癒しの島 台湾鉄道の2018年夏の旅 Part4 臨港線を走る冷気平快を撮る

第3日目 6月30日 

今日の撮影列車は08:30に新左營発とデカンショまつり号さんから聞いていましたがその後の列車ダイヤは不明です。今朝も体調すぐれず、撮りに出たいが無理は禁物と、部屋でゆっくりしてから出ることにしました。

身体が落ち着いて部屋を出たのは9時を回っていました。今から追っかけをして間に合うのは鉄道工場付近です。MTRで高雄站まで行きタクシーに乗って鉄道工場近くの踏切へと向かいました。
若い台湾人鉄ちゃんのカップルがおられましたので「冷気平快は今どこにいますか?」聞いてみますと奥の方に待機中ですと教えてもらえました。「近くまで行くことはできますか?」と問いますと、付いてくるように言われましたので一緒に向かいました。ところが見える位置まで来た所で後方から声が聞こえました。踏切から先は入場禁止だったようです。
▲ 10:04 鉄道工場前の踏切から見た冷気平快の編成です。イベント参加者はどこかで降りて鉄道工場見学中のようです。冷気平快のダイヤをお聞きしますと教えていただきました。
鉄道工場 11:50発⇒12:15 高雄 12:42⇒13:13 西勢 13:28⇒13:33 竹田 13:53⇒13:57 潮州 14:02⇒14:10 南洲15:02発です。                                                                    続きを読む

癒しの島 台湾鉄道の2018年夏の旅 Part3 高雄トラムを撮る

第2日目 6月29日

昨夜は部屋に戻ってからバスタブに浸かって、午後9時ごろには寝ました。
爆睡で朝6時には目覚めましたが身体がだるく、調子が良くありません。出発するまでハードな日が続いて疲労が溜まっていた
ようです。幸いにして冷気平快が走るのは明日で今日は予備日にしてありました。朝食後は朝寝で休養を取ることにしました。
昼からは、パソコンを持ち込んでいましたので部屋で出版社から頼まれています原稿の作成校正に励みました。

17:00 1日中部屋にいるのも身体に良くないだろうと出かけることにしました。先ず高雄站の案内所に行って明日の冷気平快列車のダイヤを聞きました。簡単に分るだろうと思っていましたが知っておられません。企画をしている会社も調べてもらったのですが電話番号の記載がどこにもなく直接聞けません。台湾鉄ちゃんのWebサイトにはあるだろうと調べてはもらったのですが見つける事はできませんでした。

明日、撮影現場で台湾人鉄ちゃんに聞けば分かるだろうと站での調査は諦めて昨日中途半端になった高雄トラムの撮影に向かいました。
▲ 18:56 MTRを乗り継いで、夕暮れの哈瑪星站に到着。これから徒歩で海べりの路線を南下します。 続きを読む

 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈8〉

廃止予定の大社線に乗る
平成になってからの時代、一人で遠隔地へ行くことは不可能な時代でした。辛うじて、家族旅行の際に、乗り鉄を楽しむ程度でした。大社線に乗ったのも、そんな理由でした。大社線は出雲市~大社7.5キロの路線で、出雲大社への参詣線として、国鉄時代、運転時期は違うものの、東京から「出雲」、名古屋から「大社」、大阪から「だいせん」が直通で運転されていた由緒正しき名門路線です。ところが、JR化後、特定地方交通線の第三次廃止対象路線に指定され、平成2年4月に廃止されます。かつて直通列車があったのに、廃止されたのは大社線だけでした。その前年、平成元年8月の夏休みに訪れた時は、最後の賑わいを見せていました。神社様式の堂々の木造駅舎、大正13年の二代目駅舎だが、大社線廃止後もそのまま保存され、国の重要文化財に指定されている。

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癒しの島 台湾鉄道の2018年夏の旅 Part2 臨港線の職員輸送列車と高雄トラムを撮る 

第1日目 6月28日 その2

高雄站でMTRを降りてからタクシー(約2㌔)に乗り換えて臨港線の撮影地へ向かいました。実は前回に撮影を試みましたが近くの屋台で美味しいものを食べていて間に列車をキャッチ出来なかったポイントです。十分に待ち時間がありながら油断したために撮り逃がした失敗のリベンジがありました。
しかし撮影地に到着したのは15:15、確か前回取り損ねた
時間は15:00でした。残念ながらもう通過したと思えますと、思っていましたら近くにおられた台湾人鉄ちゃんから来るのは16時だよと言われました。
前回の記録が間違っていたのか。私の記憶違いなのか分かりませんが彼の言っていることが最新情報なら待てば撮れます。日台の鉄道情報を話し合いながら待ちました。
▲ 16:02 彼の言っていた通り1両の客車を牽引して職員輸送の列車回送がやって来ました。高層ビルをバックに本線から分岐して臨港線に入ってきました。ようやくリベンジを果たせられました。
撮影地 Google座標;22.637022, 120.319043
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鉄子の育て方

本屋さん

お久しぶりです。
子パンダの保護者こと88年度生の山本晃司です。

どこかのTVドラマと同じタイトルになってしまいましたが…。

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広島県の豪雨災害と鉄道

今回の豪雨災害に関して、多くの方々にご心配を頂き、電話やメールを頂きありがとうございました。幸い我が家は被災せず、家族も無事に過ごしておりますのでご心配なく。10日朝、いつもより遅れて届いた中国新聞朝刊から鉄道関連の記事をピックアップしてみました。

鉄道と道路の被害状況

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈7〉

嵐山行き臨急を撮る
阪急「円明寺上一番踏切」で撮りたいテーマが、もう一つありました。春秋の行楽シーズンに運転される梅田~嵐山の臨時急行です。後年、「嵯峨野エクスプレス」という愛称が付きますが、この当時はまだ愛称がなく、単に「嵐山行きの臨急」、社内では「梅嵐急行」と呼ばれていたようです。現在でも、嵐山へは、シーズンに、梅田、河原町から快速特急、天下茶屋、高速神戸、宝塚から直通特急が運転されていますが、平成の初期は、午前中嵐山行き10本、午後梅田行き11本が15分ヘッドで運転される高頻度で、運転期間も3月下旬から5月連休期間までの日・祝運転と、現在よりスケールの大きな運転でした。嵐山線内はホームの有効長で6連のため、車両には制約があり、いちばんの目玉は、ふだんは普通運用に就いている2300系の非表示幕車が、特製の「急行」マークを付けて疾走することでした。

2300系非表示幕車の晴れ舞台、「梅田 急 嵐山」の特製ヘッドマークを掲げて、円明寺上一番踏切を行く。春・秋の日曜日の午後、天気がいいと、よく自転車に乗って向かったものだ。

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癒しの島 台湾鉄道の2018年夏の旅 Part1 旅立ち

帰国の便は台風が九州へ近づいているそうで搭乗前から今日は揺れますよとのアナウンスの通りでした。機内食の配膳も遅れ、まだ食べている最中に終わったものは引き上げられたのは初めての経験でした。
帰宅後は大雨の襲来です。桂川が氾濫危機に近づいたとかで避難勧告が発せられてサイレンまでなりました。と、言っても我が家付近は何ともなくテレビで各地の被害を見るだけで済みましたが、各地ではかってない水害が発生しています。被害を受けられた方々がいつもの暮らしに戻られることを心よりお祈り申し上げます。

最近は頻繁に海外に行く機会がなくストレスがたまっておりましたらデカンショまつり号さんより6/29~7/2に訪台予定です。30日に高雄臨港線に入る冷気平快と1日のCT273(C57)の臨時列車が走るのを撮りに行きたいとLINEです。いつもは中々踏ん切りがつかない私ですが今回は食いつき、すぐに航空券の手配購入をしてしまいました。デカンショまつり号さんから帰りの航空券が取れない。また身内で急な事が起こり取れても行けない可能性が大きくなったと連絡が入り、単独での訪台を決行するかどうかの思案になりました。

私も某出版社から台湾の撮影地ガイドを出版するからと記事依頼がありました。しかし了承はしたものの初体験とあって段取りが掴めずはかどっていませんでした。本来ならこちらの方に全力を向けるべきなのですが性格がら追い込まれないと集中力が出てきません。台湾で調べたい事もあるので気分転換を兼ねてエイヤーで訪台する事を決めました。
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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈6〉

阪急 前パン電車を撮る
今般の大雨被害では、とくに広島・岡山県下の鉄道は壊滅状態で、心を痛めています。私も、土日に予定していた遠隔地のイベント参加、それに続く旅行もすべて中止し、空いた時間を使って、“デジ青”投稿に勤しむことにしました。
平成の思い出シリーズを続けます。私は、昭和58年に初めて阪急沿線で生活することになり、それまでほとんど撮ったことのない阪急電車にも、自転車に乗って近くへ撮影に行くことになります。平成に入ってから、お気に入りの撮影地を見つけました。長岡天神~大山崎のほぼ中間にある「円明寺上一番踏切」です。この踏切の鉄柵のすき間のローアングルから、100ミリ程度の望遠で、大阪方面行きの電車を狙います。とくに、当時の阪急電車の特徴でもある、先頭車二丁パンタ装備車は、より凜々しく引き締まって見え、阪急電車の魅力一杯です。今回は、平成になった直後の阪急電車の“前パン”の定点記録です。
当時、特急は6300系の天下、中でも6330F編成は唯一の前パン。昭和59年の建造で、7300系の界磁チョッパなどの編成は新技術が投入され、電動車ユニットを両端に置いたため、大阪方先頭6330が前パンとなった。

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鉄道、つれづれ草ー土佐電鉄編ー

現在の土佐電路線図乙訓の老人の思い出話、今回は高校生の頃に初めて訪ねた「土佐電鉄」です。

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豪雨お見舞い申し上げます

DRFC-OB会(クローバー会)の皆様へ

先日の大阪北部地震に続き今回の豪雨はかなり広範囲に及んでいてさらに大変ですが皆さんの所は如何でしたでしょうか。嵐山の渡月橋も今回再び濁流が来たようです。気になるのは広島地方で西村さん大丈夫でしたか。三原市も死者が出たということで気がかりです。ニュースを見ていると昔早朝の列車を撮影したことのある呉線の坂のあたりも被害が大きく何度も報道されています。まだ、安心できないと思いますが、今後もこのような梅雨末期の豪雨は日本全国どこで起こるかよくわからずある程度覚悟しておかないといけない様な気がしております。

保存蒸機とその現役時代(39)

今回は大物登場である。ハンサムボーイC59の1軸従台車を2軸に改造(パシフィックC59→ハドソンC60)して軸重軽減をしたC60型蒸気機関車である。戦後の東海道本線電化進捗に伴い特甲線の東海道、山陽本線等からC59の戦前製39両、戦後製8両計47両が乙線規格の東北本線、常磐線、鹿児島本線、長崎本線等に使用するため改造されていった。私はC60全機39両中27両をカメラに収めることがことができたが、トップナンバーはついぞ見ることができなかった。そこで当会の奥山先輩にお願いしてTsurukame先輩監修の「奥山さんの機関区めぐりhttp://kikanku.web.fc2.com/」から該当機の記録写真をお借りして新旧対比とさせていただいた。スモークデフレクター(除煙板)下部の切り取りは行われておらず原形を保っているが煙突まわりの囲いと予備灯は典型的な東北タイプで秀麗なC60にしては少し残念な姿に変身している。撮影地は尻内機関区ということで今の方はあまり馴染みがないが、その尻内は1971年(昭和46年)に八戸に改称されている。東北のハドソン機C60、C61は平、仙台、盛岡、青森各区で撮影されたものは見かけたが尻内区での撮影は珍しい。C601は1941年(昭和16年)に日立笠戸工場で製造(製造番号1511)されたC5927で当初は姫路区に配属されて山陽本線を中心に活躍した。1953年(昭和28年)に浜松工場でC60に改造され尾久区に配属された。その後直ぐに盛岡区に転属し廃車される1968年(昭和43年)まで仙台~青森間の旅客列車を中心に貨物列車、急行列車の補機も担当した。

1966.08.09 尻内機関区 ▼

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神戸市電400型

「昭和の電車」の掲載が、新聞社の都合でほぼ一ヶ月に一回となったので間延びして困ります。京都市電の600型が話題独占でロングセラーとなりましたが、今回の神戸市電は、さてどうなりますか?私にとっては子供の頃の「カレーライスの色や!」との印象しかありませんでした。神戸の会員のご意見は?

江若鉄道キニ9、キハ14復活!

3年ほど前から大津の民家の片隅でほこりをかぶっていた江若鉄道キニ9、キハ14が整備、動力化され動態保存されました。本線での試運転は7月21日を予定しています。ということで、2015年に発売された鉄道コレクションシリーズ江若鉄道キニ9、キハ14の2両セットに動力ユニットを取り付けました。もともとこのセットはパッケージ用の写真を提供していただいたもので、その後、手付かずのまま置いていましたが、この度模型運転会が行われるということで昨日動力ユニットと走行ユニットを買ってきて取り付けました。パチパチとはめ込みだけで簡単に取り付けられますが、何せ部品が小さいので手を滑らせて落とした時には探すのに往生しました。多分模型運転会が無かったらそのまま部屋の片隅に埋もれていたことでしょう。

皆さん何年も走らせていない模型や、作りかけで放置してある模型はありませんか。先にご案内しましたように7月21日(土)14:00~17:00日本橋「亀屋」に於いて模型運転会を開催します。自慢の車両、気に入った車両を持ち寄ってワイワイ楽しくやりましょう。見学だけでも結構です。参加ご希望の方は事務局までご連絡ください。

東海道旧線を訪ねてー大津編④

馬場駅から約500mのところに石場駅が設けられた。石場には港があり、対岸の矢橋への航路があった。また、東海道と交差する位置にあり、ここから大津の中心部を通る京町通、中町通り、浜通りの3本の道がつながっていたため、馬場から近いにもかかわらず、駅が設けられたものと思われる。
馬場駅から大津駅に行くこの線路は東海道線が全通した明治22年に旅客扱いを中止したが、明治31年8月に旅客列車の運転が再開され、明治35年1月には現在の市民会館付近に紺屋関駅が作られた。石場駅と紺屋関駅の間は500m、また、紺屋関駅と大津駅の間はわずか300mしかないものの、紺屋関には湖南汽船の乗船場があったため、乗り換えの便を考えて作られたようである。図4:大津支線部分(明治22年測量、大日本帝国陸地測量部1/20000)石場駅付近と紺屋関-大津間は複線の記号となっており、交換又は待避線があったのかもしれない。 続きを読む

東海道旧線を訪ねて-大津編③

7.馬場駅

馬場駅には機関庫が設けられた。開通当時の馬場駅の構内配線は不明だが、明治35年の配置図を見るとホームの南側に南東に向かって機関庫があり、大正始めの大津機関庫の絵葉書と一致する。明治22年の東海道線全通で馬場は通過駅となったが、逢坂山の25‰の勾配を越えるため、補機をつける必要があり、大正10年に新線が開通するまで馬場機関庫は重要な機関車基地であった。尚、馬場機関庫は大正2年馬場駅が大津駅に名称を変えたときに大津機関庫と名前を変え、大正10年京都-大津間の新線が開通した時に大津駅の名前は新線の駅に譲り、元の馬場に変わると同時に馬場機関庫の業務は大部分が梅小路に移管され、梅小路機関庫馬場分庫となった。図3:明治35年馬場駅配置図(鉄道史料11号より)
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神楽ふたたび

 神楽号 現る! 神話の国 石見から降臨した神楽号


そして、神楽は百五十分の一で残った。

東海道旧線を訪ねて-大津編②

4.大津駅裏逢坂小学校通学用トンネル

東海道旧線は現在の国道1号線部分を築堤で走っていた。明治22年大日本帝国陸地測量部の地図を見ると現在の大津駅の裏あたりに小道があり、東海道旧線の築堤をくぐるトンネルとして記載されている。東海道旧線の南側には高山寺(向山寺)墓地、霊山正福寺があり、明治10年の西南の役の出征兵にコレラ患者が出たときに霊山正福寺境内を借りて病室にしたが、その後明治12年のコレラ発生の時にも借り上げて施設を作り、以来昭和12年までこの地に避病院があった。築堤は現在の国道1号線を見てもわかるようにその両側とは4mほどの高低差があって、避病院に患者を運ぶためにトンネルとなっていたようである。図2:現大津駅裏逢坂小学校のトンネル(明治22年大日本帝国陸地測量部測量1/20000膳所)このトンネルの位置は先に記した旧東海道を越える橋梁の東側橋台から直線で600mの距離となるが、これと同じ場所には現在国道の南側にある逢坂学校へ行くためのトンネルがある。 続きを読む

私も撮っていた阪急東口

大阪市電1001型からOSミュージックの話になっていましたが、私も阪急東口で撮ったことがありましたのでご覧にいれます。地震があったので遅くなりました。撮影メモがなく、撮影日は不明です。大阪市電や市バスについては全く知識がなく解説はできませんので画像をただ並べるだけで申し訳ありません。

▲朝のラッシュのピークが過ぎたところですが市電がひしめき合っていて、空気がこんなに汚れていたのでしょうか。OSミュージックの袖看板も霞んでいます。左端2681の向こうにトロリーバスがいます。 続きを読む

東海道旧線を訪ねて-大津編①

総本家青信号特派員様の「東海道開業時の面影を巡る」シリーズに触発されて、私の地元大津に残るこれらの遺構を訪ねてみることにしました。すでに紹介されたものがほとんどで、新しい発見はあまりありませんが、幸いこれらの遺構は自宅から歩いて行ける範囲ですので、散歩がてら何度か訪れじっくりと調べることができました。まずはその概要と逢坂山トンネルから始めたいと思います。図1大津市内の東海道旧線路線図、大谷、馬場、石場、大津の駅が設けられ明治35年に紺屋関駅が作られた。 続きを読む