沖中・湯口両先輩の逝去に接し、やる気が失せた老会員の独り言に付き、興味の無い方の閲覧は不要。
毎年、正月元旦は年賀状を拝見するのが何よりの楽しみである。
差し出された方々の顔を思い出しながら一枚一枚読んでいくと、数十年の時間もつい最近のように思い出されるから不思議だ。同じようにこちらから送った年賀状をどのように読んでくれているかを想像するのも楽しみとなる。
私は毎年三種類の年賀状を作る。
一つ目は家族同士のお付き合いがある方への年賀状。二つ目は私のみのお付き合いの方、または仕事上のお付き合いの方。三つ目は趣味、鉄道趣味界の友人。
いずれも大切な友人・知人ではあるが付き合う角度がちがうため、デザインには頭を悩ますことになる。夏を過ぎる頃から写真を撮りためて年賀状が発売されるや、一気に作成する。
そこで最近はある問題に突き当たるのだ。
一つは喪中ハガキのこと。
11月に入る頃から喪中ハガキがぼつぼつ来始める。11月に来るのは「あの人が亡くなったのか」と名簿を消すことになるのだが、12月中旬を過ぎてから来るのには往生する。先に書いたように12月に入ると年賀状の作成は終わっており、宛先も書いていることが多い。何時亡くなったのかと見てみると10月から11月であれば致し方ないが、2月や5月になくなっている場合はもう少し早く知らせて頂きたいと思ってしまう。
そしていつも悩むのがご遺族のお考えである。つまり「喪中だから年賀状は出さない」のは分かるが、受け取るのも断るということなのだろうか?死者を悼む気持ちは分かるが新年を言祝ぐのとはちがうと思うのだが皆さんはどう思われるのかお聞きしたい。
因みに我が両親が亡くなった時は喪中ハガキと年賀状は出さず、例年通り受け取ってから正月明けに「寒中見舞い」として旧年に親が亡くなったので年賀状は失礼した旨を書き記した。
また、喪中ハガキの範囲も問題である。親や配偶者、子供と言った近親者の場合は当然として、親の兄弟や配偶者の親兄弟まで知らせなければならないのだろうか?
この範囲も皆さんのご意見をお聞きしたい。
さて年賀状である。
最近とみに「今年で年賀状を終わりにする」と書かれた“賀状じまい”の年賀状が来るようになった。
これにも頭を悩ませる事になる。
「私は年賀状を出さないが、貰うのはかまわないので送って下さい」というのか、「私は出さないから送らないでくれ」というのか判断しかねるのだ。
先にも書いたように当方は毎年の楽しみで作るのだから送りたいのである。これを嫌われたら年賀状の趣旨にも反する。
私はこの様なハガキを貰っても一方的にこちらは出すことにしている。それは「私は元気ですよ」と一方的なお知らせをしている事になるが、年賀状を貰うことは期待していない。現に「出さないが下さい」と書いてある終い状もあるのだ。
さて、思い当たる方々よ、貴兄のお考えやいかに!