【30913】瀬戸内だより

広島からニュースを2件お届けします。

「トワイライト 呉線を走る」 

去る2月19日に続き、本日もトワイライトエクスプレスの車両を使った団体臨時列車が岡山から呉線経由で広島まで走りました。「トワイライトエクスプレス車両で行く瀬戸内ランチクルーズ」と銘打った企画ツアーで、食堂車での食事がウリのようです。3月以降計6回走るようです。3月19日、28日、4月2日、9日、5月21日、6月4日に予定されています。呉線に電機や客車が走るのは久しぶりで、平日にもかかわらず、レンタカーで追いかける人たちも大勢いました。私の撮影場所は須波ー安芸幸崎間です。来月以降は宮島口まで延長運転されるそうです。この企画ツアーの帰路は新幹線利用なので トワイラはセノハチを越えて空車回送されるはずですが、この回送ダイヤが不明です。田舎町では「ダイヤ情報」が手に入らないので、どなたか教えてください。IMG_6572-1

「ドルトムント電車レストラン 3月末で閉店」

千田町の広電本社前で営業してきたレストランが残念ながら店じまいするそうです。KAWANAKAさま お急ぎください。

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【30819】天野克正君の作品

冬隣
『冬隣』

家路
『家路』

雪の晴れ間
『雪の晴れ間』

信じられない、天野君が亡くなったなんて。まだ60歳台でしょう。
最近会ってはいないが、がっしりとした体格で筆者よりはるかに頑丈そうに見えたのに。

筆者が卒業後に、岩波君や宮本君達とよく一緒に居て、その縁で知り合ったと思う。湯口さんの写真を見ると、よく一緒に出かけていたのが判ります。

写真のセンスは湯口さんの言われる通り、筆者などは真似ができない。2006年の第一回写真展(於・大阪富士フィルムギャラリー)の出品が3点あった。デジタル青信号のギャラリーにアップされているのだが、管理人さんに無断で引っ張ってきてここに掲載させてもらった(管理人さんお許しください)。

彼の作品を見ながら、同行した時のことを思い出しています。声高らかに大騒ぎするスタイルでなく、静かであり、それでいてにこやか。穏やかな笑い声は、いつも同じでした。

筆者が特に覚えているのは、筆者の名を呼ぶとき、独特のイントネーションであった。多くの人は『つ』を高く、『る』を低く発音するが、天野君は逆で『つ』を低く『る』を高く発音した。今でもその発音が懐かしく耳に残っている。柔らかな声で、今にも呼ばれそうな気がする。それをもう望めないのは残念で仕方がありません。
ご冥福を心からお祈り致します。
またしても佳人短命、神様はいつも意地悪であると思う。


【30756】2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part14 中国最北端の北極村 その3

第15日目 1月6日
漠河22:26(2668次)→翌日23:00哈尔滨

01_北極村今日は北極村での3日目です。ゆっくりとくつろぎました。夜には、夜行列車で哈尔滨へと向かいます。
小竹先生は、朝食後すぐに朝の村の様子を撮りたいと出かけられました。私は、部屋でゆっくりPCで中国鉄路の列車残席情報のチェックです。
と、言いますのも哈尔滨に戻った後、東方江等の国境の町に向かいたいのですが、往路の切符はあるのですが復路がなく、何処にも行くことができません。切符発売の12日前から同じ状態が続いていて、ネット上で検索が不可能状態です。春節は2月10日ですので、民族大移動にはまだ早いと思われます。站で切符を押さえているのか何か理由がありそうです。

03_02_温度9時過ぎに先生が返ってこられ、今度は山の方へ行こうかと言われ付いて行きました。麓には民俗村もありましたが、冬は閉館です。山頂からはアムール川とロシアが見えるそうです。しばらく登りましたが、私はしんどくなってギブアップしました。老体には雪深い登山は無理です。麓の山小屋でストーブにあたって休憩です。外温はマイナス28℃です。山小屋の番人は、昨夜はマイナス38℃だったと言っていました。陽が昇りだすとすぐに温かくなるそうです。

04_魚売り 記事の続きを読む


【30764】天野克正君死去

1977.61977.11974.11

天野君が亡くなったと乙訓老人からメールがあった。彼とはここ何十年も顔を合わしていない。名簿を見ると1964年商学部とあるから、乙訓老人と小生は1957年なので、卒業3年後の入学である。付き合いは社会人になり、主に車で撮影に出かけた時だったので、一緒にカメラに収まった機会は結構多かった。その内の何枚かをアップする。上から別府鉄道ハフ7車内(1974年7月13日)、「日本海」ハネ内(1977年1月14日)、木曽森林鉄道(1974年11月2日)。

彼はポッチャリした体格で、気質も同じくおおらかだった。腹を立てたとか、怒ったりした姿は見たことがない。日本海のハネに大挙乗車して津軽鉄道、南部縦貫鉄道に出かけたときは、リュックサックに何とコーヒーメーカーを背負ってきており、ハネの洗面所電源でモーニングコーヒーを入れてくれた。人数が多いから、確か3回ぐらい重ねたはずである。

写真の腕はよかった。センスというより感性といったほうが適当と思うが、何とも言えないいい写真を撮っている。それにもまして文が立った。独特というか、真似のできない、しようのない文をサラサラと書いた。

家業の魚屋を継ぎ、商店街の理事長を引き受けたと聞いていたが、あの性格で、恐らく誰からも文句のでない、穏やかで丸やかな、それでいてけじめはきっちりつけて角は立てない、立派な理事長だったはずである。


【30701】2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part13 中国最北端の北極村 その2

第14日目 1月5日

01_外温02_日の出7:30、中国最北端の北極村で極寒の朝を迎えました。温度計を窓の外に出して外温を測ってみましたが、マイナス28℃とそれほどではありません。深夜にはもっと下がったでしょうが、哈尔滨に着いた時の漠河は、マイナス46℃でした。大寒波に見舞われたそうですが、以降は温かくなったようです。今日と明日は、北極村で極寒の世界を堪能する予定です。朝食後、早速に村の様子を見に行くことにしました。
03_国境警備隊今日の記事にはが出てきません。1月6日と合わせて北極村紹介とさせていただきます。ご了解のうえご覧ください。

最初に訪れたのは、国境警備隊の建物でしたが、門衛はいません。北朝鮮との国境とは雲泥の差です。これを見てもロシアとの緊張感がないことが分かります。

04_国境 記事の続きを読む


【30624】2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part12 中国最北端の北極村へ その1 古蓮駅、月牙湖駅、漠河駅

第13日目 1月4日
齐齐哈尔10:50(6245次)→9:16古蓮

朝、目覚めると二人だけだった部屋には、あと二人の乗客もおられました。そして、ガラガラだった他の部屋も満員です。爆睡しておりましたのでどこで乗車されたかはわかりませんが、多分加格达奇(ジャガダチ)だったのでしょうね。
11_漠河へ12_DSC_8749▲ 列車は昨日までの雪原ではなく森林地帯を走っていました。1站1站、古莲へと近づいていきます。いよいよ中国最北端に来たなあとの実感がわいてきました。育英を過ぎた頃に朝日が昇ってきました。

10分停車の漠河では殆どの乗客が降りました。我々の下車站は、まだ17キロ先です。
12_漠河→古莲12_古莲0112_古莲01-1▲ 9:16、北の大地の夜明けを味あうようにして、古莲に到着しました。阜新から約2,000キロ、約40時間半をかけての乗り鉄旅でした。
古莲站では、兴隆森林鉄路案内でお世話になりました趙さんがTaxiをチャーターしてお待ちでした。当初は小竹先生と二人で行こうかなとも思っていましたが、初めての地です。古莲駅前には何もないとの情報でしたので、二人だけで降りると、動きが取れなくなります。冬以外では行った経験もある哈尔滨の旅行社の趙さんに案内を依頼した次第です。
一緒の列車にするつもりでしたが、依頼した時には切符は売り切れていました。しかし、1日前の切符が取れましたので先乗りしていただきました。
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【30575】2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part11 阜新から漠河の北極村への旅路 齐齐哈尔站(チチハル駅)

第11~12日目 1月2日~3日
① 1/2-阜新17:41(4207次)→21:07沈阳(Taxi)→沈阳北
② 沈阳北22:35(K549次)→1/3-7:24齐齐哈尔(チチハル)

② 齐齐哈尔1/3-10:50(6245次)→1/4-9:16古蓮

今夜から小竹直人先生と二人で阜新を出発して、中国最北端の地、黒竜江省漠河のその名も北極村へと向かいます。移動距離は、約2,000キロです。
北極村の極寒の冬はマイナス50℃にもなり、運が良ければオーロラも見えると言われています。鉄道とは無関係の所ですが、小竹先生より「中国の蒸気機関車撮影には数10回も来ているが、最北端の地も一度は行ってみたい。それも極寒の真冬こそ一番。」とのお誘いを受けて、綏棱森林鉄路阜新大爆煙ツアーの後で訪れることにしました。

黒竜江省 漠河県
また丸谷氏からは、グーグルアースを見ていると終着站の古莲から線路が伸びている。古莲站構内にはデルタ線も見えているので、ひょっとして森林鉄道ではないだろうか。古莲には訪れた日本人も少なく情報がない。行かれた方でも列車本数が少なく、周りになにもない站なので直ぐの折り返し列車で戻っている。行くなら是非とも探索をお願いしたいとの依頼もありました。
2つの目的を持って訪れることになりました。
中国鉄路線_地図第11日目 1月2日 阜新
昨日にも増しての強風が吹く、凍てつく朝を迎えました。T中さんの朝撮はどうだったのだろうかとお聞きしましたところ、「205信号所から蒸気機関車に乗って、かぶり付き撮影に挑んだが自分が望む位置に止まってくれなかった。撮るには撮ったが、風も強く思い通りのカットにはならなかった。また機会を見て臨みたい。」と、今回は条件に恵まれなかったが、飽くなき挑戦を続けると誓っておられました。
何度も阜新を訪れ、自らのイメージを追いかけておられます。今までにも素晴らしいカットをお撮りになっておられると思いますが、達人の視線はもっと先にあられます。たまたまで満足している私としては見習わねばならないところです。
小竹先生は、T中さんの求める映像を追いかける姿勢に絶賛されておられました。研ぎ澄まされたプロの目からは、秀でた映像は努力しか求められないと言い切っておられました。

今日はゆっくりとしようと思っていました。小竹先生はお仕事、私はデジ青投稿の用意に勤みました。正午には、大爆煙ショーがまた始まるとの情報をいただきましたが、私は昨日のATMに飲み込まれたクレジットカードを返してもらうために銀行に行かなければなりません。小竹先生も急ぐ仕事があるようで、手が離せないようです。

午後になり先生も一仕事が終わったようで、街の様子も見てみたい。昼食を食べに出かけてみようとのお言葉をいただきましたので、繁華街に参りました。
まずは銀行で私のクレジットカードの受け取りです。パスポートを提示して、無事にカードを受け取りました。試しにキャッシングを試みましたが、問題なくできました。これで安心です。
昼食をとっていますと、T中さんから先生への連絡がきました。かぶり付きに行かれると思っていましたが、昨日と同じ場所での撮影に挑まれていました。あの場所での凍てつく寒さをもろともせずに行かれたとは恐れ入ります。私にはやはり達人の境地に入るのは難しそうですね。

駐在先の广州に戻られるT中さんとは、阜新でお別れです。飛行機ですが、3,000キロの移動です。ご苦労様でした。またご自身のカメラとレンズに限界を感じられたようです。次回の帰国時には、私と同じNikon800Eに買い換えられるそうです。T中さんの熱意とパワーがあれば私には叶わぬ求める映像を撮れると思います。またどこかで同じカメラを持ってお会いしましょう。よろしくお願い申し上げます。

02_阜新駅

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【30513】2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part10 阜新煤礦鉄路の大爆煙 その2

第10日目 1月1日

新年があけましたが、中国では春節(旧正月)がお正月です。何のお祝い行事もありません。我々にとっては、月夜の大爆煙ショーこそが新年の始まりです。
0時前にすぐに「フライアッシュ号」が来るので、急ぐようにとの連絡が参り、ホテルをでました。凍てつく道をワクワク気分で山へと向かいました。

遼寧省 阜新

ところがです。撮影ポイントに行くには、205信号所の下の道にあるゲートをくぐらなければなりませんが、鉄柵の門は閉まっていて車では入れません。降りて開けようとしましたが、電動になっていてビクともしません。

仕方ありません。もう1つのゲートがある205信号所上の道に進路を変えて向かいましたが、ここもガッチリ閉まっていて施錠されています。困りました。すでに「フライアッシュ号」は、五龙炭鉱前にある信号所で待機中です。205信号所へと向かうのは時間の問題です。
こうなれば、撮影ポイントに行くには徒歩しかありません。約40分程度は必要です。再度、先ほど通った205信号所に行って、発車を遅らせてもらうように交渉しようとのことになりました。
交渉が上手くいくようにと祈りましたが、やってきた「フライアッシュ号」は、205信号所前を殆ど停車することもなく、我々の前を通過していきました。呆然と見送る以外ありませんでした。

01_月

正月の午前3時、全てが終わって見た阜新の月はとっても綺麗でした

結果論ですが、最初のゲートでチャーター車を降りて山に向かうべきでした。まだ時間がありました。

しかし、月明かりの外は凍てつく寒さです。こんな条件下で待つのには勇気だけではできません。できれば温かい待機場所を必要としていましたので、その時にこの選択は考えられませんでした。

T中さんは、ここでの夜撮のご経験もおありでしたが、いつもは205信号所に一旦停車する蒸気機関車に乗せてもらって向かわれていたそうです。今回は、案内人を入れての8名です。多いので乗せてもらう交渉は始めから不可でした。

と、いうわけで、新年早々は失意から始まりました。

02_踏切前【DATA】 7:11、125㎜、F7.1、1/5秒、ISO200、-03段
02_点検【DATA】 7:22、300㎜、F6.3、1/125秒、ISO2000、-0.3段

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【30248】蒲原鉄道保存車両モハ1のこと

  以前にNHKの番組で録画した「思い出の鉄路 本州編1」を久しぶりに見ていた。順番に南部縦貫鉄道、小坂鉄道と見て、そして蒲原鉄道になってから現在の保存車両が写っているのを見ていると、どうも「信貴電の不思議 改訂版」で紹介した信貴電のデハ51とよく似ているのに気がついた。映像を戻し、一時停止してよく見てみるとやはり似ていた。デハ51の絵葉書と見比べてみたが、ドアと窓の配置と数が同じであった。見た感じの大きさも同じのように感じた。保存車両がモハ1となっていたのでインターネットで検索してみるとこの蒲原鉄道モハ1について投稿記事が多くあり、新潟県加茂市の文化財として県内最古の木造電車として加茂市の所有として保存されていることがわかった。蒲原鉄道のモハ1は全長11.455m 定員66名 自重20.03tである。信貴電のデハ51は信貴生駒電鉄社史の車両一覧で全長11.40m 定員65名 自重12.9tとなっていた。全長と定員についてはほぼ同じであることがわかった。

 大和川鉄橋を渡る生駒線の電車

 ∧ かつて信貴電のデハ51が走っていた大和川橋梁を望む。

信貴電デハ51は北大阪電鉄(現在の阪急千里線)のデハ1形(新京阪P1)として大正10年3月に梅鉢鉄工所製で8両製作されたものの中から信貴電に売却されたものであることが知られている。そして、蒲原鉄道のモハ1はインターネット上の投稿記事からまとめてみると当初はデ1、2の2両あり、保存されているのはデ2が倉庫として使用されているのを復元改修して現在の状態で保存されているということである。この電車は大正12年(1923年)に蒲田車輌製作所で製作されたとあった。さらに、この電車は目黒蒲田電鉄(東京急行電鉄の前身)の大正11年(1922年)汽車製造合資会社で製造されたデハ1形と寸法がほぼ同じとあった。そして信貴電デハ51と全長がほぼ同じということは・・・?

 デハ53号電車

∧ 再び信貴電デハ51形53号電車の絵 (信貴山下駅に停まっている絵葉書より作成)

 さて、蒲原鉄道デ1,2(現在の表示形式モハ1)、目黒蒲田電鉄デハ1、北大阪電鉄デハ1形の三つ巴の関係はいかに?まったく関係なく、たまたまに同じようなものがほぼ同じ時期に偶然存在したのか?それとも、なんらかのつながりがあったのか?名探偵金田一さん教えて~