広電三昧

昨日KAWANAKA氏と600円の1日乗車券を手に、広島市内を歩き回りました。秋空の下 元気な広電の姿を堪能できた1日でした。

江波車庫を出庫する101号

広電本社に隣接する千田車庫に居並ぶ電車たちを撮りたいとダメモトで頼んでみたところ、「ピットにはおりないでくださいね」とだけ念押しされた他は 車庫内を自由に見学させてもらえました。

乙訓の大先輩殿 この台車の解説をお願いします

 唯一のガッカリはドルトムント市電改装のレストラン「トランヴェール・エクスプレス」で豪華なランチを予定していたのですが、何と定休日。楽しみは次回回しとなりました。

広電本社前にて

 宮島線以外の各線で京都市電1900型は大活躍です。15両が在籍し、9両が千田車庫、6両が江波車庫所属です。900型の製造初年が昭和30年ですから、還暦に近いわけですが、そんな歳には見えません。広電さんの手入れの良さに感謝です。

 

秋空の下広電がゆく。高いビルはドコモ広島大手町ビル。

京津線が100周年を迎えるのと同様、広電も100周年の節目です。10月20日から12月16日まで特別展も開かれます。広島方面へお越しの節は、是非お立ち寄り下さい。三原ではボランティアガイドも待機しています。

KAWANAKAさま。広島遠征お疲れさまでした。前座はこれぐらいにしておきますので、3日間の成果のご披露をお願い致します。

 

いざ青森へ -3-

583 3本並び

毎年12月、御用納め後の年末は、大人しくしているが、平成9年は、珍しく青森へ出掛けた。当時新幹線は盛岡までで、盛岡~青森の新幹線リレーに583系「はつかり」などが走り、年末はとくに臨時も多い。隠れ583系ファンの私も、これを逃す手はない。

朝の青森駅、確かに583系があふれている。夜行列車の発着も多く、在来線優等列車の最後とも言うべき華やかなシーンを見せていた。「はつかり」「はくつる」の並びを撮っていると、さらに向こうのホームにも583系が停まっているではないか。“あっ”と思った瞬間、くだんの583は動いてしまった。583が3本も並んでる。さぁ、取り逃がした魚は大きい。一計を案じ、当日は、函館経由で弘前泊の予定だったところを、急遽宿泊先を青森に変更し、翌朝、再び同じ時刻に待ち構えた。やっとのことで3本並びを撮ることができた。過去、583系の営業列車がホームで3本並ぶケースがあったのか把握はしていないが、年末の青森駅で、貴重な体験をしたと今でも思っている。

回送で発車していく583系の運転士に向かって、感謝の手を振ると、向こうも敬礼で応えてくれた。

 ▲右から、「はつかり5号」、「はくつる81号」、「はつかり6号」、3本が並んだ

 ▲跨線橋からは2本並びを。青森駅の跨線橋は窓が低くて撮影に適している

 ▲年末のため多くの583系が東北本線を行き来した。野内~浅虫

いざ青森へ -2-

「白鳥」と「オリンピア」

青森も山間部になると、日本有数の豪雪地帯となるが、平野部はそれほどの積雪ではないようだ。事実、昭和47年2月、北海道の帰り、連絡船で明け方の青森駅に着いた時もホームがわずかに白くなる程度で、以後の訪問でも大雪に見舞われた経験はない。

連絡船から降りて駅ホームに行くと、向かいホームに5時20発の「白鳥」が発車待ち。青森から、延々大阪まで、1000km以上を16時間余りかけて走り抜く。昼行特急としては破格の当時日本一の長距離特急で、今となっては考えられないような列車だ。この年の10月、日本海縦貫線の完全電化で「白鳥」は電車化される。

そして、左のホームに入線してきたのが、やや遅れて到着した臨時特急「オリンピア1号」だった。以前の掲示板でも触れたが、この時、札幌オリンピックが開催中で、観客輸送のため、上野~青森間に走った583系による臨時特急であった。上野を前日の19時30分に出て、青森には所定4時45分着、連絡船で渡って函館から82系の「オリンピア2号」に乗ると、札幌に13時56分に到着するダイヤだった。特急「オリンピア」と言えば、東京オリンピックの際に東海道本線に運転されたものが有名だが、札幌オリンピックの際にも、わずか2週間だけ運転された「オリンピア」だった。

午前5時の青森駅に並ぶ、82系「白鳥」と583系「オリンピア」。ヘッドマークもあるが、露光オーバーで、いくら焼きこんでも、ヘッドマークは表れなかった

 ▲その後、雪が降り出した。「はつかり」がゆっくりホームを離れて行った

津軽線はDC化されていたが、朝夕のみC11の引く客車列車が残っていた

いざ青森へ -1-

  ▲右のガラス張りが写真展会場のNOVITA、青森の中心部、人通りも多い

 ▲会場NOVITAの内部、右の壁面が展示スペース、外を行くバスもよく見える

 ▼会場への道のり、駅からまっすぐ5分、さくら野百貨店の向かい

青森写真展が目前に迫ってきました。昨日、準備作業も終わり、写真を梱包して青森へ発送を完了。あとは、11日の設営を待つだけです。私は例によっての極貧旅で青森へ向かいますが、今回は、震災後初めての東北入りともなりますので、被災地の様子も見て行きます。

青森展の盛り上げの一助になるかは分かりませんが、何回かの青森行きで撮った写真の中から、惜しくも選に洩れた?写真の数々を、ランダムにご覧いただきましょう。

日本一の機関区、青森区

青森県を初めて訪れたのは、昭和43年8月、大学一年生の時だった。当会の龍ケ森での狂化合宿のあと、北海道へ向かうため、青森駅に降りた時である。ところが、連絡船のことばかりが気掛かりで、青森駅では撮影どころではなかった。列車が青森に着くと、脱兎の如く連絡船通路を走って連絡船改札へ向かった。連絡船は定員制だから、混雑時は積み残しの可能性もあり、以後のスケジュールに狂いが生じてしまう。東京~北海道の旅客のほとんどが連絡船を利用する時代、それほど左様に連絡船の混雑は激しかった。

だから、青森でゆっくり撮影できたのは、北海道からの帰途時だった。昭和43年8月の時も、まず機関区へ向かった。東北本線完全電化の直前で、青森機関区の蒸機は65両、小樽築港、門司を押さえ、日本一の蒸機配置区だった。ところが、大規模機関区の例に洩れず、駅からは見えないぐらいに遠い。長旅で痛む足を引きずって、やっと区に到着した。

ただ、実態は、電化直前のため休車も多く、国鉄争議のため蒸機の整備も良くなく、形式写真の決めも撮れないままで、青森区の最盛期は過ぎていた。

早々に退散し、駅へ戻ると、青森駅構内改良工事のため、列車はすべて運休で、奥羽本線では、次駅の津軽新城からの特発で、代行バスでの移動となった。このため、長い間、青森~津軽新城間のみが未乗区間として残っていた。

 ▲この地区としては珍しい長工デフのD51281 「青森」の標示も見える

 ▲形式写真としては、これぐらいしか撮れなかった C6010

 ▲落書き機関車の典型、石灰で書いた落書きとアジビラ

 ▲梅小路蒸気機関車館でいまも保存中のC612も団結号になっていた

その中でもC6030は美しく整備されていた 小デフつきのC6030

 ▲ラウンドハウス内部から見ると、絶えずターンテーブルに乗る蒸機が見えた

 ▲北国らしく、扉つきのラウンドハウスだった。本州では比較的珍しい

浜大津イベントのお知らせ

昨年同様、スカイプラザ浜大津にて土曜、日曜だけの計4日間ですが、浜大津ターミナルの復元ジオラマ展示と江若、京阪の模型運転を行います。最新版のチラシが主催者から届きましたので、添付します。今回も多くの会員諸氏のご協力のおかげで 準備も最終段階に入っています。場所は京阪浜大津駅の隣のビル6階で、開場は10:00~17:00です。皆様にお会いできるのを楽しみにしております。なお11月3日には京阪のイベントが錦織車庫で開催され、毎年多くのファンや家族連れでにぎわうようです。

八月だ、もっと熱くなろう!赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part14 PG.SUMBERHARJO(スンバルハルジョ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第9日目 8月12日

am; Nirwana Hotel 6:40→8:02 スンバルハルジョ製糖工場→市内
pm; 市内→ 14:50スンバルハルジョ製糖工場 20:01 22:53  Hotel


▲ 今日の指令所脇の公園?には、先日とは違った子供たちがきました。その中に一人、ちょっと垢抜けた感じの女の子は、異風を感じさせました。サトウキビ畑の中の1本のスィートコーンのようにも見えました。


▲ ペガロンガンのNirwana Hotelは、インドネシア3日目から3連泊したホテルです。B班でも昨日から3連泊します。今日は、ホテルを6時半過ぎに出発して、スンバルハルジョ製糖工場へと向かいました。走行距離は約50キロ、所要時間は約1時間半でした。

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青森写真展 着々(遅々?)進行中

クローバー会写真展in青森の開催まで、一週間を切りました。今春から始めた準備作業も、ギリギリになってから、やっとエンジン全開、得意?のラストスパートで、ようやく全容が見えてきました。

厳選された珠玉の作品は、16人から49点もの点数に。京都から1000kmも離れた青森というピンスポットなテーマにも関わらず、50年以上前のキハ41000から、2012年の新幹線「はやぶさ」まで、あらゆる年代の写真が集まりました。地震で突然廃止になった南部鉄道もちゃんとあります。この撮影年代の広がりは、さすがにクローバー会の懐の深さを示すものと言えます。

明日にはすべての準備作業を完了し、青森へ発送します。

一点一点丁寧にプリントされた写真は目を見張る美しさ。今回は額・マットは一体化した軽量既製品を使用し、準備・輸送の効率化を図った。また、以前から要望の高かった、作品リストなどのチラシも完備。

同志社校友会誌“The Doshisha Times”にも、ホームカミンクデーの案内とともに、写真展記事が掲載された

「イルカ」がいる

9月12日木曜日のこと、「ゆりかもめ」がレインボーブリッジ手前のループを通過中に、INUBUSE氏から「尾久にイルカがいる」とのメールをいただいた。引き返して見に行きたいのはヤマヤマだが、仕事の関係上諦めざるを得ない。翌日の夜「今日もいた」との電話をいただいたので、もしかすると明日もいるかも知れないと思い、14日土曜日の朝、尾久に出向いたところ、下りホームから2線隔てた留置線に「どうぞ撮って」と言わんばかりの位置に停まっていた。時折雲の切れ目から太陽が顔を出す変な光線状態であったが上野寄りの先頭車クハ481-1504から最後尾のクロハ481-1501まで順番に撮影した。

午前中時間が空いており、東十条の環七下で近く姿を消す211系でも撮影しようと思って行ったが、天気が怪しいのでパスして赤羽で185系「草津1号」撮影した。帰りに乗車した上野行が尾久に停車すると、パンタが上がっており慌てて降りて撮影後、都電荒川車庫前まで歩き、町屋経由で帰宅した。

(1)「イルカ」とは
勝田車両センターに配置されている485系の波動用車両のK60(6両編成)とK40(4両編成)2編成のことで、先頭車に「イルカ」のイラストが描かれているため「イルカ編成」とか単に「イルカ」と呼ばれている。

日常的な定期運用はなく、K60編成が行楽シーズンの土休日にいわき~鎌倉間で運転される「ぶらり鎌倉号」に使用される他は主に団臨に使用されている。この日はK60+K40の10両フル編成で、恐らく常磐線沿線の学校の修学旅行臨で上野に来て、帰りまで尾久で待機していたものと思われる。

車号は次の通りである。
K60編成、←上野クハ481-1504+モハ484-1013+モハ485-1013+モハ484-1011+モハ485-1011+クハ481-1505
K40編成、←上野クハ481-345+モハ484-1053+モハ485-1053+クロハ481-1501

(2)K60編成
クハ481-1504/上:尾久 下:勝田 (21-9-8)
函館本線の特急「いしかり」用として昭和49年4月日立製作所で新製された車両。北海道での使用が遅れたため、約1年間暫定的に青森区に配置され、特急「白鳥」に使用され大阪に顔を出していた。昭和55年新型特急車781系と置換えで再度青森区に転属、その後新潟区に転属後、平成11年車体更新時に窓を上方向に拡大した。

モハ484-1013+モハ485-1013
昭和51年4月日本車輌製で、奥羽本線秋田~羽前千歳間の電化対応用として寒冷地仕様で新製され、秋田区に配置された。その後新潟区に転属して平成11年車体更新時に窓を上方向に拡大した。

 モハ484-1011+モハ485-1011
昭和51年4月東急車輌製、前述のモハ484-1013+モハ485-1013とはメーカーが異なるだけで、あとは同じである。

 クハ481-1505/上:尾久 下:勝田 (21-9-8)
経歴等はクハ481-1504と同じ。

(3)K40編成
磐越西線郡山~会津若松間の特急「ビバあいづ」に運用していた車両で、平成14年12月7日運用終了後6両編成の内、中間のモハ484-1008+モハ485-1008を抜き、波動用として勝田区に転属した。
クハ481-345
昭和51年2月日立製作所製で当初の配置は青森区であった。

モハ484-1053+モハ485-1053
昭和53年8月日川崎重工製で当初の配置は秋田区であった。窓は原形のままである。

クロハ481-1501
経歴は極めて複雑で、昭和53年上越線特急「とき」用のサロ181-1101として日本車輌で新製、この時、既に上越新幹線の開業が迫っていたため481系への改造が考慮されていた。58年1月予定通り盛岡工場でサロ481-1501に改造。62年には「ひたち」号のクハ不足のため、運転台の取付けと普通車への改造が行われクハ481-1104となった。平成5年「ビバあいづ」用として車体前方部分をグリーン室(定員16名)に改造して現車号になった。



(4)その他
常磐線の特急は新型車両E657系への置換えが進行中であるが、現時点ではE651系、E653系も使用され、特に「フレッシュひたち」はE653系が多い。E657系に統一される日は未だ発表されていないが、刻一刻と近づいていることは事実である。E651、E653は共に7両編成と4両編成があり、乗客数に応じて7両、11両、14両(E653系のみ)編成で運転されているが、E657系は10両固定編成のため弾力性に欠ける。
「イルカ」も置換えの対象になっており、まもなく見納めになるだろう。運用のない時は勝田駅ホーム横の電留線に停車していることが多い。
目撃情報によると10月1日も尾久に停まっていたとのことである。

サハ78(Ⅱ)

5月14日【20382】関 三平さんの「ロクサン型」を受けて、5月21日【20523】「モハ63→クモハ73」、7月4日【21668】「サハ78」と進めてきたが、前回はサハ78300番代で終わったため、引き続き400、450番代と500番代に話を進めたい。

(1) サハ78400、450番代
昭和43年4月27日、御殿場線沼津~国府津間の電化時、線内の普通列車に首都圏で余剰になった旧形国電を転用することになり、クモハ60、クモハ73、モハ72、クハ79、サハ78が配置された。非電化時代の気動車、客車にトイレが設置されていたため、サハ78の一部にトイレを設置して4両基本編成中に必ず1両連結された。
戦前形4扉改造車は400番代(400、401)、63形グループ車は450番代450~457)が付番された。

呉線電化時にもサハ78とクハ79の一部にトイレが設置されたが、改番されたのはクハ79の1両のみであった。後日呉線から改番されていないトイレ付のサハ78111,113、119、120の4両が御殿場線に転入したため、改番された車両とされていない車両が混在する結果になった。

サハ78401/(52-2-11) 沼津
昭和6年4月田中車輌でサロ45003として新製。19年9月大井工場で4扉化(戦時改造)してサハ78024に改番。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年10月11日付で廃車。

 サハ78450/(49-4-2) 沼津
昭和21年6月近畿車輌でサハ78101として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年9月14日付で廃車。

サハ78451/(49-4-2) 沼津
昭和21年6月近畿車輌でサハ78103として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年9月15日付で廃車。

 サハ78453/(49-2-17) 沼津
昭和21年8月近畿車輌でサハ78110として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年11月9日付で廃車。

 サハ78454/(49-4-2) 沼津
昭和21年12月近畿車輌でサハ78128として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。55年10月13日付で廃車。

 サハ78455/(49-2-17) 沼津
昭和21年12月近畿車輌でサハ78129として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。55年4月22日付で廃車。

 サハ78456/(48-5-13) 沼津
昭和19年10月川崎車輌でサモハ63005として新製。26年12月大井工場でサハ78304に改造。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。52年2月18日付で廃車。元サモハ63→サハ78300番台のため、78450~78455とは戸袋の位置が異なる。

 サハ78457/(49-2-17) 沼津
昭和21年9月川崎車輌でサモハ63376として新製。27年2月大井工場でサハ78378に改造。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。51年10月18日付で廃車。

 画像の無いサハ78400とサハ78452の経歴は下記の通りである。
サハ78400
昭和6年6月川崎車輌でサロハ46010として新製。12年1月トイレを設置してサロハ66010に改番。20年3月大井工場で4扉化(戦時改造)してサハ78018に改番。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年10月11日付で廃車。

サハ78452
昭和21年7月近畿車輌でサハ78108として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年11月19日付で廃車。

(2) サハ78500番代(501~515)
昭和44年10月から45年3月にかけて元モハ63形改造のモハ72を大井工場で電装解除した車両で78501~78515の15両在籍した。鳳区に配置された78506以外は関東地区の配置で、50年代の前半に廃車されたため、撮影できたのは、502、506、509の3両のみである。
尚、トップナンバーのサハ78500は三河島事故で大破したモハ72549(28年11月東急車両製)を電装解除して復旧した車両で、モハ63形とは直接関係ない。

サハ78502/ (49-5-1) 拝島
昭和21年10月日本車輌でモハ63161として新製。27年3月日本車輌でモハ72051に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。51年12月21日付で廃車。

 サハ78506/(49-6-16) 天理
昭和21年6月日本車輌でモハ63023として新製。27年5月東急車両でモハ72163に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年2月1日付で廃車。
関西に配置された唯一の車両で、阪和線で活躍した。

 サハ78509/ (48-2-25) 拝島
昭和22年9月近畿車輌でモハ63518として新製。27年8月大井工場でモハ72201に改造。45年3月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年12月17日付で廃車。

 画像の無い車両の経歴は下記の通りである。
サハ78501
昭和21年9月日本車輌でモハ63111として新製。26年12月大井工場でモハ72033に改造。45年1月大井工場で電装解除して現車号に改番。46年12月8日付で廃車。

サハ78503
昭和21年9月近畿車輌でモハ63364として新製。26年12月大井工場でモハ72096に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年3月22日付で廃車。

サハ78504
昭和22年8月川崎車輌でモハ63194として新製。27年2月日立製作所でモハ72118に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年2月17日付で廃車。

サハ78505
昭和22年11月川崎車輌でモハ63637として新製。27年2月日立製作所でモハ72153に改造。45年1月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年10月29日付で廃車。

サハ78507
昭和21年10月日本車輌でモハ63145として新製。27年5月汽車会社でモハ72167に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年2月10日付で廃車。

サハ78508
昭和21年11月日本車輌でモハ63257として新製。27年5月東急車両でモハ72171に改造。45年3月大井工場で電装解除して現車号に改番。51年12月21日付で廃車。

サハ78510
昭和22年10月近畿車輌でモハ63522として新製。27年10月大井工場でモハ72212に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年10月24日付で廃車。

サハ78511
昭和23年2月日本車輌でモハ63772として新製。27年6月日本車両でモハ72252に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年2月17日付で廃車。

サハ78512
昭和23年8月汽車会社でモハ63685として新製。28年1月日本車両でモハ72265に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。53年5月8日付で廃車。

サハ78513
昭和23年1月汽車会社でモハ63749として新製。28年1月汽車会社でモハ72287に改造。44年12月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年1月23日付で廃車。

サハ78514
昭和23年1月汽車会社でモハ63747として新製。27年12月東急車両でモハ72306に改造。45年1月大井工場で電装解除して現車号に改番。51年2月5日付で廃車。

サハ78515
昭和22年12月汽車会社でモハ63731として新製。28年1月東急車両でモハ72309に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。53年9月16日付で廃車。

【参考】サハ78516、78517について
モハ72522と72523(いずれも昭和28年10月日立製作所製)を昭和45年6月と7月に浜松工場で電装解除した車両で63形とは直接関係ない。片町線で使用され、78516は52年3月16日付、78517は51年9月1日付で廃車になった、

取り外された電装品は、身延線の準急増発用として計画されたサハ87108、87111の電動車化に利用され、パンタ部分を低屋根化してモハ80850、80851となった。座席幅が狭く内装が木製のため、全金製のモハ80800番代と比較すると見劣りし、予備車となっていることが多かった。

サハ78516/ (47-2-20) 放出


 サハ78517/ (48-7-1) 住道

63形について、クモハ73、サハ78と話を進めてきたので、時期を見て残るクハ79、モハ72についてもまとめてみたい。

超大型台風にも負けず、 久留里線、いすみ、小湊鉄道 撮影日記

 祝、東京駅復元工事完成!


▲ 10月1日に復元工事が完了してお披露めなった東京駅です。ライトアップは午後6時からで、帰宅列車を遅らせて見学しました。
駅前は、ライトアップを撮ろうと大勢の見学者で一杯でした。

 

ンドネシアSL撮影紀行記をのんびりと書いている間に10月を迎えて、秋本番になってしまいました。29日に海外鉄ちゃんの集会があって先週から2回連続の上京です。 関東方面に行く事はあっても、殆どが海外へ向かうためのトランジットで、鉄道を撮る時間がありませんでした。先週も江ノ電撮影を計画していましたが、終日風雨が激しく断念しました。今回は頑張ろうと、先日に準特急先輩が神足に来られた時に相談してみますと、「小湊・いすみ鉄道が中々良いよ。初めてなら案内しよう。」とのご好意を受けましたので、連泊することにしました。そして、以前に中国哈密三道嶺撮影にご同行させていただきましたSさんから車を用意していただく事も決まって機動性もできました。また同じく哈密でご一緒だったTさんも加わり楽しい撮影旅となりました。ありがとうございました。
問題は、超大型台風17号が本土上陸するらしく先週同様以上の悪天候が予想されることでした。
インドネシア紀行記を少し中断して、投稿させていただきます。ご覧ください。

 2012年9月30日  JR川崎駅→JR久留里線→いすみ鉄道→小湊鉄道

9月30日朝、7時過ぎに川崎駅で集合、4人乗車でアクアラインを圣由してまずはJR久留里線での撮影です。朝日が上がっていた頃は、青かった空も雲が立ち込めてきましたが、シャッターを押す時は不思議と明るくなって陽も射してきます。インドネシアに続いてのビギナーズ・ラックは、ここでもまだ残っていました。

▲ 7:57、いすみ・小湊鉄道に向かう前に今年8月21日に開業100周年を迎えたJR久留里線を撮りました。数少ない非電化線で撮れたのは、貴重なキハ38-602+キハ37-2です。アイボリーと青との車体色は初めて見ました。撮影地は、下郡~小櫃(おびつ) の西原踏切、列車番号は923Dです。


▲ 8:20、反対の小櫃からやってきた926D、キハ38+キハ37-1002の2連。これらの旧型気動車は、今年12月にキハE130系に置き換えが予定されています。農道横の花を前景にしてとってみましたが、ピントは花の方が良かったかも・・・。

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相模鉄道キハ1001~1004

我国電気式内燃動車は、国鉄に米国ガス・エレキトリック車のイミテーション・キハニ36450形式、ディーゼル・エレキトリックのキハ43000系、敗戦後のキハ44000、44100系、私鉄ではこの相模鉄道キハ1001~1004しかない。電気式は機械式に比し相当に高価が常識だが、相模の重役に電気の専門家がおり、電磁弁による総括制御を狙ったのであった。価格は随分調べたが資料が得られない。


相模鉄道キハ1001汽車会社竣功写真 台車は端梁つき菱枠 コロ軸受 日車新案特許の簡易連結器を装着

製造は汽車会社東京支店1935年10月、電機部分は東洋電機。機関は対向ピストン4気筒(8ピストン)のユンカー5-4TV82馬力/1,500、発電機は定格連続70kW300V(最大600V)205A、電動機は300V54kW×2、制御方式は自動ワードレオナード式で出力を一定に保つ。65km/h以下では発電ブレーキを常用し、冬期は抵抗器消費で発生する熱を車内に送って暖房にする=制動状態以外での暖房は利かない。停車直前には空気制動になるが、通常のシュー式ではなくバンドブレーキである。力行速度は平坦線65km/h、12.5‰勾配で45km/h、燃料消費は1km当り0.5立とある。


キハ1001茅ヶ崎 1939年黒岩保美撮影 2眼レフの見上げ撮影のため 上すぼまりの車体が余計すぼまって見える

車体はご覧のように日本離れし強いて言えば欧州風だろうが、関センセがおっしゃるハシゴ形とは、脚立形と云う意味だろう。梯形車体と称されることも多いが、妻台枠部分は垂直で、腰と窓部分にも角度があり、屋根両端を辺と看做せば、10角形という、実に不思議な代物である。内燃動車に限ったとしても、汽車会社のデザイン能力=センスは日車本店に劣ること数等である。

塗色は腰が海老茶色、上半分が黄色で、鉄道趣味誌の紹介記事は「東海道線の乗客にして茅ヶ崎を通る時、必ず誰かは気が付かずにはゐないであろう。事程左様に美しい車両なのである」「兎に角この車が、日本一の高原鉄道小海線にでも運転されるとして、八ヶ岳の麓を走ったら一幅の絵となるであらうと思う」とベタほめ。「只惜しむらくは平面に於ても流線型にしたかった」ともある。

キハ1001~1004形式図 鉄道趣味30号より 右端座席に注意

平面図で分るとおり、左側妻部座席はあたかも90度捻ったクロスシートで、窓際に座った人は、窓が開いていれば普通に座ったままで窓の外に首が出せると揶揄され、窓が閉まっていれば、絶えず首を内側に曲げ続けを強要される。敗戦後日立電鉄での車内写真をご覧あれ。図左側妻部運転席以外は手荷物室である。妻面は3枚窓だが、等幅ではなく運転席窓が900mm、他の2枚が650mmと狭いのも変わっている。

乗務員/手荷物扉は片側に集中し、それも引戸だから、扉の妻側上部は斜めになっている。反対側運転席サイド妻寄り窓はタブレット授受のため、下段の前寄りが細長い台形引戸になっている。その反対側客席側窓は嵌め殺しだが、暑いとの苦情があったとみえ、後年の写真では運転席と同様に改造されている。


キハ1004 社家 1939年11月20日 荻原二郎撮影 運転席の小さな台形窓に注意 風入れとタブレット授受用 妻運転席と中央窓は嵌め殺し

ところで導入時3両重連の不鮮明な写真が社史にあるが、結局総括制御は成功せず、高価な電気式にした効果はなかった。1938年5月サハ1101が同型(手荷物室なし)で新製されたが、総括制御が可能なら、当然キサハになっていたはずである。

相模鉄道は1943年4月1日厚木で接続する神中鉄道を吸収合併したが、本来の相模鉄道部分が1944年6月1日買収され、相模線となる。残った旧神中鉄道部分が相模鉄道を名乗ったまま現在に到っているのである。キハ1001~1004はこの旧神中鉄道に移り、1944年6月18日設計変更認可で電車化。機関と発電機を撤去し、パンタをつけさえすれば直ちに電車になったのだが、モーターは300V用のはずだから、永久直列にしたのか、600V用に交換あるいは巻き換えたのか。どなたかお教えくだされ。

現実に認可時点では1001、1002が竣功済、1003、1004は敗戦後になり、番号そのままで記号のみキハからモハに変更された。その後日立電鉄に移りモハ13~16になっていたのは周知の通り。ここでは1両ごとに細部が異なり、両側に乗務員扉が設けられたものもある。


日立電鉄モハ13 湯口 徹撮影 乗務員扉がなかった側にも律儀に同一仕様で設けられ 妻面中央窓も開けられる

サハ1101は買収で運輸通信省コハ2370になったことになっており、1951年3月廃車が記録されているが、これは書類上だけで、現実に現車は相模鉄道に残存=国鉄には引き渡されていなかった(取り込み横領?)。かような事例は敗戦前後のドサクサに少なからずあって、強盗慶太辣腕の一端かもしれない。1955年両妻を平妻に改造しサハ2801に、1959年10月日立入りしてサハ2801になって、モハもサハ同様平妻化されて、一族5両はかなり長命した。


日立電鉄サハ2801 湯口 徹撮影 両端をフラットに改造 軸受はプレーン

日立電鉄モハ15旧手荷物室部分 手荷物扉は埋め殺されている 湯口 徹撮影

 

はしご型流線形ディーゼル電動車??

今回は、説明文を読んでもよくわからない乗り物です。パンタがない電車シリーズなので電気動車なのでしょうが、相模鉄道に新旧があったとか、電装されて日立電鉄にいったとか、関西在住にはよくわかりません。わずかに日立電鉄といわれて、ああ見たことがある、と思う程度です。

夏の思い出 総決算 -4-

京王調布駅の平面交差を見る

京王電鉄が調布駅付近で進めていた、地上線から地下線への線路の切替工事が去る8月19日に完了、国領、布田、調布の3駅が地下駅となった。なかでも京王線と相模原線のジャンクションである調布駅は、京王線下りと相模原線上り線が平面で交差する配線になっていたため、ダイヤ上のネックとなっていた。相模原線の上り列車は、調布駅の場内信号で開通待ちをすることが多かった。

京王線と相模原線の分岐駅として、電車の入線が絶えることのなかった地上時代の調布駅。撮影当日は、新宿で鉄道写真展を見学しようとしたが、最終日で閉場が早まりアウト。予定より早めに京王線に乗ったところ、今度は寝過ごしてしまった。また調布まで戻ったところ、陽は傾きかけて、平面交差を鈍く照らし出していた。

平面交差の構造は、阪急淡路駅とよく似ているが、淡路は、支線に当たる千里線は、4面すべてのホームに入線できる構造になっているが(下り方は3面のみ)、調布は支線に当たる相模原線は2面にしか入線できない。その分、規模としては、やや小ぶりな印象を持った。ただ、阪急に比べると、同時入線、同時発車が頻繁にあって、その際の両電車の接近ぶりは、極限に近いものがあり、ハラハラものだった。

中国新聞 広電記事

9月28日中国新聞朝刊に載った広電値上げ関連の記事をご紹介します。路面電車のスピードに言及していますが、広島市内は道路も広く、軌道敷き内には自動車は入らず、交差点での右折車も電車優先のマナーが守られているので、広電は恵まれた部類に入るように思います。かつて京都市電がクルマで身動きがとれない状態に陥った あのような光景は今の広島にはありません。バスも同様ですが、「完全に停車するまで 席を立たないでください」というのが 高齢化してきた昨今では当たり前になり、停車時間が昔に比べれば長くなっているように思います。プリペイド式の料金支払いで早くなる反面、観光客など不慣れな人がもたつく光景もあり、また超低床車の普及で乗り降りが早くなる反面、ベビーカーの持ち込みでもたついたりと乗降時間短縮もそう簡単なことではないと思います。路面電車とはスピードを期待するものではなく、ゆったりした気分で乗る乗り物だと思うのですが、皆さんはどう思われますか?

9月28日 中国新聞

夏の思い出 総決算 -3-

もうひとつの夏の思い出、と言っても、ただひとつ“外回り鉄”で行った首都圏の数日間のみだった。この時は、準特急さん、F本さんにも案内していただき、郊外も回ることができた。その前に、都内での用件が意外と早く終了した。暗くなるまで2時間はある。遠くへは行けない。こんな時に、すぐ行けるのが都電だ。

傾きかけた陽に急がされるように、終点の三ノ輪橋まで来た。以前、来た時には陽が落ちた黄昏時の光景が良かったので来たものの、期待の夕陽ギラリは、周囲の建物に阻まれて、完全にアテ外れ、陽の差し込む余地のないことが分かった。あわてて地図を取り出し、夕陽の差し込む西方向へ線路が伸び、カーブのある地点を探すと、4停留所先の「荒川七丁目」しかないことが分かった。

都電には乗らず、ただ一目散に歩いて、「荒川七丁目」まで向かうが、陽はどんどん落ちてきて、現地に着いた頃には沈み始めた。ギラリは諦めて、逆方向の夕陽バックに切り替えて、停留所から町屋方面を狙う。カーブして輝いたレールの向こうから次つぎ都電がやって来た。

 

 

陽が落ちてから隣の町屋駅前へ向かう。京成線、メトロが交差する、乗降の活発なところで、次つぎと来る都電から多くが降り、多くが乗って行く。都電が通り過ぎると、踏切を多くの人が横断する。東京のパワーを感じる一断面だった。

何気ない街並みに都電がうまく溶け込んでいる。沿線の住民も、さり気なく、日常の生活の中に都電が生きている。路面電車の魅力を感じる2時間だった。都内で思い立ったら行けるのが都電の魅力でもある。

八月だ、もっと熱くなろう!赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part13 PG.SUMBERHARJO(スンバルハルジョ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第8日目 8月11日

am; ジョグジャカルタ BorobudurのManohana Hotel (4:40~7:00)11:00→
pm; →18:43 スンバルハルジョ製糖工場 21:0323:43 PekalonganのNirwana Hotell

今日は、インドネシアが誇る世界文化遺産の一つ世界最大級の仏教寺院「ボロブドゥール」を観光見学します。鉄ちゃんには通常無縁のツアーですが、皆さん折角き来たんだから一度ぐらいは見ておこうと、真っ暗闇の日の出前、4:40に公園内にあるマノハナホテルを懐中電灯を照らしながら出ました。
公園開門は6時ですが、このホテルの宿泊者のみ早くに入場できる特権があります。

▲ 5:40、寺院の上に上がりますと、だんだん夜が明けてきました。今日は霞がかっていて幻想的な光景が拡がります。

▲ 6:12、世界中から訪れた観光客が見守る中、ようやくご来光が雲間から見えました。
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八月だ、もっと熱くなろう!赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part12 PC TASIKMADU(タクシマドゥ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第7日目 8月10日 2の2

am; ソロ(スラカルタ)のIndah Palace Hotel 6:30→6:40 ソロ市内線(6:40~10:15)→
pm;
 →14:53 PC Tasikmadu(15:00~17:30) 17:28→ジョグジャカルタBorobudurのManohana Hotel


▲ タシクマド製糖工場で初めて見かけた厳つい車は、日本では見た事のないトヨタ車でした。

車名は、TOYOTA KIJANG。インドネシアで1977年からノックダウン生産されたトヨタ・キジャン初代型です。現地の悪路・過積載にも耐える、はしごフレームの四角張った頑丈な車で、約35年経った今も現役です。日本国内なら10年も経過すると中古車販売店に並ぶのが貴重なくらいですが、約100年経った蒸気機関車を今も使い続けているインドネシアですから、このぐらいならまだまだなのかも・・・。この車なら多少ぶつけても大丈夫ですね。エンジンは、初代カローラに搭載された水冷直列4気筒OHV1200cc 68馬力で、東南アジアにトヨタの名を知らしめた記念の車だそうです。


▲ GPSロガーのホテルからタシクマド製糖工場への軌跡です。フォトランしましたソロ市内線のPurwosari駅~Solo-Kota駅~ソロ川鉄橋は、赤線です。
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夏の思い出 総決算 -2-

台湾の客車急行列車

この莒光號、客車列車だけあって、速くはない。停車駅も多く、特急(自強號・太魯閣)の待避も多く、所要時間は区間車(普通)と大して変わらない。以前は、急行に冷房があるだけで、普通との差別化ができていたが、普通電車がすべて冷房車になった今では、ほとんどメリットがない。

またこの列車、全車指定だが、満員の場合、無座(立ち席券)を買って乗車することになる。近距離ならもともと無座しか発売しない。日本なら、このような場合、遠慮して、席が空いていても立っているのが通常だと思うが、この地では、何の遠慮もなく空いた席にしっかり座っているので、あとから指定券を持って乗ると、先客を排除するのがまず仕事になる。しかも、車内検札は全くないので、区間車客が紛れて乗り込んでいるケースが相当あるように見受けられた。

莒光號を牽引するE200型だけでなく、同型車として、MGなしの貨物専用機E300型と、歯車比を変更して最高速度を130kmに引き上げた西部幹線の莒光號牽引用のE400型がある。名前に魅かれて下車した牡丹Mudanは、以前炭鉱地帯だった。いまは、ホッパー車を連ねたE300型の牽く重量貨物が通り過ぎて行った。

平渓線との分岐駅、三貂嶺Sandiaolingは、前回も書いたように、国鉄時代の保津峡か武田尾の趣きを持った駅であるが、この前後区間、勾配のため、写真のように貨物列車には補機が付く。駅員が親切なのは、どこも同じだが、ここは鉄道ファンの撮影も多いのだろう。駅員からはツウな回答が返ってきた。次の列車の通過時刻を尋ねると“タンキ、タンキ”と返ってくる。数分後、通過したのは、まさしくELの単機回送だった。補機の回送が多いのである

新烏日NewWurihiに到着する、台北発花蓮行き51次。上は、台湾高鉄(新幹線)の台中駅。列車の種別は莒光號であるが、ツアー専用の観光列車である。日本にも以前あった団体専用列車みたいな列車で、一般営業用の客車とは区分されたイラスト入りの客車が使用される。展望車風の客車や食堂車もあるようだ。

先週に2回目の台湾入りした際には、台北から西へ5駅目、鶯歌Yinggeへ行ってみた。この付近、日中は約20分ヘッドの8両編成の電車は、いずれも満員だ。桃園寄りにある陸橋へ行ってみる。鶯歌は、焼き物の街として知られ、陸橋付近も店が軒を連ね、日曜日とあって、多く買い物客が訪れているが、それにも増して、陸橋からの鉄道見物客の多さには驚く。家族連れ、老いも若きも、列車が来るまで待ち続ける。鉄道ブームまさに極まっている。

京阪本線特急色600形車両の運行

大津線開業100周年記念イベントのひとつとして今日から石坂線600形を、京阪本線特急色に変えた1編成が運行始めました。また10月27日には「京阪本線特急色600型車両」臨時列車及び撮影会が行われます。詳しくは京阪大津線のサイトをご覧ください。今日は朝から快晴で、先日購入したカメラの初撮りを兼ねて出かけました。今日から運行されると言うことはwebで知ったのですが運用がどこにも書いていません。仕方なく電車が見える、島ノ関駅近くのファミレスで昼食をとりながら待ちました。運行は石山寺-坂本間ということで、最悪40分待てば石山寺行き、坂本行きのどちらかを捕まえることができます。待つこと30分、特急色の車両がやってきました。石坂線でも最近はラッピングした車両が多く、何も貼られていない車両は少数派になっています。久しぶりの特急色、塗装したばかりでラッピングも広告もない車両はやっぱりきれいですね。

時刻が特定できたので時刻表を見て運用を想像し、浜大津から近江神宮にかけて歩きながら写真を撮りました。浜大津ではこれを狙っているのかカメラを持った人が数名いて撮影しています。最近は曜日に関係なくこのあたりでカメラを構えている人を見かけるようになりました。地元民として乗客の増加につながればと思っています。

尚参考のため今日の運行確認できたのは浜大津発13:30近江神宮行き、13:54石山寺行き、14:38坂本行き、15:16石山寺行きでした。京津線ですが1969年ポール時代の300系特急色の写真も添えておきました。

宮崎交通チハ101~103

敗戦後1ドル360円の超円安レート設定による外貨絶対不足で、石油燃料輸入は厳しく制限され、産業復興のトラックや壊滅状態のバス等に限っての配給が長らく続き、電化あるいは石炭でしのげる鉄道には、配分がなかった時代の、それも最末期に出現した車両である。何度も記したが江若鉄道のみ、米軍の虎の威を借りて独自に燃料を確保し、1948年4月以降他鉄道より2~3年早いディーゼル化を成し遂げたが、常総筑波鉄道をはじめとする諸鉄道は指をくわえて見るだけで、その後も闇ルートで確保した燃料を、代燃と偽って使用するしかなかった。多くの鉄道がこの時期電化に走ったのは周知の通りだし、蓄電池バス、タクシーも少なくなかった。TAMAなる電池自動車も発売されていた。 

宮崎交通の鉄道線では、1950年3月蓄電池動車を3両作り上げた。それというのも、同社には既に電気自動車を扱い、バッテリーに関し技術経験を積んでいた宮崎電気自動車サービスという子会社があり、ノウハウを持っていたのである。国鉄のキハ40000を3両購入し、エンジン、トランスミッション、冷却装置、ガソリンタンク等を撤去。代りに150V50kW電動機を1個装着し、駆動システムは従前のものをそのまま使用=ギヤ比も4.056のままだが、逆転メカニズムは殺していた筈である。

宮崎交通チハ101 1958年3月13日南宮崎 湯口 徹撮影 

車体全長に渡って屋根上に逆L型アンテナ(歳が分るが)が張ってあり、走行中ずっとラジオが流され放しだったのは、当時として大サービスなのだが、勿論真空管式ラジオ受信機である

電池は湯浅80V(40個直列)、252Ahを2組床下に装着し、80V/160V切替及び抵抗制御で、電池直列/並列各4ノッチ、計8ノッチであった。車両の改造は広瀬車両、電気部分は中島製作所と神戸電機鳥羽工場。50kWとは67馬力だから、ガソリンカー時代のGMF13=100馬力に比せば2/3だが、幸いこの線の南宮崎―青島間はさしたる勾配がない。竣功図記載の自重は19.78トンで、キハ40000の18.09~18.35トンに比し、1.5~2トン重くなったのは、ひとえに鉛電池のためである。詳しくは田尻弘之『宮崎交通鉄道部』RM LIBRARY69を参照されたい。

電気車の科学1950年10、11月号、宮崎交通鉄道部長の「蓄電池車の採用について」によれば、車両1両の払下と改造、充電所が200万円、計800万円の予算でスタートしたが、地上設備も含め総額1,153万3,516円、内訳は車両払下3両が214万8,197円、電装とも改造費同216万円、蓄電池予備1組共216万円、充電所費252万4,319円、輸送費30万円とのことである。

走行1km当り消費電力1.48kWh、石炭に比せば動力経費が半減した由。しかし現実にはこの直後ディーゼル化が可能になり、蓄電池化は設備投資と人手が馬鹿にならず、結果論としてはもう少し待ってディーゼル化すればよかったことは間違いない。宮崎交通は追いかけて蓄電池機関車2両も増備し、それでいて蒸気動力も残存するという、二重投資を余儀なくされ、ディーゼル化することはなく、国鉄日南線に土地を譲って1962年7月1日廃止したのであった。

なお電池動力は米手作市氏ご指摘の通り、かつて国鉄にAB10なる蓄電池機関車があったのは、火薬工場での引火を恐れたためである。他には鉱山等の産業用に電池機関車はかなり存在し、敗戦後では本郷軌道が蓄電池動力を併用している。旅客運輸動力に蓄電池を採用したのは、範多商会が輸入したエジソン・ビーチ電車を、神戸電気鉄道(現在の神戸電鉄ではなく、神戸市電の前身)が、1906年に試用した例しかない。結局このエジソン・ビーチ電車はどこにも売れず、小樽の石炭埠頭で使用する計画もあったようだが、軌間が1435mmでもあり、実現せず。

現在に至って、新鋭電池によるテストは少なからず行われているが、さて、商業ペースでの実用となると話は別である。なおドイツではかなり古くから、電池動車が実用化されていたが、結局はディーゼルに敵わなかった。