昭和の電車 改訂版(71)ー大阪市電751型ー

この画は、ちょうど私が産まれた頃の大阪の風景です。
千日前にあった店から、両親が命からがら逃げてくれたお陰で今日の私があります。幾度となく聞かされた三月の空襲。逃げ込んだ大劇から這い出たときに見た数時間前とは真逆の地獄絵。その恐ろしさを追体験したのが阪神淡路大震災直後の三宮でした。聞こえるのは鳥の声ばかり。時折遠くから響くサイレンの音。見えるはずのない海が見えたこと。みんな聞いていた大阪空襲と重なりました。

 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ②

近鉄特急を新緑のなかで撮る

“新緑めぐり”続けます。新緑の撮影は、デジカメならではと思います。フォトスタイルを「ヴィヴィッド」や「風景」にするだけで、あざやかな新緑になりますから、便利になったものです。近鉄大阪線については、WAKUHIROさんらから、季節感あふれるレポートを拝見しています。大阪線の勾配区間へは、依頼された単行本の撮影もあって、私もよく行きました。最初に行ったのも、季節も今ごろの暑いぐらいの日で、乙訓の老人さん、本を執筆中のTさん、東京から来られた準特急さん、4人で三本松駅に集合して、室生東小学校横の大築堤へ向かいました。三人とも、いずれ劣らぬ博識をお持ちの方ばかり、口角泡を飛ばしての電車談義の賑やかなこと、改めて調べるともう20年も前のことで、懐かしく思い出しました。その後も、また近鉄関係の本の編集・撮影することになり、集中的に三本松付近を訪れることになりました。“特急のイメージが大きく変わります”と会社のリリースが出て、汎用特急の新色が出始めた頃でした(以下2016年4月)。
当時はまだ当たり前だった、汎用特急の旧色も、新緑バックによく映えていた。

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924レ はやたま号

はやたま号には、昭和58年の3月と8月、2度乗ったことがある。といってもオハネフ12の寝台車ではなく座席車だけだったが。この頃、国鉄では鈍行列車で寝台車を繋いだ夜行列車として、この、はやたま以外にも、からまつ、山陰、ながさきを運行していたが、はやたま以外は乗ったことがない。昭和50年代の終わりにあれよあれよと無くなってしまった。後のブルートレインもそうだったが、そのうち乗っておこうと考えていたものが、消えるときはあっという間に消滅する。後で悔いても仕方ないのだが、今もってその教訓?は活かせていないような気がする。最後尾のオハネフ12

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 マシ29の輪に 入れてください

準特急さんのマシ29 2を連結した「玄海」、惚れ惚れするような編成ですね。優等列車にWルーフ、三軸台車の客車が連結されていた例は、この昭和40年代では「玄海」だけだったのではと思います。しかも前後は10系客車というのも愉快です。私も一度だけですが、マシ29 2を撮っていました。高校2年生、初めての向日町運転所(当時)に恐る恐る入って行った時で、「玄海」の仕業を終えて、妻面を見せて休んでいました。冷房を備えているスシ37・47がマシ29に改称され、二重屋根車は0番台1~4となったが、昭和40年代に生き残っていたのは、向日町運転所のマシ29 2だけだった(昭和41年4月)。

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老いたるものに過ぎし日の思い出を・・

準特急さんと行った尾久機関区で撮ったEF57(宇)EF571を探したけれど見つからなかった

ありがたいことに客車の話で持ちきりとなっています。
過ぎ去ってしまった思い出に浸っておりましたが、血が騒ぎました!

古い写真をあさって、ここで話題になっている旧型客車を探し出しました。
酒の肴にしてさらに盛り上がれば、前立腺沿線の肥大前駅の団地にお住まいの方も参加してくださるでしょう。

解説は書きませんので皆様の思い出話を思う存分書き込んでください。

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 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ①

新緑の保津峡で

“出口戦略”が示されたとは言え、まだ外出自粛は続きそうです。この時期、気が付けば新緑の真っ只中、撮影には一年を通じて最適の季節です。こんな時に限って、外は晴天が続き、カメラを持って飛び出したい衝動に駆られますが、グッとこらえて、家に籠もってスキャン三昧の毎日です。ならば、せめて新緑の頃に出掛けた、思い出のシーンを綴ってみようと思い立ちました。クローバー会の活動でも、昨年の天竜浜名湖鉄道、一昨年の明知鉄道と、快晴に恵まれた新緑の頃の撮影旅行ほど、心動かされる季節はありません。桜など“花もの”に比べて、十分な撮影期間があり、連休期間以外では、人出も少なく、とくに高齢者にとっては、自分好みの期間、場所が選べたもので、好んで各地へ出掛けたものでした。新緑まぶしい保津峡を渡って行く287系「きのさき」、ちょうど保津川下りの船と出会う(2015年5月、以下同じ)。

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マシ292

温かい大阪通信員さんのコメントをいただきマシ292を探してみました。冬の陽で影が映ったりしてあまりいい写真ではありませんが、当時は夢中で撮ったものです。

「玄海」! いい響きですね。向日町付近で撮って京都まで国電で追っかけたものです。1967年12月の撮影です。▼

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45年前のゴールデンウイークのこと

 準特急さんの「最後のころの旧型客車」にあったEF57牽引の津軽の写真を見て思い出したのが45年前の1975年のゴールデンウイーク。勤め人になっての最初の連休なのでK君が東北の私鉄めぐりを・・・ということで上野発の夜行列車に乗ることになったのである。ところが予定していた列車はえらい混んでたので臨時の夜行急行津軽に乗ることになった。やって来た臨時夜行急行津軽を引っぱっていたのは・・・

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最後のころの旧型客車

旧型客車は10系までのことのようですが、熱烈な客車ファンの中には43系までが伝統的な旧型客車だと言われる方もおられます。43系はかつての国鉄型客車を集大成したもので外観を含め魅力的であることに全く異論はありません。10系はスイススタイルとも言われ外観などが43系とは大きく異なっています。しかし、私は10系と43系が混在した所謂急行客車列車が好きでした。特に夜行となると寝台車や食堂車を連ねてそのデコボコした編成に急行らしいものを感じたものです。これに対して昼行急行列車は編成がそろえば綺麗ですが、へそ曲がりの私は3軸の食堂車やオシ16、オシ17、リベット付きのスハネ30、スハネ16、スロ54等ごちゃごちゃした編成が案外よかったと思っています。写真2枚を用意しました。

昼行急行の立山(撮影地田村1964年3月19日ED301牽引富山行き)と津軽(撮影地白岡ー蓮田1966年12月30日EF578牽引上野行き)

昭和の電車 改訂版(70)ー広島電鉄1040型ー

広島は父の故郷と言うことで、小さい頃からよく行っていましたが、それは北部の県境地域で、南部の県都・広島市は中学に入ってから初めて行きました。それも広一や広転のC62・C59狙いなので広電には乗ったことはもちろん、見たこともありませんでした。(西村さん、ゴメン!)
今となっては残念至極です。

2012年7月に藤本さんの解説が投稿されています。

広島電鉄の改造連接車

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線㉑

伏見・稲荷線を送る 昭和45年3月31日

伏見・稲荷線は、前回の「中書島」で終わる予定でしたが、改めて、ネガを調べてみると、最終日の送別式の様子をかなり撮影していることが分かりました。式は京都市の主催で、京都市長、交通局長も出席した盛大なものでした。その後に行なわれる京都市電の廃止最終日は、世論も考慮して、ささやかなものとなり、その意味でも、記録に残しておくこともありかと思い、最後に紹介します。

中書島で最終電車を待っていると、DRFCのヘッドマークを掲げた501号が、待ち受ける市民の前に姿を見せた。

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保存中の名鉄401

名鉄400形の岡崎南公園での保存中の姿。撮影は2013年12月23日です。

 

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑳

中書島
いよいよ伏見線の終点の中書島へ。

京橋を渡って、しばらく走り、最後の専用軌道に入ります。大きく左へカーブして終点の「中書島」へ至っていました。京都市電では最南端に当たり、標高の最も低い停留場でした。すぐ隣は、京阪電鉄の中書島駅で、乗り換えは便利でした。

中書島まで延長されたのは大正3年で、京阪電鉄はすでに全通を果たしていました。今まで舟運に頼っていた、淀川左岸の大阪~京都の移動が、京阪電鉄の開業で、一気に近代化し、利便性が向上します。京電の中書島延長も、舟運連絡から、京阪電車との連絡連携を狙ったものですが、伏見線と京阪は、ほぼ並行するだけに、大阪~京都の直通客は京阪の利用となり、伏見線は打撃を受けることになります。北へ行けば中書島の歓楽街、市電はしばしの憩いを取り、乗客を乗せて再び元の道をたどって行きます。

京阪中書島駅と中書島商店街との間には踏切があって、複線から単線突っ込み式の「中書島」となっていた。

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昭和の電車 改訂版(69)ー名鉄モ400型ー

昭和46年まで現役でいられたとはおどろきです!
いまも岡崎で保存されているのでしょうか?

C56108号保存会会報

3年前の木次線、芸備線ツアーでお世話になった木次町のC56108号保存会堀江様より今年も会報をお送りいただきました。C56108号の保存維持活動を継続されているのに加えて、昨年11月にJR木次駅前に移転保存の要望書を出されたとのことで、活発な運動を続けられています。現在設置されている木次体育館横は少し不便なところですので、駅前に移設されれば観光資源の一つとして、目に触れる機会も多くなるのではないでしょうか。
3年前には落石で不通となったため乗車できなかった出雲坂根のスイッチバックの乗車、また、水害で長く不通になっていた芸備線の乗車等、現在の騒ぎが収まりましたら木次線を再訪して、何らかの形で支援させていただければと思っております。 続きを読む

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑲

京橋
京都電気鉄道は明治28年2月1日、当時の京都駅南側、東洞院通塩小路下ルから、今回紹介の「京橋」、当時の伏見町油掛通まで開業したのが始まりです。その油掛通にある和菓子店、伏見駿河屋の前には「電気鉄道事業発祥の地」の記念碑が立っています。まもなく鋼鉄製の京橋で宇治川派流を渡りますが、この付近が、かつての伏見港の中心地で、下流が昔の船溜まりで、大坂から淀川を上がってきた三十石船が発着し、付近は、米問屋、木材問屋、回船問屋などが並び活況を呈していました。旅人相手の旅籠も多く、維新の史跡として名高い寺田屋は唯一の遺構です。

 

鋼鉄製の親柱がある京橋を渡る。「京橋」停留場は、橋の北側にあったが、ここも、安全地帯のない白線で区切っただけのもの。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑱

大手筋

ふたたび京都市電伏見・稲荷線に戻ります。あと3停留場分が残っています。
肥後町で90度カーブして、再び南方向へ向かい、右手に見える「月桂冠」の工場を過ぎると「大手筋」に着きます。大手筋の地名由来は、ここから東へ行けば、伏見桃山城の大手門に繋がっているところから来ています。他都市では、その由来から大手筋、大手町と言えば、官庁街となる場合が多いものですが、伏見では商店街として発達しました。停留場から東へ行けば、伏見最大のショッピングゾーン、大手筋商店街へと至ります。巨大なショッピングセンターなど皆無の時代、市電でも、買い物籠をぶら下げた主婦の乗降も見られ、伏見一円から多くの買い物客で賑わっていました。
月桂冠の工場・社屋をバックに、大手筋に到着した伏見線の市電(Mさん撮影)。

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山口線から山陰へ

今回のコロナ禍で、かれこれ1か月、カメラを持たず外出していない。近場で阪急や近鉄、JRを撮ることも含めると1か月も撮影に出なかったのはここ暫くで記憶に無い。鉄道を撮りに行く、ということが如何に仕事のストレスやらを発散する効能が大きく、自分の中で重い位置を占めていたかを改めて思い知ることになった。今、それを悔しがっても仕方ないが、過去の撮影など振り返り、新たな展開への英気を養うこととしたい。 続きを読む

STAY HOMEの過ごし方-Ⅱ

STAY HOMEの過ごし方として私も「近場撮影」を続けております。準特急さまのおっしゃるように近場でもそれなりの場所があり、特急から通勤車まで多くの車種に恵まれています。美旗~伊賀神戸間には毎年春には「菜の花」夏には「ひまわり」を咲かせている場所があります。1ヶ月程前に下見に行った時は気が付かなかったのですが「菜の花咲いてる!」との情報があり出掛けてきました。休耕田で今は個人の土地ではないとのこと、数年前からイベントとして実施しているようです、赤目口の「菜の花」とは1ヶ月程度遅れて咲いています。

大阪から帰ってきた「お魚図鑑」です。

今日の5200は通勤用の塗装です。

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昭和の電車 改訂版(68)ー京成電鉄モハ109号ー


京成電鉄には、昔一度、成田から都内まで乗ったことが乗ったことがあるだけです。