あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~13~

日常の記録 大阪駅の24時間①

つぎの日常の記録、大阪駅の24時間です。西日本最大の駅、大阪駅は、2014年、大屋根が載った5代目の駅に生まれ変わりました。その後も、大阪駅周辺の再開発事業は進化を続け、ことし3月、大阪駅うめきたエリアが開業し、特急「くろしお」「はるか」、おおさか東線の列車が地下ホームに乗り入れ、大阪駅の拠点性と、関西全体のネットワークがより強化されました。

ある出版社の依頼で、大阪駅の24時間を記録したことがありました。早朝の4時52分、回送で到着する大阪環状線外回りの電車から、深夜0時34分発の「サンライズ出雲・瀬戸」まで、一人で取材・撮影をこなしました。と言っても一回だけの取材では満足な撮影はできず、時間を区切って、何度も大阪駅へ通い詰めたものでした。大阪駅の魅力のひとつは、国鉄型の活躍が見られたこと。大阪環状線を走る奈良区の103系電車ウグイス色編成と、福知山線の「こうのとり」381系電車が顔を揃えた。どちらも、今となっては見られない車両で、まだ10年にも満たない時代の記録だが、改めて鉄道の進化を感じる(以下、2014年4月、5月撮影)。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~12~

日常を記録する② 阪和線で103系を駅撮り

日常の記録、つぎは阪和線へと移ります。当時、アーバンネットワークと呼ばれた関西の通勤線区で、輸送が逼迫していたのが阪和線でした。高架工事が進捗し、改正ごとに増発が進みますが、車両の中心は、まだ103系でした。昭和43年10月改正で、関西初となる103系が配属され、全国でも4番目の投入線区となりました。この時期、首都圏では一掃され、残るのはJR西日本と九州の350両程度、そのなかで、吹田総合車両所日根野支所の103系には、最大の90両が配置され、全車が青22号に塗られて、阪和線の主力として活躍を続け来ました。4扉電車には余り関心を示さない私も、日常の記録の要諦として、この時期に何度か阪和線を訪れたものでした。

ラッシュ時の阪和線、次つぎに103系がやって来て圧倒される。日根野区の103系は、「普通」はもちろん、和歌山始発の「快速」運用にも入っていた。前項投稿のコメントで、阪和線を、河昭一郎さんは「憧れの線区」と表現され、阪和線沿線で育った893-2さんは「掃きだめ」と表現された。どちらも至言だと思う。私自身も、高校生の頃、古臭い社型電車ばかりで、掃きだめ感のある阪和線に憧れて、高校2年生の時、はるばる鳳電車区を訪れたことを思い出した。左:天王寺行きクハ103-591ほか、右:鳳行きクハ103-127ほか(以下2010年5月、南田辺、長居、鶴ケ丘にて)。

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駅名喫茶店(第58回:「京」を含む駅名)

手元に「京阪大津京」と「大津京」の駅名標の写真がありました。ならば、今回は「京」を含む駅名でいこう。いつも、このような経緯でテーマを選定しております。

湖西線で「西大津」から現駅名である「大津京」に駅名変更の際、「京」なのか「宮」なのか論争になりましたね。【2023/5/12修正】

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~11~

日常を記録する① 朝の山崎駅

前項でも触れましたが、この大混雑ウィークは、遠出は止めて、近場でサクッと撮るに限ります。この習慣、デジカメを始めた十数年前も同じでした。近くのJR、私鉄へ行って、この時代の「日常」を記録していました。単なる列車写真の羅列にしか過ぎませんが、今となっては、ほとんどの車両が世代交代しています。改めて「当たり前の記録」の重要性を知る5月の連休でした。今回は、東海道本線の山崎駅の午前中、大阪方面行きホームの先端から見た列車を見ていただきます。この場所が、とくに賑わうのが“ネタ”列車の通る時だろう。この時代は、最後のボンネット特急車両となった、金沢車両所の489系H01~03編成がやって来た時に尽きる。少し前までは「はくたか」代走や、時には「雷鳥」でも走ることがあったが、この連休期、一往復だけの臨時特急「ふるさと雷鳥」に充当されて、久しぶりに晴れ姿をとらえられた。あとは、月に数回、北陸方面から、京都への団体輸送・修学旅行に使われることもあり、チャンスが訪れると、白レンズ・三脚・脚立組に囲まれて、小さくなって、すき間から狙ったものだ。最末期はずいぶん汚くなってしまったが、この時期はまだ車体も美しく、ボンネット全盛を彷彿させた。クハ489-3F (2009年5月、以下特記以外同様)。

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駅名喫茶店(第57回:ラッキーセブンの駅名 JR東海編)

最近、駅名標に必ずといってよいほど駅ナンバリングがなされています。

今回はJR東海のラッキーセブン(〇〇07、〇〇77)の駅名を取り上げてみました。皆様のご近所にはラッキーセブンの駅名はあるでしょうか。

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古いハガキ

行方不明のネガを探して、魔窟に足を踏み入れました。
そこから多量の切符、家族写真(鉄道写真の探しているものは未だ発見できず)、駅弁の包装紙等などと共に、就職のため上京した年の年賀状が出てきました。大西友三郎先輩や吉谷和典先輩など、鬼籍に入られた方からの懐かしいはなむけの言葉に改めて感激しました。

その中に当会設立の第一世代である重澤崇先輩からの年賀状もありました。ところが発見したその日に重澤先輩から沖中先輩・湯口先輩の一周忌にまつわるハガキが来たのです。
これも故人のご縁と、ご了承を頂きここに掲載致します。

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駅名喫茶店(第54回:「台」を含む駅名)

漢字一文字シリーズ、今回は「台」を含む駅名です。皆様は何駅訪ねたことがありますか。住宅地が多く、意外と乗降する機会はないかもしれませんね。

GWも駅名喫茶店は開店です。皆様、どうぞご一服くださいませ。

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つれづれの記(4)憧れの山科 河 昭一郎

久しぶりの河 昭一郎氏からの投稿です。例によって米手作市がお手伝いを致します。
先日の宮崎繁幹さんからのご投稿も湘南電車・80系でしたから、時を一にして東の大家お二人が同じ話題を選ばれたことに驚いています。河さんは山科築堤で電車を撮影されたのですが、ここは一般的には蒸機列車の晴れ舞台です。ここで国電を撮るとどんな写真が撮れるのか、特に私はゲタ電がここを走るのを見たことがなく興味津々です。

《山科の築堤》

今回は、鉄道ファン、なかんずく国鉄(国電)ファンなら必ず詣でなければならなかった?「山科」のカーブです。

「憧れの山科カーブ」を訪ねたのは京都の予備校に通っていた浪人時代の事で、あの広々とした築堤上で、バックの比叡山に息を吞みながらの感激もヒトシオでした。

小生を築堤に立たせたのは?と思い起こせば、それは迫力のSL写真を世に発表された先人の方々の足元にも及ばぬ「国電」=「びわこ臨」でした。

当時、関西の国電(各停)はご存知「京都~西明石」の限定運用でしたが、東海道線全線電化後は従来のSL列車を置き換えた80系が米原まで入り、それは京都以西の快速電車との共通運用でした。

それに呼応して夏・冬に京都以東の湖東線に臨時電車が運用されるようになりましたが、車両不足は否めず、大アカ、大タツの70系のみを抜き出した予備車を掻き集めた臨時対応でした。当初は「芸が細かく」70系を掻き集めた6両編成の前後は茶坊主クハ76で固め、クハ86編成の向こうを張ったスッキリした編成でしたが、後には72系やクハ68のゴチャ混ぜ編成となって「地に堕ちた」感が一杯で、大いに落胆したものです。

さてさて、キッカケが湖東線臨電だった事も有って、小生の写真は大御所の方々の迫力有るSLとは雲泥の差が有るのを承知の上でご覧下さい。

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 叡電“二ノ瀬”に ぞっこん

新緑が美しい季節になりました。家に籠り勝ちの高齢者も、写しに行きたくてウズウズします。コロナ以降、撮影は「テーマ限定」「短時間」がスタイルになりました。最近、足繁く通っているのが、叡電二ノ瀬です。同じ叡電の八瀬、三宅八幡は以前から、お気に入りとして何度も行っていますが、最近は、二ノ瀬も加わりました。“紅葉のトンネル”として知られている二ノ瀬ですが、最近は“青もみじ”の頃にも、市原~二ノ瀬は徐行運転が行われ、ことしは、夜間ライトアップして特別列車も運転されています。つい一週間前にも二ノ瀬へ行ったが、両側は山が迫ってモミジが覆い被さっていて、陽が射し込まない。午後が適切と踏んでいたが、時間は過ぎていて電車は日陰のなかだった。詳細な方角を検討すると、陽が射し込むのは、午前中のある時間帯だけと判明、一昨日、晴れ間に再度行ってみると、みごと的中して“青もみじ”の「きらら」が撮影できた。

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笠置のこと

ゴールデンウィークに入ったが、各人どのような計画をお立てだろうか。総本家青信号特派員さんが草津線に続いて関西線本線やナローの私鉄等の思い出の作品を報告されている。どれも立派な写真や記事を自主投稿され続けていることに毎度のことながら頭が下がる。そのような中で笠置駅のD51と見事な桜(2023年4月18日投稿)が目に留まった。私自身は笠置は景勝の地であるが降りたことはなく、ただ、1963(昭和38)年5月3日に亀山に蒸機を撮りに行った時に笠置駅に名古屋区のC57102が臨時列車を牽いて停車したのには驚いてシャッターを切ったことがある。ゴールデンウィークの真っただ中で行楽客を運んでいたものと思われる。通常、名古屋や稲沢の機関車は関西本線は亀山までの運用であったが、珍しく加太を越えて来たようである。▼

戦後という言葉も使われなくなったこの頃は高度経済成長期に入っていた。笠置駅も行楽客が大勢下車したが子供の姿は見受けなかった。832D奈良発笠置行きキハ3613。次の列車迄の20分待ちの間にキハ55系準急かすが1号+はまゆう+平安1号も撮ったがどういう訳かフィルム劣化で見られる状態でなく割愛した。▼

亀山区での定番の撮影場所。C51225は倉の中で撮影には不向きの状態でありボックス動輪のC51240とパイプ煙突のC5152は原形くずれで不満であった。不満と言えば、亀山まで来ていた名古屋区のC55は北海道に移った直後であり本州では豊岡、和田山だけになってしまったことである。▼

帰りに寄った奈良機関区は扇形庫にD51、C57、C58が一杯入っていた。この辺りは今はどうなったのか知りたいものである。奈良の駅名研究家さん専門外かもしれませんがどうでしょうか。▼

笠置駅で思いがけず出会ったC57102はこの日亀山からの帰りに奈良区に寄ってみたら既に方向転換をして名古屋に戻る準備ができた状態であった。モノクロでは分からないがナンバープレートは勿論赤ナンバーであった。 ▼

越美線乗車記ー繋がるはずだった鉄路を疑似体験する

昨年11月のクローバー会総会で少しだけお話しました、長良川鉄道と越美北線の乗り継ぎツアーのレポートです。

長良川を上り、岐阜と福井の県境を越え、九頭竜川を下り太平洋から日本海へ。
長大なローカル線に温泉、星空見学と観光も乗り鉄も楽しめた盛りだくさんな内容でした。

清流、長良川を眺めつつ幻の鉄路で日本海を目指す

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2023年春 桜前線追っかけ旅 Part 10 越美北線・福井鉄道

第5日目 4月8日

6:40 朝起きて部屋から見た外の光景です。相変わらず雨が降っていました。

今日は、2003年桜前線追っかけ旅の最終日です。予測した撮影地での桜満開は何とか間に合いましたが天候には恵まれずで思った撮影はできませんでした。来年も来られるなら撮影地と晴天日を絞ってしなければと思いました。
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2023年春 桜前線追っかけ旅 Part 9 越美北線

第4日目 4月7日

今日も雨で朝から本降りです。ゆっくりの朝食タイムとして8時にホテルを出発しました。
▲ 今日の撮影目的地は花桃で有名な越美北線勝原駅です。前回来た時は7分咲き程度でしたので今回は満開を見られることを期待しています。満開時はほぼ同じ時期と今迄の経験で確認していますので楽しみです。続いて行きたいのは一乗谷駅ですのでカーナビはこちらにセットしました。一乗谷までは129㌔、所要時間は約3時間の予定です。
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2023年春 桜前線追っかけ旅 Part 8 長良川鉄道Ⅱ

第3日目 4月6日

民宿「かんだ」の朝食は 7:30からと言われましたがそれでは朝一番の列車を撮ることは出来ません。民宿のオーナーに出かけるので食事は7:45頃に食べますと申し上げて出発しました。▲ 6:50 昨日のロケハンで下り列車撮影には気に入った白山長滝~北濃に着きました。7:02 、小雨降る中、しばらくすると北濃行の501次が最後の上り坂を上がってきました。 続きを読む

2002年6月23日の上笠田

 ぼくたちにとっては北勢線は上笠田。ぼくたちとはKくん、Hくんと私の3人。1971年10月、最初に私は上笠田を訪れています。このときは私ただ1人でした。それから2年後の1973年9月に突如として急行たかやまに乗って3人で上笠田へ(詳細はデジタルでない「青信号31号」に)

 それから29年経ってから、私1人で上笠田を訪れています。2002年6月23日でした。このときは車で行っています。当時、滋賀県多賀町で単身赴任をしていましたので山を越えれば上笠田のある三重県いなべ市に行くことができます。山越えの国道306号線を東へ走り上笠田へ向かいました。この国道はいつも冬期は通行止めです。しかも険しい鞍掛峠を越えなければなりません。1972年にトンネルが開通して舗装はされましたが、それでも厳しい道でした。

 ↑ 山越えの麓の集落 大君ヶ畑(おじがはたと読む)

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ここはどこ?わたしはだれ?ー多摩湖鉄道所蔵作品より(9)

久しぶりに宮崎繁幹さんから「ここどこ?わただれ?」に問題が出されました。
今回は、前回の「ロケ風景」での敗北を踏まえて、主題を「関西急電」に絞っての出題です。珍しい写真ですが、一部は撮影場所と撮影時期の判明しているものもあります。でも関西の皆様にぜひ見て頂きたいとお送りくださいました。

どこが珍しいか、どこで撮したのかを考えてください。

⇧いつ頃、どこで撮ったか分かりますか?

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お城と電車(19)松本城

最近は城ブームなのか各地の城をテレビでもよく見かける。スマホで見ると今回の松本城は人気ナンバーワンになっているが、松本城は三名城にも入っておらず国宝(他に姫路城、犬山城、彦根城、松江城)ではあるがいささか驚いている。松本界隈にはその昔いろいろな城が点在していたようである。松本城はそのうちの深志城を武田氏が修築拡張したのが始まりのようで、その後織田氏によって滅ぼされた後に豊臣氏の命を受けた石川氏によって近世城郭への大普請が行われた。天正18(1590)年に入城した石川数正、康長父子二より造営された。天守は五棟からなり、康長時代の文禄元(1592)年から慶長元(1596)年に築造したものであるが、諸説がありはっきりはしていない。

1998.3.29  天守は五重六階で五棟が国宝となっている ▼

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