阪急 前パン電車を撮る
今般の大雨被害では、とくに広島・岡山県下の鉄道は壊滅状態で、心を痛めています。私も、土日に予定していた遠隔地のイベント参加、それに続く旅行もすべて中止し、空いた時間を使って、“デジ青”投稿に勤しむことにしました。
平成の思い出シリーズを続けます。私は、昭和58年に初めて阪急沿線で生活することになり、それまでほとんど撮ったことのない阪急電車にも、自転車に乗って近くへ撮影に行くことになります。平成に入ってから、お気に入りの撮影地を見つけました。長岡天神~大山崎のほぼ中間にある「円明寺上一番踏切」です。この踏切の鉄柵のすき間のローアングルから、100ミリ程度の望遠で、大阪方面行きの電車を狙います。とくに、当時の阪急電車の特徴でもある、先頭車二丁パンタ装備車は、より凜々しく引き締まって見え、阪急電車の魅力一杯です。今回は、平成になった直後の阪急電車の“前パン”の定点記録です。
▲当時、特急は6300系の天下、中でも6330F編成は唯一の前パン。昭和59年の建造で、7300系の界磁チョッパなどの編成は新技術が投入され、電動車ユニットを両端に置いたため、大阪方先頭6330が前パンとなった。
鉄道、つれづれ草ー土佐電鉄編ー
豪雨お見舞い申し上げます
DRFC-OB会(クローバー会)の皆様へ
先日の大阪北部地震に続き今回の豪雨はかなり広範囲に及んでいてさらに大変ですが皆さんの所は如何でしたでしょうか。嵐山の渡月橋も今回再び濁流が来たようです。気になるのは広島地方で西村さん大丈夫でしたか。三原市も死者が出たということで気がかりです。ニュースを見ていると昔早朝の列車を撮影したことのある呉線の坂のあたりも被害が大きく何度も報道されています。まだ、安心できないと思いますが、今後もこのような梅雨末期の豪雨は日本全国どこで起こるかよくわからずある程度覚悟しておかないといけない様な気がしております。
保存蒸機とその現役時代(39)
今回は大物登場である。ハンサムボーイC59の1軸従台車を2軸に改造(パシフィックC59→ハドソンC60)して軸重軽減をしたC60型蒸気機関車である。戦後の東海道本線電化進捗に伴い特甲線の東海道、山陽本線等からC59の戦前製39両、戦後製8両計47両が乙線規格の東北本線、常磐線、鹿児島本線、長崎本線等に使用するため改造されていった。私はC60全機39両中27両をカメラに収めることがことができたが、トップナンバーはついぞ見ることができなかった。そこで当会の奥山先輩にお願いしてTsurukame先輩監修の「奥山さんの機関区めぐりhttp://kikanku.web.fc2.com/」から該当機の記録写真をお借りして新旧対比とさせていただいた。スモークデフレクター(除煙板)下部の切り取りは行われておらず原形を保っているが煙突まわりの囲いと予備灯は典型的な東北タイプで秀麗なC60にしては少し残念な姿に変身している。撮影地は尻内機関区ということで今の方はあまり馴染みがないが、その尻内は1971年(昭和46年)に八戸に改称されている。東北のハドソン機C60、C61は平、仙台、盛岡、青森各区で撮影されたものは見かけたが尻内区での撮影は珍しい。C601は1941年(昭和16年)に日立笠戸工場で製造(製造番号1511)されたC5927で当初は姫路区に配属されて山陽本線を中心に活躍した。1953年(昭和28年)に浜松工場でC60に改造され尾久区に配属された。その後直ぐに盛岡区に転属し廃車される1968年(昭和43年)まで仙台~青森間の旅客列車を中心に貨物列車、急行列車の補機も担当した。
神戸市電400型
江若鉄道キニ9、キハ14復活!
3年ほど前から大津の民家の片隅でほこりをかぶっていた江若鉄道キニ9、キハ14が整備、動力化され動態保存されました。本線での試運転は7月21日を予定しています。ということで、2015年に発売された鉄道コレクションシリーズ江若鉄道キニ9、キハ14の2両セットに動力ユニットを取り付けました。もともとこのセットはパッケージ用の写真を提供していただいたもので、その後、手付かずのまま置いていましたが、この度模型運転会が行われるということで昨日動力ユニットと走行ユニットを買ってきて取り付けました。パチパチとはめ込みだけで簡単に取り付けられますが、何せ部品が小さいので手を滑らせて落とした時には探すのに往生しました。多分模型運転会が無かったらそのまま部屋の片隅に埋もれていたことでしょう。
皆さん何年も走らせていない模型や、作りかけで放置してある模型はありませんか。先にご案内しましたように7月21日(土)14:00~17:00日本橋「亀屋」に於いて模型運転会を開催します。自慢の車両、気に入った車両を持ち寄ってワイワイ楽しくやりましょう。見学だけでも結構です。参加ご希望の方は事務局までご連絡ください。
東海道旧線を訪ねてー大津編④
馬場駅から約500mのところに石場駅が設けられた。石場には港があり、対岸の矢橋への航路があった。また、東海道と交差する位置にあり、ここから大津の中心部を通る京町通、中町通り、浜通りの3本の道がつながっていたため、馬場から近いにもかかわらず、駅が設けられたものと思われる。
馬場駅から大津駅に行くこの線路は東海道線が全通した明治22年に旅客扱いを中止したが、明治31年8月に旅客列車の運転が再開され、明治35年1月には現在の市民会館付近に紺屋関駅が作られた。石場駅と紺屋関駅の間は500m、また、紺屋関駅と大津駅の間はわずか300mしかないものの、紺屋関には湖南汽船の乗船場があったため、乗り換えの便を考えて作られたようである。図4:大津支線部分(明治22年測量、大日本帝国陸地測量部1/20000)石場駅付近と紺屋関-大津間は複線の記号となっており、交換又は待避線があったのかもしれない。 続きを読む
東海道旧線を訪ねて-大津編③
7.馬場駅
馬場駅には機関庫が設けられた。開通当時の馬場駅の構内配線は不明だが、明治35年の配置図を見るとホームの南側に南東に向かって機関庫があり、大正始めの大津機関庫の絵葉書と一致する。明治22年の東海道線全通で馬場は通過駅となったが、逢坂山の25‰の勾配を越えるため、補機をつける必要があり、大正10年に新線が開通するまで馬場機関庫は重要な機関車基地であった。尚、馬場機関庫は大正2年馬場駅が大津駅に名称を変えたときに大津機関庫と名前を変え、大正10年京都-大津間の新線が開通した時に大津駅の名前は新線の駅に譲り、元の馬場に変わると同時に馬場機関庫の業務は大部分が梅小路に移管され、梅小路機関庫馬場分庫となった。図3:明治35年馬場駅配置図(鉄道史料11号より)
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神楽ふたたび
東海道旧線を訪ねて-大津編②
4.大津駅裏逢坂小学校通学用トンネル
東海道旧線は現在の国道1号線部分を築堤で走っていた。明治22年大日本帝国陸地測量部の地図を見ると現在の大津駅の裏あたりに小道があり、東海道旧線の築堤をくぐるトンネルとして記載されている。東海道旧線の南側には高山寺(向山寺)墓地、霊山正福寺があり、明治10年の西南の役の出征兵にコレラ患者が出たときに霊山正福寺境内を借りて病室にしたが、その後明治12年のコレラ発生の時にも借り上げて施設を作り、以来昭和12年までこの地に避病院があった。築堤は現在の国道1号線を見てもわかるようにその両側とは4mほどの高低差があって、避病院に患者を運ぶためにトンネルとなっていたようである。図2:現大津駅裏逢坂小学校のトンネル(明治22年大日本帝国陸地測量部測量1/20000膳所)このトンネルの位置は先に記した旧東海道を越える橋梁の東側橋台から直線で600mの距離となるが、これと同じ場所には現在国道の南側にある逢坂学校へ行くためのトンネルがある。 続きを読む
私も撮っていた阪急東口
大阪市電1001型からOSミュージックの話になっていましたが、私も阪急東口で撮ったことがありましたのでご覧にいれます。地震があったので遅くなりました。撮影メモがなく、撮影日は不明です。大阪市電や市バスについては全く知識がなく解説はできませんので画像をただ並べるだけで申し訳ありません。
▲朝のラッシュのピークが過ぎたところですが市電がひしめき合っていて、空気がこんなに汚れていたのでしょうか。OSミュージックの袖看板も霞んでいます。左端2681の向こうにトロリーバスがいます。 続きを読む
東海道旧線を訪ねて-大津編①
総本家青信号特派員様の「東海道開業時の面影を巡る」シリーズに触発されて、私の地元大津に残るこれらの遺構を訪ねてみることにしました。すでに紹介されたものがほとんどで、新しい発見はあまりありませんが、幸いこれらの遺構は自宅から歩いて行ける範囲ですので、散歩がてら何度か訪れじっくりと調べることができました。まずはその概要と逢坂山トンネルから始めたいと思います。図1:大津市内の東海道旧線路線図、大谷、馬場、石場、大津の駅が設けられ明治35年に紺屋関駅が作られた。 続きを読む
それなりのオエ7024 屋根を作るの巻
今年の2月にデジ青で天理市で開かれていた桜井線開業120年の展覧会を紹介したときにオマケとして素性のわからない荷物車らしき模型車体を一体何なのかと皆様に問い合わせました。そうすると西村さんからあのぷるぷるさんが作られてものであると教えていただきました。また客車の神様、仏様からこれは戦災復旧車でオニ70からオエ70ではないかと教えていただきました。そして、客車の神様、仏様の米手作市さんからオエ7024の写真を投稿していただきました。それからはいろいろなパターンのオエ70の写真を同じく客車の神様、仏様の井原さんの投稿で見せていただきました。その中から最初に米手さんから見せていただいたオエ7024にすることにしました。屋根が特徴的だったのです。しかし、せっかく作るのであるから旧型客車の屋根を表現したいと思ったのです。その特徴であるキャンバス張りを表現する方法として艶消し塗装だけでもよかったのですが、本物のように布張りにしてみようと考えてみました。最初は包帯を張ってみようと思ったのですが、これは収縮するのでダメ。家にあった端切れの布も考えてみましたが、貼る方法を考えてみると難しいのです。そこで思いついたのがアイロン接着の布です。100均でネームテープとして売っているものです。まずは他の車両で試してみることにしました。その顛末は「【97907】「これは動きませんでした気動車」の屋根をキャンバス張りにする。」にて報告した通りです。
18きっぷで東海道を巡る -9-
最後の国鉄形特急185系「踊り子」を撮る②
185系は1981年に最初の0番台が誕生しました。当初の目的は、153系の急行「伊豆」の置き換えで、短期間ながらも急行として運転されました。そして1981年10月ダイヤ改正で、従来の特急「あまぎ」が「踊り子」と改称され、新製185系は、急行「伊豆」から格上げされた「踊り子」を担当することになりました。これで、伊豆急下田へ向かう優等列車は、すべて特急化され、一日10往復となりました。デビュー時は、デッキ付き車端2扉で、客室はリクライニングなしの転換クロスシートでした。ほぼ同じアコモで、同時期に関西に配置された新快速用の117系とよく比較されたものです。
▲別の日に改めて訪れたのが、早川~根府川の石橋橋梁だった。大昔からよく知られた撮影地で、新幹線に乗っていると、トンネルを出た一瞬に見える光景でも知られている。ところが、私には敷居が高く、今まで訪れたことがなかった。首都圏の著名な撮影地には、他人の庭に勝手に上がり込むような遠慮が働いたのかも知れない。185系「踊り子」は、最長15両編成で、スケールの大きな橋梁によく似合っている。15両は、国鉄時代から在来線昼行特急では編成両数第一位の座を保ち、A編成の10両編成中にグリーン車2両を組み込んだのも、いかにも東京から伊豆へ向かうリゾート特急らしさを感じる。
18きっぷで東海道を巡る -8-
最後の国鉄形特急185系「踊り子」を撮る①
国鉄時代に製造された185系で運転される特急「踊り子」の動向は、関西にいても気になる存在です。世代交代の激しい首都圏にあって、「踊り子」は登場から35年も経過しながら、ずっと185系で運転され、同時期に製造の117系と比べて、その健在ぶりは驚異的に映ります。ただ、後継車両も見えてきたようで、本腰を入れて記録しなければと思っているところでした。タイトルの“18きっぷ”のシーズンではありませんが、185系活躍の場である湘南・伊豆へ、あえて梅雨時を選んで行って来ました。
▲梅雨時とあれば、本欄でもよく紹介されている紫陽花に限る。改めて東国へ向かうと、線路端に多くの紫陽花が咲いている光景が見られる。もちろん関西でも見られるが、寺院の庭に限られているような感じで、線路沿いにも咲く光景は、新鮮に感じられた。
雨の京阪電車
6月18日の大阪北部での地震に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。19日より大阪へ行っており被害の大きさを痛感しております。
さてKAWANAKA先輩の雨の小湊鉄道(フロントガラス越しのキハ200)に刺激され昨日6月20日の雨の京阪電車をご覧ください。前日からの雨が降り続き 朝から大粒の雨が降っていました。淀屋橋9時30分発の特急出町柳行き 運良く最前列のシ-トに座ることができました。天満橋を発車し地上に出ると雨 運転席はワイパ-がしきりに動いていますが 助手席側は止まったままです。これ幸いとカメラを取り出し対向車を写すことにしました。京橋手前でまず1555号と出会いました。
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お見舞い申し上げます
DRFC-OB会クローバー会の皆様へ
今朝、大阪北部で大きな地震があり今も時々余震がある様ですが、皆様のところは如何でしたでしょうか。この場をお借りしてお見舞い申し上げます。震源地に近い所にお住まいの会員の方は永年購読している大量の趣味誌が本棚から崩れ落ちたとのことです。皆様もどうぞ今後も気をつけてください。
雨のあじさい
INUBUSE氏に刺激されて休みにあじさいを撮りに出かけました。桜の撮影時に現場でカメラが突然作動不能になり失意の思いで帰投したあと、ボディーを購入して撮影に備えていましたが、業務が輻輳しており、長らくクラで休んでいました。INUBUSE氏の余計な刺激に、行かねばならんと思って出かけた次第です。例によって愚作を載せます。
小生の守備範囲は千葉の片田舎なので例によって小湊鉄道です。形式的には面白みがないですが、雨の雰囲気がええということで、しかも週末は都合のよいことに雨、同業者も少ないという好条件です。それでは。
雨の雰囲気、ええですね。
途中、里見でのトロッコの出発風景。如何に雨でも傘をさした駅長はちょっとね。別の雰囲気を期待したのですが。
いよいよロケに掛かります。
ひっそりと木陰に咲くあじさいは、小生みたいに、,しおらしく佇んでいます。
あとは、細かい説明抜き。
あじさいの咲く田園を走る気動車と、やはり、木陰に咲くあじさいがひっそり伺うなかに山道を分け入ってくる列車の雰囲気です。梅雨の季節の情緒が出ていますでしょうか。
夏は暑いので、この辺で。涼しくなってきたらまた、デジ青の画面をよごしてやろうと思います。
北海道家族旅行(3)
今回は、函館編でこれで最後になります、最後までお付き合いありがとうございました。函館は「市電」があるということで当初よりここだけは計画に入れていました。まず有名な「八幡坂」へ行きました。 続きを読む
北海道家族旅行(2)
「予備知識なし」で出掛けたのですが、小樽でも発見がありました(私にとっては)。家族とは半日別行動しよう!ということになり「手宮線」跡を見て、小樽駅の近くでJRを撮ろうかなと思っていましたが、「観光マップ」を見ると端っこの方に「小樽市総合博物館(北海道鉄道発祥の地)」のイラストが載っていました。一時間くらいで見てこれるかなと思って行ったのが、名前は総合博物館ですがなんと「重要文化財 旧手宮鉄道施設」でした(多分、知る人ぞ知る!ですね)。~北海道の鉄道の歴史はここ手宮から始まりました。この地ならではの歴史的遺構の数々が館の内外で、静かに時を語っています~とあります。確かに広大な敷地の中で多くの、特に北海道で見られた車両群が展示されています。館の入り口にあるのが「しづか」でした。これも「ぴかぴか」の状態で展示されています。屋外にはキハ821、キシ8012、キハユニ251、ED75501…、客車でもオエ61309、スエ785といった救援車、スユニ50501は中に乗務員の作業中の人形があり、中を覗いたとたんビクッ!とします。展示車両はほとんど中に入れますし、救援車は機械工具まで揃えてあります。さらに、北海道の特徴的な車両として除雪車を見ることができました。新しいところで、DD14323、DD1537です。キ270(単線用)とキ1567(複線用)です。庫内で見えにくいですが、キ601(ロータリー車)、キ800(マックレー車)で「キマロキ」編成となるものですね、私にとってはこれら全て実働時には見ることも無かったものでした。3時間近く居ましたがまだまだ充分ではありません、しかし小樽駅に戻るバスは1時間に1本しかありませんのでこのへんで引き上げました。屋外の展示車両(「しづか」以外全てですが)はさすがに塗装の傷みも進み、色褪せたものもあり残念でもありますが広い場所で保存されていて気持ちがいいです、訪れた価値はありました。最後に次の訪問地である函館へ行く途中立ち寄った「JRタワー」からの眺めです。