昨日に引続き、中国新聞切り抜き記事で失礼します。芸備線開通は喜ばしいのですが地元の不安感はぬぐえません。
中国地方から小ネタ2題
コロナの魔の手は次第に田舎にも及んで来ており、息苦しい毎日が続いています。テレビをつけるとコロナのニュースか、危機感の乏しいチャラけた番組が目立つため、パソコンに向かう時間が増えています。今朝と、昨日の中国新聞から小ネタを2題お届けします。本来なら青春18切符を手に入れてどこを回ろうかと思案する時期なのでしょうが、「ネット帰省」ならぬ「ネット旅」のネタにしかなりませんが。
北のC62 全記録 〈23〉
昭和46年3月26日 最終日、何度も通った上目名、長万部へ
北海道での最後の日を迎えました。通用25日の北海道均一周遊券も期限切れが近づき、今晩に函館を出なければ、期限までに帰宅ができません。夜行鈍行に乗って早朝4時45分に倶知安に着いたあとは胆振線へ回って、二つ目のキュウロクを撮ったあと、今期5回目の上目名~目名となりました。最後をどこで撮るか、何度も行った撮影地で写したい思いが湧き、やはり足は151キロポスト付近へ。通い慣れた道のように線路上を歩いて、カーブの先の具合まで見通せるようになりました。天気はどんよりした空で、時折、降るのは、水分を含んだボタン雪で、雪が消えた道床は、さらに黒々として続いています。151キロ地点に着いて、高台に上がり、この場所を初めて訪れた3年前のことを思い出していました。
▲3年前など、今なら一瞬のことだが、ウラ若き20歳にとっては、3年の歳月は、ずいぶん昔のことだ。C62も顔ぶれが違うし、列車名も違う。その3年前を思い出して、ほぼ同じ構図で撮ることにした。例によって延々とドラフト音が続いてきて、顔を見せたのは、今日も2号だった。
昭和の電車 改訂版(67)ー熊本電鉄モハ55型ー
近場撮影
えらいことになってきましたが、お元気なWAKUHIROさん、KAWANAKAさん、どですかでんさんが家の近くでごそごそやっているようなので私も徒歩15分の所にある京王相模原線京王堀之内-南大沢間での撮影を発表します。家に閉じこもってばかりでは歩けなくなるので散歩がてらの撮影です。
3月25日 準特急橋本行き8763 ▼
3月29日 準特急橋本行き7754 この日は昼まで雪でした▼
4月14日 区間急行元八幡行き9734 この日は富士山が見えました ▼
4月19日 区間急行橋本行き9781 手前の木は桜ではありません▼
北のC62 全記録 〈22〉
昭和46年3月25日 定番の上目名、倶知安へ
大沼公園のユースに泊まった翌日、列車を乗り継いで、またまた上目名にやって来ました。この日は天気も良く、山々もよく見えます。ただ最終日近くになって、やる気も失せてしまい、明確に撮影地も決めないまま、呆然と歩いて、お馴染みの151キロ地点まで歩きました。151キロ地点から先、目名寄りは、大規模な築堤になっていて、東を望むと、なだらかな傾斜地が広がっていて、目名の集落が見えます。西を望むと、冠雪した後志の山々がよく見えます。急に“山バックのロクニ真横”構図を思いつき、築堤をどんどん下がっていきます。雪があるので、泳ぐようにして、滑り降りて行くことができます。編成全体は捨てて、135ミリの望遠でC62重連をやや俯瞰できるところまで来ました。太陽の反射で暑いぐらいで、汗びっしょりでした。背後の後志の山々も、しっかり見えます。それをさらに強調するため、Y2フィルタを装着して、「ニセコ1号」の通過を待ちました。
▲例によって、野太い汽笛二声が、目名の通過の頃に聞こえて来て、ブラスト音がどんどん近づいて来る。この日も2号を先頭にした「ニセコ1号」が眼前を通過して行った。真横から見ると、ランボードの白線がずいぶん強調されていることが分かる。
信貴電をゆく 春はえんどう
STAY HOMEの過ごし方
「デジ青でテレワーク」以降、デジ青誌面は大変な賑わいになっており、元気付けられています。当方の仕事も本当の「テレワーク」となり、東大阪まで出掛けることが無くなってしまいました、リスク削減と受け取ることにします。この状態はしばらく続くことと思いますがSTAY HOMEの過ごし方として、以前コメントでもすこし紹介しました組み立て式レイアウトの補強を進めています。最初は限られたスペースとコストパフォーマンスからNゲージのみで線路配置していましたが、多少スペースに余裕ができたので、手持ちの線路も車両も置いておくのはもったいないと思い外回りにHOゲージを一周配置しました。今回、一周のエンドレスだけでは面白くないので8の字を取り入れて走行距離を稼ごうと考えています。勾配部分等仮状態ですが本日試運転に成功しました。本来完成状態をお目に掛けなければなりませんがご容赦ください(発泡スチロールのままですみません)、つい走らせたくなります。奥の高架部分(82の居る所)で「8」の折り返しを作りました。
北のC62 全記録 〈21〉
昭和46年3月24日 C62単機区間で写す
1000キロ離れた地で、山科人間国宝さんとの奇跡的な出会いに興奮して、夜行列車で眠りにつき、まだ明けやらない大沼駅に降り立ちました。今までは、山線の重連区間でしたが、今期では初めてC62の単機の区間で写すことになります。C62の運用を見ても分かるように、朝の通勤列車、大沼発函館行きの126列車が、C62の間合い運用で唯一、普通列車を牽くC62となります。ただ連日の強行軍、夜行列車の連続で、やる気、元気も失せて来ました。4時33分、寝過ごさずに何とか列車から降りたものの、待合室でまた寝てしまい、ハッと起きると外はもう明るくなっています。あわてて外へ出てみると、五稜郭区から単機で回送されてきたC6215が、安全弁を吹き上げて、モクモクと煙を上げて、側線で待機していました。
▲大沼7時05分発の126列車、雪に覆われた駒ヶ岳をバックにして、C6215が発車して行く。点灯したヘッドライトが格好のアクセントとなった。
昭和の電車 改訂版(66)ー京福電鉄ホサハ61型ー
北のC62 全記録 〈20〉
昭和46年3月23日 奇跡の遭遇?
北海道へ入って、ちょうど2週間が経ちました。均一周遊券の残りをフル活用して、C62重連に集中します。塩谷で撮った翌日は、上りを小沢、下りを二股で撮ることになりますが、忘れられない撮影、出会いを果たすことになります。倶知安ユースで泊まり、倶知安からひと駅乗って小沢へ向かいます。小沢は、夏に来たことはあるものの雪の時期は初めて、20‰勾配が続くものの、夏は、両側に山が迫って、引きのある撮影ができない線区ですが、雪があれば、自由に撮影地が選択できます。ただ、さすがにこの季節、豪雪地帯ながらも黒々とした道床が見えています。
▲C62重連の魅力のひとつが、“人間に最も近い機械”を実感することだ。その機械を操るのが、二組の機関士・機関助士で、ナッパ服に帽子、ゴーグル、首に巻いた手ぬぐいと完全武装、まさに“男の世界”だった。その一端を表現したいと思い、少し前から編成全体だけでなく、キャブ周りも写すことにして、機関助士も、タブレットの授受でキャブ左に位置することが多く、二人のコンビネーションを公式側から狙うようにしてきた。あとはシチュエーションだが、幸い、雪が降り出し、135mmで狙ってみた。雪の斑点がボケて、にっこり笑ってくれた。“おい、頑張れよ”の励ましなのか、“こんな時に好きやなぁ~”の軽視なのか、それは分からない。とにかく、自分の存在に気が付いてくれたのは事実で、それがたいへん嬉しかった。 続きを読む
まだまだ続くよ、台湾鉄路への遠征その5

礁渓駅前の小籠包 なかなかいける
最終日の14日火曜日は、早朝に出て6時13分発の区間快速で八堵をめざす。その前に腹ごしらえだが、早朝6時から開いている小籠包の店でそそくさと朝食。65元にしてなかなか美味しい。
鉄道、つれづれ草ー“乙訓の長老”からのお願い その4
北のC62 全記録 〈19〉
昭和46年3月22日 初めての塩谷へ
「北のC62」、前回〈18〉では昭和46年3月20日のことを記しましたが、同時期に渡道した分が、あと5日残っています。昭和46年と言えば1971年で、あと一年でちょうど50年前の出来事になります。自分自身では、鉄道趣味人生で、最大の感動を味わったと今も思っているC62重連ですが、これだけ年月が経つと、その感動も薄れてきています。そのためにも、自分としては、最後の記録のつもりで記しておきたい思いがあります。しばらくご辛抱お願いします。
この日は初めて、塩谷に降り立ちました。塩谷と言えば、訪れる3、4年前のNHK朝ドラ「旅路」の舞台になり、小樽築港区の機関士だった主人公の家があったところとして描かれていました。現在、梅小路蒸気機関車館で保存中で、当時は小樽築港区で入換機だった9633が、ドラマの専用機のように出てきたものです。
塩谷は、小樽を出て、山線に入ってから最初の駅であり、背後には小樽の市街地が続いていて、自然のなかを行く重連は望めませんが、角度によっては海を入れることもできて、小樽から延々の20‰勾配が続き、煙はかなり期待ができます。
▲釧路から夜行鈍行に乗って小樽に着き、塩谷まで行って、撮影地に向かった。線路の山側は、家も無く、なだらかな傾斜地になっているので、自由にポジションを選ぶことができる。小樽を出てから、ずっと20‰、R300程度のカーブの連続で、煙の具合も良い。
まだまだ続くよ、台湾鉄路への遠征その4

玉里客城1號橋 莒光602次

自強306次 DR3100型
瑞穂からは、7時19分の自強306次で玉里まで乗る。この列車は、ディーゼルカーのDR3100型、日本車両製である。まだまだ新しい車だが、全幹線電化完成後はどうなることだろうか、と思う。 続きを読む
春を送る(春の心情)
写真をもう、桜の季節は去ったと思う。関東の桜は早く終わったのだがTVで競馬中継を見ていると仁川の阪神競馬場の桜が満開を過ぎようとしていた。そうか、関西はまだ桜が見られるんや。風が緑色になってくる前に、今年は盛大に祝うことのできなかった春を総括したいと思う(これを投稿している時期はこれより少し後で、季節感は一致しなくなりつつあります。スミマセン)。
Wakuhiro氏、総本家青信号特派員氏をはじめとして諸兄から桜を拝ませていただいたが、東のはずれの国からも、投稿の話題性は全くないけれど、デジ青の書面を汚してやろうと思った次第。東の国には、ひのとりはいない。でもこんな片田舎でも季節だけは訪れてくれる。せっかく春が来てくれたのであるから、都内の人ごみの中をうろつくわけにもいかないでしょうと家族から強く言われているが、いつものように拙宅の廻り、千葉県りをうろついてみた。
そういうことで、単純に春が来て、Stay home言っている間に過ぎ去ってしまった春を偲んでみたい。最近のロケの条件とは。
・場所:千葉県内、原則として拙宅近所か駅近、最低でも数分で歩ける場所
・時間:朝の通勤時、昼ごはん前の一瞬の時間、昼くらいからの少し遠出
・交通機関:歩き、老人優待バス券(乗り放題半年で16400円)、JR近距離のうち2つ以内の組み合わせ(車は家族から禁止されているので26万キロ走った〇〇も昔に売り飛ばして保有していない)。
・食料:昼に掛かりそうなときは、塩昆布を入れたおにぎりを自作携帯し、お茶の入った象印(トラではなくゾウ印)水筒と非常用のティッシュ!、ビックカメラのビニールのレジ袋(腰掛代用)、タオルを小型のリュックに入れて出かける。途中にコンビニもない場合がほとんどなので、おにぎりがなくなったら帰宅。
という、ヌルイ撮影ロケである。撮らねばならぬ目標は無いとは言わないが、どうしても取り損ねて深刻な問題になることはない。命があればまた出かければ良い。しかし桜は撮らねばならない。年寄りにはこれで良いのだ。
■春の予感
暖冬で春がうんと早く来そうだという。こっちの都合もあるが、彼岸には関西に不要不急と言うことで帰れそうもない。そんなころに、靖国神社が開花したとTVに写った。とにかく、動こう。
拙宅の坂道を下ると総武本線の横の畑にでる。梅が咲いているのを見つけた。千葉県は都内より12週間春が遅れるので、まだ梅である。梅の花は配置が思うようになっていないことが多いことと、意外高いところに咲いているので、どうして撮ってやろうか悩む。おまけにどぶ川の横と言う勝手な場所に咲いている。
ここは30分ヘッドで成田エクスプレスが来る。丁度、佐倉の辺ですれ違うことが多いので2回連続してチャンスがある。詰まらんE259系と言うなかれ。赤白の色の配合は写真写りには最適なのだ。花にピントを合わせたいが深度が浅いので仕方なく一輪だけに合わせ、後はこの辺に来た時に1回のシャッタで決めてやろうと思う。小生のカメラは初級機で連写がたった3コマ/秒と劣ることと、電車の速度が速すぎるので1発で決めるより仕方がない。果たして、真理は寒梅の如し、となったかどうか。昼ごはん時間なので、これにて帰宅。次の週に来てみるともはや咲いている梅花はなかった。ロケは春の初めに間に合ったらしい。
■桜を待つ(開花前らしい)
長い間、物井(総武本線)に行ってなかった。老人バスパスで物井に行ける(570円節約になる。JR使えば390円。いずれも片道で)便があることが分かった。菜の花は千葉県の県花であるが、これに加え桜が咲いているかも知れないと思い、おにぎりを作って出かけた。大カーブの線路わきには同業者が何人かいるが、小生が向かった川の土手には誰もいない、まだ季節が早いので草むらから長いものも出て来ない、従って草むらにも安心して入れる。まだ桜の影も形もなかった。千葉県は都内より1~2週間開花が遅いのである。仕方ないので菜の花を入れてE259系を撮る。春の雰囲気。ここまででも歩くのが面倒なので、今年は桜撮影の再訪を諦めた。
線路わきのつくしんぼう。春の訪れの代表格であるが、あんまり写真には出ない。ここの場所はつくしが生えていないのであるが、少し前に見つけたのでついでに古い写真であるが載せた。
帰りのバスの時間が近づいたが鹿島貨物が来る。これを撮っても帰りのバスに乗れると思ったら、なぜか少し貨物が遅延。勿体なので撮ってからバス停へ急ぐ。昔なら余裕で歩けたはず。案の定、この足では間に合わず。次のバスは2時間来ない。仕方なくJRで帰る。完全無料で予定したロケが190円掛かった。撮影料は支払ったことになる。喉が渇きゾウのお茶を頂く。ギリギリお茶が無くなったが追加のドリンクは買わなくいて済んだ。金額ではなく、無料でロケという目標が崩れたのが悔いに残った。ついでなので、その貨物。よくみんなが撮るカーブの内側からではなく、外側からの写真で、こちら側は元の総武本線の路盤跡があぜ道として残っており、長さ2mほどの溝に架っていた橋梁(と言うほどではない)の鉄骨が放置されている。鉄骨といってもチャンネルを背中合わせにリベットで止めた2本の梁がコンクリートの擁壁に残っているだけである。
■桜が咲きました
StayHomeを無視して、というよりか、このときは未だ、この外来語が流行っていなかったので、仕事を放り出して八丁堀の仕事場から都電を見に出た。
都内は平日でも当然人は多いが、桜だけ見て地下鉄が混まないうちに高田馬場から帰ることにした。 
■千葉県の桜
ローカルな話で恐縮であるが、千葉県では小湊鉄道(といすみ鉄道)が桜とコラボした写真を撮ろうとする同業者や「この時だけ鉄」チャンが名所に押し寄せる。人ごみは困るが鉄のある花見をしないと心穏やかでないので、昼前におにぎりとゾウの水筒、ビックカメラのレジ袋を持って出かけることにした。3月末であったが、桜は満開である。しかし、いつもはこの時期混んでいる小湊の列車も今年は単行でしかもガラガラであった。
五井の駅では切符売りと案内をしているおばさんがいる。このおばさんは、小生が以前写真を写真展で展示した「また来てね」のおばさんであるが、すっかり顔なじみになって、券売機からでなく、対面で切符を購入した。「リストラに合わず、ここで使ってもらっていて有難い」と。小生は小湊鉄道に限らず、特にローカルの鉄道の場合は出来るだけ切符を購入して、要するに歩きで撮影するようにしている。車の有無ではなく、撮影させてもらったお礼である。今回も駅から1分以内で撮影をして、おにぎりが無くなった時点で引き揚げた。世の中がどう変わっても桜はちゃんと忘れずに咲く。降り立った海士有木駅はおばさんが最後に勤務した場所であるが、台風で屋根が破損し、ブルーシートのまま。ブルーシートの錘の土嚢から草が生えて屋根が草原になりそうである。横の木造の倉庫も屋根と壁が破損し、内部がうかがえるが放置状態である。ここに限らず、中小私鉄には苦境を乗り越えなんとか生き残ってほしい。僅かではあるが運賃で撮影させていただき感謝。撮影は海士有木駅と馬立駅、ともに徒歩秒速。

■拙宅あたりの菜の花
拙宅から総武本線の土手まで数分なので、気が向いたら1日最大3回サンダル履きで出かけることがある。12時の下り、14時の上り、17時15分の上りの鹿島貨物の3回である。朝の5時の15分は早朝過ぎるので普通は出向かない。貨物以外に撮れるのはその前後に通る総武横須賀のE217系、E259 系、E209系、255・E257系だけである。どれも話題性がないが、そのうち必ずなくなる時が来るので 適当に撮っておかねばならない。
さて本稿で言ったように菜の花は県花なのでこれを写し込ねばならん、と思っているのでこの日もその時間になるとふらっと出かけることにした。
まずは、12:00の73レ鹿島貨物。この時間になると線路わきにへばりついている同業者が必ず何人かいるが、その反対側に菜の花の群生を見つけた。ここから写真をとる人間は滅多にいないので、場所を取り放題である。へばりついている同業者も見えない。
ついでに、滅多に写真の対象にならない?と思われる総武快速E217系 。成田寄3両がセミクロスであるが、近々に山手線E235 系由来のオールロングの車両に置き換わる。撮っておいて損はないと思うが・・。ついでにこのオールロング化であるが不思議とハンターイの狼煙は上がらない。首都圏の人は大人しい? JRはムサコ(武蔵小杉)の輸送力増強対策で少しでも詰め込みたいからということらしい。違う?小生としては成田空港、鎌倉への利用も考えて欲しいが、そんな民意はJR東は聞くフリはしても考えないらしい。なんとかゲートウエー駅名もそうであったし・・・。置き換えにしても片側1列、片側2列のセミクロスで、ドア横の一部を置き場(ラッシュ時は立ち席)とするというのはどうだろうか。ロングシートでも通路に足が出るので、片側1列のクロスとしても通路の幅は殆ど変わらない。従って立ち席定員は変わらない。座席の数もドア間8+6=14=7x2で変わらない。ドア横の一部のロングは折り畳み荷物置き場にする。ラッシュ時は立ち席になる。こういう発想は出来ないのかな。いずれにしても不細工なE235 系、オールロングは嫌である。それから置き換えといってもこの車両は行き場がないので廃車。先ほどの弱小私鉄でも書いたが如何にも勿体ない。何とかならないものかなあ。子会社の車両製造の仕事も関係しているのかなあと思うけど。
■最後にいつも使う京成本線
小生が通勤で使う京成電鉄であるが、せせこましい軒先かすめて走っているので自然は少ない。しかし、居を構える佐倉辺りからは正に田舎で、菜の花もみられる。春と言うことで、滅多に紹介されない京成の写真も追加しておこうとおもう。
佐倉を出た上野行き3500形。
鹿島川を渡るところ。今や唯一となったツーハンドル車。電車はワンハンドルマスコンではなく、ツーハンドルでなくては。なお、この川の土手を超えて昨年越流が発生し、市街地に無尽蔵にある印旛沼からも濁流が流れ込んだ。土手は現在嵩上げ工事中である。この写真はその反対側の直結する印旛沼側からである。
春の仕上げ、チューリップ
佐倉にはオランダから輸入した風車を中心に広場が湖畔に広がっており、春にはチューリップが一面に咲く。これが春の仕上げとなる、はずであったが、コロナの影響で、集近閉を避ける、いわゆる三密を避けようと言うことで祭りが中止、それでも花を見に市民が来るので、とうとう花を刈り取ることになった。場所が広いのでそんなに密ではない。人の間隔が2mなんて原っぱではありえないが、要するに中止と決めたのに、チョロチョロ来る奴がいる。習近平総書記の指示ではないが、絶対に人を集めない。どうするねん?花が無くなったら見に来る意味が無く、人は来ないで。ほな、切ろか、となったのかな。やることはしたし、自粛の広報も責任を果たしたんだから、役所としてはちゃんとしたと言うことなのだろう。ところで、これは花を切ると公開した3日前の写真。朝の通勤のザシ特急は殆ど乗客がいなかった。人が2人写っていて市の言うようにやはり混んでいる?
早く、線路わきに安心して立てる日が来るように。
これで今年の春は終わりにしたい。
昭和の電車 改訂版(65)ー山陽電鉄700型ー
まだまだ続くよ、台湾鉄路への遠征その3
翌1月12日は、前半が九曲堂で撮影、後半はひたすら移動となる。九曲堂では、レンタサイクルで約10分、高屏渓で鉄橋を渡る列車を撮る。戦前は東洋一の長さだったという下淡水渓橋梁からひたすら撮る。元の鉄橋は一部が水害で流されて、一部しか残っていないが公園の施設として残されている。この区間、九曲堂―六塊暦は、西部幹線と南回り線の優等列車が頻繁に走るので飽きることはない。 続きを読む
まだまだ続くよ、台湾鉄路への遠征その2
翌1月11日、宿を早めに出て、八堵駅に入線するEMU300の自強109次をホーム端で撮り、そのまま乗り込む。自強109次は、日曜日以外毎日運行しており、基隆を7時35分に出て、竹南から海線を経由し、終点の彰化には10時48分に着く。八堵ではがらがら状態だったが、台北から満員となり立客が出るくらいになった。竹南から彰化までは、山線と海線に分かれており、乗り間違えでもするとややこしい。

EMU300型 彰化
市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑰
肥後町
丹波橋を出てからも、古びた伏見の街並みが車窓に続きました。まもなく、伏見桃山城の外堀跡でもある濠川を渡ります。周囲には朽ちた土蔵や酒蔵があったりして、伏見線のハイライト区間となリますが、廃止直前は前記のように、単線化の工事中で、雑然としていました。渡り終えると90度左へカーブ、竹田街道とは直角に交わり、肥後町まで線路は伏見線では唯一東西を向く区間で、寺院も幾つか見られます。再び90度のカーブで南へ。カーブの途上に肥後町の停留場がありました。肥後町の由来は、伏見に多い、大名屋敷跡を示す町名のひとつです。
▲伏見線で唯一の東西区間から南に90度カーブする地点の途中にあった肥後町の停留場。現在でも道路は市電跡に沿ってカーブしている。なお、このカーブは半径36mで、棒鼻以南に大型の1000形が入線できない理由となっていた。同じ大型の500形、1000形では、ボギーセンター間は同じ6.7mだが、車体長が1000形のほうが20cm長く、すれ違い時に車体接触の可能性があった。












