あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~22~

2006年7月13日 YS-11を求めて(1) 鹿児島空港

ちょっと、話題を変えて、この季節、鉄道以外の乗り物を。2006年の夏、国産初の旅客機、YS-11が民間航空から撤退しています。私は、その頃は会社勤めをしていて、職務のひとつとして、鉄道書の企画・編集も手掛けていました。YS-11が無くなると聞き、鉄道テーマを旨とするシリーズ本にも、ぜひ飛行機も加えようと出版社と画策し、私も編集者の立場から、現場の撮影・取材へ何度か行くこととなりました。

戦後に国産開発した初めての旅客機がYS-11、試作1号機が、昭和36年7月に、初飛行し、昨年には60周年を迎えた。182機が製造され、日本の航空会社では、日本航空、全日空、東亜国内航空、南西航空などで使用した。地方空港が次第にジェット機に置き換えられ、国内の定期便では、東亜国内航空の後継となる日本エアコミューターが、この年の9月30日に運航を終了した。その後も、航空自衛隊、海上自衛隊、海上保安庁などでは運航を続けている。写真はJA8677機と機体のスペシャルマーキング。

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食堂車のチラシ・・宮崎繁幹さんから

6月にあった「特急三百哩」を見るきっかけを作って下さった早稲田鉄研OBの宮崎繁幹さんから「駅弁包装紙の投稿を見てこれを思い出した」と原稿が送られてきました。
これまた見たことない珍品資料です。以下、宮崎さんのお話をお聞き下さい。

《さてその後、「ここどこ?わただれ?」の方は、猛暑もあってサボっていましたが、駅弁掛紙を拝見し、食べ物つながりで「食堂車チラシ」があったことを思い出しました。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~21~

2013年8月7日 国鉄風のキハ40系に出会う

キハ40系と言われる国鉄時代の末期に登場した気動車は、総数が888両に達し、全国各地で活躍しました。製造当初からは50年近くが経過し、JR各社で独自開発された新型車との世代交代が進み、今では廃車が進んでいます。機関換装、車内改装などの改造による派生形式、番号区分が多数あり、さらに地域密着の施策から、驚くほど多くのカラーバリエーションがあります。なかには、40系新製時のカラーは「タラコ」一色で、40系ではあり得ない「国鉄色」イメージに塗られた車両も各地で走りました。この日も18きっぷで、伊勢市へ向かっていた。ホントの目的は、翌月に迫ったOB会の「しまかぜ」乗車ツアーの昼食会場の下見だったが、“帰りがけの駄賃”で、紀勢本線の多気で途中下車、近くで通過する紀勢本線の列車を写した。

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横浜市電保存館

横浜市電を投稿するにあたり7月15日に市電保存館に行ってきた。保存館は田浦の梅林を見た直後2011年3月11日の東日本大震災に遭遇して夜間横浜まで歩き通した時にチラッと見ているが実際館内に入ったのは始めてである。保存館は市電時代の滝頭車庫にあるが、磯子、根岸、京急上大岡あたりからバスに乗ることになるので便利ではない。館内には523(単車)、1007、1104,1311,1510、1601と花電車らしきものが保存されている。保存車と同一ナンバーの車両の現役時代の姿も併せて発表する。

まず、横浜と言えば単車王国でその代表である500型(501~559)は昭和3(1928)年から60両(うち15両は600型に改造)もつくられたのであちこちで見かけたことは前回に記した通りである。保存車輛のこのブルーカラーは残念ながら見たことがない。▼

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駅名喫茶店(第70回:関西本線の駅名)

今回が70回目です。ここ最近、節目となる回はテーマ選定にいつもより時間がかかりますが、悩んだ結果、今回はDRFCOBではお馴染み(?)の関西本線に注目してみました。名古屋~亀山間のJR東海区間、亀山~加茂のキハ120区間、加茂~JR難波間の大和路線区間と景色も様相も様変わりするこの路線はまさに本線にふさわしいと思います。

臨時でよいので、「急行かすが」の復活を希望します。キハ75形でもHC85系でも構いませんよ。

関西本線にまつわる話題をぜひコメント欄にお寄せくださいませ。

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駅弁包装紙・最終回

駅弁包装紙の話はこれぐらいにしましょう。
今まで誰も投稿しなかった話題ですが、鉄道ファンなら誰でも思い出のある話題です。これがきっかけとなって押し入れにしまってあったスクラップブックを開いてみてはいかがでしょうか?
そして思い出と共に投稿してみてはいかがでしょうか?鉄道趣味は広くて深いものです。デジ青はどんな記事でも鉄道につながりがあれば投稿できます。
私もまだまだいろんな切り口を用意しています。皆さんの反響を見ながらチョイだししようかと思っています。

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横浜市電

横浜は2023年時点でおよそ人口が377万人あり大都会である。昔は神戸とともに2大貿易港として君臨した。一方、我が国始めての鉄道が明治5(1872)年新橋(汐留)-横浜(桜木町)間に開通したことは誰もが承知のことである。人口は2番目であるがその印象は東京の影に隠れてもう一つ薄いような感じがする。横浜の有名な観光スポットとしては中華街、山下公園、三渓園等があるが京都、東京、大阪と比べても少ないように思う。歌の世界では美空ひばりの出身地であり、「赤い靴」など物悲しい童謡があった街である。青江美奈の「伊勢佐木町ブルース」や石田あゆみの「ブルーライト横浜」などよく知られた曲が多数ある。石田あゆみは女優、歌手でフィギュアの選手であり、姉は同競技で全国3位になったことがある同志社大学卒業生である。最近のデジ青では駅弁が賑わっているがここは崎陽軒のシウマイである。

さて、本題の市電の話であるが、大学時代の4年間実家が横浜にあった関係で学校が休みの間に時々暇を見ては撮っていたものを今回発表させていただく。従ってかなり記憶が薄れて街並みも大きく変化したので一度かつての場所を見てみたいがこの猛暑では無理である。総本家青信号さんお得意の新旧定点撮影もできず全体に曖昧な所もあるがお許しを願いたい。加えてカラーは1枚もないことをお断りしておく。

横浜市電は明治37(1904)年7月に横浜電気鉄道により開業。途中、大正10(1921)年に横浜市が買収し、昭和47(1972)年3月に廃止されるまでの約70年間市民の足として活躍してきた。従って、70年の歴史のほんの最後の5~6年間の記録であるが、それでも廃止後50年を経過しており街の風景や人々の姿は今とは変わってしまっているので記録として報告する。

横浜市電は昭和40(1965)年から撮影を始めたがいつも見慣れていた京都市電に比べて今ひとつ洗練されていないように感じた。また、都電のように車種が多くないことも面白みに欠けていた。ただ、嬉しいことに単車がゴロゴロいたことである。

<単車群>

それではその単車から見て行きたいと思う。最初はダブルルーフであった400型である。この車両は32両あり、昭和41(1966)年に廃車されて形式消滅しているのでギリギリ間に合って撮ったことになる。1965.12.21元町付近⑤系統419号▼

500型は昭和3年(1928)年に東京瓦斯電気、蒲田車両、雨宮製作所で20両ずつ計60両製造された。戦後、15両が600型に改造されたが、昭和44(1969)に廃車となった。これだけの両数があったので市内の至る所でこの500型を見ることができた。この有名な麦田のトンネルを撮っていないと横浜市電を撮ったことにならないと言われた名所である。1967.2.11雪の日の麦田町-元町間の専用軌道を行く⑤系統539。

600型は戦後空襲で焼失した500型を復旧した車両で窓が二段式となっているのが特徴である。1966.8.17反町停留所を出た①系統603号弘明寺行き。▼

700型は戦前に200型と貨車を改造して作られたとのことであるが木工に秀でた職人がいたとかで木造のようだが定かではない。昭和42(1967)年に廃車となっている。1966.7生麦車庫で廃車直前の717号▼

この他に戦後の混乱期に最後の単車800型がつくられたがお目にかかることはなかった。

<ボギー車群>

1000型は横浜市初のボギー車で昭和3(1928)年震災復興事業で20両製造された。馬力が小さいため、平坦な路線を中心に運用され昭和45(1970)年に廃車された。

1969. 市庁前を行く②系統三渓園行き1019号。この付近に平和球場があり、現在は横浜スタジアムとしてDeNA横浜ベイスターズの本拠地になっている。市庁は現在は関内地区とみなとみらい地区の結節点に移転新築されている。▼

1967.7.31 杉田線廃止の最終日の⑬系統桜木町行き1005号。杉田▼

正月を迎えると停泊中の舟から一斉に汽笛が鳴り、新年を新たに感じたものである。漁船等は大漁旗を挙げて港横浜の正月を演出してくれた。ゴチャゴチャして見にくいが桜木町駅前の橋の上を行く1000型である。バックは海であるが、現在はみなとみらい地区になっており想像できない風景である。1969.1.2桜木町駅前▼

1968.8.17  東海道線の見える反町-青木橋あたりを行く⑫系統1019号葦名橋行き。▼

1100型は昭和11(1936)年に新式中型ボギー車として梅鉢車両にて5両製造された。クロスシートが装備され「ロマンスカー」と呼ばれたこともある。昭和42(1967)年ワンマン化改造されたが、1972(昭和47)年の市電全廃まで活躍した。

1969 市庁前付近の公園をバックに走る④補系統麦田町行きの1102号▼

1150型は和製PCCを目指した1500型の使い難さ経費増などの反省から従来の考えに戻して新たに製造したものであり外観は1500型に類似している。1952(昭和27)年から1955(昭和33)年にかけてナニワ工機、宇都宮車輛、交通局で22両製造され1972(昭和47)年の市電全廃まで使用された。1967.7.18 かつては海水浴場があった間門付近を行く⑤系統洪福寺行き1166。▼

1967.7.31 杉田線最終日の装飾された最終滝頭行き1166号。▼

1200型は1942(昭和17)年に製造された3扉ボギー車。1967.7.31桜木町駅前を行く⑬系統杉田行き。船と市電が写るのも横浜らしい。 ▼

1300型は終戦直後の混乱した昭和22(1947)年に輸送力増強のため30両を製造。車体も軽く、性能も安定しており、高馬力であって③、⑦系統のでの使用が多く最後のツーマン車として昭和46(1971)年まで使用された。1969.1.2 元町停留所の②系統葦名橋行き1317号。後方右に入った所がファッションの元町商店街があるが私には全く縁がなかった。▼

1400型は昭和24(1949)年木南車輛で10両製造され昭和45(1970)年まで在籍した。ノーシル・ノーヘッダーの丸みを帯びた外観が特徴。▼1967.7.31杉田停留所で発車を待つ⑬系統1405と後続の1403▼

1500型は300型の代替として1951(昭和26)年に製造。和製PCCカーだが吊り掛け駆動の間接制御車である。台車に防振ゴムを使い振動、騒音を少なくし、電機と空気ブレーキを使用するなどした。しかし、現場の評判がよくないのか20両の製造に終わったが、市電廃止の日まで使われた。1967.7.31杉田停留所で折り返す⑬系統桜木町駅前行き1509号。▼

1969 吉浜橋付近の④系統三渓園前行きの1513号▼

1600型は昭和32(1957)年交通局で6両製造された最後の新造中型ボギー車。後部乗降口を中央に移したバス型配置で出入り口を大きくとり、4枚折り戸を採用。昭和45(1970)年に廃車。1967.7.31オート三輪が走る国道16号杉田停留所の1603号。▼

次回はその2として滝頭にある横浜市電保存館を紹介して終わりにする。

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~20~

2009年7月20日 廃止予定の北陸鉄道加賀一の宮へ

最近、廃止問題が浮上した北陸鉄道の石川線、いまの終点は鶴来だが、2009年まで、二駅先の加賀一の宮まで伸びていた。寺院を思わせる和風建築の駅舎として知られていたが、乗客減で同年10月に廃止された。

ネットニュースを見ていると、北陸鉄道の石川線が、存廃の検討に入ったとの報道がありました。石川線は、野町(金沢市)~鶴来(白山市)の13.8kmの路線です。同線の利用者は年間89万人、輸送密度は1391人と、国鉄民営化の際のバス転換の目安4000人未満を大きく下回るなど、苦しい経営が続いていて、鉄道存続なら上下分離方式案も出たことや、廃止の選択肢には、BRT転換などが議論されたとのこと。最近でも、2009年10月31日に、鶴来~加賀一の宮間2.1kmが廃止されていますが、この年の夏に終点の加賀一の宮まで訪問しました。

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駅弁包装紙・その3

どなたかが書かれていましたが、最近の駅弁は百貨店や駅の売店でいつでもどこのでも買えるのでおもしろくありません。駅弁は買った駅の風景、季節、そして食べながら眺めた風景が揃ってこそ駅弁なのです。客車の窓を開けて「おーい駅弁!」と叫びながら500円札を振り回す、これぞ駅弁買いの極意です。ついでに陶器の急須のお茶が買えたらなお良し、でしょう。この頃の駅弁の値段は普通駅弁が150円、特殊駅弁が250円ではなかったでしょうか。普通駅弁でもご飯とおかずを別々の折りに入れて二段重ねでも150円がありました。(その1に掲載しています)

さて、今回はご存じの駅弁に出会えるのでしょうか?

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駅名喫茶店(第69回:「池」を含む駅名)

前回が「橋」ということで、水繋がりで今回は「池」です。暑い日が続いておりますので、「池」の周りで少しばかり涼んでいってください。

*駅名ニュース:2024年3月 西鉄の「試験場前」駅が「聖マリア病院前」駅に名称変更へ

https://www.nishitetsu.co.jp/ja/news/news20230726/main/0/link/23_034.pdf

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~19~

2008年7月20日 福知山へ けったいな電車を見に行く

18きっぷを使って福知山線経由で福知山へ向かった。着くと向かい側ホームには、さっそく、“けったいな電車”が。クモハ113-3819

JR発足時、列車の増発と引きかえに、短編成化が推進され、特急から通勤電車まで、中間車を先頭車化する改造が各社で行われました。ブロック接合などの新しい工法の導入で、一見、違和感もなく、先頭車化された車両もありますが、なかには、ずいぶん“けったいな”先頭車も多数出現しました。その典型は、寝台座席特急583系を、切妻の先頭車にした、“食パン電車”こと715系でしょうか。福知山線、山陰本線の電車を受け持つ福知山電車区にも、個性的な先頭車が多く出現しました。

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駅弁包装紙・その2

前回(と言っても昨日ですが)の投稿にご常連の方から熱いエールを頂いたのに気をよくして、書き込みにあったお店の駅弁を集めてみました。

西村さんには先日の(二人だけの秘密!)お礼にオベンチャラを付け足して地元ネタの「たこ飯」を載せましたら、すばらしいご感想を頂いたのに感激して地元からもう一軒。

⇩呉駅のやまさき家の「御弁当」
たぶん音戸大橋が開通した時期かと思います。

呉線呉 御辨当 やまさき屋 150円

⇩姫路駅まねき食品のあなご寿司弁当

山陽線姫路 あなご寿司弁当 まねき食品 200円

 

⇩岡山駅 三好野本店の備前うなぎ 岡山駅で素人は「祭すし」を買う!

山陽本線岡山 備前うなぎ 三好野本店 200円

 

⇩紫の1863さんご指名の京都駅 萩の家 竹の子めし

東海道本線京都 竹の子めし 萩の家 150円

 

⇩珍品 岐阜羽島駅 嘉寿美館の御辨當

東海道新幹線岐阜羽島 御辨當 嘉寿美館 150円

 

新見や備後落合の駅弁もあるのですが、行方不明です。どですかでんさん、ゴメンナサイ!

駅弁包装紙

終活というのではないけれど、資料を整理していると“こんなものが!”と言うものが見つかります。その一つが「駅弁包装紙」です。熱心に集めていたのではありませんが、それでもある程度はたまっていました。捨てるのは忍びないのでスキャンしてファイルしました。
特派員氏が夏枯れで投稿が少ない、とお嘆きのようなので、得意のつなぎ記事で楽しんで頂きます。
例によってコメントは書いていないので、いつ買ったのかは分かるものもあり、無い物もありです。
皆様の思い出を聞かせてください。

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広島短信

中国地方は早々に梅雨明けして、暑い毎日が続いています。今朝の中国新聞にこんな記事がありました。

令和5年7月23日 中国新聞朝刊

電停の名前は「十日市」ですが、交差点の名前(道路標識)は「十日市」です。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~18~

2008年7月13日 姫新線 播磨徳久へ

黄色い畑と、黄色いDC、この時期の姫新線で見られた組み合わせだった。

夏の旅行の必須アイテム、“青春18きっぷ”も通用が開始されました。十数年前は毎夏、必ず購入して、近隣の地域へよく出掛けたものでした。しばらく真夏の18きっぷ旅を続けます。兵庫県の姫新線沿いにある。佐用町は、町おこしの一環として、1990年ごろから休耕田を利用して、観光用のひまわり畑を売り出しています。姫新線はそのなかを走ることになり、この時期限定の写材となりますが、耕作地は毎年変わるため、DCと絡めての撮影も年によって様子が変わって来るようです。

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駅名喫茶店(第68回:「橋」を含む駅名)

今日は岡山地方で227系Uraraがデビューです。ところが駅名喫茶店はいつもと変わらず通常営業でございまして、今回は「橋」を含む駅名です。

会社別 「橋」を含む駅名が多い順ランキング

第1位 JR東日本(計28駅名):ちなみに、JR北海道(計0駅名)、JR東海(計2駅名)、JR西日本(計9駅名)、JR四国(計1駅名)、JR九州(計4駅名)

第2位 大阪メトロ、東京都交通局(計15駅名)

第4位 とさでん交通(計14駅名)

第5位 京阪(計11駅名)

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~17~

近畿地方では梅雨も明けて、暑い毎日が続いていますね。もう夏バテなのか、“デジ青”では眼に見えて投稿が少なくなりました。私も、北九州ツアー、上映会テーマと、会行事関連の投稿もやっと終わりました。本来の自分勝手なテーマに戻って、デジ青を盛り上げたいと思いますが、高齢者は新規テーマにはなかなか出会いません。こうなったら、例によって、ストック写真の蔵出しでもと、2006年から一眼デジを使い始め、2010年ごろまでの4年間、ちょっと昔の懐かしシーンを載せていきます。今から十数年前、待望の万年日曜日を謳歌していた時代、今よりウンと行動的だったことが改めて分かりました。

 2009年6月23日 長野電鉄へ

昨日、ネットニュースを見ていますと、長野電鉄1000系「ゆけむり」を使ったビアトレイン運転がありました。これはエエですね。ロマンスシートを四人掛けにして、前には長テーブルもあって、ビール、弁当を置いて、長野~小布施を往復したとありました。来週の当会ビア電も楽しみになって来ました。その1000系が、小田急電鉄から長野電鉄に入った頃、引き換えにまもなく消える特急2000系を求めて、梅雨の晴れ間を縫って長野電鉄へ行きました。

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 「特急三百哩」を観る !     (下)

「特急三百哩」、映画の中盤で繰り広げられる男女の憎悪劇の部分は省いて、後半のクライマックスシーンへ移りましょう。粗いストーリーとして、主人公の機関士が、暴風雨のなか、東京行きの列車を牽いて駅を出発。ところが、前方で手を振る白い影を見つけて急停車、下車して調べると土砂崩れが発生していて、危機一髪でセーフと言うストーリー、白い影は、機関士の将来の許嫁だったのです。「鉄道省ご後援」の肝入りどおり、当時の最新の車両、C53が何度も登場する。最大の特徴の「スリーシリンダー」も、あとで字幕に出て来る。C53はこの昭和3年から、短期間に大量に造られて、C51に代わる東海道・山陽の優等列車牽引用として、全部で97両が製造された。写真のC5344は梅小路区の所属、唯一の流線型改造C5343と、梅小路蒸気機関車館の保存機C5345の間に当たる機となる。

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