なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈13〉
モノクロ版 昭和の南海駅(2) 天下茶屋
続いて、打ち上げ会場となった天下茶屋付近です。西天下茶屋から会場へ向かう途中、天下茶屋駅の西側の商業施設を見て、同行の宇都家さんから「以前、ここには天下茶屋工場がありました」と聞かせてもらい、伝言板には、宇都家さんから当時の写真掲載がありました。その時、私は“餃子とピール”に集中するあまり、気が付きませんでしたが、現役時代に南海天下茶屋工場を見学したことがあり、後年、天王寺~天下茶屋の天王寺支線が廃止になる際に、天下茶屋付近で撮っていました。
▲地上線の南海本線と並走する天王寺支線の電車。新今宮付近の高架線から、本線は地上に降りると、東側から天王寺支線が寄り添ってきて、並走しながら天下茶屋へ至っていた。天王寺支線は、大阪鉄道(現・関西本線)との相互乗り入れを目的に、天下茶屋~天王寺が明治33年に開通した。その後、関西鉄道、国鉄になってからも接続路線として機能し、旅客だけでなく、貨物の乗り入れもあった。昭和41年に南海に新今宮駅ができると、旅客が激減、貨物も廃止になり、地下鉄堺筋線の延伸工事のため、部分廃止のあと平成5年に全廃となった(以下、昭和46年6月)。
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈12〉
モノクロ版 昭和の南海駅 (1)岸里玉出
先日、行われたクローバー会のイベント、南海汐見橋線の乗り歩きは、コロナ禍後の久しぶりの会合となりました。汐見橋線には何度か行ったことがあるものの、乗るだけの“線”移動に留まっていましたが、今回は、勘秀峰さんの企画で、市営の渡船に乗ったり、ディープな商店街を歩いたりと、“面”のツアーとなり、見識をあらたにしました。終ってからの“餃子にビール”も、たまりませんでした。今回は、モノクロ版となり、看板に偽りありですが、50年前の付近を復習しました。
集合地は、南海の岸里玉出駅。勘秀峰さん作成のミニメモをもらい、概要の説明を受けます。皆さんからは、いろいろな疑問が飛び交います。「岸里玉出って、長い駅名やなぁ」「なんで地下通路がこんな長いねん」、果ては「駅前へタコ焼き買いに行ったけど、休んどったでぇ」とか、さまざまな言葉が飛び交いました。
▲昭和の時代の岸里玉出駅、当時の岸ノ里駅、難波方面から入線する本線の電車を見ている。勘秀峰さんのミニメモのように、南海本線は地上線、汐見橋線を含む高野線は高架線で、両者は、斜めに交差していてホームは別々にあった。ガードに書かれているように、当時は駅名に「ノ」が入っていた。市営地下鉄に「玉出」があり、その区別のため「ノ」入りとなったようだ(以下、昭和59年5月)。
急行「大和」
米手作市さんの素晴らしい企画「私の好きな食堂車」は高齢者を中心に凄い盛り上がりとなりました。私も久しぶりに古いネガを探しましたが、そのような中でおやっと思う客車がありました。急行「大和」湊町行き2等客車です。「大和」と言えばTsurukameさん、大阪通信員さん等当会の諸先輩が「加太会」なる圧力団体を結成され指定旅館村田屋を拠点に、早朝のC57牽引の「大和」を記録されております。特に大阪通信員さんはDRFC例会で深夜の名古屋からの動画を発表され今でもその熱意と気力には敬意を表しております。さて、その「大和」ですが1949年(昭和24)年の東京ー名古屋間の準急あたりがルーツで翌1950(昭和25)年急行列車化されています。ネガで目に留まったのは1966(昭和41)年11月2日品川客車区で撮った「大和」のオハフ331527です。写真をよく見ると⑭号車で湊町行きの行先板と入口に座席指定の表示があることがわかります。私は定期急行列車なのにこんな車両に指定されたら全く損をした気分になります。因みに1966(昭和41)年の7月の時刻表を見ますと「大和」は金沢行き「能登」との併結で東京を22時35分に出発となっています。①~⑧号車が米原経由金沢行き901列車「能登」で、⑩~⑭号車が湊町行き2901列車「大和」です。⑨号車は和歌山市行きです。⑨号車和歌山市行きについてはよく話題になりましたが当時北海道、四国を除き東京から直通列車がなかった府県は和歌山だけであったのでその配慮と思われます。王寺からは529普通列車に連結されて和歌山市に到着するのは何と11時34分です。和歌山まで乗りっぱなしの客がいたのだろうかと思ってしまいます。当時でも新幹線を使った方がよっぽど早く和歌山に着けたはずです。その後「大和」の名前は1968(昭和43)年10月の改正で「紀伊」に統合され、紀伊勝浦、鳥羽、王寺行きとなりました。伝統の湊町行きは勿論、和歌山市行きもなくなり、さらに奈良―王寺間は普通221列車となってしまいました。王寺と言えばどですかでんさんの縄張りですので、このあたりの事情はお詳しいと思います。また、湊町と言えば現在のJR難波ですが、先日皆さんが船旅を含む大旅行をされた都会のターミナルの南海汐見橋もこの近くだと思います。記念写真を拝見しましたが汐見橋がようわからんと騒いでおられた方も無事写っておられます。さて、さらにその後急行「紀伊」も1975(昭和50)年3月に特急に格上げされ米子行き「いなば」や出雲市行き「出雲」と併結されました。雑誌等で海辺行くDF50の姿も見ましたが、1984(昭和59)年に廃止されたようです。私の撮った「大和」関連の写真をご覧下さい。
広電短信
昭和の電車 改訂版(219)ー琵琶湖鉄道汽船100型ー
京阪の800型ということで、湯口さんからの投稿があります。
京阪800型
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈11〉
最後の「びわこ」
▲「びわこ」号こと京阪60型、天満橋~三条~浜大津という線路条件が全く異なる2線区の直通運転のため、数々の新機軸を盛り込んだ二車体連接車として、昭和9年にデビューした。われわれの世代、京津線での活躍は見ているが、私はほとんど記録がなく、旅客営業を止めたあと、末期によく運転されていた、趣味団体の貸切電車を写したに過ぎない。最後まで残った「びわこ」63号は、この年に廃車になった。御陵~京阪山科 昭和45年7月
9月に行いました「思い出の七条大橋」写真展には、感染状況がきびしいなかにも係わらず、クローバー会はじめ、多くの皆さんにご来場いただき、対面で話ができることの楽しさを改めて感じました。今回の展示は、私の写真だけでなく、多くの先輩方の写真もお借りして、撮影年代の幅を広げるようにしましたが、なかでも皆さんが注目されたのは、京阪「びわこ」号が鴨川沿いを走るシーンではなかったかと思います。
▲ポールとパンタ、高低の側扉の両刀づかいを発揮したのが、浜大津発枚方公園行きの菊人形行きの臨時電車だった。運転されたのは季節限定のごく短い期間で、本線上の記録は極めて少ない。この写真は、須磨の人間国宝さんの撮影、会場には乙訓の国宝さんの写真も展示、クローバー会の先輩の貴重な記録に改めて思いを新たにした。
四国松山のディーゼルカー ~その3
下灘で2時間弱滞留した後、12時31分に出る八幡浜行きの4917Dで伊予大洲をめざします。今回の一番の狙いは、キロ47の伊予灘ものがたりです。47系での運行は令和3年末までと報じられています。後継は、四国まんなか千年ものがたり(多度津-大歩危の特急グリーン車)、志国土佐時代の夜明けのものがたり(高知ー窪川の特急グリーン車)のようにキハ185が改造種車になるようです。そうです。四国でキハ47系のジョイフルトレインに親しむのは、今しかありません。

下灘駅に入る伊予灘ものがたり
四国松山のディーゼルカー ~その2
松山周辺のディーゼルカーは、国鉄時代からのキハ54、キハ32、キハ185の3100番台、JRになってから就役した2000型。加えて2021年末での引退が報じられている、伊予灘ものがたり用のキロ47となります。キハ54は、国鉄最末期の昭和61年に登場したローカル用のステンレスカーで全車両運転台車です。他の国鉄ディーゼルカーと同じく21.3m、ロングシート、2枚折戸で250psのDMF13エンジンを2基積んでいるのでなかなか鋭い加速をします。12両全車が松山運転所に配置されています。

キハ54 0番台 松山駅
昭和の電車 改訂版(218)ー伊那電鉄サロハユニフ100型ー
四国松山のディーゼルカー ~その1
十数年ぶりに四国松山へ行ってまいりました。四国でも高松や徳島へは年に最低1回は行ってきたのですが、松山は大阪から少し気分的にも遠かったのです。今回の狙いは、松山周辺で活躍するJR四国のディーゼルカー。新幹線+特急しおかぜでも航空機、バスでもなく、はじめて大阪南港から東予港までのオレンジフェリーを選びました。
大阪南港は22時出港ですが、20時から乗船することができます。早く入れば、ゆったりと船内のレストランと大浴場を楽しむことができ、出航後も船に乗っているのを忘れるほど揺れもなく、ホテルのように快適でした。2018年に就航したばかりの最新の船らしく、昔ながらの雑魚寝の桟敷はありません。最もリーズナブルな2等も個室で、誰に気兼ねすることなくゆったりと休むことができます。2等の片道で、乗船した日は7700円でした。2等のデラックスにすると料金は9600円になりますが、窓と洗面台が付き、部屋も広くなるので更にホテルのシングルルームと遜色ないゴージャス感が漂います。

大阪南港フェリーターミナル
南千里折り返し運転
もう随分前のことですが、昭和58年、1983年の9月28日、阪急千里線山田ー北千里間が、台風10号による大雨のため、築堤の土砂が流出し、一時不通となりました。山田駅は交換ができないため、南千里で折り返し運転を行い、南千里ー北千里間は復旧までの時間、バス代行輸送となりました。阪急にはとんだとばっちりでしたが、割と早く復旧したと記憶しています。南千里折り返しは、昭和38年に新千里山(現南千里)が延伸開業し、昭和42年に北千里まで開通するまでの4年間になるのではないでしょうか。話しは脱線しますが、昭和40年の日活映画「青春のお通り」では、新千里山からP6に乗り込む吉永小百合が映っていました。 続きを読む
昭和の電車 改訂版(217)ー南海電7系ー
こんなん あり?
コロナもようやく下火となり、緊急事態宣言が解除され、各旅行代理店は待ってましたとばかり「ワクチン2回接種者限定」と銘打ったツアーを次々とPRしています。ここにご紹介するのは「ワクチン接種」が条件ではありませんが、「木次線スイッチバック」を目玉とした、広島発着の日帰りツアーの広告です。
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈10〉
お召の機関士と“文通”
いまから53年前のちょうど今ごろ、昭和43年10月2日に越美北線にお召が走りました。福井国体の際に運転されたもので、DRFCメンバーとともに撮影に向かい、その様子については、“デジ青”にも記していますので省きますが、私はみんなと別れて、一人で越前花堂で下車しました。越前花堂~六条にある、北陸本線から離れて、左へカーブして山あいへ向かっていく区間へ向かいました。現地到着が13時ごろ、お召の通過まであと3時間近くあり、まだ撮影者も送迎の人たちも見当たらず、ゆっくり三脚を立てて、ひたすら待ちます。さっそく警察官が近寄って来て、持ち物検査、害のない人間と分かると、あとは、一緒にダベりながら過ごすと言う、のんびりした雰囲気でした。背後に踏切があって、徐々に近くの人たちが集まってきました。すると、そのなかから、一人のご婦人が近づいて来て声を掛けられます。お召列車の写真をあとで送ってもらえないかというご依頼。聞くと、ご主人のKさんは、お召牽引の次位機18651の機関士で、ぜひ主人の晴れ姿を記念に残したいと言うことです。たまたま、お召機関士の奥さんが近くおられたことの奇遇に驚き、快諾して、手帳に「足羽郡六条町‥‥」と住所を書いてもらいました。
▲秋晴れのもと目前を通過したのは88635+28651の牽く、越前大野発福井行きのお召列車、Kさんの乗っているのは次位の28651だった。
集まって 話したり 飲んだり いいですなぁ
やっと感染状況もピークアウトして、規制も解除されました。誰に遠慮することなく堂々と活動できます。ほんと嬉しいですね。昨日は、伝言板でもお伝えした、京都アスニーのシンポジウム「京都のまちと京都市電」に参加してきました。内容は、須田寬さんの記念講演、小野田滋さんの基調講演、次いでパメルディスカッションと、盛りだくさんの内容。会場では、無印不良品さん、ぶんしゅうさん、勘秀峰さんも、参加されて、ご挨拶することができました。またDRFCに3ヵ月だけ在籍したのち、いまも趣味界で大活躍の東京のSさんと偶然に再会、一瞬でしたが、ぶんしゅうさん、勘秀峰さんとも旧交を暖めることができました。
シンポは、京都市歴史資料館の「こんにちは京都市電」展の関連イベントとして開催されました。最初に登壇されたのが、ホームカミングデーで講演していただき、その後も写真展でお世話になっている須田寬さん、今回も須田トークが炸裂、京都市電全盛の基盤となった600形への“愛”にあふれた内容でした。最後は、狭い街路に路線を伸ばした京電にならって、現在の寺町通、木屋町通などに、自動車・自転車を締め出したLRTのトランジットモール化を提言、一時間近い講話を楽しみました。そのあとも、「ブラタモリ」出演の小野田滋さんや、私のお知り合いも列席されたパネルディスカッションがあって、久しぶりに開催の講演会は幕を閉じました。
▲須田さんの講演の様子。須田さんにはクローバー会の「会報」の寄稿もしていただいており、「出来上がりを楽しみにしています」と優しい声を掛けていただいた。
そのあとは、さっそく、同好の士とともに、“一献”、外で飲むビールはやっぱりいいですね。別に呑兵衛でもない私でも、そう感じるほど解放感に浸っていました。クローバー会でも、10月中旬以降、続々と行事を予定しています。もう“外出怖い”とは言わせません。ぜひ、積極的なご参加お待ちしています。
北海道は遠かった、広かった(その4)
今回は初めて渡道した昭和44年3月に訪ねた名寄本線です。この時はKAWANAKA先輩と別れたあと、1900生先輩と2人連れの旅でした。札幌から「大雪6号」で早朝に遠軽に着き、名寄本線の一番列車で中湧別、紋別、興部、名寄と138Km全線を乗り通し、すぐに一ノ橋まで折り返しました。一ノ橋・上興部間は11.0Kmあり、その中間地点のサミットまで歩こうという計画です。丁度北見と天塩の境で、天北峠と言われる場所です。並走する国道239号線をひたすら歩き、腰までの深い雪をラッセルしてようやく線路まで登り、2本の貨物列車を待ちました。まずやってきたのが名寄側から登ってきた49699牽く貨物列車です。
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈9〉
キワ90の成れの果て
前項、広島駅前で広電を撮ったあとは、呉線へ向かいました。昭和45年10月改正を目前に控えて、呉線では、電化工事の仕上げの真っ最中でした。C59、C62はまだ走っていたものの、架線は張り巡らされて、電機・電車も通しで運転をしていました。小屋浦で降りると、側線に見慣れない、黄色に塗られた車両が留置されています。「ヤ390」の標記に、どこかで見た切妻のスタイル、後半分には機械類があります。これこそが、写すことも見ることもできなかった、貨物DC、キワ90の成れの果てだったのです。
▲呉線小屋浦の側線で休む「ヤ390」、電化柱の金具の取付け用に使われている貨車で、「千倉駅常備」の標記もある。これこそ、追い求めていたキワ90の末路の姿だった(昭和45年8月)。
昭和の電車 改訂版(216)ー名鉄トク3号ー
北海道は遠かった、広かった(その3)
昭和50年2月に標津線を訪ねています。札幌発21:30の狩勝4号のハザで6:15に釧路に着き、多分駅弁でも買って、6:34発釧網線622Dで標茶に着いたのが7:36でした。標津線根室標津行き323Dの発車8:31までの小1時間をどうして過ごしたか、まったく覚えがありません。323Dで次の駅泉川で下車しています。丁度泉川で標茶行き324Dとの交換風景を撮ったのがこの写真です。それぞれキハ22の単行。民家もまばらな根釧原野の小駅にも国鉄職員が勤務されていた時代でした。
この泉川駅から次の光進乗降場へ向かって線路を歩きました。幸い好天に恵まれたのは良いのですが、サングラスなどしゃれたものは持ち合わせておらず、まぶしい雪中行軍でした。








