なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈11〉

最後の「びわこ」「びわこ」号こと京阪60型、天満橋~三条~浜大津という線路条件が全く異なる2線区の直通運転のため、数々の新機軸を盛り込んだ二車体連接車として、昭和9年にデビューした。われわれの世代、京津線での活躍は見ているが、私はほとんど記録がなく、旅客営業を止めたあと、末期によく運転されていた、趣味団体の貸切電車を写したに過ぎない。最後まで残った「びわこ」63号は、この年に廃車になった。御陵~京阪山科 昭和45年7月 

9月に行いました「思い出の七条大橋」写真展には、感染状況がきびしいなかにも係わらず、クローバー会はじめ、多くの皆さんにご来場いただき、対面で話ができることの楽しさを改めて感じました。今回の展示は、私の写真だけでなく、多くの先輩方の写真もお借りして、撮影年代の幅を広げるようにしましたが、なかでも皆さんが注目されたのは、京阪「びわこ」号が鴨川沿いを走るシーンではなかったかと思います。

 

ポールとパンタ、高低の側扉の両刀づかいを発揮したのが、浜大津発枚方公園行きの菊人形行きの臨時電車だった。運転されたのは季節限定のごく短い期間で、本線上の記録は極めて少ない。この写真は、須磨の人間国宝さんの撮影、会場には乙訓の国宝さんの写真も展示、クローバー会の先輩の貴重な記録に改めて思いを新たにした。

 

 

 

 

 

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四国松山のディーゼルカー ~その3

下灘で2時間弱滞留した後、12時31分に出る八幡浜行きの4917Dで伊予大洲をめざします。今回の一番の狙いは、キロ47の伊予灘ものがたりです。47系での運行は令和3年末までと報じられています。後継は、四国まんなか千年ものがたり(多度津-大歩危の特急グリーン車)、志国土佐時代の夜明けのものがたり(高知ー窪川の特急グリーン車)のようにキハ185が改造種車になるようです。そうです。四国でキハ47系のジョイフルトレインに親しむのは、今しかありません。

下灘駅に入る伊予灘ものがたり

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四国松山のディーゼルカー ~その2

松山周辺のディーゼルカーは、国鉄時代からのキハ54、キハ32、キハ185の3100番台、JRになってから就役した2000型。加えて2021年末での引退が報じられている、伊予灘ものがたり用のキロ47となります。キハ54は、国鉄最末期の昭和61年に登場したローカル用のステンレスカーで全車両運転台車です。他の国鉄ディーゼルカーと同じく21.3m、ロングシート、2枚折戸で250psのDMF13エンジンを2基積んでいるのでなかなか鋭い加速をします。12両全車が松山運転所に配置されています。

キハ54 0番台 松山駅

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四国松山のディーゼルカー ~その1

十数年ぶりに四国松山へ行ってまいりました。四国でも高松や徳島へは年に最低1回は行ってきたのですが、松山は大阪から少し気分的にも遠かったのです。今回の狙いは、松山周辺で活躍するJR四国のディーゼルカー。新幹線+特急しおかぜでも航空機、バスでもなく、はじめて大阪南港から東予港までのオレンジフェリーを選びました。

大阪南港は22時出港ですが、20時から乗船することができます。早く入れば、ゆったりと船内のレストランと大浴場を楽しむことができ、出航後も船に乗っているのを忘れるほど揺れもなく、ホテルのように快適でした。2018年に就航したばかりの最新の船らしく、昔ながらの雑魚寝の桟敷はありません。最もリーズナブルな2等も個室で、誰に気兼ねすることなくゆったりと休むことができます。2等の片道で、乗船した日は7700円でした。2等のデラックスにすると料金は9600円になりますが、窓と洗面台が付き、部屋も広くなるので更にホテルのシングルルームと遜色ないゴージャス感が漂います。

大阪南港フェリーターミナル

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南千里折り返し運転

もう随分前のことですが、昭和58年、1983年の9月28日、阪急千里線山田ー北千里間が、台風10号による大雨のため、築堤の土砂が流出し、一時不通となりました。山田駅は交換ができないため、南千里で折り返し運転を行い、南千里ー北千里間は復旧までの時間、バス代行輸送となりました。阪急にはとんだとばっちりでしたが、割と早く復旧したと記憶しています。南千里折り返しは、昭和38年に新千里山(現南千里)が延伸開業し、昭和42年に北千里まで開通するまでの4年間になるのではないでしょうか。話しは脱線しますが、昭和40年の日活映画「青春のお通り」では、新千里山からP6に乗り込む吉永小百合が映っていました。 続きを読む

こんなん あり?

コロナもようやく下火となり、緊急事態宣言が解除され、各旅行代理店は待ってましたとばかり「ワクチン2回接種者限定」と銘打ったツアーを次々とPRしています。ここにご紹介するのは「ワクチン接種」が条件ではありませんが、「木次線スイッチバック」を目玉とした、広島発着の日帰りツアーの広告です。

令和3年10月5日 中国新聞朝刊

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈10〉

お召の機関士と“文通”

いまから53年前のちょうど今ごろ、昭和43年10月2日に越美北線にお召が走りました。福井国体の際に運転されたもので、DRFCメンバーとともに撮影に向かい、その様子については、“デジ青”にも記していますので省きますが、私はみんなと別れて、一人で越前花堂で下車しました。越前花堂~六条にある、北陸本線から離れて、左へカーブして山あいへ向かっていく区間へ向かいました。現地到着が13時ごろ、お召の通過まであと3時間近くあり、まだ撮影者も送迎の人たちも見当たらず、ゆっくり三脚を立てて、ひたすら待ちます。さっそく警察官が近寄って来て、持ち物検査、害のない人間と分かると、あとは、一緒にダベりながら過ごすと言う、のんびりした雰囲気でした。背後に踏切があって、徐々に近くの人たちが集まってきました。すると、そのなかから、一人のご婦人が近づいて来て声を掛けられます。お召列車の写真をあとで送ってもらえないかというご依頼。聞くと、ご主人のKさんは、お召牽引の次位機18651の機関士で、ぜひ主人の晴れ姿を記念に残したいと言うことです。たまたま、お召機関士の奥さんが近くおられたことの奇遇に驚き、快諾して、手帳に「足羽郡六条町‥‥」と住所を書いてもらいました。

秋晴れのもと目前を通過したのは88635+28651の牽く、越前大野発福井行きのお召列車、Kさんの乗っているのは次位の28651だった。

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北海道は遠かった、広かった(その4)

今回は初めて渡道した昭和44年3月に訪ねた名寄本線です。この時はKAWANAKA先輩と別れたあと、1900生先輩と2人連れの旅でした。札幌から「大雪6号」で早朝に遠軽に着き、名寄本線の一番列車で中湧別、紋別、興部、名寄と138Km全線を乗り通し、すぐに一ノ橋まで折り返しました。一ノ橋・上興部間は11.0Kmあり、その中間地点のサミットまで歩こうという計画です。丁度北見と天塩の境で、天北峠と言われる場所です。並走する国道239号線をひたすら歩き、腰までの深い雪をラッセルしてようやく線路まで登り、2本の貨物列車を待ちました。まずやってきたのが名寄側から登ってきた49699牽く貨物列車です。

昭和44年3月7日 一ノ橋・上興部間

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈9〉

キワ90の成れの果て

前項、広島駅前で広電を撮ったあとは、呉線へ向かいました。昭和45年10月改正を目前に控えて、呉線では、電化工事の仕上げの真っ最中でした。C59、C62はまだ走っていたものの、架線は張り巡らされて、電機・電車も通しで運転をしていました。小屋浦で降りると、側線に見慣れない、黄色に塗られた車両が留置されています。「ヤ390」の標記に、どこかで見た切妻のスタイル、後半分には機械類があります。これこそが、写すことも見ることもできなかった、貨物DC、キワ90の成れの果てだったのです。

呉線小屋浦の側線で休む「ヤ390」、電化柱の金具の取付け用に使われている貨車で、「千倉駅常備」の標記もある。これこそ、追い求めていたキワ90の末路の姿だった(昭和45年8月)。

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北海道は遠かった、広かった(その3)

昭和50年2月に標津線を訪ねています。札幌発21:30の狩勝4号のハザで6:15に釧路に着き、多分駅弁でも買って、6:34発釧網線622Dで標茶に着いたのが7:36でした。標津線根室標津行き323Dの発車8:31までの小1時間をどうして過ごしたか、まったく覚えがありません。323Dで次の駅泉川で下車しています。丁度泉川で標茶行き324Dとの交換風景を撮ったのがこの写真です。それぞれキハ22の単行。民家もまばらな根釧原野の小駅にも国鉄職員が勤務されていた時代でした。

昭和50年2月13日 標津線泉川駅での交換風景

この泉川駅から次の光進乗降場へ向かって線路を歩きました。幸い好天に恵まれたのは良いのですが、サングラスなどしゃれたものは持ち合わせておらず、まぶしい雪中行軍でした。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (29)

宗谷本線の貨物列車

もう終わったはずの“やっぱり”シリーズですが、あと一回だけ割り込みます。南稚内~抜海のカラー版を見ていただいた際に、廣瀬さん、紫の1863さんから、同区間で見られた貨物列車に対するコメントを頂戴し、貨車の形式や積載について、詳細な情報をいただきました。私も写真は撮っていたものの、あまり続けるのも、という思いでお蔵入りしていましたが、少しでも参考になればと思い、追加で載せることにしました。宗谷本線の貨物を牽いていたのは、南稚内にあった稚内機関区の9600で、“現地闘争”で行った昭和44年には12両の9600が配置されていました。また名寄機関区にも9600が15両配置され、名寄本線などと共通で運用されていました。南稚内~抜海で見られた昼間の貨物は2往復あり、11~12時に通過の396レ、391レと、13時30分ごろ通過の3371レ、15時30分ごろの1354レでした。

南稚内~抜海の原野を行く396レ、29607〔稚〕牽引。ランボード上に載った切り詰めデフ、2個ライトと、北海道ではスタンダードスタイルの9600、貨車のあとに続くのは、ンッ! Wルーフの客車が2両、昭和44年とは思えない光景が‥‥。

 

 

 

 

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