五十年前に見た 当たり前の風景  -10-

羽後交通 雄勝線を訪ねる

阿仁合線合宿のあと、奥羽本線を南下し、湯沢から分岐する羽後交通雄勝線(湯沢~西馬音内)を訪ねています。当時、奥羽本線沿いでは、横手から分岐していた横荘線が前月の昭和46年7月に廃止になったばかり、これから行く雄勝線の廃止も噂されていて、先手を打っての訪問となりました。雄勝線は、雄勝鉄道によって湯沢~西馬音内~梺の11.7キロが昭和10年に全通、昭和27年に社名が羽後交通雄勝線になり、電気鉄道としてポール電車が客貨混合列車を牽いていました。昭和42年に西馬音内~梺が廃止、湯沢~西馬音内に短縮。横荘線が廃止され、余剰車のDCが雄勝線に移動し、内燃動力に切り換えられたばかりでした。阿仁合線合宿を終えて、湯沢から13時30分発の羽後交通キハ3に乗車して、35分で終点の西馬音内に着いた。以前、趣味誌に「“にしもない”は“なにもない”ところだった」と洒落が載っていたが、どうしてどうして結構な賑わいだった。駅前はまさに昭和そのものの風景で、鴟尾のような屋根飾りを付けた木造の二階建て駅舎、バイクや自転車に乗って集まった来た若者、駅前広場は未舗装、そして、何よりチラリと見えるバスは、ボンネットバスではないか、写している時は、バスに興味も無く、全く気づいていないが、その端部から、いすゞBXD30のようだ。

始発の湯沢で発車を待つキハ3、右手は国鉄の湯沢駅、架線は張られているが、動力はDCに切り替えられたばかり。今まで使っていた電車、貨車が側線に放置されていた。乗車したキハ3の車内、平日の午後、座席がちょうど埋まる具合の乗車率、あらゆる年代層が乗っている。キハ3は昭和32年製の液体式気動車、手小荷物用にバスケットを付けていた。こちらは西馬音内の構内。左から、キハ2、DC2、西馬音内14時35分発のキハ3、ここでも構内には、今まで使われていたポールカー、なかには楕円の戸袋窓のある木造単車のデハ3がいて、さらに横荘線から移動し、使われていない多数の木造車が、側線に押し込まれていた。

 

 五十年前に見た 当たり前の風景  -10-」への4件のフィードバック

  1. 雄勝線は電車時代、昭和41年8月と43年8月に訪れました。
    昭和43年8月31日、西馬音内~あぐりこ間、モハ8先頭の湯沢行です。
    市電に毛の生えたような電車が貨車や客車を数両牽引しますので早く走れる筈はなく、湯沢~西馬音内間、8.9キロを26分もかかりました。
    明治村の客車は、ここで使われていたものです。

    • 藤本様
      そうです。電化時代は、こんな編成だったのですね。非力なポール電車がよく牽いたものと思います。行った時は、その残骸が、湯沢、西馬音内に放置されていて、明治村へ行った客車もいました。

  2. 西馬音内駅の駅舎建築に衝撃を受けました。
    これまでに見たどの駅にも似ていません。
    おそらくは田舎の宮大工が神社しか大きな建物が無かった雄勝地方に鉄道が引かれて、建築家を都会から呼ぶことも出来ずに、他の駅の写真イメージから図を引いて作ってしまった。そんな想像をしてしまいました。
    西馬音内というと西馬音内踊りが古来続いて今も有名です。
    関ヶ原の戦いで滅んだ城主の一族を偲び江戸初期に始まったと言います。
    雄勝線の跡を急に偲びたくなりました。
    先に廃止された横荘線には、都電の1000型をトレーラーにした客車がいて、台車と車体の間にスペーサーを噛ませて”車高上げ”をしていたそうです。
    そんな知識は、実は昭和46年頃に大分市にあった公立図書館に置いてあった朝日新聞社の「世界の鉄道68」とかで知っていました。
    当時の私は九州の田舎に住む小学生。現地を訪ね、実物を見て撮影出来た諸先輩が実に羨ましく思えます。

    • 西馬音内の駅は、今から見ると、たしかに衝撃的ですが、50年前に行った時は、何も考えもせず、無意識に撮っていたと思います。本によると、その数か月後、廃止を前提に、西馬音内の構内が整理されて、駅舎も取り壊されてプレハブ造りになったそうで、いい時期に行ったものと思います。ただ、車両は末期的状態でしたが、ほんの2、3年前には、藤本さんのような絵に描いたような編成が走っていたとは、蒸機はほどほどにしておいて、なんで地方私鉄へも行かなかったのかとの悔いが残ります。

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