大規模土砂災害の傷跡が癒えないなかで、予定通り可部線の延伸工事が始まりました。まずは残されていた古いレール、枕木、バラストの撤去からです。中間駅2駅の駅名はまだ決まっていませんが、開業は1年半後の2016年春ですから あわてなくても良いのでしょう。旧線跡のたった1.6Kmの復活でも随分時間がかかるものだと思います。1.6Kmに中間駅2駅となると 駅間は5~600m程度でしょうか。もともと駅間の短い可部線ですが、いかにも元広浜鉄道らしい延伸工事です。9月30日の中国新聞記事をご紹介します。
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今週末は船場鉄道フェスティバルへ
今週末は現役生の船場鉄道フェスティバル(船場まつり)です。日時、場所等を再掲します。当日は船場が大変盛り上がる日です。交通の便もよいので、ぜひご家族、お知り合いをお誘いの上、お越しくださいませ。なお、先日お知らせしていた3日(金)は実施いたしません。ご了承願います。
船場鉄道フェスティバル
日時:10月4日(土)、5日(日) いずれも10時から16時の間です。
場所:船場センタービル6号館2階(最寄駅:堺筋本町駅または本町駅、6号館は堺筋本町にやや近いです)
内容(予定):鉄道模型走行展示、青信号(バックナンバー)の販売、青信号(最新号)の予約受付
なお、当イベントには大阪市立大学鉄道同好会、関西大学鉄道研究会、大阪産業大学鉄道研究会も参加予定です。
同志社大学鉄道同好会公式ホームページ:http://drfc.web.fc2.com/schedule.html
山の上から見下ろすと
平成24年11月と12月に同名の記事をご紹介しました。今日は少し暑さも残るとは言え さわやかな秋空なので 久しぶりに山に登ってみました。眼下に広がるM重工三原製作所和田沖工場には1周約3Kmの試運転線が完成し、納入前の広電グリーンムーバーLEX1006号が軽やかに走っていました。
今年もラッピング電車貼ってきました
第6回大津ジャズフェスティバルの京阪電車のラッピング、今年もお誘いいただいて行って来ました。昨年のメンバーのぶんしゅう先輩、T田さんに加え、今年は乙訓の御老人も出動いただきました。
いつものようにワイワイと作業が進みます。
昨年とはデザインが異なり、戸袋の窓にもラッピングが施されましたが、昨年の経験を生かし、DRFCメンバーに学生メンバー3人を加えたグループで2面、約1/4を貼り、1時過ぎには貼り終えることができました。
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鉄道写真展 滞りなく終了
9月8日より寒梅館地下ギャラリーで、現役生との共催の鉄道写真展は、本日、20日(土)を持って滞りなく幕を閉じました。この日は、17時から会場で撤収作業を行ない、三々五々掛けつけた10数人の会員が手際よく片付けを行ないました。なかには、大津で別のイベント準備作業に協力した会員も転戦して参加、約30分余りで作業は完了し、会場はもとの姿に戻りました。
会場が分かりにくかったとは言え、会員が手分けして案内・PRにつとめた結果、東京や名古屋からの会員だけでなく、一般の来場者も来場、なかには、老舗鉄道雑誌の編集長にもご来場いただきました。会場に設けた芳名録の感想欄には、「各人の写真のクオリティに脱帽」「力作ぞろいで感銘を受けた」「同志社周辺の市電の姿に青春の一頁を見た」と言ったコメントもあり、意を強くしました。写真展にご協力・ご来場いただきました皆さまに御礼申し上げます。
▲壁面から写真額の取り外しを終えたあと、黙々と“両面テープはがし”に励む会員たち
鉄道写真展 あと2日!
寒梅館地下ギャラリーでの鉄道写真展も、残すところ、あと2日の会期となりました。
大学施設の地下というオープンな場所ではないため、押すな押すなの黒山の人だかり、という訳ではありませんが、それなりの来場者で、芳名録には感想や書き込みもあって、熱心な来場者も見られます。行き届いた、静かな環境のなかで、皆さんゆっくりと写真鑑賞していました。
遠来からのOBも、京都への用務も兼ねて、東京や名古屋からも訪れています。平日は受付を置いていないため、応対ができなかったこと、お詫びいたします。
まだご覧になっていない皆さん、写真展はあと2日、ご来場をお待ちしています。なお最終日に当たる20日(土)は、午後5時に閉場し、その後、撤収作業を行ないます。
▲さる13日(土)には、現役生とともに、撮影者による撮影秘話などのトークショーが行なわれた。従来は、打ち上げだけに終わっていた写真展の中間日のイベントを、何か実のあるものにしたいとの初めて試みだったが、予想外の参加者、また一般の来場者もあって、和やかな雰囲気のなか、撮影者から話を聞くことができた。現役生の撮影視点も興味深く聞き、現役生との交歓もできた。
鉄道同好会 秋のイベントで大忙し
デジ青をご覧の皆様、こんばんは。現役生の今後の出展イベントについて、確定事項をお知らせいたします。
①9月21日(日):2014サークルステーション IN 三条(京阪三条駅地下1階コンコースにて)
「鉄道模型展示と運転体験」を予定しております。12時から15時30分(予定)の間です。尚、本イベントへは3年連続の参加です。詳しくは京阪電車のホームページをご覧ください。
②から⑤のイベントに関する実施場所・企画内容の詳細は後日お知らせいたします。
②10月3日(金)~5日(日):船場まつり (船場センタービルにて)
本イベントへも3年連続の参加です。
③11月1日(土)、2日(日):同志社クローバー祭(同志社大学京田辺キャンパスにて)
京田辺キャンパスで行われるお祭り(学園祭)です。今回が初出展です。
④11月9日(日):ホームカミングデー(同志社大学今出川キャンパスにて)
こちらも3年連続で出展いたします。
⑤11月26日(水)~28日(金):同志社EVE(同志社大学今出川キャンパスにて)
今年の出展イベントの締めです。平日ではありますが、多数のご来場をお待ちしております。
なお、以下の公式ホームページ等でも随時最新情報を更新して参りますので、この機会にぜひご覧ください。
公式ホームページ:http://drfc.web.fc2.com/
公式Facebook:https://www.facebook.com/doutetsuDRFC
公式Twitter:https://twitter.com/doutetsu_DRFC
以上、報告でした。皆様のご来場をお待ちしております。
いよいよ開幕!
広島から2題
広島市北部の土砂災害から2週間が経ちました。不通になっていた可部線が運転を再開しました。9月2日の中国新聞朝刊から写真とコラムをお届けします。コラム「天風録」は朝日の「天声人語」にあたるものです。
50年前の撮影地を行く -3- 余話その3
新幹線記事を切り抜く
新聞切抜きは、開業日を迎えた今回で終わる。
東海道新幹線は、オリンピックに間に合わせるため突貫工事で進められたと思われがちだが、新幹線の起工式が行なわれた昭和34年4月では、まだ東京オリンピックは決まっていなかった。逼迫した東海道線の救済目的であり、開業予定は昭和39年3月とされた。しかし、駅やルートは、すべては決まっていなかった。
翌年、昭和35年5月に東京オリンピック開催が正式決定される。オリンピックまでの開業は絶対条件となり、当初の完成予定からやや遅れたものの、オリンピックの10日前に開業を迎える。
着工からわずか5年で、時速200キロ以上で営業運転を行なう世界初の高速鉄道を完成させた。“この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された”と記された東京駅の新幹線記念碑が語るように、熱く燃えた昭和の時代だからこそ完成できた、東海道新幹線開業への道のりだった。
▲「京都に停車」の大見出しが躍る昭和39年8月19日の紙面。待望の超特急の京都停車が実現した。同時に、ダイヤや料金も発表された、開業の40日前。
50年前の撮影地を行く -3- 余話その2
新幹線記事を切り抜く
新幹線の開業が迫っていた時期の京都での話題は、やはり最速列車の超特急(まだ愛称は決まっていなかった)の京都停車問題だった。当初の最速列車の停車駅は名古屋だけで、京都は通過扱いだった。これは、京都に停車すると、路盤安定後の営業運転で、3時間ジャストを維持できないと言うのが表向きの理由だった。なかには、京都周辺の土地買収がなかなか進捗せず工期も遅れ気味だったため、協力しなかった京都府市への仕返しだとも囁かれた。しかし、“特急が停まるとは言え、特急は各駅停車ではないか”と、京都人のプライドがいたく傷つけられた。各所を巻き込んでの陳情合戦の末、ついに超特急の京都停車が実現するのは、開業のわずか1ヵ月半前のことだった。
どですかでん さん のリクエスト記事
新幹線を走った阪急電車
昨日のコメントで、どですかでんさんから頂いた「新幹線を走った阪急電車」の記事リクエスト、京都周辺の新幹線ニュースなら必須なのに、私のスクラップブック「新幹線の出来るまで」にはありませんでした。あわてて物置に駆け込み、探索しましたところ、ありました。新幹線の分類ではなく、一般の鉄道の分類をしていましたので、別のスクラップに貼っていました。
いずれも昭和38年4月24日夕刊の記事です。「一足お先に超特急」のタイトルが、当時の事情をよく物語っています。私も、切り替え直後に乗ったことがありましたが、とくに乗り心地で印象に残っていることはなく、新幹線気分を味わうことは出来ませんでした。ただ、今まで地上線だったところが、築堤に移設され、窓から見る風景が違っていたことは覚えています。
なお、私は写真を撮ってはいませんが、I原さんは撮影された写真があるはずです。
▲地上線だった阪急京都線大山崎~水無瀬~上牧は、平行して新幹線が築堤で建設されることになり、阪急も新幹線と同じ築堤で高架化することになった。阪急の工事期間中、すでに完成している新幹線の軌道を走ることになったもの。阪急が標準軌だったからこそ出来た芸当だった。
50年前の撮影地を歩く-3- 余話その1
新幹線記事を切り抜く(1)
-3-で扱った新幹線開業のことで少し横道へ。
大阪のデパートに「夢の超特急展」を見に行ったところ、当時のパンフ、新聞記事などの紙資料も多く展示されていた。さらに、ピクの最新号「東海道新幹線50年」を見ると、高名な鉄道研究家の名を採って△△コレクションとして、当時の新聞記事が載せられていた。なるほど、新聞記事の切り抜きでも、50年も経てば立派な資料として展示・掲載されるのか、と改めて思ったものだ。
私も鉄道関連の新聞切り抜きは、中学生、高校生時代には熱心にやっていた。鉄道の成長期だったから、新線開業や車両新造も多く、“△△で電車とダンプが衝突”と言った、当時は日常茶飯事の鉄道事故まで、こと細かに切り抜いていた。いま見返しても、鉄道雑誌には決して載らないローカルネタは貴重な記録で、不鮮明ながらも添えられた写真にも注目である。
その時代の鉄道の注目株は何と言っても新幹線だった。新聞にも、大きな扱いで記事が載り、私も“新幹線ができるまで”とタイトルを付けた特製のスクラップブックを作っていた。そのなかから、京都を中心とした新幹線関連の記事を時代順に抜粋してみた。▲初めて切り抜いた新幹線の記事。従来の狭軌のスピード記録175キロを、初めて広軌の新幹線が190キロを出して追い抜いた、と言うもの(昭和37年10月27日)。
50年前の撮影地を歩く -3-
50年前の今日、-2-と同じ高倉陸橋へまた行っている。昭和39年は、東京オリンピックとともに、日本史に残る東海道新幹線の開業年だったが、この8月25日は、私にとっての新幹線の初撮影となった。
新幹線には今も昔も、余り関心を示さないが、開業から半世紀も経ったかと思うと、ひとしおの感慨も沸いてくる。数日前も、大阪・高島屋へ「夢の超特急展」を見に行ったが、子どもも混じって大変な人気だった。書籍のほうでも、開業50年を謳った新幹線の関連本が続々と出版されている。
▲この日、8月25日は、東京~新大阪間を、初めて「ひかり」の営業運転と同じ4時間で運転する試運転初日だった。この模様はNHKテレビで、東京発車から新大阪到着まで、朝8時30分から4時間以上の生中継を行なった。こんなに長時間の生中継は、日本のテレビ史上初めてのことだった。そして、テレビを見届けたあと、戻りの試運転列車を撮るため、例の高倉陸橋へ自転車を走らせた。高倉陸橋は、在来線の撮影好適地だけでなく、京都駅発車直後の新幹線の撮影にも向いている。
日本の鉄道史を塗り替える新幹線の出現は、日本人の共通の関心ごとで、東京オリンピックとともに、いよいよそれが秒読みに入ってとあって、今までに経験したことのない、高揚感に日本全国が包まれていた。高倉陸橋も、いまの騒ぎに比べると、ささやかなものの、多くの市民が詰めかけていた。
湖西線 開業40周年 -3-
これもまたタイミングを逸してしまったが、湖西線開業40周年関連の続きを。
昭和49年7月20日の開業日当日は、以前に記したとおり、開業式や各駅の祝賀の様子を撮ったが、その翌日も、日曜日とあって、F本さんとともに、走りの様子を収めるため、志賀、近江高島、安曇川へと向かった。
▲志賀で降りて蓬莱方へ戻り、琵琶湖沿いの区間で撮影する。この場所、江若で言えば近江木戸に当たる。湖西線の駅は、江若時代と同一地点または接近して駅が設けられた場合は、ほぼ江若の駅名を継承したが、この近江木戸のみは字名のため、より広範な当時の町名である志賀を採用した。田んぼのなかだけに、築堤が続く以外は、江若時代と大きな変化はない。ただ、近くにあった天井川の木戸川トンネルは埋められ、湖西線は高架で一挙に天井川を越えている。新旧の写真を対比すると、左側に見える2本の松の形が同じで、ほぼ同一地点と判る。
山口線 8月23日に全線復旧
昨年7月末以来不通になっていた山口線が1年ぶりに全線復旧します。なんとかすべりこみで 夏休みの最後に「やまぐち号」を走らせるようです。新聞記事では「SLやまぐち号」となっていますが、C571の修理が終わったというニュースは聞いていないので、「DLやまぐち号」では? それはともかくご同慶の至りです。
佐竹さん 三陸鉄道運転再開に立ち会う
報告が遅れたが、佐竹保雄さんが、このたび発行の「レイル」91号に、今年4月に運転を再開した三陸鉄道南リアス線の開業レポートを、写真とともに載せられている。
▲佐竹さんは昭和50年12月の室蘭本線で、最後の蒸機客車列車を撮ってから、日本の鉄道の撮影をしていない。運転再開の撮影は、40年ぶりの日本の鉄道の撮影となった。雪の残る肌寒い吉浜駅で、大漁旗で迎えられた祝賀列車を撮影するため、奥さまらとともに、2時間も前から場所取りをされたと言う。
三陸鉄道南リアス線の開業に立ち会うこととなった契機は、クローバー会も後援して、ことし3月に開かれた「東北を旅して その6」。奥さまらが被災地訪問を続けられているなかで、三陸鉄道の運転士と知り合いになり、このイベントでも、運転士撮影の優れた写真を多数展示し、来場客からも大きな反応があった。そして、以前にも本欄で紹介した、山田線大槌駅付近の写真が、大槌町長の目に止まり、奥さまが大槌町へ贈呈され、元気だった時代を偲ぶ大槌のシンボルにしたいと地元で大きな話題になった。
この二つが起因となって、佐竹さん自身が、三陸鉄道全線開業の日に、開業の立会いと、大槌町訪問の旅に出られることになった。夜行バスに初めて揺られるなど、過酷な7日間の旅だったが、佐竹さんは元気で旅を続けられた。この内容が、真摯な佐竹さんらしい文脈で綴られている。また第二章として、昭和43年に初めて佐竹さんが山田線を訪れて撮られた記録も写真ページで構成されている。
まだ鉄道への情熱を持ち続けられている佐竹さんの一端を知ることになった。また、同号には、伊香保電車27号の復元、顛末記も載せられている。伊香保電車27号と言えば、本欄で、乙訓老人や西村さんが紹介された渋川市の医院の庭に保存されていた車両で、このたびブリル製の単台車も付けて完全復元され、市内の公園に保存されている。
▲記事のなかには、鉄道復興のシンボルとして、大槌町役場に飾られたクローバー会会員の撮影した大槌駅付近の写真も載せられている。
湖西線 開業40周年 -2-
湖西線初乗りの日
西大津で発車式を撮ったあと、10時57分発の新快速3628Mに乗った。湖西線の新快速は、すべて堅田行きだが、シーズン中は近江今津まで延長運転されており、初日からさっそく実施されていた。ただ、新快速は153系6両の時代で、車内は満員、各列車とも次第に遅延してきた。比良で降りて、普通列車に乗り換え、北小松へ向かう。現在、新快速は近江舞子以北は各駅停車で、北小松にも停車するが、当時、新快速は北小松は通過していた。北小松にすべての新快速が停車するのは、平成8年の改正からだ。▲思い出の北小松に降り立つ。江若の北小松駅跡はまん前にあった。江若廃止後も駅舎などはしばらく残っていたが、いまは跡形もなく、道路の広場と化していた。5年前の同志社北小松学舎での宿泊合宿を思い出しながら、近江高島方面へ歩き、ヘッドマークつきの113系を待った。電車もさることながら、真新しい軌道が印象的だった。全線高架、踏切ゼロが謳い文句の湖西線だが、柵も何もなく、難なく線路端へ到達できた。
湖西線 開業40周年 -1-
湖西線初乗りの日
湖西線が開業して40周年を迎えた。江若鉄道が廃止されたのが昭和44年11月、その廃線跡も利用して工事が進み、その5年後の昭和49年7月に山科~近江塩津間74キロが開業するというスピード開業だった。
江若鉄道の廃止は確かに一昔も二昔も前の出来事、という認識が私にはあるが、その5年後の湖西線開業は、今から少し前の出来事という思いがある。それだけ、江若鉄道と湖西線は、同じ湖西地方の鉄道として語れないほど、全線高架・複線電化の超近代的な鉄道の出現だった。
▲その湖西線開業40周年を祝って、開業日の7月20日に「湖西線開通40周年記念号」が京都~近江今津間にDD51+サロンカー「なにわ」で運転され、さらに近江今津~敦賀間に、同編成で「高島市民号」が走った。私もホント久しぶりにイベント列車の撮影気分を味わった。
さて、話は40年前に戻る。湖西線開業の日、昭和49年7月20日は土曜日だった。私も社会人になって3年目、この年に勤務先ではようやく土曜日が休みになった。喜び勇んで、朝から湖西線の開業の模様を確かめに行った。
京都7時43分発の堅田行き113系8連の458Mに乗り、山科から湖西線で入る。まず通過する長等山トンネルは、トンネル内で下り旅客線と貨物線が合流する珍しい構造であることがよく紹介されていたから、車内から目を凝らして、しっかりと確認した。長等山トンネルを出ると、すぐ西大津。大津でも浜大津でもない、“西大津”という駅名がずいぶん新鮮に聞こえた。
▲つぎの唐崎までの間、カーブから乗車列車を写す。車窓からは琵琶湖がきれいに見える。高架からの琵琶湖は、江若では味わうことができなかった新鮮な眺めだった。ちょうど下に直線で走る道路は江若の廃線跡だ。湖西線の開業を見越して、宅地開発がずいぶん進んでいたことが分かる。
▲湖西線の普通列車はすべて113系電車となった。寒冷な湖北地方も走ることから、耐雪耐寒設備、ドア半自動化が必要となり、新たな仕様の113系700番代が全車冷房つきで新造された。当時、東海道線を走っていた0番代と比べると、前照灯がシールドビームになったのが、外観上の大きな違いで、おとなしい印象となった。当初は4両編成単位で使用、同番代はその後改番され5700、5750番代となっている。▲▲堅田から西大津に戻り、祝賀列車の発車式を待った。祝賀のヘッドマークは、すべての113系電車に取り付けられ、すべて4両2本の8連で運転されていた。
西大津9時42分発の464Mが祝賀列車となった。最初、祝賀列車が発着する下りホームで待っていたが、直前になって、関係者以外は立入禁止と職員から追い出された。やむを得ず上りホームから、発車式を写した。しかし、この写真を見ると、関係者以外も相当いるように思える。