広島電鉄が来る7月24日にダイヤ改正を行うそうです。低床車の増備によって、高齢者に不評な旧型車の行く末が心配です。

令和5年7月12日 中国新聞朝刊より

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広島電鉄が来る7月24日にダイヤ改正を行うそうです。低床車の増備によって、高齢者に不評な旧型車の行く末が心配です。
令和5年7月12日 中国新聞朝刊より
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数が多いと前もって想定できる調査はなかなか大変ですが、ご来店くださる方も少なからずいらっしゃることを思うと止められませんね。
「島」を含む駅名が一つも無かったのは、青森県、鳥取県、大分県、そして我が地元の奈良県でした(奈良の駅名研究家調べ)。裏を返せば、他の43都道府県には必ず一駅名はあるということです。皆様のご近所には。「島」駅名ありますか?
福岡市内線貫線の“思い出探し”も最後となりました。今回は「西新」から、西の終点となる「姪の浜」までです。訪問時は、全区間歩く予定でしたが、暑さで降参、この区間の大部分を、電車に乗っての移動となりました。
終点まで行って感じたことは、西鉄市内線の車両は古くて汚く、施設も貧弱で、当時の京都市電とは大きな開きがあり、“田舎電車”の印象でした。改めて調べると、訪れた昭和50年の福岡市の人口は99万人で、まだ百万都市に達していませんでした。比べて京都市は146万人、福岡の1.5倍もある大都市で、民営、公営の違いもあって、路面電車でも格差があるのも納得がいくものでした。しかし、以降の福岡市の発展は、すさまじく、西日本経済の中枢都市から、アジアの玄関口へと発展し、人口も163万人、人口減少数日本一の京都と較べて、住みやすさナンバーワンなど、質量とも先端を行く都市となりました。▲貫線の終端区間は単線になっていて、離合のできる停留場では、続行標識を付けた2台の電車が続けて交換して行った。竹の山四丁目
「なんかいいねがあふれている」南海の特急・観光列車にスポットライトを当ててみました。南海にも多種多様な特急・観光列車が走っています。皆さんはすべて乗車されましたでしょうか。
僭越ながら、昨日、ようやく南海電鉄全線完乗を達成しました。支線があるので乗りつぶしは少し大変ですね、乗る機会がなかなかないという意味で。
https://www.nankai.co.jp/traffic/express.html
福岡の中心「天神」を発車した福岡市内線貫線は、城下町の福岡のなかを走り抜けます。西にある福岡城址は、広大な大濠公園や、平和台のスポーツ施設になっていて、いまや伝説と化した西鉄ライオンズの平和台球場があったことが思い出されます。“あった”と書いたように、訪問した昭和50/1975年には、ライオンズは西武に売却されて、本拠地は埼玉へ移っていた感覚がありました。ところが、改めて調べてみると、西鉄ライオンズの後継となる太平洋クラブライオンズが、まだ平和台球場を本拠地として使っていた時期だったことが分かりました。ライオンズは不祥事も続き、最下位続きでしたが、初のパリーグのDH制となったこの年は、東尾修が最多勝、土井正博が本塁打王になり、前期2位と健闘しています。。セリーグでは広島が球団創設初優勝、読売巨人は初の最下位に沈んだ年でした。その後、さらに「クラウンライター」と名を変えて、昭和53年に西武ライオンズとなり、ホームグラウンドは埼玉へ移ることになりました。▲昭和50年と言えば、まだ大学闘争の残り火が、くすぶっていた時代だった。ここ福岡の中心「天神」でも、機動隊に囲まれて、おとなしく交差点を進むデモ行進が見られて、市内線と一緒に収めた。背後の西鉄福岡駅のターミナルデパート、岩田屋本館の旧景とともに、まさに昭和50年の風景だった。建物は外観が改装されて、PARCOとして今も営業している。
西鉄福岡市内線の貫線をめぐる旅、つぎは千代町から、市の中心部、天神へと至る区間です。北九州ツアーの二日目午後、福岡市内線の面影探しで、案内していただいた西鉄友の会のYさんから、福岡市の歴史や成り立ちについて興味深いレクチャーを受けました。よく言われるのは、商人の町・博多、武士の町・福岡と言う、性格の違う大きな町が隣り合っていた史実です。案内のYさんは、“ブラタモリ”に出演実績があるだけに、興味深い話にはつい引き込まれました。今回のルートは、その博多から福岡へと入って行くこととなりました(以下、昭和50/1975年6月撮影)。▲中洲のランドマーク、赤煉瓦の大同生命ビルの前を西鉄バスと競うようにして、明治通りを行く福岡市内線。中洲を過ぎると、福岡の町に入る。
ことのほかデジ青に協力下さり、貴重な国電の写真やお話しをご投稿下さっている河 昭一郎さんからメールを頂きました。
今回の投稿をもって「つれづれの記」の最終回と致します。という内容でした。
数ヶ月前から体調を崩されておられるご様子でしたが、なかなか回復せず、このまま中途半端な投稿を続けることは出来ないので、これで一旦終わりとして、回復後、新たに原稿を書いて投稿をしたい。つきましては今回原稿を書くつもりで集めた写真だけでも投稿して、会員諸兄の思い出でも、車両に関してウンチクでも、ここどこ?わただれ?でも、こんな写真もってるででも、他、なんでも話題にして賑やかしくしてほしいと仰っておられます。皆さんからの書き込みを回復への特効薬として期待されていますので、どうか一日も早いご快復を祈念しながら書き込んで下さい。
第6日目 5月31日 その2
今日は今回の九州での旅の最終日になります。もう帰りのフェリー乗り場に向かうだけですが十分な時間がありますのでまだ訪問していない熊本電鉄へ行ってみたいと思いましたので始発駅の上熊本に向かうことにしました。
予算本線の下り列車が宇多津を出て間もなくすると左前方の小高い山の頂にそびえる丸亀城のが見えてくる。ここで城シリーズの間が空いたので年をとっても頭脳聡明な諸兄には失礼であるがおさらいをさせていただく。快速つくばねさんからも詳細なご説明があったとおりが日本の残存天守は20あり、そのうち四国には4カ所ある。高知、松山、宇和島そして今回の丸亀である。
丸亀城は生駒、山崎、京極氏と三氏にわたって築かれ自然の山をうまく利用した城である。豊臣系の生駒氏はお家騒動で出羽矢島に転封され、山崎家治が寛永18(1641)年に入封し、この頃に現在の丸亀城は完成したと言われる。山崎氏も不運な城主で三代で絶家となり以降近江佐々木源氏の末裔京極氏の時代となり明治まで続いた。
版籍奉還後は多くの櫓などが取り壊されたが、旧藩士の必死の嘆願により天守や御門などは破却をまぬがれて、現在は重要文化財に指定されている。
三層の天守は、小藩であったため遠慮したのか、旧藩時代には櫓と称していて目の前に見る天守は小さい。しかしここから見る眼下の街や瀬戸内海は見事である。以下撮影は1998.5.3 ▼
北九州ツアーの“思い出探しの旅”、最終のお付き合い、お願いいたします。と言っても、ツアーに直結するテーマではなく、前項でも書きましたが、ツアーの二日目午後は西鉄研究会の皆さんのご案内で、西鉄福岡市内線の廃線跡を巡りました。当日訪問した「馬出」「箱崎」は、西鉄福岡市内線の貫通線(略して貫線)のなかの電停で、この貫線は、東は「九大前」から、福岡中心の「中州」「天神」を経由し、「姪の浜」までの11.9kmで、福岡の市街地をほぼ東西に走る中心路線でした。
全区間を走っていた系統が「1」系統で、京都なら四条通、東京なら銀座通、大阪なら堺筋と代表的街路を走るのは、いずれも「1」系統で、福岡でも、文字通り中心部を貫通する代表系統でした。この区間が廃止になったのは、昭和50(1975)年11月のことで、私は廃止前の丸一日を、ほぼ全区間、歩いて記録しました。福岡市内線は、博多駅前を行く系統などが廃止された昭和54年2月が最後でしたが、これに先立って貫線は廃止されました。いつかは、京都以外の他都市の路面電車を紹介したいものと、考えていたところで、ツアーの行事に引っかけて、まずは福岡市内線の貫通線をご紹介する次第です(以下、路面電車時代は昭和50/1975年6月撮影)。
▲九州大学医学部付属病院のある「大学病院前」には、緑豊かな東公園が広る。
「路面電車の魅力とは。」と聞かれると、私は真っ先に「道路上の信号表示に従うこと」と答えます。自動車と上手く棲み分けしていることにも惹きつけられるのでしょう。もちろん、あの独特の加速音、車体、地域密着等、他にも数多くの魅力が詰まっていると思います。
今回は阪堺電車にスポットライトを当ててみました。みなさん、ぜひチン電に乗りに行きましょう!
阪堺電車公式ホームページはこちら↓
第6日目 5月31日 その1
▲ 5:45 目覚めて部屋の窓から見るのは朝空です。昨夜降っていた雨はあがったようで別府駅がよく見えます。丁度、柳ヶ浦行きの1番列車が入線してきたようです。
今日は大分に戻って九州横断特急に乗って阿蘇山を見ながら熊本へと向かい博多・小倉を経由して門司港へと参ります。九州からの帰路は復路と同様名門大洋フェリー乗船で大阪南港着です。
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「駅」を含む駅名とタイトル付けしましたが、「駅」を含む停留場名としてもよいくらい、路面電車の駅名が多かったです。まあ予想通りではありましたが。
今回の投稿にあたり、岡山電気軌道で最近、駅名変更があったと知り、私の昔の投稿「日本一長い駅名」
を一部修正したことをご報告申し上げます。
5.江差線跡
秘湯「銀婚湯」は今までに各地で泊まった秘湯旅館の中でも、屈指の名湯でした。たまたま泊り客も少なく、いくつもあるかけ流しの温泉は独り占め状態だったのは良いのですが、温度が高すぎて大きな浴槽に入るためには相当水を足さねばならず、結局湯船に入るのを諦めました。あとで旅館の人に聞くと、日によって泉温が異なるらしく、ジャンジャン水を入れてもらって良かったのにと言われました。家内も同じ経験をしたそうで、浸かれない温泉は初めてだねと、思い出に残る温泉でした。(混浴の露天風呂は適温でした)
そんな銀婚湯をあとに、日本海側の江差に向かいます。北前船とニシン漁で賑わった江差は歴史的建造物や榎本武揚艦長の開陽丸など見どころの多い町です。この地方は明治以降は檜山爾志郡に属し、その郡役所の建物が江差町郷土資料館として立派に保存され、道の有形文化財にもなっています。その1室が旧国鉄江差線関連の展示室になっていました。
6月17日に京都おもちゃ映画ミュージアムのご協力で「特急三百哩」を鑑賞できる機会を得ることができました。この上映会にご尽力をしていただいたクローバー会先輩諸氏に感謝したいと思います。ところで「無法松の一生」がタイトルに書かれているのはなんでやねん!
書棚に並ぶ本がどうしても増え続けるため、定期的に必要度の低くそうな本から処分しているのですが、その中で捨てられずに書棚の一角を占めているシリーズに朝日文芸文庫の司馬遼太郎「街道をゆく」40巻があります。敬愛する司馬遼太郎氏による旅行記ですが、これを読んで現地に行ってみたいと旅先に選んだことが少なくありません。今回はその第15巻「北海道の諸道」に触発され、函館、江差、松前の旅を計画し、6月8日から13日まで道南を巡ってきました。司馬遼太郎氏の旅は40数年も前のことですが、年月を経ても、その土地ならではの風土や文化を追体験できればというのが旅の目的です。その中に「鉄」の要素も加えると、いつも結構忙しいプランになります。ここでは、その5日間の中での「鉄」部分だけをご紹介致します。
今回の旅のコースは次のようなルートです。1日目 広島空港→仙台空港、仙台から「はやぶさ」で木古内へ、木古内から道南いさりび鉄道で函館入りし、函館泊。2日目、レンタカーで亀田半島を1周して森から落部へ、落部から山越えして銀婚湯で1泊。3日目、銀婚湯から江差、松前へ。松前で1泊。4日目、松前城下散策後知内温泉で1泊。5日目、函館に移動してレンタカーを返して、函館市内観光後、函館で1泊。6日目、函館市内観光後函館空港→羽田→広島 というルートで、渡島半島の南半分を1周してきました。学生時代を含め、何度か道内を旅していますが、函館は通過点であったことが多く、また江差、松前線などの行き止まり支線は訪ねることなく廃線になっていましたので廃線跡だけでも訪ねようと思っていました。
1.道南いさりび鉄道
仙台から乗車した「はやぶさ23号」は盛岡で秋田行き「こまち」を分割後、快調に青函トンネルを抜けて、北の大地に着きました。そのまま終点新函館北斗まで行くのが早くて便利なのですが、それでは旅の趣旨に反しますので、木古内で下車し、旧江差線の残存区間である道南いさりび鉄道に乗り換えました。はやぶさを降りて乗り換えた物好きな乗客は我々夫婦2人だけでした。キハ401796が発車を待っていました。
準特急さんの投稿が大人気で、コメントが50件を超えようとする勢いです。そんな中、駅名喫茶店は通常運転で、いつもと変わらず私自身の備忘録として投稿します。
今回は漢数字シリーズ第4弾、「八」を含む駅名です。
「三」を含む駅名:計178駅名 駅名喫茶店(第46回:「三」を含む駅名)
「五」を含む駅名が計48駅名 駅名喫茶店(第36回:「五」を含む駅名)
「六」を含む駅名が計36駅名 駅名喫茶店(第29回:「六」を含む駅名)