【13949】2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part13  阜新煤礦鉄路 その3

【上遊型のプロフィール】
前回の投稿でプルプルさんより「機関車のスペックも記載して」とのご注文が出ました。専門外ですが分かる範囲でまとめてみました。ベースとなったミカロとD51との比較もしてみました。


▲ 表でもお分かりのように蒸気機関車上遊型は、南満州鉄道のミカロを参考に製造されていています。
上遊型詳細公表がないのでの真偽性は不明ですが、極めて類似しています。製造開始当時は製造の基礎知識は欠落していたと思われますので、おそらく殆どがコピーされたものと推測します。前回の投稿で、朽ち果てた上遊型の写真を掲載していますが、その中に1台、番号不明ながら「JF****」と読み取れる蒸気がいました。外観を見ましても類似していました。

ミカロの写真は、2010年10月27日に瀋陽鉄道博物館訪問時に撮影しました。訪問記の詳細はこちらへ。

第10日目 5月27日 朝のヤード
昨夜フロントにモーニングコールを頼みました。朝3時半と言うとフロントのお姉さんは目を白黒です。お願いした私もこんな時間を依頼するのは初めてです。テーマは朝焼けのヤードですが、中々出会えないイメージを何としても撮りたいとの3人の願いでした。朝日が上がるのは4時半過ぎです。日中は風が吹きまくっていますので微風の早朝が1番良いかなと挑戦することにしました。 朝4時にフロントに集合、すぐにTaxiを捕まえて平安站ヤードへと向かいました。

▲ 東の空がほんのりと明るくなり始めた頃にヤードに着きました。4:29、0988号機フライアッシュを積んだ無蓋車3両を後押しして向かってきました。朝日が出るのはどの位置なのか、静かなヤードでその時を待ちました。

▲ 4:50過ぎに雲の合間から朝日が差し込んできましたが、うまい具合に列車は来ないものです。程よいアングルを求めてヤード奥まで移動開始しました。
▲ 5:18、ヤード内に入りますと、朝日を側面に受けて1210号機牽引の石炭列車の入替作業が始まりました。
▲ 5:28、セピア調の光景が広がる中、今度は1195号機が車掌車を先頭にズリ捨て車5両を後押ししてヤードに到着しました。
▲ 一仕事を終えての息遣いが聞こえてくる1195号機。工員が運搬車を持ってきて機関車からの石炭ガラをもらっていました。
▲ 5:47988号機牽引のズリ捨て5両編成到着、5:55には発車して行きます。
▲ 6:05、東風5D型-0068牽引の職工通勤列車6両編成108次が通過、平安站へと入線していきました。機関車と客車とも昨日夕刻の117次と全く同じ編成です。

【東風5D(DF5)のプロフィール】
東風(Dong Feng)の頭文字をとってDF型とも言われます。1974年に設計開始され試作車が完成しましたが、問題が発生して改良の末1984年より量産型の製造が始まり、1993年と1998年に改良されました。電気式で出力1210KW、最高速度80km/h、軸配置C-C、通過最小半径145m、全長18.8m、全高4,752mm、全幅3,285mm、ヤード内使用を目的に製造されています。ニュースソースはこちらです。


▲ 朝のヤードは上遊型のラッシュです。入替専用機は特に決まっていないらしく各機がズリ捨て作業を終えると入替を担当しています.


▲ 7:02、朝日を浴びて唯一の蒸気牽引の客車列車の到着です。今日の牽引機は1460号機、客車は昨日同様でした。下は、入替作業待機の13191818号機です。
▲ 7:11、朝日も上がってきて朝のヤードショーは終わりになりました。ズリ捨てに向かう1195号機と待機中の1319号機に挨拶してホテルに朝食を食べに戻りました。


【13881】2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part12  阜新煤礦鉄路 その2

第9日目 5月26日 午後

ようやく見つけた五龍炭鉱前の庶民食堂で遅い昼食後、平安站ヤードへの路線を歩きながらロケハン再開です。


▲ 14:54、早速ZF型ホッパ車5両とC50型石炭車1両の編成
を後押しで1210号機が上がってきました。ホッパ車に積載されているのは残土ですが、石炭車には発電所から出る廃土「フライアッシュ」だとO氏は言われます。フライアッシュは石炭燃焼時にガスとともに吹き上げられる微粒子で、そのまま捨てると風にまって、吸い込むと人体に悪影響が出る産業廃棄物です。日本では捨てず、吸水性が良いのでセメントと混ぜて使用されて処理されているとのご説明です。O氏は定年退職されるまで某大手製鉄会社にお勤めでしたので、この道の専門家なのです。日本では輸送する際にはタンク車が使用されていますが、ここでは無蓋車に積んでいます。当然、撒き散らしながらの輸送です。勿論ここに住む人民や働く職工には知らされていないでしょう。撮影される際はマスクが必需です。


▲ 15:22、続いて1818号機が3両のホッパ車を牽引して山を下って行きました。バックの橋はかつての路線です。海州露天鉱への架線を張った路線も残っていました。先のカーブには今まで見たこともない6本のレールを使っての補強がされていました。

▲ 15:34、先に進むと、カーブをホッパ車5両と車掌車を牽引した1319号機が下りてきました。

▲ 15:41、ちょっと変った踏切小屋のありました。ホッパ車5両の牽引機は1195号機です。

▲ 平安站付近でTaxiに乗ってヤード向うの太平站方面に向かいました。16:32、5両のホッパ車を牽引して黒い爆煙を上げて発車する0988号機、平安方面に向かいます。

ぼちぼち陽も傾いてきました。ヤードに沈む夕日が綺麗と言われている場所に再度Taxiを捕まえて移動しました。


▲ 17:41、ヤードに到着しましたが、冬場では中央に沈む夕日もこの時期はマンション右側で斜光を期待するしかありません。 真っ先に来たのは東風5D型0068号機が牽引する客車6両の職工通勤列車でした。

その後、0988、1210、1320号機と発着しますが、夕日はぼやけてきて斜光は期待できず引き上げることにしました。この日までに確認できた上遊型は合計8台でした。


▲ 帰り道は、ヤードから見えていたマンション群を抜けていきましたが、車庫の中には朝見た職工通勤列車の他にYZ22-79004、79005、79008の客車と、朽ち果てた上遊型0036、0076、0127、0391、0576の他ナンバー不明の2台の計7台が放置されていました。かつては相当数の上遊型が運行されていたことが分かりました。

▲ 今夜も夕食は
蒙古族の料理で、「羊肉火鍋」です。ホテルから歩いて約5分にレストランが並ぶ繁華街がありますが、1番多いのが羊肉火鍋のお店です。


【13939】梯子をくくりつけた電車

窓間柱を利用したくくりつけは1954年8月、琴参電鉄樫藪変電所に留置されているデハヨ27号で最初に見た。
5年後、9月15日に山形交通三山線を訪問、間澤終点(車庫所在)では工事用車が目の前で窓間柱と扉の保護棒を利用してくくりつけ、作業に出掛けて行った。先のデハヨ撮影に1955年行ったら廃車解体スミであった。
102号は工事用となっており、車内はノンシート

102号は工事用となっており、車内はノンシート

入口の取っ手と窓荳・?に繝・?プ掛してぶら下げた
入口の保護棒と窓中柱にロープ掛してぶら下げた

【13933】定時に回復いたしました。相模5000型

関先生の記事によると、この当時(昭和30年前後)の関東私鉄車両は意欲的な物が多かったのがよくわかります。関西でも阪神や京阪にはその後の電車を大きく変える新技術が試されていました。ただ顔だけは関東ほど86を気にしていたかは疑問です。権威に弱い関東と権威ほど見て見ぬふりをする関西の違い、といえば関東の人に怒られるでしょうか?


【13901】都電荒川線「2011路面電車の日」記念イベント


「花100」と阪堺カラーの「7511」(方向幕は「あびこ道」を表示

6月13日「【13564】阪堺電車撮影会開催
!」で小西啓文氏が「阪堺電車祭り」をレポートされたが、東京都交通局でも6月12日、荒川車庫で記念イベントが開催された。当日、午前中のみではあるが時間が空いていたので見学に行った。


内容は、東京交通局が100周年を迎えたので「都営交通100周年記念」と「都電×阪堺線100周年記念」のヘッドマークを装着した8800形、秋以降に運行予定の花電車、3月に引退した7500形の展示が行われた。例年通り「都電広場」横に交通局グッズを販売するブースの他に、東関東大震災で大きな被害を受けた「ひたちなか海浜鉄道」と「三陸鉄道」のグッズ販売ブースが設置された。特に「ひたちなか海浜鉄道」は社長自ら社員の方と共に来所され、正午から会場で挨拶をされた。

イベントは10時に開始され「都営交通100周年記念」のヘッドマークを付けた8807と「都電×阪堺線100周年記念」のヘッドマークを付けた8805が展示された。

11時からは7510を改造した花電車「花100」が展示された。東日本大震災により花電車の運行中止を検討されたようであるが、秋以降に運行されることになった。 

12時から「ひたちなか海浜鉄道」の吉田社長の挨拶があり、3月13日限りで運行を停止した7511と7512がヘッドマーク付きで展示されたが、残念ながら時間切れのため撮影はできなかった。代わりに現役時代最後の写真を貼っておく。7511は3月13日営業運転最終日、7512は震災当日出勤途中に撮影した。


 荒川車庫には、7505、7515、7520が解体されずに残っている。展示された7511、7512は3月31日付で廃車されている。

 

「ひたちなか海浜鉄道」と「三陸鉄道」のブースで僅かでも復興に足しになればと思い、買物をした。「ひたちなか海浜鉄道」では「阿字ヶ浦―勝田」(裏面は那珂湊)のサボを購入したが包装紙が無く、むき出しのまま持ち帰るハメになり、都電の車内はともかく、町屋からの地下鉄、JRの車内では他の乗客から怪訝な目で見られていたに違いない。ちなみに値段は3500円であった。

同鉄道は、地震で壊滅的な被害を受けたが、6月25日に那珂湊~中根間の1駅のみであるが復旧し、1日2往復運転が再開された。7月3日には勝田~平磯間の復旧工事が完成し営業が再開される予定である。残る平磯~阿字ヶ浦間も7月末には復旧工事が完成する予定で、全線の営業再開まであと一息である。その時には、懐かしい国鉄カラーの気動車や、はるばる三木鉄道から輿入れたミキ300に会いに行きたいと思っている。

 


【13904】遅延回復運転中2 京成1600型

掲示板ではまだ花巻が話題の中心ですが遅れの回復のため先を急ぎます。

東京の私鉄電車は私には同じに見えてしまいます。先の東武5700と今回の京成1600は関先生の絵だけ見ると同じ電車が2週続いて掲載されたのかと思ったほど似ています。


【13885】花巻電鉄軌道(鉛)線 その2


軌道線デハ3の室内 座席奥行はもたれとも304.8mm その間隔は座席の約倍

仕掛け人の米手作市氏から、軌道線デハ5の「側面に竹梯子」とは何ぞやとのご質問が出た。写真が見つからないが、木製車体のデハ5は現役を外れて架線修理車になっており、その際使用する竹梯子を側面窓下に釣って―引っ掛けていたのである。

某氏から、写真はもっとある筈。出し惜しみするなとの警告?メールも。はいはい、出しますとも。ただ例のネオパンSSヴィネガー・シンドロームでネガは散々で見る気もしないが、幸いプリントしてアルバムに貼り付けていたので、ピント精度は当然落ちるが、それからのスキャンでご覧頂くことにする。なお前回軌道線半鋼ボギー車を、木製デハ4、5とほぼ同じと記したが、木製ボギー車は窓が2個×5、半鋼ボギー車は吹き寄せなしの10個等間隔である。


1926年雨宮製24人乗りサハ2 扉が2枚引戸に改造され開口部がやや拡げられている

サハ3 車体はサハ2とほぼ同じだが妻面が電動車と同じでボギー化改造されている

両側に民家がつらなり拡幅不能の西公園石神間 道路幅は2間半=15尺=4.55mだろう

先回は終点近くの狭い箇所をご覧いただいたが、今回は起点に近い狭隘箇所を。写真で見るとそれほどとも思えないかもしれないが、軌間が762mmだから、それを物差しとすれば、恐らくこれは当時としても「広くない」基準である「2間半」と思われる。なお機械関連では早くからフィート・インチ法を使ったが、土木関係では長らく尺・間・町・里が幅を利かし、川幅や橋梁長にも間(=6尺)が使われた。フィート・インチとの混同も多く、2フィート6インチを「2尺5寸」とする公文書などに事欠かない。

この区間は先回の鉛-西鉛間よりはマシだが それでも「なるべく」軌道内に車馬が入ってほしくない気持ちがありあり。それでもバスやトラックには、この道しかない。電車が来れば離合は「かなり」難しい。


離合設備があり駅員もいる石神 乗降用に木箱がおいてある 右は岡持を下げた出前のおばさん

デハ4とデハ1 狭幅車+広幅サハ同士の離合 やってくるデハ1(右)牽引の半鋼サハから「前の景色が見える」のが納得されよう

本来「路面と同一」であるべきレール面はこんな状態(まだいい方)

路面は不陸(ふりく=土木用語で平らならざる状態)続きで、雨上がりだから水溜りだらけ。車が通る度にその泥水を浴びる周囲の家も泥だらけ。この箇所はそれでも若干拡幅されており、何とか電車とバスと離合できるが、バス同士だと片方は軌道内に踏み入らざるを得ない。だから線路班が土を均しているのだが、さしたる効果があるとも思えない。


【13786】2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part11  阜新煤礦鉄路 その1

第9日目 5月26日 午前

今日は平庄煤礦鉄路に続いて上遊型が現役で残る阜新煤礦鉄路を訪ねる。阜新市は遼寧省省都である瀋陽市の西北西約200キロに位置する地級市です。阜新駅周辺の地図はこちら

朝6時にホテルを出発して上遊型が客車を牽引する唯一の通勤列車の撮影を目指しました。

▲ 6:22、約20分で中国鉄路の阜新站に隣接した 阜新煤礦鉄路平安站近くの踏切に到着しました。站は近くにあり屋根もある立派な?ホームです。この日に見た最初の上遊型は1319号機。平安站はこちらへ。


▲ 6:56、1210号機牽引の満員通勤列車が到着しました。客車はYZ22-79006+79003の2両編成。到着しますと職工が線路を渡ってきました。踏切は有人で3人の踏切番が列車が来ると遮断機を下ろして安全確認をします。撮影することに注意されないかと、線路際は避けて遠慮がちに撮影を始めましたが、我々の存在すら関係ないそぶりで全くお構いなしです。途中からは堂々と遮断機が下りている踏切内での撮影が出来ました。


▲ 7:15、通勤列車は機回しをした後、ヤードへと回送されました。ヤードには1818号機1460号機が待機していました。朝から約1時間で4台、昨日と合わせると5台の上遊型と対面です。いったい何台が現役で運行されているのか楽しみになってきました。

踏切での撮影を終えてからはズリ山に向かって小高い丘への道を上がって行くと、約30分でまた踏切に出ました。五龍炭鉱前の踏切はこちらへ。

▲ 踏切のすぐ横は五龍炭鉱ヤードになっていて、先程待機中だった1818号機が上がってきました。見ていますとスイッチバックを繰り返し、やがて3両のズリ捨てホッパ車を牽引してズリ山へと上がって行きました。我々も後を追いました。

9:12、ズリ捨て山への道を上がること約40分、 205值班室(当直部屋)に着きますと既に作業を終えたズリ捨て列車が丁度下りて来ました。


▲ 9:30、ズリ捨て列車が下りてしまった後、值班室内に入れてもらいお話を聞くことにしました。中にはズリ捨て線の配線図表があり、機関車のプレートが掲げてありました。その数は12枚。ということは、少なくとも12台の上遊型がこのズリ捨て線を走行しているということなんでしょうね。

ついでに通過記録簿も見せてもらいました。

▲ お分かりにくいでしょうが、機関車番号、行き帰りの発着時刻、入線したズリ捨て路線、ホッパ車両数等々が記入されています。分かった事は、
① 最近ズリ捨てに使用されている路線は4線中の2線に集中している。
② 2線は新線と215-3線だが、どちらになるかは
205值班室に連絡がありその都度ポイント切り替えを行う。
③ ホッパ車(ZF型)両数もその都度変更されるが、3~5両らしい。
④ 運行は24時間昼夜なく行われているが、運行間隔は不定期で決まっていない。
⑤ 牽引機はなぜか1818号機が多い。

ズリ捨て路線の概要が見えてきたので、お礼を言って先に進むと新線と215-3線との分岐ポイントに扳道房(ポイント切替所)があり係員が一人おられましたので、また情報収集です。丁度良い話し相手だったのか、列車が上がってくる直前までまで気づかず、慌ててポイント切り替えをされるほど盛り上がっていました。


▲ 11:16、突然上がってきたホッパ車5両のズリ捨て列車。牽引はやはり1818号機。新線に入線して右に大きく回って行きました。

▲ 11:32、追いかけも出来ませんので、扳道房からの崖をよじ登ってみますと、遠くでズリ捨て作業を行っているのが見えました。U字形に路線があるのを確認出来ましたので、夕刻に期待してズリ山を下りることにしました。

205值班室まで下ってみると先程の1818号機牽引列車は停車中で、皆さんで昼食中です。私も誘われましたが、厚かましすぎると思い丁重にお断りして一息入れていると、1818号機列車が下りたすぐの13分後12:251378号機牽引のホッパ車5両が上がってきました。積荷はズリではなく明らかに土です。気が付くと途中で分かれたO氏が近くにおられました。

ぼちぼちお腹も空いたので食事をしようと2人下りましたらまだ先行列車が下りていない12:48には、また1818号機がズリ捨て5両編成を牽引して上がってきました。まさにピストン輸送です。煙のよく見える冬場ならここは最高でしょうね。


【13868】遅延の回復運転中!5/30分 東武5700系

今回からが東京私鉄シリーズです。関先生のタイトルは“猫ヒゲ”とありますが、絵を見たらトトロにでてくる猫バスを思い出しました。この当時はみんな86系のまねをしたものですね。2両で扉が3箇所とは!京阪の5000型はどうなるのでしょうか?


【13832】花巻電鉄軌道(鉛)線


鉛温泉に到着する上り鉄道線用広幅車 道路もここだけ若干広くバスとすれ違えるが 右のミゼットから奥は離合不能である 1960年3月18日

乙訓老人からチョッカイが出た。通常なら須磨から乙訓へ、やれコメントせよ、ソレ何か言えと迫るのに今回は逆だが、事花巻の、それも軌道(鉛)線とあらば、須磨老人が黙っているわけに参らない。早速挑発に乗り、シコシコとキーボードを叩き始めることに。

開業時の電車デハ1 窓数とモニター窓数は通常一致するものだがこれは後者が1個多い

花巻電気として開業以来、盛岡電気工業、花巻温泉電気鉄道、花巻電気鉄道、花巻温泉電鉄、最終が花巻電鉄(1953年6月1日)と社名を変えた。鉄道線は1925年8月1日盛岡電気工業として開業し、軌道線は1921年12月25日同社に合併されたのである。

軌道線は1913年8月3日特許、1915年9月16日西公園-松原間8.2kmを開業した。車両は24人乗り、オープンデッキのデハ1が1両のみ、他に無蓋貨車2両。メーカーは大日本軌道鉄工部(→雨宮製作所)で、恐らく雨宮としては電車の処女作であろう。15馬力×2、営業時間が「自日出、至日没」とあってもたったの4往復で、西公園発7時30分、10時、13時、15時30分、所要41分。松原発は8時41分、11時30分、14時19分、16時36分。こんな列車数でよく電化したと思われるだろうが、元来電気会社だからで、蒸気機関車なら走行用より待機中の保火用石炭の方が沢山要るだろう。電燈用の間隔の広い電柱をで架線を保持したため、盛大にたるみ、最後までポールで過ごし、電車走行を真横から眺めると、ポールの部分だけ架線が持ち上がっていた。

何分共道路が狭く、恐らく15尺=2間半(4.55m)程度しかなかったので、車体幅が5フィート2インチ(1,575mm)と狭いものだった。2両目のデハ2は1918年製、デハ3は1923年製であった。


1926年製サハ2、3 この時点では扉が1枚引戸で開口部が狭い
1926年製デハ4 1928年製のデハ5も同形 後者は竹梯子をサイドに装着して最後まで残存
半鋼製デハ1(軌道線) 西鉛温泉 奥に無蓋車が1両いるが無人停留場である
恐ろしい急カーブにさしかかる鉄道線デハ4 車体幅は2,134mm(7フィート)あり、車体前後も絞ってない 山ノ神-鉛温泉間
この母子は電車が近づいてきて店内に逃避した このあたりは少なくとも道路の広い側の枕木は露出していないが 幅は2間半あるんだろうか 軌間と比較してご推定あれ

この電気軌道は1918年1月1日花巻(後中央花巻)に若干伸び、岩手軽便鉄道と接続。1920年4月志度平-湯口を延長開業。1922年5月1日馬車軌道だった温泉軌道(大沢温泉-鉛温泉)を合併し、その後電化。最終1923年5月4日湯口-大沢温泉に達し、18kmが全通した。

ボギー電車は木製のデハ4が1926年、デハ5が1928年に登場。車体前後を絞り、最大幅は1インチ拡がった5フィート3インチ(1,600mm)である。車輪は一人前の34インチだから、床高は空車で38インチ(965.2mm)。モーターは30馬力×2、定員40人(内座席22人)。


車内幅は間柱内面間で4フィート5インチ1/2(1,359mm)で 座席が左右各背もたれ共1フィートだから 座席間は749mmしかない しかもその後定員を50(内座席28)人に増加させた

恥ずかしながら26年前の拙著『私鉄私鉄紀行 奥の細道(上)』(レイル14号)から引用する。
「(前略)奥行きの恐ろしく浅いロングシートが両側にあり、しかもその上吊革もちゃんと2列に並んでいる。普段はさすがに千鳥にしか人は座れない。すなわち座席定員の半分しか座れない。その間をぬって車掌が乗車券を売りに来る。混んでくるとまさに膝が突き合いへしあいで、結構吊革にも人がぶら下がり、それでいてやっぱり車掌がやってくるのは神技である。ここの車掌はふとった人では絶対に勤まらない。」

1931年6月15日記号番号変更届で2軸車のデハ1をサハ1に、デハ2をデハ1に繰り上げ、サハ1に旧デハ1の台車モーター等を装着しデハ2とした。ところが8月16日に車庫火災があり、デハ1、3、4、サハ1を焼失。電気機関車も焼損したが、翌年復旧している。

1931年新製のボギー車デハ1、3、4は、ほぼ木製デハ4(焼失)、5をそのまま半鋼にしたもので、やはり両端は絞ってあり、その狭い妻面は「義理堅く」3枚窓なのも同じ。これが本稿主題(であるべき)「馬面」電車である。


西鉛温泉を出た「馬面」デハ1+ワ 流石に道路横断部分は併用の法定仕様に「やや」近い

ここになると路面と「軌道施工基盤」が同一=道路の約半分を事実上軌道が排他的に独占し バスやトラックとは離合不能

上の写真は道路が旧態依然―道路幅2間か2間半しかなく、しかも軌道がその約半分を独占使用しているのが分るだろう。本来併用軌道とは、道路を軌道と車馬とが仲良く使えという主旨なのだが。実はこれにも古い歴史?がある。1918年認可当局職員の現地視察復命書を引用する。
「(前略)道路ノ不良ナルニ加ヘ軌道ノ敷設亦頗ル乱暴ニシテ『軌条間ノ全部及其ノ左右各一尺五寸通ハ木石砂利其ノ他適当ノ材料ヲ敷キ鉄軌面ト路面ト高低ナカラシムヘシ』トノ命令書ノ条項ハ熊野停留場附近約半哩間ヲ除キテハ殆ント遵守セラレタル所ナク(尤モ路面ソノモノニ甚シキ高低アリ)枕木面ト路面ト同高ナルヲ常態トシ甚シキニ至リテハ施工基面ト同高ナル場所少ナカラス(殊ニ二ッ堰志度平間ニ於テ甚シ)。」

会社側にも言い分があって、当初は法定通り施工した(という)が、道路の余りの不良ぶりに車馬は少しでも状態の良い軌道上を走行。「電車ヲ避クル際軌道ヲ斜行シテ甚シク軌道ヲ損ゼシメルヲ以テ会社ハ自衛上殊更ニ軌道間ノ土砂ヲ除去」した由。すなわち場所によっては軌道を全く掘り起こして車馬の乗り入れを物理的に排除したわけで、狭い道路の約半分を事実上、排他的に独占使用していたのである。しかも道路管理者からも別段苦情や注意はなかったと見え、実に1969年9月1日の軌道線廃止まで続いた。こんなケースは全国的にもそうザラにあるものではない。

もう一点、この狭い併用軌道に、なぜ前後車体絞りもない、車体幅7フィートの鉄道線電車が平然と走っているのか。実は狭い軌道線電車ですら、カーブでは狭い側の法定残余(3フィート)に5インチ不足していたというのに。

1926年会社は全通により浴客激増輻輳を申し立て、夏季のみ軌道線に鉄道線電車の使用を、いわば「緊急避難」的に申請。「軌道線ノ道路使用幅員ハ之レカ為左右僅カニ9寸ツツ増大」「該軌道布設ノ為メ荷馬車ノ往来ノ如キモ極メテ僅少ニシテ自動車ノ如キハ殆ント往復ナク交通上支障」ないと強弁。10月31日までとの限定ながら、西花巻-西鉛温泉間への広幅車両の乗り入れを勝ち取ったのである。

ところが翌年もシャアシャアと同じ申請をし、当局は「其ノ後道路拡築ノ手続モ採ラス同様ノ申請ヲ為シタルハ穏当ナラス」と、これはマトモな対応だったのだが、どうしたことか1928年10月5日すんなり?認可。恐らく会社は認可の有無などお構いなく運行を続けていたのであろう。しかもこれは爾後完全に既得権となり、我々の時代でも平然と行われ、廃止まで続いたのであった。


鉄道線用広幅付随車に乗っていても、前頭の電車が狭幅なら前の景色が見えるという証拠写真 志度平温泉 こんな駅でも駅員が数名いた 


【13825】花巻電鉄デハ1型

私が入院している間のシリーズは3回ありました。正確には秋保電鉄の後にトロリーシリーズが1回、ここから昭和20年代の東京私鉄シリーズが始まっていました。抜けた部分の新聞が産経新聞から届くまでに東急5000型の記事を掲載したものですからちょっと間抜けな事になり、関三平先生の編集に水を差したようになり申し訳なく思っています。

ポール電車シリーズの最後はみちのくの名車、花巻電鉄デハ1型です。乗った方は多くはないでしょうが知らない人はいないと思います。私は乗らなかったが見たことがある派です。乗ったらよかった、と悔やんでいます。