昭和の電車 改訂版(114)ー東武クハユ299号ー

前回の投稿では、乙訓の長老様と村樫四郎様の会話で盛り上げていただきました。
お話に出ていた「配置表」は無事村樫様のお手許に着いたのでしょうか?遅ればせながら心配になりました。

 叡電鞍馬線 不通区間を歩いて見る

本欄でも、2年前の広島豪雨の爪痕が残る山陽本線を行く、観光列車「エトセトラ」のレポートが西村さんからありました。ことし7月にも豪雨があり、肥薩線、久大線などの沿線では、復旧半ばの様子が報道されています。実は、京都でも、この7月の豪雨で不通になったまま、開通の見込みすら立っていない叡電鞍馬線があります。7月8日の早朝、二ノ瀬~貴船口で土砂崩れが発生したもので、復旧作業にも着手できず、現在、鞍馬線は、市原で折返し運転、以降は京都バスによる振替輸送が行われています。現場の様子が気になっていましたが、先日、歩いて現地を訪れることができました。土砂崩れの現場、鞍馬線貴船口から二ノ瀬寄り約400mのところで発生した。(ネットニュースから転載)

このため鞍馬線は市原止まり、市原~二ノ瀬~貴船口~鞍馬は、京都バスによる振替輸送が行われている。市原に到着した電車は、「出町柳」を出して折り返すが、ダイヤに変更はない。 続きを読む

“etSETOra”と”SEA SPICA” 続報

観光列車「エトセトラ」とJRのクルーズ船「シースピカ」の運行初日の様子をご紹介しましたが、特に「エトセトラ」は運転日が増え、ルートも変わったことから、新たな撮影ポイントでの姿をカメラに収めようと、あれこれ思案中です。

令和2年10月4日 本郷・河内間 下畑橋にて 下り「エトセトラ」

10月3日に本郷・河内間で撮りましたが、翌日は更に沼田川(ぬたがわ)をさかのぼった地点で待ち受けました。この辺りは「船木峡」と呼ばれ、沼田川がV字谷を形成している場所です。2年前に広島県を襲った豪雨災害で、この本郷・河内間は何ヶ所も道床流失や土砂崩れが発生し、数ヶ月間不通になっていた区間です。山陰迂回貨物列車が走ったのもその時でした。この下畑橋は軽トラックがかろうじて通れるだけのきゃしゃな橋ですが、橋脚1基と橋桁2連が流され、2年以上が経った今も無残な姿をさらしています。中央の橋脚3基は船の舳先を上流側に向けたような断面をしており、この川が急流であることを示しています。発災日からかなりあとになって、流されてきた乗用車がこの橋脚にひっかっているのが見付かり、中から1人の遺体が発見された場所でもあります。同乗者の遺体は今も見つかっていません。濁流によって瀬戸内海まで流されたのではという話もあります。ここよりもう少し下流側に新しい橋が架けられており、いずれこの下畑橋は姿を消すことになるでしょう。「エトセトラ」の車窓からこの橋の存在に気付いた乗客は何人おられたでしょうか。

さて翌10月5日は「エトセトラ」の平日ダイヤ初日でした。休日ダイヤより約40分あとに設定されています。先に投稿した記事の中で、平日ダイヤでは本郷で「エトセトラ」が中線に退避して普通列車の337Mに追い越されるのではと書いてしまいましたが、私の予想間違いでした。少し早めに本郷駅に着き、職員のいない時間帯なので改札口はフリーパスなのですが、真面目に入場券を買って入場し「エトセトラ」を待つことにしました。予想に反して14:48に勢い良く通過してゆきました。西条発が15:30と公表されていますが、西条の下り線ホームは1線しかなく追い越しはできないので、多分一つ手前の白市で運転停車し、後続の337Mに追い越されるのだろうと前言を訂正します。後日白市へ確認に行ってみようと思っています。

令和2年10月5日 本郷駅を通過する下り「エトセトラ」

次回は糸崎・尾道方面に出かけてみようと思っています。

 

そろそろ、ゆっくり、活動再開【鉄鈍爺の巻】

コロナ過で外出の機会もメッキリ減り、カメラさえ重く感じる始末です。
久しぶりに、ニーナ(EF66-27)が順調に運用を重ねていたので、撮影してきました。
丁度、レール輸送(8090レ)も見られ、日曜でウヤが多い中、満足感が得られました。

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”etSETOra”と”SEA SPICA”

「GO TOトラベル!」の掛け声のもと、コロナのことを忘れたかのように観光キャンペーンが花盛りの昨今です。広島県では「せとうち広島デスティネーションキャンペーン」の一環として、JR西が観光列車”etSETOra”(エトセトラ)と高速クルーザー”SEA SPICA”(シースピカ)を目玉にして、それぞれの運行を開始しました。我が三原市の広報紙10月号の記事をご紹介します。

令和2年10月1日発行 「広報みはら 10月号」より

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昭和の電車 改訂版(113)ー近鉄モ6301型ー

近鉄は“大私鉄”であることを思い知らされることがあります。
このシリーズで、大阪線や南大阪線・吉野線当たりまではコメントが来ますが、青山高原を東へ過ぎるととたんにコメントがなくなります。
今回は近鉄の“東西混成編成”です。
コメントや、いかに!

保存蒸機とその現役時代(43)

愛知県刈谷市の交通児童公園(駅から徒歩10分)に保存されているD51777。1944(昭和19)年9月大阪の汽車製造会社製造で製造番号は2260。履歴の概要は多治見→米原→多治見→名古屋→中津川とあり名古屋鉄道管理局管内で一生を終えた様である。廃車は1972年9月である。

屋根付きで綺麗に保存されていた。ナンバープレートは青の中津川色である。名古屋は赤ナンバーが有名であるが私の好みは緑である。撮影は2012年12月26日▼

 

続いてその現役末期の頃で1971年9月24日上松駅出発の下り貨物列車の姿である。この日はDRFCの諸氏と寝覚ノ床が見える旅館で1泊した覚えがある。▼

 

蒸機の保存地にはよく市電などが近くに保存されている。これは名古屋市交通局1603号で1951(昭和26)年11月日本車両製造であるが、詳しいことはわからない。▼

季節のご挨拶(Season’s Greeting)

あんなに暑かった夏も終わり、早、10月となりました。皆さん如何お過ごしでしょうか。私は熱中症やコロナで悩まされた後期高齢者、基礎疾患持ちですが、今度はインフルエンザの準備も必要です。さらに腰椎滑り症で1日8000歩歩けと言われ、それならと近場の線路際まで散歩しています。先日9月28日は富士山の初冠雪でしたが、その日に撮った京王ライナー2代目5000系です。後ろにかすかに見えるのが富士山です。

3Dプリントのススメ

若者もす3Dプリントを致すべく”Ender 3”なる機械をポチりけり。
(てな『変な調子』は止めます:苦笑)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㊱

早岐機関区(3)  C57

36回続けてきた九州の蒸機、いよいよ最終回は、いちばん紹介したかった「早」のC57となりました。多くの蒸機形式のなかで、軽快でスマートな印象のC57、そのキャブに輝く「早」は、蒸機と区名板のイメージを見事に体現した組み合わせと言えるでしょう。

早岐区のC57は、初めて訪問の昭和42年時点で、13両がいました。働き場所は、長崎本線、佐世保線、大村線の旅客の牽引でした。この時、優等列車の牽引は、前掲のC11は特例としても、ほとんどDD51に替わっていましたが、一部の定期、臨時列車は、鳥栖区のC60、早岐区のC57を牽くことがあり、まさに「早」に相応しい舞台が残されていました。

 

初めて訪れた昭和42年の春休み、鳥栖の外れで写していると、長崎行きは鳥栖区のC60、佐世保行きは早岐区のC57に牽かれて通過して行く。写真は、早岐区のC57 158の牽く京都発佐世保行き「平戸」。特急列車は、長崎、佐世保行きは併結されていたが、急行は別立てでの運転で、旺盛な旅客需要があった(昭和42年3月 以下特記以外同じ)。

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昭和の電車 改訂版(112)ー京阪500型ー

この500型に関しては西村さんのレポートが出ておりました。

京阪500型の思い出

重文になった鉄道車両-2

重文になった鉄道車両-2は123号機関車です。最後は「加悦SL広場」でも展示されていたようです。

昭和の電車 改訂版(111)ー国鉄モハ43型ー

モハ43型の晩年の活躍を、例によって藤本哲男さんの寄稿でご覧下さい。

急電用モハ43形

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉟

早岐機関区(2)  C11

早岐機関区に配置されていたC11は、昭和42年当時、6両あり、運用は、松浦線の旅客の牽引、これは佐々区のC11と分担していました。そして、前稿でも紹介した佐世保~早岐の小運転でした。小回りが利くタンク機に相応しい運用と言えるでしょう。その代表が、何と言っても、特急「さくら」佐世保編成の牽引でしょう。今までも本欄で紹介しましたが、DD51が本務牽引ですが、早岐で逆向になるため、本務機を機回しすることなく、C11が前部に付いて同区間を牽引する訳です。佐世保の構内は狭くて留置線もなく、編成はすぐ早岐に戻るため、客扱い前後の回送も含めると、2往復のC11「さくら」が見られました。地上駅時代の佐世保で発車を待つ C11 194牽引の東京行き「さくら」。昭和40年10月改正から、昭和43年10月改正までの3年間見られた。右は到着した呉発佐世保行き「出島」。(昭和42年3月)

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保存蒸機とその現役時代(42)

今回は何れも後ろ姿である。保存機は地元で保存会を結成したり定期的に清掃やメンテを行っているものもあるが、その多くはいたずらや部品の盗難にあっているようである。このⅮ51245は正面と炭水車後部照明が盗難にあってなくなっている。よく見ると給水温め器のカバーもない。そのため後ろ側から撮った結果、炭水車がバカでかくなってしまった。場所は元の信越本線、現在のしなの鉄道の坂城とテクノ坂城の中間で坂城町文化センターの武道館裏のわんぱく広場である。撮影は2018年7月22日の暑い日であった。しかし、ここは坂を下りていくと近くを走るしなの鉄道を併せて撮影することができる。それにしてもわんぱく広場という名前は保存地にふさわしくない。なお、坂城駅横に169系電車が保存されているのでそれも追加添付した。169系は国鉄急行電車165系の派生型で横軽対策された信越線ゆかりの車両であるがこの保存車輛はしなの鉄道にも譲渡されて活躍していた。

 

D51245は1939(昭和14)年9月、国鉄浜松工場で製造され製造番号は36。新製後、浜松、金沢、敦賀、福井等北陸本線沿いで活躍、1962年に上諏訪に転属、その後稲沢を経て1966年に中津川所属となり中央本線で活躍した。1973年7月に廃車されている。▼

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 やっぱり蒸機が好き!  《区名板》で巡る九州の蒸機  ㉞

早岐機関区 (1) 8620

九州の機関区巡りも、最後の機関区となりました。シリーズを始める際、「漢字一文字で表す区名板を見ると、蒸機に定められた“運命”を示しているような、何とも暗示的で‥‥」と書いて、「門」「若」「行」「鹿」「人」「吉」「宮」「志」など紹介してきました。最後に紹介する早岐機関区、「早」こそ、蒸機の区名板として、これほどピッタリの文字はありません。なかでも旅客機8620、C57のキャブに取り付けられた「早」は、軽快そのものと言った印象です。「はいき」の読みも、いかにも九州的な伸びやかさを感じさせます。

早岐は、佐世保線が大村線を分岐するところにある区で、初訪問の昭和42年時には、8620、9600、C11、C57、D51と多彩な蒸機が配置され、運用は、長崎本線、佐世保線、大村線、松浦線に及び、広範囲な活躍をしていました。県都の長崎に機関区はあるものの、配置は無く、長崎へは、早岐、鳥栖の蒸機が乗り入れていました。

佐世保から東京・大阪に向かう優等列車は、早岐で逆向となる。早岐までは10km程度なので、本来の牽引機は後部に連結し、先頭には早岐までの蒸機が立つことになる。次項で紹介するC11「さくら」がその代表だが、急行列車にも同様の運転が見られた。これは大阪行き「西海1号」で、短区間ながら早岐区の58648が先頭に立つ(佐世保 昭和44年3月)

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 そろり、ゆっくり、活動再開  【2】

「西大垣」「東大垣」を訪ねる  

「西大垣」「東大垣」と言ってもJRの駅ではありません。それぞれ養老鉄道、樽見鉄道の駅で、大垣を出てから最初の駅となります。対称的な位置にあり、駅の佇まいや周囲の雰囲気に以前から注目していて、18きっぷでまとめ訪問してきました。

駅名標のフォントを見ると、それぞれの出自を物語っていることが分かる。養老鉄道西大垣は、もと近鉄らしく「UDゴシック」系、樽見鉄道東大垣は、もと国鉄らしく「すみ丸角ゴシック」系を使用している。

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 そろり、ゆっくり、活動再開  【1】

越美北線九頭竜湖で夕景を撮る  

やっと普段どおりの生活が戻り、趣味活動も、ほとんど制約なく外で活動ができるようになりましたね。たいへん喜ばしいことで、巷では “Go To”の文字や、鉄道事業者からも“半額”などの刺激的な惹句が躍りますが、私はどうしても気持ちが付いていきません。カネ・ヒマを使って遠方へ行くよりも、もっと足許に大事なものがあるのではないかと、自粛以前から思いを持っていましたが、さらにその思いを強く持つようになりました。

最初の活動再開は歩いて行ける範囲から、次にワンコインで行けるところまで、隣接する府県まで伸ばし、最近では、日帰りで行けるところまで行くようになりました。そんなとき、頼りになるのは、半額の新幹線ではなく、やはり18きっぷです。乗車時間が長くなるぶん、当然撮影には制約が加わりますが、かえって、それが自分の齢に似つかわしい行動様式に映ります。何も考えず、一人でボーッと列車のシートに身を委ねる時間こそ、何にも代えがたい貴重な時間となりました。

以前にも書きましたが、最近の撮影スタイルは、長時間ネバってガツガツ撮るのではなく、あるテーマを持って短時間だけ撮る、撮り直しができない緊張感が感性を磨いてくれるようにも思います。エラそうなことを書きましたが、要は、日没後の10分間程度あらわれるブルーモーメントの時間帯に、列車・車両を撮ることです。もちろん、その時間帯に対象がないことには撮れませんから、月日、場所が限定されます。それを見つけ出す楽しみもあるのです。そんな思いを抱いて、越美北線731Dの客となりました。この列車が終点の九頭竜湖に着く18時28分から折返しの18時36分発までの8分間に、ブルーモーメントの時間帯と合致するのが9月上旬です。

列車は、陰影を描く山肌に沿って、ひたすら上がって行く。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機  ㉝

志布志機関区(2) C11

「志」のC11、走行中の写真を中心に見ていただきます。昭和40年代の末期になると、蒸機の撮影スタイルも変わって来ました。初期のように機関区撮影に専念して一両でも多く撮ることから、自分好みの撮影地を見つけて走行中の撮影へと移行していきました。今回の日南線も、3日掛けて、各所で撮影。当時、宮崎から日南線沿線は、第一級の観光地として有名で、夏休みとあって、旅客列車も賑わっていて、沿線にユースホステルも多く所在し、並行する国道にも路線バスが多く走り、駅間移動も便利でした。以下、北から順に撮影地を巡って行きます(すべて昭和49年8月)。

いかにも日南線らしい、岩礁の見える海岸線を行く。油津~大堂津 391レ

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 やっぱり蒸機が好き!  《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉜

志布志機関区(1)

暑さや自粛に乗じて、デジ青投稿を怠っていましたが、めっきり涼しくなり、以前の行動様式に戻ったことから、心を入れかえて、キーボードに向かうことにしました。九州の蒸機、あと少しお付き合いください、と言うか、最後の2つの区こそ、いちばん紹介したかった区名板なのです。

まず「志」の区名板、いかにも前へ向かって突き進む、力強さを感じさせる、蒸機らしい区名板だと思います。当時、日南線の終点にあったのが、志布志機関区でした。「志布志」は、かな、漢字とも回文で、あとは石北本線の「瀬戸瀬」だけと言う、貴重な駅名でもあります。

日南線、志布志へ行ったのは、今までの九州訪問時より、もっと後年の昭和49年8月でした。昭和も40年代末になると、蒸機は急減に数を減らし、九州では、本線はほぼ全滅、辛うじて筑豊にキュウロク、ローカル線にC11、C12が走る程度になっていました。毎年、愛読していた車両配置表の蒸機のページが、どんどん減ってきて、昭和50年になると、梅小路の動態保存機も含めて、たった2ページになって、愕然としたことがありました。

日南線の開業は昭和38年のことで、旅客は最初からDCでしたが、貨物はC11が牽いていて、志布志湾にある石油基地へのタンク車輸送もあって、結構な本数の貨物が運転されていました。志布志区には、C11のほか、当時はまだ健在だった志布志線、大隅線のC58も配置されていました。まずは、形式別に「志」の蒸機を見ていきます。

海岸線に沿って走るのが日南線の魅力。大堂津付近 ▲▲DC列車の車内から見た「志」の区名板。バス窓も懐かしい。

 

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