
▲ 黄色が平庄煤礦鉄路の路線図です。距離が分かりませんが、中国鉄路の平庄~平庄南間が9キロです。目安にしてください。
中央司令室がある装煤站に行かれる場合は、近くに燕京ビール工場がありますので、Taxi運転手に伝えれば行けます。正門前が線路と交差する踏切になっています。
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ゆりかもめ


建設中の東京湾ゲートブリッジ(恐竜橋)をバックに走る「ゆりかもめ」

4月中旬より勤務場所が「浜松町」から「お台場」に変わった。
新橋から「ゆりかもめ」に乗車するが、お台場海浜公園まで7キロの運賃は310円である。ちなみに6カ月の通勤定期代は50220円で会社的に小さくないコスト増である。私的には通勤時間の増、会社的にはコスト増で良いこと何もなく、あるとすれば唯一「ゆりかもめ」に乗れることだけである。当初は率先して最前部座席に座っていたが、今では空いている座席に座っている。最前部座席の2人掛けの通路側は空いていることが多い。
「ゆりかもめ」のごとき「新交通システム」は趣味の対象にはなり得ないと思っていたが、毎日乗っていると、製造年による差異等が目につき結構面白い。間もなく迎える勤務先からの「戦力外通告」後は、乗車機会は滅多にないだろうし、今のうちに観察、撮影しておくのも悪くはないと思い、コンデジを持参して通勤帰りや外出時に適当に撮影している。
「ゆりかもめ」の紹介かたがた、撮影した画像等をご覧いただければと思う。

【沿 革】
台場地区と都心部を結ぶ交通機関として平成7年11月1日新橋~有明間11.9㎞を開業した。当初の新橋駅は現在よりも100m程手前にあり、平成13年3月22日現在位置まで延伸された。平成18年3月27日有明~豊洲間2.7㎞が延伸開業し、東京メトロ有楽町線、東武東上線、西武池袋線沿線からお台場地区へのアクセスが確立した。

【運 転】
現行のダイヤは平成18年3月24日に改正のもので、平日は早朝、深夜7~10分、朝夕ラッシュ時3~4分、昼間5分、土・休日は、早朝、深夜7~10分、昼間4分間隔となっているが、現在は原発事故の影響により節電ダイヤにより運行されており、朝夕ラッシュ時4分、昼間は平日、休日共に6分間隔である。
始発は新橋駅6時、豊洲駅5時41分と他の鉄道各線と比較すると遅い。終発は新橋、豊洲ともに0時30分(ともに有明止)となっている。(ちなみに私が利用する金町駅の上り始発は4時32分(北千住行)、下り最終は1時13分(松戸行)である)全線の標準所要時間は31分である。早朝、深夜のみ有人運転、それ以外の時間帯は無人運転である。但し、有明駅から車両基地への入出庫は有人運転である。

【運 賃】
運賃は対キロ制で2㎞まで180円、3~5㎞240円、6~8㎞310円、9㎞~15㎞370円である。新橋からの運賃は竹芝まで180円、芝浦埠頭まで240円、台場まで310円、船の科学館以遠は370円、豊洲からは有明テニスの森まで180円、青海まで240円、お台場海浜公園まで310円、芝浦埠頭以遠370円となっている。ちなみにレインボーブリッジを挟む芝浦埠頭~お台場海浜公園間は3.9㎞あり、1駅で240円である。1日乗車券が800円で新橋~豊洲間を通しで乗る客は極めて少ないと思われる。新橋~豊洲間はJRで有楽町まで行き、メトロ有楽町線に乗り換えると130円+160円の290円。更に安い直通ルートは、新橋~業平橋間の都バス「業10」で200円である。

【車 両】
全編成6両固定編成で、平成7年開業時から10年までの間に作られてサイリスタチョッパ制御の7000系18編成と平成11年から18年に作られたVVVFインバータ制御車7200系8編成、計26編成在籍する。
編成と車号の関係は2桁目と3桁目は編成番号を表し、4桁目は号車を表している。例えばトップナンバーの編成であれば
豊洲方から 7011-7012-7013-7014-7015-7016 となっている。
製造年度と編成の関係は以下の通りである。

7000系(1~3次車まで)
1次車 13編成(7011――7016 ~ 7131――7136)/平成7年新橋~有明間開業時に新製した。座席はお台場への行楽客を意識して先頭車の先頭部を除きオール4人掛クロスシートである。シート間隔がクモハ51並に狭く、通勤客は窓際から詰めて着席するが、昼間の一般客は立客がいてもワンボックスに2~3人しか座っていないことが多い。

 


2次車 2編成(7141――7146 ~ 7151――7156)/平成9年新製。
1次車とほぼ同様である。

 
3次車 3編成(7161――7166 ~ 7181――7186)/平成10年新製。
スタイルは1、2次と変わらないが、車内が大きく変化し、扉間の座席がクロスシートと3人掛ロングシートが交互の配置となり、正面にレインボーのストライブが入った。また、ドアが1、2次車がプラグドアに対し、3次車以降は外吊ドアとなった。

 

7200系(4~6次車まで)
4次車 3編成(7211――7216 ~ 7231――7236)/平成11年新製。
制御装置がVVVFインバータに変更されたため、形式が7200形となった。スタイルや座席配置は3次車と同様である。外観からは判らないが722編成から案内車輪が2軸から4軸に変更になった。

 
5次車 3編成(7241――7246 ~ 7261――7266)/平成13年に新製。スタイルや座席配置は4次車と変わらないが、正面のレインボーのデザインが変更された。

 
6次車 2編成(7271――7276 ~ 7281――7286)/平成17年に新製で、翌年3月27日有明~豊洲間の延伸開業に備えて増備された。座席配置が大きく変わり、豊洲方面に向かって左側クロスシート、右側ロングシートとなり、クロスシート部は4人掛と2人掛となった。居住性は向上したが座席定員は減少した。

 



保線車両

【バスとの競合】


お台場と都心を結ぶ都バスの路線が存在し「ゆりかもめ」とはライバル関係にある。運賃は200円均一と安く、所要時間は渋滞がなければ「ゆりかもめ」と変わらないが、本数の点で劣っている。「お台場」=「ゆりかもめ」のイメージを持つ人が多く、利用者は主に地元の人(特に敬老パス使用の老人)が中心である
東京ビックサイトで大きなイベントが開催される時は、東京駅と浜松町駅から臨時バスが大増発され「ゆりかもめ」共々満員で乗客を運び補完関係にある。

〔海01〕
メトロ東西線、都営大江戸線の門前仲町駅から豊洲、お台場海浜公園、船の科学館の各駅を経由してりんかい線の東京テレポート駅を結んでいる。お台場海浜公園駅と東京テレポート駅は徒歩でも7分程度であるが、バスは台場駅、船の科学館駅、テレコムセンター駅とお台場地区を一巡する。お台場海浜公園駅~豊洲駅間の所要時間は15~20分(ゆりかもめ18分)平日の昼間は10分間隔(同6分間隔)、運賃200円(同310円)と、運転間隔以外はゆりかもめより優位に立っている。しかも門前仲町駅から直通するため更に優位である。但し土休日の昼間は15分間隔のため、やや不利である。

 
17年式日野(J-BUS)PJ-KV234L1

 
21年式いすゞ(J-BUS)PJ-LV234L2
〔虹01〕
浜松町駅バスターミナルから、竹芝桟橋、日の出桟橋を通り、レインボーブリッジを渡り、お台場海浜公園駅、船の科学館駅、パレットタウンを経由して東京ビックサイトを結び、一部の便はりんかい線の国際展示場駅まで行く。
お台場地区から浜松町に行くは、「ゆりかもめ」の竹芝で降りて約10分歩くか、新橋でJRか都営浅草線に乗換える必要があり、浜松町に直通するメリットは大きい。昼間の運転間隔は平日20分、土休日15分である。イベント時に運行される臨時便は、途中ノンストップで、船の科学館等を経由せずに直接レインボーブリッジを渡るため、浜松町までの所要時間は約15分である。
余談になるが、港区の公共施設が多数存在する田町、三田地区へのバスの便がなく、芝浦埠頭で降りて約20分歩くか、新橋からJR、都営浅草線の利用となるため、港区でコミュニティーバスを計画しているようである。


10年式日野KC-HU2RCE 
/方向幕にレインボーブリッジが描かれている。

 
19年式日野(J-BUS)PKJ-KU234L2
〔都05〕
東京駅から有楽町駅、銀座4丁目を通り晴海埠頭を結んでいるが、一部の便が土、休日の昼間のみ勝どき駅から分岐して東京テレポート駅まで運転される。本数は少なく約1時間に1本である。終日10~15分間隔で運転されても良さそうに思うが、「ゆりかもめ」に遠慮しているのだろう。
〔都16〕
東京駅八重洲口より月島駅、豊洲駅、深川車庫、有明を通り東京ビックサイトを結んでいる。観光、商業施設のある台場駅の方には行かない。昼間約15分間隔運行されるが八重洲口の始発7時50分、終発17時23分とほぼ日中のみで、他の時間帯は深川車庫止まりである。ビックサイトで大きなイベント開催時には途中ノンストップの直行便が多数運行される。
〔波01出入〕
品川駅からレインボーブリッジを渡り、お台場海浜公園駅を通り東京テレポート駅を結ぶ系統であるが、本来の「波01」(東京テレポート駅~中央防波堤)の出入庫便で平日7往復、土曜祝日3往復半の運転で日曜日運休する。尚、本来の「波01」は土曜と祝日は平日並みに運行されるが、日曜日は僅か1往復のみである。

 
21年式日野(J-BUS)BJG-HUJLFP
〔急行05、急行06〕
「急行05」は錦糸町駅から新木場駅、パレットタウンを経由して日本科学未来館、「急行06」は森下駅から豊洲駅、パレットタウンを経由して日本科学未来館を結んでいる。土曜日、日曜、祝日の昼間約30分間隔で運行される。

 〔京浜急行バス〕
大井町駅から青物横丁駅を通り、首都高速道路湾岸線に入り東京湾海底トンネルを潜り抜けフジテレビ前、台場駅、東京テレポート駅を経由して船の科学館を結んでいる。大井町駅~フジテレビ前間17分と早いが日中の運転間隔が40分のため便利とはいえないが、京急、東急沿線で積極的にPRすれば乗客は増えるのではないだろうか。出入庫系統として大森駅発着便が5往復運行されている。有料道路を走行するが運賃は210円均一である。

 
19年式いすゞ(J-BUS)PJ-LV234L1
横浜駅から首都高速道路湾岸線、東京湾海底トンネルを通りお台場海浜公園駅、東京テレポート駅経由東京ビックサイト行が約1時間間隔で運転されている。観光バスタイプの車両が使用され運賃は800円である。お台場海浜公園駅まで42分、東京ビックサイトまで55分である。ちなみに同一区間を「ゆりかもめ」と「JR」を乗継ぐと運賃820円、所要時間約1時間とほぼ互角である。

 

〔東京ベイシャトル〕

東京テレポート駅からホテル、商業施設、観光施設等を巡回し運賃は無料である。運行にかかる経費はお台場地区の企業や観光施設の協賛金で賄っている。運行時間は11時から19時頃まで約15分間隔の運行である。車両はドイツのネオプラン社とニュージーランドのデザインライン社製が使用されている。運転開始時刻が遅い、運転間隔が15分とやや長いことを差引いても、外国製のバスで無料というのはインパクトが大きい。以前、上野浅草間で運行されていた2階建バスを使用していたことがあったが、乗降に時間がかかる、バリアフリー対応でないこと等で中止となった。

 
ニュージーランド デザインライン社製

 


ドイツ ネオプラン社製

【その他】
〔お台場ダッシュ〕
飯田線の「下山ダッシュ」は有名であるが、「ゆりかもめ」には「お台場ダッシュ」がある。お台場海浜公園駅で降りて青海駅までダッシュし、先程降りた電車に再度乗るというものである。同区間には「台場」「船の科学館」「テレコムセンター」と3つの駅があり、距離にして3.2㎞、所要時間は7分である。一方同区間の直線距離は約800mでしかも迷うことのない一本道のため少し走れば余裕で成功する。
「下山ダッシュ」は、下山村駅から5つ先の伊那上郷駅までの間、直線距離約2㎞を走る。高低差70mの上り勾配で、途中迷い易い箇所がある等難易度は高い。一方電車はその間6.9kmに鼎、切石、飯田、桜町と停車するが、飯田駅での停車時間の長い電車でないと難しいようである。どちらの「ダッシュ」も足に自信のある方は挑戦されては如何だろうか。
〔大船渡線〕
「ゆりかもめ」のことを「大船渡線」と呼ぶ人がいる。お台場地区の観光、商業施設を迂回するため急カーブの連続である。「大船渡線」との決定的に違いは政治路線でないこと。私自身、電話で会社までの道順を聞かれた時、思わず「新橋で大船渡線に乗換えて」と言ってしまった。
〔お台場地区の特徴〕
お台場地区は観光、商業施設の他、オフィスビル、高層マンション、イベント会場等が混在しているため、朝夕のラッシュ時には、オフィスビルへの通勤客、逆に都心への通勤・通学客、昼間は観光客、買物客で終日に亘り乗客が多い。東京ビックサイトでの大規模イベント時は超満員になる。単年度決算では黒字であるが累積赤字を解消するまでには至っていない。

【沿線風景】


汐留駅を発車する新橋行


レインボーブリッジを通過中の新橋行


お台場海浜公園駅付近


お台場海浜公園駅に進入する新橋行


船の科学館駅に進入する豊洲行


船の科学館駅に侵入する新橋行/バックは青函連絡船羊蹄丸、これに乗船して北海道に行かれた方も多いと思う。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part9  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その3

第7日目 5月24日
約束どおり5時半に白タクは迎えに来てくれました。 F先生は五峰站ヤード付近で下車されましたが、O氏と私は平庄南站近くに小高い山がありましたので、ここで朝日を浴びた上遊牽引列車を撮りたいと向かいました。

▲ 5:46、中国鉄路叶赤線を走行する長編成の石炭列車。バックが黄色になっているのは、黄砂と朝日の影響です。平庄南站手前の踏切で撮りましたが、この路線は単線ながら列車が頻繁に通過します。撮影位置はこちらです。標高525m地点。

6:04、標高約585m(鉄路との標高差60m)の小高い山に登りますと、眼下に平庄南站そして昨日撮っていた橋が見えますが、残念ながら霞んでいました。7:50前後に来るかもしれない平庄煤礦鉄路の列車を待つついでに中国鉄路の列車も撮ることにしました。(撮影場所はこちらへ)

▲ 6:16、最初に撮影した和諧号重連の長編成の石炭列車。

▲ 7:57、平庄南站に進入する大連発赤峰行きのK7351次。

▲ 8:51、叶柏寿発通遼行きの6327次が到着。平庄南站は、平庄煤礦鉄路と中国鉄路との接続站で貨物ヤードもあります。平庄站より規模は大きい站ですが、1日当たり発着する客車列車は上下共各3本のみでこれが下りの1番列車です。


▲ 8:52、平庄に来る時に乗車した赤峰発山海関行きのK7384次。これも上りの1番列車で6327次と平庄南站で停車交換します。今日は行李車を連結していない7両編成でした。蒸気時代のこの叶赤線は前進型が走っていたそうです。この場所で遠くから白煙をなびかせながらの走行を見たかった、撮ってみたかったと思いました。

9:00までO氏と二人で約3時間粘ってみましたが、平庄煤礦鉄路には1本の列車も走行しません。そろそろ諦め時だと意見が一致しましたので下山しました。五峰站に向かって道路を歩いているとワゴン車が走ってきたので手を上げると止まってくれました。どうやらここでは交通機関が少ないので、走っている車は手をあげれば止まって乗せてくれるようです。もちろんタダではなく町までなら20元(市内~平庄南間)と決まっています。
インターネット検索では装煤站から立井站間は1往復の運用があるようだとの記事しかないので行ってみたいとO氏との希望と一致しましたので、昨日私のみが行った装煤站へ運転手に頼みました。


9:40、装煤站ヤードに到着。SY0400、1052、1425号機の3台はいますが、1487号機はいません。中央司令室に聞きに行ってみましたが担当者は不在で知る事はできませんでした。

先に立井方向に進んでいたO氏を見ると、ヤード内で人海戦術で路盤工事をしている保線員の責任者に捕まっています。急いで行ってみるとここから先は通行不可と制止をされています。
お任せください。こんな時はゆっくりにっこり笑っての対応が効き目あります。いつもと同様に「私達の趣味はこの立派な蒸気機関車を撮影する事です。日本からそのために来ています。撮影は中央司令室で了解してもらっています。」と説明してタバコを薦めますと喜んで吸ってくれました。後は私たちは朋友ですと握手すれば完了です。

タバコを薦める事は中国での初対面の挨拶ですが、逆に1本が1箱、そして1ケースとなり最後は金銭にまで進んだ樺南鉄路の悪例もあります。出来ればやりたくありませんが、お金も要求してきましたのでこの場合の緊急対応です。日本の鉄ちゃんも訪れる時は後に続く人の事も考えて甘い対応はしないでください。この国の人民は一度甘い汁を吸うとそれが当たり前になってエスカレートしてしまう事もあるのです。

ヤードを過ぎると有人踏切がありましたので通過記録簿を見せてもらいましたが、今日はまだ通過していません。昨日見たダイヤグラムでは装煤8:45→9:35立井11:50→12:30、装煤14:25→14:50三井15:58→16:30装煤がありましたので午前中には1往復は来るだろうと思い待つ事にしました。
O氏はカーブを曲がった畑の中の直線区間で、私は先の林の中を目指しました。

10:44、新緑の林の中で珍しく綺麗な水が流れている所がありましたので汚れた手を洗って線路際の犬走りに戻ると汽笛もなくSY0400号機が単機バック運転で突然にやってきました。シャッターは切りましたが、もう1つです。その後まああ気に入った場所がありましたので折り返しを待つ事にしました。近くで汽笛の音は何回も聞こえるのですが中々来ません。


12:31、待つ事1時間45分。ようやくSY0400号機が戻ってきましたがセキの牽引はなくまたも単機です。今回は単機回送ばかりでまともに石炭列車は撮影出来ていません。(撮影場所はこちらへ)

O氏と中々上手くいかないなあと嘆きながら近くに食堂を探しました。
庶民食堂で昼食後、Taxiを捕まえて再び平庄南站へと向かいました。


14:44、 平庄南站到着。ホーム2本3線の交換駅です。ローカル駅とあって窓口は1ヶ所だけですが、ホームは広く、ヤードでは東風4型3877号機が入替をしていました。やがて長編成の石炭列車が到着しました。

▲ 撮影していますと、作業を終わって側線に引き上げた運転手が手招きしています。中に入れてもらって運転席内を見学させてくださいました。中には電熱器も備えられていてお湯も沸かせます。

通称「緑亀」と言われる東風4型電気式ディーゼル機関車は、1974年から約3,500台余りが量産されました。1980kwの出力を誇り、貨物用4B型(最高速度100km/h)、客車用4A型(最高速度120km/h)の他、出力アップした4C型、4CK型、4D型もあります。最近は強力な新型DL和諧号も量産されていますが、今なお中国鉄路の非区電化区間の主力DLです。車体色は濃い緑色ですが、帯は水色と黄色があり前者は「スイカ」後者は「カボチャ」と愛称されています。

石炭列車を待っていましたが夕刻になっても来ません。ここの運行には振られっぱなしです。明日は朝に平庄を離れて阜新へと向かいます。これまでかと諦めだした時に今までと違った方向から汽笛が聞こえてきました。

五峰駅から分岐して五家鎮へと向かう鉄路からです。この路線は信号所の担当者もめったに走行しない。走っても1ヶ月に1回もあるかないかですと言われていました。
17:10、全力で音の聞こえる方向に向かうと林を抜けて人民が畑を耕す中を長編成の石炭列車が姿を現しました。(撮影場所はこちらへ)

▲ 17;25、列車は五峰駅ヤードに入り、スイッチバックで機回しをした後に築堤を上がって向かってきました。牽引するのはどこに行ったのかと行方を捜していたSY1425号機でした。大地に残された蒸気機関車が走る平庄煤礦鉄路の1シーンです。(撮影場所はこちらへ)

ひたすら来ない列車を終日辛抱強く待っておられたF先生、私と右往左往して平庄南站手前で降りられ待っておられたO氏もガッツポーズです。変哲もない上遊型が牽引する石炭列車ですが、ようやく撮れたとの感激は3人にはありました。
F先生は満足げに今日はこれでいいと帰られました。O氏と私は帰路の発車を見たいと残りました。しばらくすると本線に空のセキを牽引した DF5型1797号機が平庄南站に入選して来て、SY1425号機と双方の石炭列車の機交換を行いました。

SY1425号機はDF5型から受け取った60両余りのセキを牽引して五峰駅ヤードに向かって行きました。
私はこれで満足でしたが、まだ期待できる何かがあるかもとO氏は残られました。3人で大地で残る蒸気機関車を求めて旅を続けていますが、具体的な行動はあくまで各自のマイペースを尊重する事が重要と認識していました。   Part10  へ続く

中国版新幹線のビジネスシート車

早速今日17日の朝日新聞の朝刊に中国版新幹線のビジネスシート車の記事が掲載されえいました。
16日にマスコミ公開されましたので、今回はスピーディーな報道です。 記事の内容も間違いない。ただサービス内容が具体的ではありません。
ちなみに運賃ですが、飛行機の正規運賃だとファーストクラスで2,830元 (AirChina)、エコノミーで610~1100元(格安航空券がでる時はもっと安い)です。所要時間は2時間10分、新幹線だと2倍強の時間がかかりますが人民はどちらを選択していくのか….?
当分は珍しいもの好きな人民ですので新幹線乗車を選ぶでしょうが、富裕層はともかく一般の人民はしばらくすると安い方へと流ますので、この勝負の成り行きに注目したいところです 。コストパフォーマンス無縁の人民ですが新たに言葉が生まれるかも….。
ビジネスシート車には是非とも乗車したいので、近々にご報告させていただきます。