お城と電車(2)福山城

福山駅の直ぐの所に徳川譜代大名の水野氏の五層の天守が建っている。築城は1622年で今年が400年記念になる。福山駅は明治24(1891)年山陽鉄道開通時に内堀を埋めて福山城の三の丸に建設されたもので天守が近いのも当然である。天守は昭和20(1945)年の空襲で焼失し昭和41(1966)年に再建されているが、戦災を免れた遺構として伏見城の移築伏見櫓、筋鉄御門が残っている。

福山駅へは昭和55(1980)年11月8日EF651114牽引の「あさかぜ」オハネ25198でまだ明けやらぬ早朝に到着。福塩線のクハ76を入れて撮影した。全金属の300番台である。▼

福塩線、瀬野八、呉線で撮影後の翌日9日にも同じ場所に行ってみた。その後この辺りは新幹線で通過したのみであるが、城のある風景は今でも同じ様に見ることができるのだろうか。▼

追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ?ー最終回ー

今回で乙訓の老人こと長老様の追悼投稿を終わります。
左上のカットは、長老様が最後まで保存されていた数少ない人物写真の内でDRFC設立当初からの親友お二人と歩く写真をご了解の上使わせて頂きました。
改めて沖中忠順先輩のご冥福をお祈り致します。

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 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ④

昭和44(1969)年7月29日 真夏の宮津線・加悦鉄道合宿 (2)

風の通らない蒸し風呂のようなテントになかで、朦朧としながら、朝を迎えました。昨日は暗くてよく分からなかったものの、加悦駅の構内で寝たはずなのに、明るくなって周囲を見てみると、田んぼのあぜ道のようなところで寝ていたことが分かりました。参加者全員、もう一泊する気力・体力はなく、全員一致で「解散」を決議、この後の行動は、各自に一任となりました。

朝の加悦駅構内、転車台に乗った2号機、木造単車、DLなどが留置されている。

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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part11 大雨で運休続出、札沼線に乗る

昨夜のTVニュースでは明日道内は大雨になります、道路の通行止めや鉄道の運休もあるだろうとのありがたくない予報です。心配ですが明日にならないとハッキリとはわからない、ホテルは連泊なので行けても日帰りにしようと早めの就寝でした。

第8日目 6月29日 その1

4:30 起床、早速TVを付けますとトップニュースは天気予報です。

▲ ご覧のように稚内を覗いてはすべて大雨模様です。
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 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ③

昭和44(1969)年7月28日 真夏の宮津線、加悦鉄道合宿 (1)

われわれのDRFC時代、“夏の狂化合宿”は、7月、8月の2回に渡って実施していました。7月は近距離のところで実施、この年は、7月28日から、二泊三日で宮津線、加悦鉄道で行われる予定でした。ところが、あまりの炎天下、劣悪な合宿環境に耐え切れず、参加者全員が一泊しただけで途中で敗走するという、前代未聞の過酷な合宿になりました。

とにかく暑かったこと以外に、合宿参加メンバーも記憶がなく、思い出も残っていない。ただ会誌には参加記が残っていて、すこし様子が分かった。第一日目の集合地は西舞鶴で、夏季の水泳シーズンに運転されていた「はしだてビーチ」を撮るのが目的だった。「はしだてビーチ」は、以前にも本欄で紹介したように、寝台急行「音戸」の“ヒルネ”間合い利用で、編成のうち7両を座席に転換して、京都~天橋立で臨時急行として、昭和42年から運転されていた。「涼しい列車で水のきれいな日本海へ」がウリだった。西舞鶴からは、全国でもここだけの9600先頭の急行列車となる。

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お城と電車(1)高松城

電車がお好きであった沖中忠順先輩の四十九日が行われたとの報に接しました。生前に親交のあった趣味仲間の方々も多数参列されましたが、私にとっても沖中さんは思い出の人となりました。改めてご冥福をお祈り申し上げます。

さて、デジ青についていつも総本家青信号特派員さん、ぶんしゅう旅日記さん、米手作市さんなど長老の皆様ばかりに頼っていては申し訳ないのでこのあたりで投稿のほぼ最長老者になった私も下手な自主公演を始めたい。今回は「お城と電車」と題してこれ迄撮影した時にチラッと城や石垣が写っているもの等を発表していきたいと思う。過去にもデジ青でこのテーマが話題になったことはあるが、皆さんもコメントや参考写真などがあれば横槍を突いていただきたい。

第1回目は琴電高松築港駅~片原町間で見られる高松城である。ここはお城の石垣と堀がよく写り、琴電自身も動く鉄道博物館と言われて各地で活躍した兵(つわもの)が多く見られたので何度も訪問された方も多いと思う。高松城は玉藻城とも言われ藩主松平氏の時代が明治維新まで続いた。城跡は玉藻公園となっており天守跡も残っている。

ことでんこと高松琴平電鉄のターミナル高松築港駅は石垣が迫りくる迫力でこのような風景は他所ではなかなか見られない。停車中の電車は1255長尾行きと1209琴電琴平行きでどちらも元京急の2代目700形で18m級4扉車である。2017.7.25▼

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 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ②

昭和45(1970)年7月24日 最後の「びわこ」を撮る

京阪大津線を走っていた「びわこ」号60形のうち最後まで残った63号が、大津線全車のパンタ化により、引退することになり、この日、記念の貸切電車が京津線、石坂線で運転されました。日本最初の連接車、昭和9年にデビューし、天満橋~浜大津での活躍を始め、数々の伝説を残してきた「びわこ」60形61~63でした。しかし、次第に活動の場が狭められ、62号が昭和42年12月、61号が昭和43年12月に廃車になり、残るは63号のみになっていました。この1両も、ポール集電(スライダー式)からパンタ集電に改められるのを機に廃車されることになりました。この日は、鉄道友の会の貸切電車として、久しぶりに京津線、石坂線を走ることになったもの、夏休み期間中でBOXでの情報交換も得られない時期でしたが、例によって大西顧問から、詳細な情報を入手し、まずは三条通で待ち構えました。蹴上を通過して、専用軌道へ入って行く臨時の「びわこ」63号、当日は、錦織13:52→(回送)14:33三条14:40→15:05浜大津15:08→15:33三条15:40→16:16(回送)錦織のダイヤで運転された。 続きを読む

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ①

「50年前の同月同日シリーズ」をことし冬に投稿しましたが、予想どおり途中で挫折してしまいました。やはり「50年後の同じ日に投稿する」制限を加えると、その価値は認めるものの、書き手としては、相当な重荷となって、いつの間にやら中断してしまいます。考えるに、48年前であろうと53年前であろうと、今となっては大した問題ではなく、毎日更新をウリとする“デジ青”で価値があるのは「同月同日」の部分だと分かりました。そこで「ほぼ50年前」と看板を改めて、少し気分をラクにして「同月同日」シリーズを適宜、載せて行きます。

昭和43(1968)年7月22日 灼熱のなかの大阪市電

京都市電はあれほど撮っているのに、近くの大阪や神戸の市電はほとんど撮っていません。駅ターミナルへ行くことはあっても、市電が走っている街なかへ出掛けることもありませんでした。それが大阪万博を前に、市電がつぎつぎに廃止されて、他所の街ながら、気がかりになって来ました。

この日の本来の目的は、城東貨物線の蛇草信号場へD52を撮りに行くことで、初めて大阪のミナミへ足を踏み入れて、「天王寺西門前」へ来た。市電上町線が走る谷町筋と、市電天王寺線の走る国道25号線が交差するところで、現在の「四天王寺前」交差点である。写真は、交差点東北から、上町線を見たところ、この左手奥が阿部野橋(天王寺駅前)となる。左手には、信号塔のあるのが分かる。ここで、阿部野橋発の1号系統が大国町・四ツ橋筋へ向かって左折するため設けられている。谷町筋はこの直後に倍以上に拡幅され、今では全く面影は残っていないが、「エコー歌謡学院」という看板が見える。ここは、松山恵子や藤島武雄を生み育てた、大阪の名門の歌謡学院だったそうな。

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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part10 根室本線、山線乗り鉄旅

第7日目 6月28日

▲ 7:02 昨夜宿泊した『富良野AK STAR HOTEL』です。駅や繁華街からも離れて目立つ看板もなく一見してホテルとは見えません。昨夜着いた時もオーナーがホテル前でお待ちでしたので見過ごさずに入れましたが街灯もない暗い場所ですので初めて宿泊する方が到達するのは難しいでしょうね。

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JR四国の主要列車を撮影 ~駅撮り一時間 現代版②

鬼無駅で駅撮り一時間半

JR四国6000系2編成を撮影した予讃線鬼無駅で、その前後、停車・通過する列車を撮影しました。その一時間半の成果を見ていただきます。時刻は8時から9時30分まで、朝の時間帯とあって、高松へ向かうJR四国の代表的な列車が通って行きます。

予讃線で高松から二つ駅の鬼無駅、つぎつぎに列車がやって来る。最もポピュラーなのが普通列車、7200系の2連。6000系も含めて約10分ヘッドでやって来る。国鉄時代の四国初の電車121系を完全リニューアルした。鬼無駅は、複線の対向式ホームで、何の変哲もない構造だが、この時間なら珍しく順光で撮れる。背後にある讃岐地方独特の円錐形の山もアクセント、手前の家や広告さえなければ、言うことなし。

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 大好き JR四国6000系 ~駅撮り一時間 現代版①

夏が来ても、遠出ができず、家に籠ったままの生活が続いています。つい思い出すのは、直近に行った旅のことです。クローバー会で行った四国〈多度津・琴平ツアー〉から二ヵ月近くで経ちますが、同じ目的を持った仲間と旅することの楽しさを再認識しました。集合前の朝に、ぶんしゅうさんとともに、小さな駅に降り立って、ホーム端から高松へ向かう列車をつぎつぎに撮影しました。JR四国の列車写真を短時間でこれほど撮ったのは初めてでした。なかでも、前から憧れていた、JR四国6000系電車を全編成(と言っても2編成だけ)撮れたのは大きな収穫でした。

211系顔をしたJR四国の6000系、この顔はJR各社にさまざまな形式があって、端正な顔立ちで最後の国鉄型電車スタイルを確立した。なかでも6000系の高松方は、「前パン」になっていて、その魅力を倍加している。後部には右のように7000系のTc車7100を併結した4両編成となっている。 伊予西条発高松行き114M快速「サンポート」 6001-6201-6101+7108 予讃線鬼無

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京都市バス201系統 50年~祇園囃子を聞きながら

京都に祇園囃子が戻ってきました。昨年、一昨年は、祇園祭の巡行は中止、3年ぶりに囃子を耳にしました。京都の人間は、やっぱり心が浮き立ちます。私も昨日、写真展見学のついでに、四条通へ行ってきました。

高齢者は、無理やり市電と結び付けようとしますが、満員の通行人のうち、市電を知っている世代は皆無に近いほど、若い人たちが多いのに驚きます。市電四条線が無くなったのは昭和47(1972)年1月ですから、ちょうど50年になるわけです。代わりに走り始めたのが京都市バスで、市電の経路に準じた、系統番号200番台の代替バスです。その代表が、市電1号系統の代替バスとなる201号系統です。

祇園祭巡行でつねに先頭を行く長刀鉾の横を走る、京都市バス201号系統。みぶ~千本今出川~百万遍~祇園~壬生と、京都の中心部、千本、今出川、東大路、四条通を循環する。市電の1号系統の代替バスとして走り始めて、ことしで50周年となる。市電廃止時に多くの代替バスが走り始めたが、この間、一度も経路が変わらず、京都の中心部を走り続ける、市バスの代表的な系統となった。

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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part9 摩周そばを求めて

第6日目 6月27日

① 釧路8:18⇒10:45根室

今日は前回の旅で食べそこなった根室駅絶賛の駅そばを食するため、リベンジで参りました。今回の旅の目的の1つでもあります。店の営業開始は11時からと駅員から聞きましたので10:45着の列車で向かいます。


8:07 釧路駅4番ホームに参りましたが、前回はガラガラだった車内はおばちゃま達の団体客で満席です。
運転席後ろに立って進行方向を見続けるのは大好きですので苦痛ではありませんが、それでも2時間半はちょっとしんどいかなと何とか空席を見つけました。

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 駅撮り一時間 〈10〉

昭和47(1972)年2月16日 新大阪駅

新大阪を通過する、下り新快速の西明石行き。設定当初の新快速は、京都~西明石の運転で、昭和46年4月に草津まで延長された。当初の停車駅は大阪、三ノ宮、明石で、新幹線と接続する新大阪、神戸市の代表駅、神戸も無視、あくまで京阪神の中心駅の直結輸送を目的とした。京都~大阪の所要は、特急と遜色のない32分運転だった。

大阪駅で優等列車を写したあと、新大阪へ移動しました。翌月の昭和47年3月改正による新幹線岡山開業に伴い、新幹線接続は新大阪から岡山に移り、新大阪発着の優等列車は、大幅な改廃が実施されることになります。

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 駅撮り一時間 〈9〉

昭和47(1972)年2月16日 大阪駅

581系の特急「つばめ」が大阪駅に4番ホームに到着し、11:37に発車する。「つばめ」は昭和40年10月改正で151系から481系に変わり、さらに昭和43年10月改正で581系に置き換えられた。名古屋~熊本の昼行運転なので車内は座席として使用された。

雑事に追われて、私も投稿ができていませんでした。もちろん毎日閲覧はしていますが、最近のコメントを見ても、8年前の投稿に対して、岩手県にお住いの方から地元ならではの書き込みがありました。検索機能を使って、過去の投稿にも多くの閲覧があることが分かります。「デジ青」が巨大なデータベースに育っていることを痛感しますが、それを継承して行くためには、とにかく「写して、書いて、投稿する」しかないのです。もう停滞はできません。

少し前に昭和40年の大阪駅の「駅撮り」を載せました。それから、7年後に、大阪駅、新大阪駅で、一時間程度の駅撮りをしました。この7年間、国鉄も大きく変わり、その象徴は新幹線の延伸でしょう。昭和40年当時は新大阪まで、その後、山陽新幹線の工事が進捗し、来たる昭和47年3月改正では、岡山まで開業します。新幹線接続も、新大阪から岡山へと移り、ダイヤ改正が実施されます。変動のある列車を求めての駅撮りでした。

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