どうなるローカル線(3)と広電の話題

中国新聞ネタで恐縮ですが、まずは連載記事の完結編から。留萌線は北海道新聞と、米坂線は山形新聞社との連携記事でしたが、最終回は共同通信社との連携でした。

令和5年8月17日 中国新聞朝刊

結局のところ、ローカル線問題はJR各社と地方自治体がお互いの言い分を投げかけるだけで、国の態度も成り行き任せ的。自然災害で不通区間が出来ると、それに乗じて路線短縮、あるいは廃止に向かうという傾向が見えはじめ、そうこうしているうちに人口減少に歯止めはかからず、なし崩し的に廃止やむなしという空気が醸成されてゆくようです。バスに置き換えると言っても、地方のバス会社は運転手の確保が難しく、先のコロナ蔓延期には運転手のやりくりがつかず、運休する事態もありました。災害への備えでよく言われるのが「自助」「共助」「公助」ですが、結局地方の交通問題でも「公助」に期待しても無理で、「共助」更には「自助」で対応せざるを得なくなるのかもしれません。

さて同じ8月17日付けの紙面に広電の記事が載りましたので、掲載します。

同紙

広島電鉄の歴史をさかのぼると、「広島瓦斯電軌」という時代があり、その当時の車両(156号)が動態保存されているという記事です。156号は江波車庫の奥に留置されているのを望遠撮影したことはありますが、かつて広島駅前で撮っていた159号を貼っておきます。昭和44年8月猛暑の中を KAWANAKA氏と呉線にC62を追いかけたときの撮影です。

広島駅前の159号

広電社紋の変遷  「広島の路面電車65年」より転載

新聞記事の中に「広電社内の保育所」が出てきますが、千田車庫近くにある「広電まめっこ保育園」のことでしょう。2階に652号を模した展望デッキがあるのが特徴です。

平成30年4月25日撮影 広電保育園

どうなるローカル線(1)

中国新聞には「鉄路のあす」というシリーズが断続的に連載されています。勿論広島県を中心に中国地方の話題がメインですが、8月15日の朝刊には「留萌線」の記事が載りました。北海道新聞との連携のようです。

令和5年8月15日 中国新聞朝刊

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広島短信

中国地方は早々に梅雨明けして、暑い毎日が続いています。今朝の中国新聞にこんな記事がありました。

令和5年7月23日 中国新聞朝刊

電停の名前は「十日市」ですが、交差点の名前(道路標識)は「十日市」です。

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芸備線5月下旬まで運休

2017(平成29)年4月にクローバー会の木次線ツアーがあり、新見から備後落合まで満員のキハ120に座れずに揺られ、ようやく着いた備後落合では、肝心の木次線スイッチバック区間が土砂崩れのためにバス代行になっていると知って、一同ガッカリしたのが昨日のようです。早いもので あれからもう6年が経とうとしています。その際に通過した芸備線備後八幡・内名間で去る3月23日に新見発備後落合行き445Dが備後八幡を19:15に発車後、19:20頃に線路上の落石に乗り上げ、キハ120の前の台車が脱線するという事故がありました。乗客はゼロで、運転士にケガはなく、軽微な脱線事故で済んだのは不幸中の幸いでした。

JR西日本のホームページより転載。サラッと5月下旬の運転再開と書かれている。

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美濃から尾張、三河へ(後編)

リニモや愛知環状鉄道の初乗りに満足し、愛環新豊田駅から名鉄豊田市駅に向かいました。ここから三河線終点の猿投(さなげ)に向かいます。

令和5年3月12日 豊田市駅にて 猿投行き6004 隣は名古屋市交鶴舞線N3308

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美濃から尾張、三河へ(前編)

クローバー会の長良川鉄道イベントの様子は、すでに事務局から報告記事が掲載され通り、天候に恵まれ北濃までの初乗りを満喫することができました。事務局殿に感謝です。私は帰路、美濃太田で皆様と別れて太多線で多治見に向かい、多治見で1泊後、やはり初訪問の鉄路を巡ってきましたので、その様子をご紹介したいと思います。長良川鉄道には平成13年の年末に、単身赴任先の高崎から三原にクルマで帰省する際に関駅に立寄って、2軸車のナガラ1形等を撮っています。その際に元気なナガラ201も撮っていました。

平成13年12月29日 関駅にて ナガラ201

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長良川鉄道イベントのご報告

一昨日行われた長良川鉄道イベントは好天に恵まれ15名の方が参加されました。3月18日のダイヤ改正でなくなるキハ85形「ひだ号」の乗車と長良川鉄道観光列車「ながら」で全線を乗ることが目的です。加えて美濃市で下車、旧名鉄美濃駅の見学と最終の岐阜では北口公園に保存されているライトアップされたモ513号も見ることにしました。
↑  岐阜駅で遭遇した臨時のひだ号、車内は満席でホームにも多くの人がいました。
この日はキハ85形の乗車を目的とした臨時列車も走っており沿線には多くの撮り鉄が集まっていました。美濃太田駅に集合し10時45分発「ながら1号」に乗車、2両編成で先頭車は我々が乗ったビュープラン「森号」、後ろにはランチプラン「鮎号」が連結されています。「森号」にはアテンダントさんが乗車していて沿線の案内をしてくれ、グッズの販売もあります。 続きを読む

駅名喫茶店(第A回:店主出張編【樽見鉄道乗車会】)

2023年3月11日(土)、DRFC若手会では樽見鉄道乗車会を実施いたしました。今回は伝言板でなく一般公開ページにて簡潔な報告です。

↑樽見にて

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福岡市政だより3月15日号

久々の投稿です。標記の件、下記をご覧ください。福岡市営地下鉄七隈線天神南~博多駅間が3月27日に延伸開通します。これにより西鉄バスは路線の廃止、減便が実施されます。バスに頼ってきた市内の交通網がこれによって少しですが改善されます。福岡と博多が大きなパイプで結ばれます。

同じ号に福岡市内線廃線跡の記事も掲載されています。子供の頃慣れ親しんだ懐かしい思い出のひとこまです。人にやさしい路面電車、今からでも遅くありません。復活を・・と思うのですが・・

5月のイベントで少しですが皆さまにご案内できればと思います。事務局からの発信をお待ちください。

 「京都市電2系統」展 本日3/1から開催 !

本欄でもご案内しましたように、写真展「京都市電2系統が走った町並み」が、本日3月1日(水)から開催されています。昨日2月28日は、私も午後から会場に入り、主宰の勧秀峰さんと一緒に設営をしてきました。勧秀峰さんが練りに練った企画、入念な準備作業のお蔭で、作業は順調に進み、まだ明るいうちに作業は完了しました。いつもの私など、成り行き任せの進行で、陽もとっぷり暮れた頃にようやく終わるのとはエライ違いでした。会場は、お馴染み、高瀬川畔の「高瀬川・四季AIR」、私たちが毎年のように使わせていただき、これで4回目。早くも京町家の玄関はポスターで埋められた。

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お城と鉄道 備後短信

準特急氏のお城シリーズで以前福山城と福塩線のモハ70系の紹介がありましたが、今回は「瑞風」と福山城です。

令和5年2月28日 中国新聞備後版

JR西が定期運行している瑞風の各コースの中で、山陽本線上りの場合、尾道で長時間停車し、福山は通過です。今回の福山停車のプランは、日本旅行(クラブツーリズム)の貸切列車で、下関1泊ツアーの帰路にあたります。「ウエスト銀河」のスジに「瑞風」を走らせたようです。3月15日はクラブツーリズム、16日は日本旅行の企画・販売で、京都10:18発、福山17:00着と、6時間半かけて福山まで走るようです。車内で音楽家による生演奏、昼食、茶会などが予定されているそうです。寝台車の昼間のアルバイト運用で思い出すのは「橋立ビーチ」ですね。瑞風とは比べ物にならない寝台車でしたが・・・。

なお新聞記事の写真に写っている伏見櫓は伏見桃山城から移築されたと伝わっています。

山陽路の115系タクアンも終焉か

山陽本線広島支社管内では227系レッドウイングが日常風景になりましたが、三原以東の岡山支社管轄の電車は黄色1色の115系、117系が活躍中です。しかしようやく227系が投入されることになりました。

令和5年2月4日 中国新聞朝刊

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 写真展「煙の記憶」レポート   ❹

テーマを外す

今回の蒸機展示では、4つのテーマに分けて展示しましたが、あえてテーマから外した写真も数点展示しました。たとえば「ヘッドマーク」では、蒸機前部のヘッドマークだけでなく、京都駅で撮影された「はと」後部のバックサインを展示、「山陰本線の蒸機」では、蒸機だけでなく、試作DLや初期DCを展示しました。テーマを絞ることは大事ですか、その中にテーマ外しの写真を混入させることにより、構図・車種が限定されることなく、流れに変化が付きます。狙いは的中し、ご来場者は、“ン?”という感じで立ち止まって、キャプションをじっくりご覧になって納得されていました。「あえてテーマを外す」ことも写真展の場合、一つの手法だと感じた次第です。

国鉄のディーゼル機関車の黎明期、国内の車両メーカーが、海外製の機器を積んだ試作車を独自に開発、国鉄に有償で貸し出して、テストを重ねた。山陰本線はテスト線区に選ばれて、一形式1両の試作DLが走った。写真のDF41 1もその一両で、汽車会社製の電気式、昭和34年から3年間、福知山区に配置されて、山陰本線、福知山線で試用された。人間国宝さんは、営業列車を牽く前に、客車1両だけの試運転を撮られている。「これは貴重や」の声とともに、「どんな色やったんかいな」の声も聞かれた。たしかにモノクロ写真では、色の想像もできないが、実際は、下部グリーン、上部オレンジだったと、お知り合いの方に教えてもらったが、実際は、退色、汚れで泥のような車体だったと言う。撮られた亀岡駅の背後も、いまは巨大なサッカースタジアムができて、現況と比較される方も多かった。昭和34年5月30日の撮影だか、客車はオハフ30 54[四コチ]と台帳に書かれていた。四国の客車が山陰本線で使われていたことも興味深い。

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 写真展「煙の記憶」レポート   ❸

山陰本線のC51・C54

「ヘッドマーク」から、第2章の「里を走り、川を渡って~山陰本線京都口の蒸機」に移ります。本展は4つのパートに分けて展示しましたが、それぞれ訴求対象が違います。「ヘッドマーク」は根っからの蒸機ファン向け、そして「里を走り、川を渡って」は、ご来場では最も多い地元、なかでも高齢の方々へ向けてのテーマでした。京都人の蒸機の思い出と言えば、やはり山陰本線だと、私も体感的に感じていました。さらに深耕するために、“二人展”のメリットを活かしました。すなわち、人間国宝さんが撮られた昭和30年代のC51・C54、私の撮った昭和40年代のC57と、異なる年代の二人展だからこそ、時代の幅が広がったのでした。山陰本線テーマは的中し、「保津峡へ来たら、窓を開けたり閉めたりしましたわ~」の感想が何度も聞かれました。会場へ入って、真正面に見える奥のコーナーから山陰本線を始めることになった。目立つところに、何を持ってくるか、やはりこれしかなかった。亀山区で最後まで残った原型C51として有名なC51 225だった。亀山区の印象が強い同機だが、昭和26年から10年間も梅小路区に配置されて、山陰本線の旅客を牽いていた。正面形式入りのナンバープレートは、同機ならではの魅力だ。

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 2023年版 雪が降ったら、やっぱり叡電へ

24日(火)晩からの“最強寒波”、京都付近のJRトラブルばかりが耳目を集めましたが、私も写真展片付け後は、危うく難を逃れました。電車内に閉じ込められた方から見ると、不届き者以外の何物でもないのですが、私はワクワクして翌日を迎えました。目を覚ますと約15センチの積雪、もう行くところは叡電に決まっています。このタイトル「雪が降ったら‥」は、2017年の投稿にも同じように使っていました。やることに、全く進歩がありませんが、私の家から30分で終点に到達できるのですから、これが京都の良いところです。他人様の写真ばかりを紹介して得々とするなと言われそうですので、今回は「現役老人」を示すためも、久しぶりの雪中撮影をご紹介します。フリーキップ「ええ、きっぷ」を握りしめて、まず着いたのが八瀬比叡山口駅、ちょうど、ほぼ同時発着の「ノスタルジック」731号と、「ひえい」の並びが見られた。これは2番線から発車がある場合のみに見られる、数少ないシーン。

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 写真展「煙の記憶」レポート   ❷

蒸機の“顔”も展示

山科の人間国宝さんが撮られたヘッドマーク付きの蒸機には、前回の走行写真だけでなく、形式写真、蒸機の正面、ヘッドマークのみもあり、意識してヘッドマークをテーマに撮り続けられていたことが分かります。本展示では、蒸機の正面に絞って、A4サイズで展示し、全体の流れのなかでアクセントとなるようにしました。たしかに正面写真は、いちばん車両の特徴が表れた、まさに“顔”とも言うべき部位で、写材としても最適でした。以前の鉄道雑誌にも「電車の顔」と言ったタイトルで、正面ばかりをカタログ的に並べた企画があって、その個性を楽しんだものでした。

やはり注目を浴びたのはヘッドマークを付けたC51だった。年寄りにしか反応はないかと思ったが、意外にも若い人たちからも「これは貴重ですね」という声を多く聞いた。写真は、いずれも快速時代の「いずも」の牽引に当たった化粧煙突のC51で、左は若番号のC51 3[米]米子区、右はC51 122[米]浜田区(既出)、いずれも昭和29年10月

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 写真展「煙の記憶」レポート   ❶

本欄でも紹介済ですが、1月18日(水)~24日(火)の7日間、山科の人間国宝さんとご一緒に、写真展「煙の記憶」を行なっていました。クローバー会の皆さんはもちろん、コメントを頂戴している外部の皆さん、「デジ青を見て新幹線で飛んで来ました」と初対面の方が来られたりと、地元から遠方まで、老いも若きも、男も女も、多くの皆さんと対話ができる貴重な体験をさせていただきました。ありがとうございました。

写真展が終わって何らかの報告をと思ったのですが、手前味噌なことを書くのも気が引けますので、ここでは、展示写真のなかから、山科の人間国宝さんの許可もいただいて、とくにポイントとなる写真をピックアップしてご紹介したいと思います。

会場のエレベータが開いて、ギャラリーの全体がパッと眼に飛び込んだ時の“ワクワク感”を大事にした。そのため、真っ先に持って来たのが、テーマ1「栄光の証し、輝かせ」だった。すべて山科の人間国宝が撮られた、昭和30年代、蒸機に掲げられたヘッドマーク(愛称板)だった。山科の人間国宝は、山科の大築堤を行く、ヘッドマークを掲げた「つばめ」「はと」に感激し、蒸機に限らずヘッドマークを掲げた列車を撮るため全国を巡られた。

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