初代伊予灘ものがたり 京都に向けて出発

昨年12月27日がラストランとなっていたキロ47伊予灘ものがたりですが、いよいよ京都鉄道博物館の特別展示に向けて回送出発しました。1/17朝、JR四国走行位置情報で回送を見つけたので、もしやと思い昼出動したら当たり。ゆっくり走って行く姿を見送りました。多度津駅で40分近く時間調整(?)した後、高松へ向けて出発。高松からはEF65の牽引でしょうか。

特別展示は1/21からのようです。お近くの方は観に行かれたらと思います。

海岸寺〜多度津間(後うち)の写真を添付します。

 

 

写真展「Rail-その先の世界へ」19日(火)から開場です。

一部の皆さまには、予告していましたが、写真展「Rail-その先の世界へ」、19日(水)~25日(火)の一週間、開催の運びとなりました。相変わらずの場当たり進行で、記事を書いている現在も、必死になって準備を進めています。

今まで、私もたくさんの写真展を経験してきましたが、小さな写真展を除いては、人と組んでの共催でした。共催は、それはそれで大きな意義はあるのですが、どこか人に頼っていた甘えがあったのではと思っていました。一度、自分だけで好き勝手な写真展をやりたい、と以前から思っていたところ、写真展会場から思っても見ない好条件で話をもらったのは、昨年11月、急に進めざるを得ない状況となりました。それから、2ヵ月余り、外での活動は断って、準備に専念しました。“一人で好き勝手にやる”と言った以上、もう後には引けません。手助けの申し出も断って(幸か不幸か、申し出は一切ありませんでしたが)、何をするにも、すべてが一人、歳を取るということは、こうもドン臭くて、間違いが多いものと痛感した準備作業でした。手作り感、素人感いっぱいの写真展になりそうです。京都・祇園「ぎゃらりぃ西利」(京阪「祇園四条」下車、東へ5分)でお待ちしています。  一昨年9月、緊急事態宣言が解除されて、ホント久しぶりに外出し、夕方に越美北線に乗った。列車の後部から見ると、レールの先の陰陽が面白く、思わずシャッターを押した。“コロナ禍の暗い世界から、未来の明るい光が見えるようや”とお知り合いがヨイショしてくださった。“これやっ”、先にプロモート写真が決まり、テーマは後付けとなった。

 市電が走った街 京都を歩く 四条線②

祇園〈2〉 ブランドナンバー「1」

前回〈1〉で、四条線を走っていた1系統は、文字どおりのファーストナンバーと記しました。衹園-百万遍-千本今出川-四条大宮-衹園と市内中心部を循環する系統でした。ほかの都市を見ても、東京都電では、品川駅前と上野駅前を結び、銀座通を貫通する系統が1系統であり、大阪市電でも、阿部野橋から四つ橋筋を通り大阪駅前に至り、堺筋を通って阿部野橋へ戻る都心の循環系統もやはり1系統で、「1」は、都市を代表する系統とも言えるでしょう。しかも京都の場合、壬生車庫の系統板の地色は赤で、ほかの車庫の系統板ように、車体色に同化する色ではなく、ひと目でそれと分かる鮮やかな色は、なおさら存在感がありました。ただ私の場合、1系統の循環コースのほぼ中央に住まいしていたので、ふだんの生活のなかで乗車する機会は、ほとんどありませんでした。

今回は、1系統に限定して、しかも四条線の廃止で、消えてしまった車両を集めてみました。こうして見ると、車両だけでなく、並走するバス、撮影のジャマをしたクルマまでも、50年前ならではの価値があります。

1600形ワンマンカーに改造されずに残った、戦前製の600形が4両いたが、四条線の廃止で廃車となった。最後は錦林車庫だったが、撮影時は壬生車庫で、「1」を付けて祇園石段下を曲がっていくのは、須田寬さんも絶賛された“青電”の雰囲気をよく伝えていた(以下、昭和43年5月)。

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広島短信

中国新聞ネタを2題。年明けに一度広電を撮りに行こうと考えていた矢先、広島市でオミクロンの感染が急拡大し、次いで県下全域がまん延防止措置の対象となったおかげで、マジメな私は家から出るに出られず、またしても新聞ネタで失礼します。

令和4年1月16日 中国新聞朝刊

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デジ青記事の転載依頼

会報でもお知らせしていますが、、デジ青に掲載された記事の写真を使わせてほしいとの依頼が届きます。昨年は8件、一昨年は9件、今年もすでに3件の依頼がありました。使用する目的は様々ですが、先日あったのは松本市教育委員会文化財課様からの依頼です。2011年7月に湯口さんが投稿された松本電鉄浅間線記事の写真で、松本駅の鉄道給水源が写っているので歴史資料として活用したいとのことです。写真に写っている蒲鉾状の建造物が明治35年の鉄道開業に合わせて建設された給水源井戸の上部構造です。旧浅間線の学校前駅付近は湧水が豊富でここから松本機関区に送水していました。現在は道路拡幅の為道路下に埋もれていて、今後この地下遺構を調査されます。これに合わせて施設の沿革を示す歴史写真として浅間線の電車の写真と共に使用したいと言われています。デジ青の記事が歴史的資料として活用されるのは、大変喜ばしいことです。もし他にもこのあたりの写真を撮られていましたらご提供したいと思っていますのでご連絡ください。
デジ青の記事は鉄道ファンだけでなく多くの方がご覧になられています。みなさんの貴重な写真や資料もどんどん紹介していただくことをお待ち申し上げます。
また、昨年開設した伝言板は会員のみが閲覧できるページです。近況報告や会員同士のメッセージのやり取りなどで、交流を深めていただくのにも使っていただければと思います。掲示板、伝言板の両方を使い分けて今後もデジ青の活性化にご協力ください。

 市電が走った街 京都を歩く 四条線①

祇園〈1〉  Gion

新春の「祇園」と言えば、八坂神社の初詣風景しかない。しかし四条線のあった昭和47(1972)年までの初詣風景はなく、やむを得ず、東山線時代の初詣風景で代用。

年が改まって、もう二週間。気を入れ直して、掲示板投稿に励み、日常の記憶を綴っていきます。さて、京都市電の四条・大宮・千本線が廃止されたのが、昭和47(1972)年1月23日で、まもなく廃止50年を迎えることになります。昨年末も、50年絡みの話題を採り上げ、それ以前にも、本欄で廃止後50年の伏見・稲荷線を特集したばかりと思っていたら、もうつぎの四条・千本・大宮線が控えているわけですね。やはり、50年前の昭和40年代は、激動が続いていたことの証だと思います。ことしも「50年前」から始めたいと思いますが、四条・千本・大宮線は、距離も長く、停留所も多くあって、一挙にとは行きません。まずは祇園~四条大宮の四条線として、「祇園」から始めて行くことにします。

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昭和の電車 改訂版(244)ー国鉄モハ52型ー

子供の頃に、“流線型”といえば、このモハ52とC55でした。ところがどちらも見たことがありません。飯田線にいたことがあるようですが、これも知りません。

⇧ 菱屋の藤田さんのコレクションからお借りしました。晩年のモハ52です。

⇧ 先日惜しくも逝去された中村進一氏のコレクションからお借りしました。阪和線時代のモハ52。

関三平先生からの年賀状

「昭和の電車」作者の関三平先生からカラーの年賀状が届きました。
ご存じのように、関先生は鉄道マニアであると共に迷路図作家として、かの有名な“日本迷路公団”総裁でもあらせられます。この年賀状にはその総裁としてのご高説が図面と共に発せられていますが、難解なので今回は鉄道部分だけを掲載して皆さんに読んで頂きます。

市内線開業110年を迎える広島電鉄

クローバー会の皆様、明けましておめでとうございます。コロナの完全収束が見通せず、またしても旅を自粛せざるを得ない気配のなかで、このデジ青があるおかげで、あのBOXの雰囲気そのままに皆様が身近に感じられ、有難い限りです。管理者殿にも感謝です。今年1年もよろしくお願い致します。さて2022年の投稿も新聞切り抜きからスタートとなりました。今年は広電市内線開業110年ということで、中国新聞元旦号には特集記事が載りました。分割してご紹介します。宮島線は開業100年です。

令和4年1月1日 中国新聞朝刊

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昭和の電車 改訂版(242)ー名鉄3400系ー

明けましておめでとうございます
今年もがんばって投稿致しますので、皆様からのコメントをお願い致します。
新年は流線型の特急シリーズ。

初頭を務めるのは名鉄の流線型特急3400系です。

準特急さんのレポートです。かえりみますと、準特急さんは本当に全国を渡り歩いて撮影されていたのですね。頭の下がる思いです。これからも投稿、お願いしますよ!

名鉄3400系

 

関東小ネタ続編

小田急VSEの引退は皆さん思いのほか興味を持っておられて大ネタだったかもしれないが、今年最後は正真正銘の小ネタです。関東でも行く人が少なく名前も相模鉄道と間違われやすいJR相模線。茅ケ崎-橋本間を1時間かけて走る全線単線の鉄道で3月の改正で205系500番台がいよいよ退役となる。そして朝夕3本あった横浜線八王子乗り入れも廃止される。個人的には青春18で東海道方面に出かける時はいつも利用していた線である。12月27日に見たところ6割くらいがE131系500番台に置き換わっていた。わざわざ撮りに行く人もいないと思うが、過去の拙作を参考に貼り付けさせていただく。

2018.4.3原当麻-下溝 菜の花を見て走るち茅ケ崎行きクハ205-511▼

2021.10.29上溝-番田 相模線100周年記念マーク付き茅ケ崎行き クハ205-501▼

2021.12.27入谷-海老名 新型クハE130-503茅ケ崎行き▼

 

 五十年前に見た 当たり前の風景  -12-

梅小路に集まった蒸機18両

50年前の京都で、もうひとつ忘れられない出来事がありました。梅小路機関区で、昭和46年11月24日に、国鉄百年の記念映画「蒸気機関車-その百年」のファーストシーンの撮影が行われ、全形式の現役蒸機18両が、一時的に梅小路へ有火または無火で回送、集められたのです。翌昭和47年10月には、梅小路蒸気機関車館が開館し、再び保存・動態蒸機が集められます。そのメンバーと重複する蒸機もありますが、あくまで現役のため、異なる蒸機も集められました。

以前に本欄で、このことを掲載したところ、「立ち入り禁止で写せなかった。うらやましい」とか、「極秘に進められたのに、どうやって知ったんや」とか、いろいろな意見をもらいました。実は、どう情報を知り得たのか、全く記憶に残っていませんでしたが、最近、片付けのなかで当時の日記が見つかり、日々の動きがよく分かりました。情報の入手先は、ふたつあって、ひとつは、M模型へ行った時に「もうじき梅小路に蒸機が来るらしいで」と店主から聞かせてもらったこと。そして、決定的だったのは、同年11月18日に、国鉄に就職された、2年先輩のGさんが、午前にBOXへ来訪されて、「梅小路にC622が来とるぞ」と知らせてもらったことでした。“それっ”と午後に、数人で梅小路に出かけました。この時はカメラの持参はなく、見ただけで終わっていますが、C622をはじめ、9633、C551、C59164、D612が来ていて、日記には、「一回で小樽築港、旭川、糸崎へ来た気分」と書かれています。その翌日、10時に改めて十数人で梅小路に集結、平日午前のため、小中学生も見られず、自由に撮影できたのでした。授業は、どうしたんやと聞かれそうですが、学校は、学費値上げに端を発した紛争が再度起こって、キャンパスは校舎が封鎖中、授業に行きたくても行けず、のびのびと撮影に専念できたのでした。これも、50年前らしい背景でした。

梅小路で再会したC62 2、函館本線で見たのは、この3ヵ月前だった。まさか、京都で見られるとは、夢を見ているようだった。撮影した午前は光線もバッチリ、ロッドも下りて、撮影に良好な状態だった。下の表を見ると、11月16日に到着、撮影後、ただちに返却されているので、梅小路にいたのは8日間だけだった。

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瀬野八 脱線事故

今年最後の投稿は新聞記事の転載となりました。去る28日(火)20:35頃瀬野・八本松間で上り貨物列車が脱線し、29日、30日と上下線は運休し、どうやら31日午後から運転再開となる見込みです。まずは昨日30日の記事から。

令和3年12月30日 中国新聞朝刊

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -11-

京都駅1番ホームのC575

年末の連投、失礼します。50年前の昭和46年と言えば、初回にも書きましたが、山陰本線からC57の牽く列車が消えたことが特筆されます。それが4月26日のこと、その後、1ヵ月もしないうちに、サプライズが待ち受けていました。C57が重連で、京都~姫路を往復する臨時列車「青葉の姫路城と蒸気の旅」の牽引でした。京都~大阪では、前年にC57 5牽引の丹後山田行の列車が走っていますが、今度は姫路までの運転、しかもC57が重連で牽くというもの。牽引に当たったのは、人気絶頂のC575が先頭、C5739が次位で、山陰本線の牽引を終えても梅小路に籍があり、このあと、豊岡区などへ転属するまでの間、“SLブーム”に乗っかった、ひと稼ぎと言ったところでした。

C57重連の牽く「蒸気の旅」は、昭和46年5月23日からの土日、6月27日までの計10日間運転された。梅小路から単機で回送されたC57重連が、京都駅1番ホーム横で待機する。もう見られないと思っていたC57の流麗な姿が、京都駅でよみがえった。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -10-

羽後交通 雄勝線を訪ねる

阿仁合線合宿のあと、奥羽本線を南下し、湯沢から分岐する羽後交通雄勝線(湯沢~西馬音内)を訪ねています。当時、奥羽本線沿いでは、横手から分岐していた横荘線が前月の昭和46年7月に廃止になったばかり、これから行く雄勝線の廃止も噂されていて、先手を打っての訪問となりました。雄勝線は、雄勝鉄道によって湯沢~西馬音内~梺の11.7キロが昭和10年に全通、昭和27年に社名が羽後交通雄勝線になり、電気鉄道としてポール電車が客貨混合列車を牽いていました。昭和42年に西馬音内~梺が廃止、湯沢~西馬音内に短縮。横荘線が廃止され、余剰車のDCが雄勝線に移動し、内燃動力に切り換えられたばかりでした。阿仁合線合宿を終えて、湯沢から13時30分発の羽後交通キハ3に乗車して、35分で終点の西馬音内に着いた。以前、趣味誌に「“にしもない”は“なにもない”ところだった」と洒落が載っていたが、どうしてどうして結構な賑わいだった。駅前はまさに昭和そのものの風景で、鴟尾のような屋根飾りを付けた木造の二階建て駅舎、バイクや自転車に乗って集まった来た若者、駅前広場は未舗装、そして、何よりチラリと見えるバスは、ボンネットバスではないか、写している時は、バスに興味も無く、全く気づいていないが、その端部から、いすゞBXD30のようだ。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -9-

夏の狂化合宿先、阿仁合線荒瀬の朝

50年前の夏休み、恒例の“夏の狂化合宿”は、7月に飯田線温田、8月に阿仁合線荒瀬で行われています。私は阿仁合線2泊3日のキャンプに参加し、そのあと、東北各地をメンバーとともに回りました。阿仁合線という、何の特徴もない線区で合宿が行われてたのか、「青信号」27号の旅行記を見ても理由は不明です。阿仁合線始発の鷹ノ巣で食糧を仕入れ、リュックを担いでキャンプ予定地の荒瀬に着いたものの、夕立に見舞われて、キャンプ地は水浸し、急遽、駅前にあった公民館に頼み込み込んで、一泊させてもらい、畳の上で寝て、本当のキャンプは翌日一日だけで、昼間は阿仁合線を写しまわっています。とくに「上杉」という駅は、文字どおり杉林の中を突き切っていて、印象に残り、翌年一人でもう一度訪問したほどでした。阿仁合線は一日旅客が9往復、当時は多く見られた典型的なローカル線、そのなかの荒瀬は、沿線の中心の阿仁合から、ひと駅、終点の比立内へ行ったところにあり、今から見ると、朝のラッシュ時には、信じられないほどの乗降がありました。地方のローカル線の当たり前の風景でした。阿仁合線参加のメンバー

奥羽本線鷹ノ巣から分岐する阿仁合線(現・秋田内陸縦貫鉄道)、当時はC11が一部の旅客、貨物を牽く、ごく当たり前のローカル線だった。この地が、当会の栄えある、狂化合宿の地に選ばれた。乗り降りしたのは「荒瀬」、どこにでもある棒線一本、ホーム一面の無人駅だった。特に朝の時間帯、驚くほどの乗降があった。“日本三大美人”の地らしい雰囲気も漂う(昭和46年8月)。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -8-

一度だけの名古屋市電

前回の「名松線」で誤記がありました。均一周遊券の名称は「南紀」ではなく、「南近畿」でした。また発売は、周遊地に至近な京都・大阪からの発売はなく、名古屋の発売でした。どうやら名古屋に住んでいた知人に頼んで購入したようです。さて、その「南近畿」の帰りに、名古屋へ寄っています。周遊地までのルートは、幾通りもあって、たとえば名古屋からは、関西本線だけでなく、東海道線-京都-奈良線でもいいし、東海道線-大阪-阪和線でもOKという選択自由なものでした。いまの「おトクなきっぷ」のように、二人以上とか一週間前購入とか、制約ばかりではなく、なんともおおらかな切符ではありました。

さて、その名古屋駅前で市電を2枚だけ撮りました。あと名古屋の市電は、別の日に乗換えの間に撮った数枚だけ、それ以外に撮ったことはなく、私としては貴重なシーンとなりました。

名古屋駅前の特徴のひとつ、ロータリーに掛かる11系統の1800型。名古屋と京都をざっと比較すると、最盛期の総延長は、名古屋106キロ、京都67キロ、路線長では京都の1.5倍以上、最盛期の車両数では名古屋422両、京都357両(トロバス除く)で、それほど差がないのは、京都が稠密な輸送を行っていたせいだろうか。

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