昭和の時代、われわれが留萌線を訪れる理由は、前記テーマのD61だけではありませんでした。最初にも記しましたが、沿線は産炭地であり、輸送のための私鉄、専用線が分岐していました。留萌から出ていた天塩炭鉱鉄道、恵比島から出ていた留萌鉄道、その終点には明治鉱業の専用線がありました。天塩炭鉱鉄道にはC58似のカマなどがいましたが、私が訪れた前年の昭和42年7月に廃止されてしまい、実見することはできませんでした。留萌鉄道は、DC、DL化されていましたが、その終点の昭和から奥に伸びる明治鉱業の専用線で働いていたのが、いまでも語り継がれるB型タンク機10形、15号、17号でした。ドイツのクラウス製の優美な小型機は、まだ北海道に多くいた私鉄蒸機のなかで白眉の存在で、多くファンが留萌線、留萌鉄道を乗り継いで、山あいの小さな専用線を訪れたものです。▲2両のクラウスは明治22年製、当時で80年近く使われた現役蒸機では最古と言われた。たいへん美しく手入れされて、大事にされていることがよく分かる。
駅名喫茶店(第47回:「鶴」と「亀」を含む駅名)
もうすぐ駅名喫茶店も節目の第50回を迎えます。という訳で、今回は縁起のよい駅名シリーズとして、「鶴」と「亀」を含む駅名をまとめてみました。
部分廃止の留萌線 55年前の記録から偲ぶ (中)
今回は、留萌線、羽幌線だけで使用された、わずか6両の希少な蒸機、D61について記します。もともと留萌線のような「丙線」の貨物輸送は戦後、9600が一手に引き受けていましたが、車齢が高く、代替機が求められていました。そこで、電化の進展によって、余剰が見込まれるD50、D51の従輪を二軸化し、下級線区にも入線できるD60、D61が誕生しました。D60は78両が改造されて、広範囲に使用されますが、D61は種車となるD51の需要が依然として高く、改造はわずか6両に留まりました。最初、稲沢一区に配置され、中央西線、関西本線で試験が行われたあと、配置先に選ばれたのが深川機関区留萌支区で、昭和35年から使われます。築別炭鉱で採掘された石炭を、積出港の留萌まで運ぶことがメインで、D61の運用も、留萌~築別の羽幌線が中心となりました。石炭輸送も増大したため、昭和40年にD51の入線テストが行われ、深川区のD51とともに仕業に就きました。留萌線の深川~留萌では、昭和43年10月の貨物本数は、下り9本、上り10本となり、D61、D51、それに9600も混じって働いていました。▲写真 D61のメインの働き場所、羽幌線でD51と重連で貨物を牽く。 続きを読む
部分廃止の留萌線 55年前の記録から偲ぶ (上)
一昨日になりますが、テレビのニュースを見ていると「留萌線廃止」のタイトルが飛び込んできました。そうか、3月31日限りで、JR北海道の留萌線、石狩沼田~留萌が廃止されたのですね。残る深川~石狩沼田も3年後には廃止と伝えられています。北海道のJR線が次つぎ廃止になり、マスコミもマンネリを感じたのか、今までの廃止に比して、報道も少なかったようにも思います。私も頭の片隅にはあったものの、寝耳に水のニュースとなりました。深川~留萌の鉄道は、明治33年、北海道炭鉱鉄道によって石狩炭田など沿線の石炭輸送を目的に申請され、明治43年に開業しましたので、110年目の部分廃止となります。
留萌線、懐かしい響きです。初めて訪れたのは、昭和43(1968)年8月、DRFC一年生のときで、たしか鉄鈍爺さんと一緒だったと思います。当時は「留萠」であり、堂々と本線を名乗っていました。もう55年が経ちました。最近も数年前にも行ったことがあり、最近の様子も知らないことはないのですが、 高齢者にとっては、やはり、9600やD51、ここだけのD61が長い石炭列車を牽く姿や、沿線にあった私鉄や専用線を訪れたことを思い出さずにはいられません。これからの写真は、過去のデジ青にも載せていますが、いま一度、思い出の留萌線を振り返って、長年の歴史と地域への貢献を称えたいと思います。
▲廃止前、唯一の交換駅として有名になった峠下、55年前は他にも交換駅はあったが、ほぼ中間となる峠下は、絶えず交換があって、運輸上も重要な駅だった。昭和43年当時、旅客が下り14本、上りが16本(区間列車を含む)、さらに貨物は下り9本、上り10本も設定されていたから、客貨あわせて、ほぼ30分ヘッドぐらいで運転されていたから驚くばかりの本数だ。峠下では、絶えず列車交換が行われていたのだった。下り石炭列車を牽く、国鉄最後の蒸機、D61が牽く石炭列車(昭和44年9月)。
ここはどこ?わたしはだれ?ー多摩湖鉄道所蔵作品より(8)
宮崎繁幹さんから続きの原稿が遅れていたので心配していたら、少し体調を崩されていたとのことでもっと心配することになりましたが、この度快癒されて待ちかねていた「ここどこ?わたダレ?(8)」原稿が到着致しました。
私が「京阪ネタではすぐにバレるのでアクセス数が伸びない。もっとややこしいのを」と要求していたので、ほとんど場所も時期も分からないメチャクチャな難題が送られてきました。ご本人も答えをご存じないそうなので、ここで分からなければ永遠の謎となりかねません。
あのC622をこさえた日立製作所が作った携帯電話で撮ったデジタル写真
総本家青信号特派員さんが投稿された「あの日あの頃・・・~3~」のコメントにはじめてデジカメで撮ったことについて書いたのですが、それより以前にデジタル写真を撮っていました。2005年4月の頃からです。デジタルカメラではなく、携帯電話のカメラ機能を使っていました。それがこの写真の携帯電話です。
この携帯カメラは結構よく写るのです。では、その写真はこんなものです。今はもう見られなくなった風景です。
駅名喫茶店(第46回:「三」を含む駅名)
漢数字シリーズの第3回目は、「三」を含む駅名です。
「五」を含む駅名が計48駅名 駅名喫茶店(第36回:「五」を含む駅名)
「六」を含む駅名が計36駅名 駅名喫茶店(第29回:「六」を含む駅名)
であるのに対して、「三」を含む駅名は計178駅名と比較的多かったですね。「一」から「十」までの中で最も多いのは果たして何であるのか、皆さん予想してみてください。【2023/5/26修正】
芸備線5月下旬まで運休
2017(平成29)年4月にクローバー会の木次線ツアーがあり、新見から備後落合まで満員のキハ120に座れずに揺られ、ようやく着いた備後落合では、肝心の木次線スイッチバック区間が土砂崩れのためにバス代行になっていると知って、一同ガッカリしたのが昨日のようです。早いもので あれからもう6年が経とうとしています。その際に通過した芸備線備後八幡・内名間で去る3月23日に新見発備後落合行き445Dが備後八幡を19:15に発車後、19:20頃に線路上の落石に乗り上げ、キハ120の前の台車が脱線するという事故がありました。乗客はゼロで、運転士にケガはなく、軽微な脱線事故で済んだのは不幸中の幸いでした。
つれづれの記 (3)河 昭一郎
昔は・・・の話
『昔は・・・』と、小生のようなロートルはつい口にします。
私も『昔の』学生時代に2度ばかり身延線を写しに行った事があり、その際静フシ区に運用等を照会したところ、本当に親切に車両運用図表や車番入りの電車運用予定表をはじめ運転士仕業図表までお送りいただきました。
そしてそれは、静フシ区のみならず新ナカ二区でも経験しました。 思うに、この頃の国鉄マンは鉄道趣味人(ファン)に対して「仲間又は理解者」意識をお持ちだったのではないかと思います。
そこには自ずと信頼関係と言うものがあって、昨今の良識なき不心得者や不注意者のせいで色々な点で厳しい規制がかかるような事はありませんでしたねえ。
電車区などでも特に厳しく規制される事は無く『不法侵入』してしまってもカメラを構えていれば職員の方々が「気を付けて」等と声を掛けてくれたもので、時には付き添って留置車両の車内に案内さえしてくれましたよ。
忘れられないのは「こだま形」の中で珍車だったクロ150-3をチタ電に訪ねた時、偶然お会いした職員の方が、ご自身の昼休みを潰して車内に迄案内して下さった時の感動です。
身延線と新潟地方での思い出の写真を貼ります。
まずは身延線。
⇩次は新潟地区での撮影です。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~6~
2008年3月29日 三木鉄道の最終日曜日
第三セクターの三木鉄道(厄神~三木6.6km)が2008年3月いっぱいで廃止されました。国鉄三木線が第一次特定地方交通線に指定されて、1985年4月、第三セクターとしては最短の路線として発足しましたが、旅客量は減る一方で、20年余りしか維持できませんでした。当時、三セクの廃止は、北海道ちほく、神岡、高千穂鉄道に次ぐ4例目でした。両端で鉄道と接続しているものの、旅客の行き来はもともと少なく、加古川方面へは厄神で乗り換えを強いられ、神戸方面へは神戸電鉄三木駅への徒歩連絡を強いられるなどの壁もあり、同時期に転換した近くの北条鉄道が、いろいろな施策で話題を作りながら、持ちこたえているのとは対照的でした。▲三木鉄道へは廃止直前に何度か通った。JRで加古川回りで行くより、神戸電鉄で三木まで行っていた、当時、関西一円で使える、乗り放題のスルッとKANSAI 3dayチケットがあり、格安で三木まで行くことができた。石野付近を行くミキ300形
JR福間駅 旧跨線橋門柱
九州鉄道が明治23年に博多赤間間を開業、明治44年には福間駅跨線橋が新設、その門柱が現駅の1階に展示されています。明治の鉄道遺産を目の当たりにできる数少ない場所と思います。5月クローバー会ツアーの2日目はここから出発です。皆様のご参加お待ちしています。
西鉄香椎駅前 清張桜
3月25日土曜日 西鉄香椎駅周辺で「点と線」香椎桜まつりが開催されました。駅前の桜の樹、清張桜は満開で多くの皆さんが訪れていました。
近くの香椎公民館では「点と線」ゆかりの写真展が開催、往時の面影をしのぶ写真の数々が展示されてました。
小説に登場のくだもの屋、国鉄香椎駅を出てすぐ左、のはずでしたが写真を見ると右側のようです。謎が深まります・・・5月のツァーで謎が解ければ、と思っています。皆様のご参加お待ちしてます!!
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~5~
2006年3月25日 南海貴志川線の最後を見に行く
しばらく私鉄を続けます。南海電鉄貴志川線(和歌山~貴志14.3km)は、岡山電軌100%子会社の和歌山電鐵へ運行が引き継がれることになり、初の公募による、民間事業者の鉄道譲渡認可事業となりました。貴志川線としての最終の日曜日、2006年3月26日には、スタンプラリーなどの感謝イベントが行われて、私も行って来ました。同社は「タマ駅長」や「いちご電車」など、奇抜な施策で注目を浴びていますが、それは少し後のことで、南海色をそのまま残しての引継ぎとなりました。▲以前の貴志川線には1201形が走り、何度かクローバー会の面々と訪れたこともあるが、引継ぎ時には、ズームカー22000系を貴志川線用に改造した2270系の2両編成Mc+Tcに統一されていた。貴志川線は、日前宮・竈山神社・伊太祈曽神社への三社参りの鉄道として、大正5年に山東軽便鉄道が、大橋~山東(のち伊太祈曽)を開業させた。昭和6年には和歌山鉄道に改め、昭和18年、全線電化。その後、和歌山電軌を経て、昭和36年に南海電鉄貴志川線となった。貴志川線は南海の鉄道線からは孤立した存在で、昭和46年に和歌山軌道線が廃止されると、すべての南海線とは離れ小島となり、南海が昇圧後も、貴志川線だけ600Vで取り残された。平成7年から、2270系電車が投入され、ワンマン運転となった。
駅名喫茶店(第45回:日本一多い駅名)
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~4~
2007年3月24日 113系を山陰本線で
前回の113系つながりで、デジカメ初期に撮った山陰本線京都口の113系を見てもらいます。今から見ると、ずいぶん興味深い113系が走っていました。
本日の夕方には、今月末で消える草津線直通の113系を求めて、京都駅0番ホームで孫のような世代に囲まれ写していました。なかなか写欲が湧かない抹茶色の113系ですが、なくなるとなると、愛おしさが出てきました。▲山陰本線京都口の113系は、京都~園部の電化が完成した1990年から走り始めているが、その後、電化の延伸や列車本数の増加で、今では考えられないような改造車や塗装があった。その最たるものが、二丁パンタの113系2両ユニットだった。1996年の園部~綾部の電化時に、113系の中間Mユニットを先頭車化してワンマン対応の2両編成となり、京都~園部では同区間の4両編成との併結運転となった。今回の撮影場所は、千代川~並河で、かつてC57が走っていた頃、一緒に撮っていたT君が、菜の花をボカしてC57と一緒に撮り、「花道を行く」のタイトルを付けて心酔していた場所だ。撮影当時は、複線化工事の真っ最中だったが、田んぼの中を一直線に伸びていた。
駅名喫茶店(第44回:WBC優勝メンバーの駅名)
6年ぶりに開催されたWBCは、日本が3大会ぶり3度目の優勝で幕を閉じました。大会のMVPに選出されたのは、エンゼルス所属の大谷翔平選手。「大谷」駅は関西に2駅あり、今回初めて、投稿のために「大谷」の駅名標を撮影してきました。京阪京津線ですので、気軽に尋ねることができる「大谷」駅だと思います。https://news.ksb.co.jp/ann/article/14869313
ということで、今回は、WBC優勝記念として、優勝メンバーの駅名を取り上げてみました。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~3~
ほぼ同月同日シリーズ、3月の続きとして、しばらくデジカメで撮ったカラーを見ていただきます。私のデジカメ歴は2003年から始まっていますから、ちょうど20年になります。最初はコンパクトデジカメで、まだ画素数も色調も満足できるものではなく、もっぱら個人ユースとしての使いかたでした。画素数も多くなり、色調も安定してきた頃に、一眼デジカメを購入し、鉄道写真もフィルムからデジタルに移行します。高齢者がデジカメ時代と聞くと、つい最近のようにも思いますが、もう結構な年数が経過しました。初期の時代に撮った写真は、立派な古写真に入っているのかもしれません。事実、デジカメ初期に撮った内容を見直すと、今では見られない車両や鉄道ばかりで、改めて年月の隔たりを感じます。
2006年3月13日 横浜で「出雲」、113系を撮る
▲京都地区の113系が今月いっぱいで撤退することがアナウンスされているが、東海道本線の東京口で運転されていた国府津車両センターの113系は、E231系の投入で2006年3月18日改正で運用を終了した。これにより“湘南電車”発祥の地から、オレンジとグリーンの塗装が見られなくなった。JR横浜支社では、最後まで残った4編成に意匠の異なるヘッドマーク(シール)を貼付して走った。
小田原行き快速アクティー3715M クハ111-1405F 新子安
お城と電車(18)備中松山城
備中松山城は現存12天守のうち唯一の山城である。標高420mの臥牛山にあり、JR伯備線備中高梁駅から徒歩で20~25分かかり、高齢者にはタクシーの利用がお勧めである。この地は鎌倉時代から城や砦があったが、関ヶ原の合戦以降家康の傘下となり、小堀新助政次、その子政一が入った。政一は小堀遠州のことで城や庭造りの名人と言われた。現在の城は寛永19(1642)年水野(みずのや)氏の時代のものである。城主は目まぐるしく代わったが水野氏の後には播州赤穂の浅野氏となり大石内蔵助が城代となっている。昭和の初めの古写真を見ると天守はボロボロで崩壊寸前の姿である。明治6(1873)年の廃城令で藩主の居宅等は破壊されたが、天守や櫓、門等は不便な山の上にあったことが幸いし、そのまま放置され昭和16(1941)年に国の重要文化財に指定されている。
訪問したのは2002. 8.18の午後で暑い中を徒歩で行ってみると何と天守は工事中でがっかりした。▼
美濃から尾張、三河へ(後編)
リニモや愛知環状鉄道の初乗りに満足し、愛環新豊田駅から名鉄豊田市駅に向かいました。ここから三河線終点の猿投(さなげ)に向かいます。
こんなんあるで韓国版残り
前回、東大邱で撮ったミカド形ボックス動輪の蒸機と狭軌の蒸機を「こんなんあるで韓国版」と称して投稿した。最後にまだナローの客車列車など残りがある旨述べたところ、訪韓実績ナンバーワンの米手作市さんから「余命いくばくない者はぶつぶつ言わんと早よ発表せい」とお叱りを受けた。よく考えたら年齢的にまさしくそのとおりであり、ここに残りを発表する。但し韓国の鉄道に知識がある訳でなく単なる観光旅行の次いでの写真であり説明するに至らない点をお許し願いたい。前回は狭軌ナローゲージのヒョーキ蒸機について乙訓の老人の甥さんに助けていただいたのでここに感謝申し上げたい。
最初は角度を変えて再びボックス動輪のミカド形蒸機であるが、この機関車についてどなたか多少でも経歴がわかれば教えていただきたい 1971.4.24東大邱▼