昭和の電車 改訂版(148)ー阪急710系810系ー

1954年、湯口先輩がたった一枚撮った阪急電車がこれだそうです。

阪急710系

乙訓の長老様から『使ってくれ』と整理を依頼された写真の中に710系・810系あるのでご覧下さい。ただ、写真が古く、ピントも甘いのはご容赦下さい。また場所や日時も不明ですが、分かった方は教えて下さい。

昭和の電車 改訂版(148)ー阪急710系810系ー」への7件のフィードバック

  1. 湯口先輩のお写真は阪急形式の710型を見事に写されていると思います。綺麗ですね!
    810型が京神直通特急として運用されたと関先生がお書きですが、沖中先輩が地下線に入る810型を見事に写されていますね!その時代を知らない私にとって新鮮な思いにとらわれました。
    旧梅田駅の写真、社紋も駅も梅田阪急ビルもすべてが変わり、懐かしい思いで一杯です。発車を待つP-6の横で駅員さんが水を撒く姿が時代を感じます。
    後ろの梅田阪急ビルの左側が昭和48年春まで京阪神急行電鉄の本社でした。

  2. かって(昭和30年代の終わりくらいまで?)京都の人(特に年配者)は京阪神急行京都線のことを「新京阪」、京阪本線のことを「旧京阪」とよんでいました。

    • そうでしたね。小生幼少の砌、親戚の叔父・叔母がよくそう言っていたのを聞きました。旧京阪は余り聞くことはなかったですが、阪急はあくまで「新京阪」でした。
      長じて昭和45年初夏、京都中心部から金閣寺近くの自宅に帰るべく三条京阪発の市バスに乗っていた時のことですが、御池堀川に停まった際、ご老人が乗って来て運転手に「新京阪行きますか?」と尋ねたのです。この時代にまだそう聞く人が居るかと驚いていたら、若い運転手は首を傾げ「京阪行かはんにゃったら反対方向や」と答えたので、お節介にも割り込んで「阪急なら堀川通り南行のバスに」と案内したことがありました。その後運転手にひとしきり新・旧京阪の謂れの蘊蓄を傾けることになりました。

    • この手の話には割り込まないと!
      我が家でも阪急とは言わず『新京阪』と言ってました。
      でも『旧京阪』は聞いたことがありません。
      『省線電車』はよく使っていました。
      このような事は東京方面ではなかったのでしょうか?

      • 米手さま 23年前に、97歳で亡くなった祖母は、最後まで省線と云って居りました。新京阪のように、戦時の私鉄統合を経て、戦後別の系列となった路線は、東京では帝都電鉄(現・京王井の頭線)です。祖母もずっと、帝都線と云っていたが、こちらはそれ程、違和感はなかった。会社名も京王帝都電鉄と、「帝都」を永く入れていたからです。しかし今は京王電鉄となり、昔を偲ばせるのは、軌間の違いだけくらいです。

        • そうですね、省線は全国統一ですが、私には『省線電車』の意味が強く、列車線を『省線』というのには違和感があります。電車のなかった地方でも『省線』だったのでしょうかね?例えば五能線や山陰線も『省線』?
          そういえば東京でも『営団地下鉄』も過去の遺物となったようですね。

    • 「新」があれば「旧」もあるのが道理で、少なくとも戦前は「新京阪」に対して「旧京阪」も一般に使われていたようです。ただ戦後京阪の分離独立後は、特急の充実に力を注いだこともあって、阪急京都線のことを「新京阪」という人はあっても、京阪を「旧京阪」というのはあまり聞いたことはなかったのですが・・・。

      野坂昭如氏のデビュー小説「エロ事師たち」は、守口、滝井、千林といった京阪沿線が舞台ですが、電車については一貫して「旧京阪」と書かれています。時代背景は前回の東京五輪の少し前ですから、既にスーパーカー2000系の増備が進んでいた頃ですが、野坂氏の脳内では「旧京阪」という呼び名が記憶されていたのでしょうか。その中の一説です。
      「せめて曽根崎か西成署やったらかっこもつくけど、たかが旧京阪沿線の、準急もようとまらんけちな市イの警察が、(後略)」(主人公がエロビデオ販売の容疑により守口警察署での取調べの際、警部補の啖呵に内心冷笑する心境を描いたシーン。当時の京阪本線の準急は寝屋川市~京橋間無停車。守口に停車する優等列車は区間急行だけでした。)

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