市電誘拐事件!?

京都市内の高架下(コンプライアンスのために場所を秘す)に保管されていた京都市電(700型、500型など)がいつの間にかなくなっているのに近くに住んでいる市電マニアが気づいて大騒ぎになっている。

いなくなったのが分かったのが10日の日曜日。散歩していた市電マニアがいつもの様に高架下に目をやると、トタン葺きの小屋は跡形もなくなりきれいに整地されていた。あわてて付近を探したが行方はようとして分かっていない。また今のところ身代金などの要求は来ていない模様。

だれか行き先を知っている方があれば編集部までご連絡願いたし。

「みんなの鉄道」写真展のお知らせ

~おいでよ!レールエンターテイメント~と題して写真展が東京の富士フイルムスクエアー1階ギャラリー「PHOTO IS」で開催中です。

6月から弁天町・鉄道科学館でDRFC写真展「鉄路輝く」が開催されますがわれわれの腕前向上にはプロの作品を見ることが欠かせません。東京の六本木なので関西在住の我々はなかなか行けませんが東京支部員の皆さんは見てきて感想などを聞かせてほしいものです。

出品者は、牛山隆信、栗原景、中井精也、真島満秀、持田昭俊、矢野直美、山崎友也

その他、特別イベントも開催されるらしい。入場料無料

【日時】5/27まで。 10:00から19:00

【場所】東京都港区赤坂9-7-3 東京ミッドタウン内 03-6271-3350

都電荒川線 8800形 営業運転開始

4月26日(日曜日)都電荒川線待望の新車、8800形(8801、8802)が営業運転を開始した。当日は荒川車庫で9時30分から出発式が行われ、交通局長、荒川区長、荒川区議会議員等の長い挨拶が延々と続いた後、9時59分発早稲田行(8801)、10時発三ノ輪橋行(8802)から営業運転を開始した。ロギング太郎さんと出発式の様子と、営業一番電車の撮影のため荒川車庫に赴いたが、ざっと500人位の人出でごった返していた。営業1番電車は、早稲田行を諦め、三ノ輪橋行を先回りして町屋駅前で撮影したが、ここでの撮影者は我々2人だけであった。

同日から6月7日まで限定1000枚(売り切れ次第終了)で「8800形デビュー記念・都営まるごときっぷ」が発売されたが、絵葉書、レジャーシート、クリヤーホルダー、マグネット、お菓子のオマケがついていた。

昨日、出勤途中に町屋で途中下車して、大塚駅前行の8802に荒川車庫前まで乗車したが、内装や座席間に取り付けられた黄色のスタンションポール等は、JR東日本のE233系に通じるものがあり、車内の蛍光灯は8500形がケース付き連続構成に対し、剥き出しの1本おきと簡素化されていた。

8800形は本年度5両と来年度5両、計10両作られ、代替に7500形が廃車される予定である。昨日、本日とフレックスタイムを使用して、朝のラッシュ時間帯を2日間連続で観察したが、7500形は、大塚駅前、町屋駅前、王子駅前、荒川車庫前で折返しの区間運用が多かった。意識的なものか、「たまたま」なのかは不明である。

都電荒川線は、これから沿線のバラが咲き始め、撮影には最適の季節となる。8800形、レトロの9000形、間もなく姿を消す7500形の乗車と撮影を兼ねて是非訪れていただきたい。

 

出発式準備  荒川車庫  2009. 4.26

三ノ輪橋行営業運転の1番電車

 

記念都営まるごときっぷ

 

レジャーシート

 

マグネット

 

お菓子の包装紙

 

町屋駅前で折り返し大塚駅前行となる8801  2009. 4.30

 880   荒川車庫前  2009. 5. 1

 

8802   荒川車庫前  2009. 5. 1  (向きが逆になっている)

なにわ筋線いよいよ出発進行!?

新聞の報道によると以前から出ては消えていた幻の新線・なにわ筋線が橋下大阪府知事の肝いりで政府も調査に乗り出したとか。大阪市やJR,南海電鉄など思惑が入り乱れて決定までの道のりはまだ遠いようだが笑い話からはまじめな提案に変わった事はまちがいない。そこで物知りな会員諸氏に教えを請うのだが、はたしてこの線は必要なのか?効果があるのか?作るとしてこのルートでいいのか?費用対効果はどうか?など無知な私にも分かるように教えて欲しい。

素人が考える問題点

①3000億円もかかるといわれるが短縮時間は新大阪から10分ほど

②南海汐見橋とJR難波に接続するが南海難波にはつながらない。南海のメリットは?JRのメリットは?

③おおさか東線との関係は? など

ブルートレインのこと

お久し振りです、掲示板読者の皆さん。近頃は掲示板の話題レベルが高く、アマチュアにはなかなか参入のチャンスがありませんでしたが、昨今のブルートレインの話題には割り込めそうと、冬眠から目覚め投稿しました。 学生時代、昼間の関西でブルートレインにはめったにお目にかかれず、ようやく西方の山陽本線でカメラを向けました。 K.Y.さんと二人で、瀬野機関区訪
問と戸田-富海間の撮影行です。夜行で向かい、朝の広島駅構内で特急機関車軍の撮影。

機C6243【広二】と機C6217【下】 04824

機C6243【広二】と機C6217【下】   04824

そしてあさかぜの出発。

3レ『あさかぜ』、機C6217【下】 04825

3レ『あさかぜ』、機C6217【下】   04825

この日の前夜1962年5月3日、あの三河島事故が発生しました。夜行の車内、ラジオで事故を知り、また、翌朝の新聞で三
河島に住む同姓同名の親戚の名前を見つけましたが、他人と判り旅行を続けたものでした。その日は、広島電鉄を撮影。翌
日に瀬野機関区を訪ねました。機関士の作業服に着かえ、重連補機の前方の機関車に乗車。瀬野-八本松間を往復しました。 翌日は、戸田-富海間で撮影です。天気はよく、瀬戸内の波は静かで絶好の撮影日和でした。午前中、相次いでブルー
トレインが通過。C62の勇壮な姿に接して大満足でした。撮影はいずれも、1962年5月5日。

3レ『あさかぜ』、機C6217【下】 04917

3レ『あさかぜ』、機C6217【下】   04917

5レ『はやぶさ』、機C6234【下】 04920

5レ『はやぶさ』、機C6234【下】   04920

K.Y.さんは、鉄道施設に昇り撮影を行っていました。その時の写真を、今から4~5年前、例の写真集募集の折りに見つけま
した。普通では撮影出来ぬ見事なものでしたが、昨今なら間違いなく問題になっている事でしょう。 K.Y.さんですか? 某電
鉄に勤め、系列のホテルのトップに上り詰めたあの御仁。なるほど当時から登る事に秀でていました。 次回は、その一年後、やはりK.Y.さんと二人で、鹿児島から熊本まで特急券を買って、『はやぶさ』に乗車した話と、九州各地のブルートレインの写
真を紹介します。 『貧乏学生二人、はやぶさに乗る』。乞うご期待!

とりあえず、総会写真速報

写真はプライバシー保護のため、縮小サイズで掲載します。後ほどお手元へ写真をお届けします。

簡単な説明:写真、上から

①総会参加者の集合写真(名鉄犬山ホテル)

②再会に喜ぶ長老達

③明けて明治村で若き日の想い出に殺到する会員達

④DRFC恒例の“万歳三唱”を人通りが絶えたことを確認してから素早く行った。

 

⑤鉄道趣味界の至宝を多く輩出した当会ならではのレクチャー(上:なんでもない台車に盛り上がる)(下:キハ6801について須磨の大人による講義)はDRFC会員であることのありがたさを再確認した。

⑥もう、お別れの時間。SLマニアの「ぼく」も残念そう。

「富士」を送る (2)

151系電車の「富士」が消えた翌日、昭和39年10月1日からは、別の寝台特急に「富士」の名は受け継がれます。東京~熊本・大分間の特急「みずほ」のうち、山陽本線の全線電化を機に大分編成を単独運転することになり、その名が「富士」となったのです。客車はもちろん20系、牽引は東京~下関間がEF60500番代、門司~大分間がDF50、翌年には東京~下関間がEF65500番代(P形)に変更されたため、EF60500番代「富士」はごく短期間でした。特派員も写している訳はなく、他の特急でその姿を偲ぶことにします。

EF60に牽かれ丹那トンネルを出る「富士」、ではなく「あさかぜ」(昭和40年)

さらに同昭和40年10月改正から西鹿児島まで延長、「富士」は、日豊本線経由で東京~西鹿児島間を結ぶ日本一長距離の特急となります。蒸機を求めて九州を彷徨っていると、DF50のオレンジ・グレーと20系客車の青い車体が絶妙のバランスで、特急への羨望を抱かせたものでした。DF50が門司~西鹿児島間をロングランしたのも特筆されます。

日豊本線大神駅を通過する上り「富士」(昭和42年)

日豊本線田野の鉄橋を行くDF50+20系の「富士」(昭和42年)

 いっぽう客車も昭和50年には20系から24系に。昭和51年にはさらに24系25形に置き換えられます。さらに牽引機も昭和53年にはEF651000番代(PF形)に変更されます。趣味的に見れば、昭和40年から50年までの10年間、EF65P+20系の時代が最も輝いていた時代に見えます。

広島駅に到着の下り「富士」。20系客車は15両の長大編成だった(昭和42年)

湯河原付近のカーブを駆け、東京へ急ぐ上り「富士」(昭和49年)

その後昭和60年になるとEF66に牽引機を変更、JRになってからは、ロビーカー、個室寝台ソロなどの体質改善が図られますが、その後の凋落化に歯止めが掛からず、食堂車の営業休止、運転区間も南宮崎、大分と短縮、ついには平成17年に「はやぶさ」と併結となり、14系15形となった編成も半減となり、ついには廃止を迎えることになりました。

EF66牽引となった「富士」。ヘッドマークも戦前の展望車のバックサインに似せたデザインとなった。藤沢付近(平成7年)

「はやぶさ」と併結となった現在の「富士」。名古屋駅(平成20年)

 

「富士」を送る (1)

特急「富士・はやぶさ」が3月14日のJRダイヤ改正で姿を消します。東京駅から発着する特急寝台はすべて消えてしまうことになり、毎度のことながら激パの様相を呈しているようです。
今まで冷ややかな眼で見ていた特派員も、さすがに終わりが近づくと、居ても立ってもいられず、上京の機会があるとカメラ持参で行くようになりました。しかし、行くたびにダイヤが乱れてカラ振りばっかり。ついに18きっぷ初日に、これも定期運用がなくなる「ながら」に乗って東田子の浦でやっと最後の姿を捉えることができました。

あと10日余りの「富士はやぶさ」が東田子の浦を通過

「富士・はやぶさ」のなかでも「富士」は、「櫻」とともに最初の愛称名であり、まさに日本を代表する特急として格別の思いがあります。「さくら」は九州新幹線で復活することになりましたが、「富士」の名は地域性もあって、再び復活することはないのでしょうか。

「富士」「櫻」は、昭和4年に一般公募によって付けられた初めての愛称で、同年9月のダイヤ改正で、「富士」は東京~下関間の1・2等特急、「櫻」は東京~下関間の3等特急として走り始め、まもなく最後尾にヘッドマークも付けられます。その後、関門トンネルの開通によって「富士」は、長崎まで延長されるものの、太平洋戦争の勃発により、ほかの特急「燕」「鴎」とともに「富士」「櫻」の名は昭和19年に消えます。
戦後の特急復活は昭和24年の「へいわ」から始まります。その一年後には「へいわ」は「つばめ」に改称、続いて「さくら」が昭和26年に臨時特急で、「かもめ」も昭和28年から山陽本線の特急としてそれぞれ復活、戦前の特急愛称のうち、3列車は復活しますが、「富士」だけはその名を表しません。日本を代表する愛称であったため、それに相応しい列車が現れるまでは使用を控えたというのは有名な話です。

ようやく「富士」の名が表れるのは、昭和36年10月、“サンロクトオ”の特急増発のときです。すでに走っていた、こだま型151系の増備によって、東京~神戸~宇野間に新設された電車特急が「第1富士」「第2富士」となります。
写真は、特派員が山科でとらえた唯一のマシな電車特急「富士」です。時は昭和39年9月30日、東海道新幹線の開業を翌日に控えた、東海道本線電車特急の最後の日なのです。当時、特派員はまだ中学3年生、平日だったため、午後3時ごろ学校から帰り、それから京津線に乗って御陵で降り、築堤へ駆け上がって次々に来る本日最終の優等列車をオリンパスペンEで撮りまくりました。

最後の日の151系「富士」。明日からは新幹線が開業し電車特急はすべて東海道線から撤退する

今なら、恐ろしい数が押し寄せてくるはずの最終日にも関わらず、大カーブには誰一人として居ません。天下の名勝、山科大カーブを独り占めしてじっくり最終日をかみ締めたのでした。
井原実さんが、この「富士」に連結されていたクロ151の一等特別席であるパーラーカーに乗るために、アルバイトで溜めた資金を大枚はたいて神戸から東京まで乗り通したことが旧掲示板に記されています。写真の最後部がそのクロ151です。

これなんだ?教えて下さい!

雨のそぼ降る午後、ある新刊をもって会長・乙訓の老人を訪ねた。会長猊下はいつもの玉座に鎮座まします。

実はこの本は3月からDRFCクローバー会に入会する法学部法律学科78年度生・上原正英氏の作品である。これを会長猊下にご高覧頂きたくて訪問したのである。会長猊下はぺらぺらと一瞥して後、「余はその昔、推理小説に熱中したものである。最近のものはあまり面白くないではないか」「畏れながら申し上げます。猊下はどのような作家をお好みでしょうか?」「よい質問じゃ。余は松本清張、横溝正史、江戸川乱歩、鮎川哲也などを好む」「畏れながら有栖川氏は鮎川哲也の弟分でございます」「なに?では読んでみよう」てな具合であった。

そのとき、長老猊下は表紙を見た瞬間、「この車体は●●鉄道の○○や」と即断を下された。《そんなこと、ほんとに分かるのかいな~?》と思わず疑いましたがなにせこの世界では伝説の方、確認したくてこっそりと皆様にお尋ねする次第です。

この車体の出自をご存じの方、教えていただけませんか?

なお、献上した本は私が先輩であることをいいことに作者にサインを入れてもらって買った本であり、決して巻き上げたりしたようないかがわしいものではないことを明言しておく。

前歯健造君は生きていた!

今日、40数年の時空を越えてあの「須磨のガイコツ」前歯健造君から電話がありました。声だけを聞けば学生時代と変わりません。

実は以前から前歯氏についてよからぬ噂が流れていました。それは彼が「クローバー会には入らん」と言ったきり姿を消して、以来ようとして行方が分からなくなった。雨の降る山間の駅の待合室でオリンパスペンEEを磨いていたとか、北海道の線路端でオリンパスペンEEで写真を撮っていた、とか噂が出ていましたが、その後途絶え数十年が流れてしまったのです。

だまされやすい純粋な性格のため、小海線がいい、と岩波さんに言われると「小海線を愛する会」に入り、客車はスハ43がスバラシイと中林さんに言われると「急行つるぎを愛する会」を創り、カメラはハーフサイズがいいと宮本氏に聞かされるとオリンパスペンEEを買ってきてずっと愛用していました。

そんな彼がなぜかたくなにOB会である「クローバー会」にはいるのをいやがり身を隠したのか積年の疑問でした。そんなとき東京特派員の鬼太郎さんから新宿の居酒屋で前歯さんに会ったとの連絡を頂いたのです。教えてもらったアドレスは会社のものでした。北京特派員の陳さんに相談したら「会社のアドレスへ個人でアクセスするとリストに載せられてあとでひどい目に遭わされるから気をつけろ」とまるでアダルトサイトでひどい目にあったような用心深さです。まさかとは思いましたが用心に越したことはないと売り込みを装いメールしてみました。その返事が先ほどの電話でした。

鬼太郎特派員のねつ造記事で誤解しておりましたがOB会には参加しているとのことでした。ただ、須磨の自宅は早くに引き払い金沢文庫にいるので関西に行く機会がなかったこと、会社のアドレスしかないので書き込みが出来なかったこと、でも子会社に監査役で行ってからは少し自由になって、この4月からさらに転勤するのでこれからは関西出張もありそうなのでぜひ会おうと話してくれました。今後は東京支部の集まりには出席しますと約束して電話を切りましたが40数年の時空は一瞬にして消え去ったのです。

やっぱりDRFCの仲間はいいものですね!

都電荒川線に新車登場

都電荒川線に昨年度に引き続きレトロ調の新車、9002号車が登場し、1月31日から営業運転を開始した。昨年度登場したレトロ車両9001号車と同形であるが、塗装は濃いブルーを基調としている。車体メーカーは「アルナ車両」で、制御装置はVVVFインバータ制御、駆動装置は平行カルダン、ブレーキシステムは電気指令式電磁直通ブレーキ、応荷重機能と回生、発電制動付と最新の装備である。今回は純増備のため代替廃車はない。

また、乙訓の長老の【1675】(1月27日付)の書込み通り、21年度と22年度に各5両ずつ新車を投入して7500形を代替する計画があるが、スタイルはレトロタイプではなく、8500形をベースにしたものになる模様である。

2月7日(日曜日)午前中、荒川車庫で9001号車と並べて撮影会が実施され、ファン、近所の人、家族連れ等、延べ500名位の来場者で賑わっていたが、ピーカンのため、光線状態はよくなかった。2月11日までは限定ダイヤで運行されていたが、12日より平日は他車と共通運用、土日は当分の間、限定ダイヤで運行される予定である。

2月11日、15時11分の出庫時刻に合わせて15時前に荒川車庫に行ったが、この電車に乗車するために並んでいた人が親子連れを中心に約20名、撮影者が約30名おり人気の高さが伺えた。撮影者は電車発車後、瞬く間に消えてしまったが、私は電車が戻ってくるまで撮影した。自宅最寄りの金町から僅か4駅、所要時間にして12分で荒川線と交差する町屋に到着する。今まで近過ぎていつでも撮れると思ってしまう所為か撮影する機会が非常に少なかったが、この日は久し振りにゆっくり撮影した。

 

2月7日撮影会   先輩格の9001号車との並び

出庫する旧カラーに塗装変更車7022号車との並び

出庫する7001号車との並び

台車は住友金属製FS91-B

アルナ車両の銘板

2月11日の9002号車 早稲田行

早稲田で折り返してきた三ノ輪橋行

先輩格の9001号車

EF55 さよなら運転

1月19日の【同軌講717】でロギング太郎さんよりご報告の通り、1月18日の「さよならEF55横川」号をもって営業運転を終了した。10月18日【738】でEF55の営業運転終了についてお知らせをしたが、最終日には是非見送りたいと思っていた。「さよなら運転」は12月に5回、1月に入って5回、計10回行われ、そのうち3回出かけたので、その時の模様等をお知らせしたい。

12月13日(土曜日)

この日は「さよならEF55みなかみ号」として高崎~水上間を運転された。たまたま高崎で仕事があり、先方とのアポが11時のため、新前橋~井野間で撮影した。赤羽駅7時過ぎの電車で出発したが、車内は一目で「鉄」とわかる乗客でほぼ満席、団塊の世代位の人が多く、中には「親子鉄」とおぼしき人もいた。高崎で107系や115系を少し撮影後、新前橋まで行き、井野寄りの陸橋で撮影した。EF55は単機で「磐越物語」用の12系客車を引いて通過した。時間があればもっと奥まで行きたかったが、今回はここで我慢せざるを得なかった。翌14日は水上まで行く予定をしていたが、朝から悪天気のため断念した。この日の水上は吹雪であったそうである。

 

         「さよならEF55みなかみ号」 新前橋~井野

1月16日(金曜日)

この日は、翌日上野発横川行で運転される「さよならEF55碓氷号」の送り込みが行われた。先頭にはEF641001が立ち、EF55は次位であることは判っていたが、たまたま休みが取れたので出かけた。赤羽駅を7時過ぎの電車に乗ったが、沿線には早くもカメラの列が見られた。取りあえず岡部で降り、通称「岡・本」で撮影しようと思ったが、激込みの様相であったので、深谷方面に戻った陸橋で撮影することにした。通過まで2時間以上もあるのに陸橋上には、すでに20名位の人がいた。電車や貨物列車が結構頻繁に通過するので退屈はしなかったが、電車にカメラを向けていた人は殆どなく、貨物列車にも無関心の人が多かった。人それぞれであるが、大半の人は「送り込み列車」の撮影のみが目的なのだろう。通過時刻が近付くにつれて、ますます人が多くなり最終的には80名位になり、パトカーが巡回する始末であった。

 

   翌日上野発の営業最終列車「さよならEF55碓氷号」の送り込み列車

 

                   赤羽駅通過

1月17日(土曜日)

この日は、上野発のEF55の最終日であった。EF55は戦後長く高崎線で活躍し、いわば「高崎線の機関車」であったので、以前から高崎線内で撮影しようと思っていた。(但し高崎線内は逆光)昨日と同じ電車で出発したが駅のホームの端や沿線には早くもカメラの砲列ができていた。どこで降りるか迷ったが、結局昨日と同じ岡部~深谷間の陸橋の反対側から撮ることにした。この場所は光線状態が今一つのため、人出は20名位であった。多くの人は順光で撮影できる信越線内に行ったのであろう。

その後、帰りの回送を撮影するため、信越線に移動した。群馬八幡で降りて、安中方面に歩き、碓氷川の「お立ち台鉄橋」の手前まで行ったが、今一つパッとしないため、結局引き返し、駅の近く踏切で撮影した。また、この日は、総本家青信号特派員さん、ロギング太郎さん、早川昭文さんが安中~磯部間で撮影され、その後、新島 襄先生の生家を訪ねられたそうである。ちなみに私は京阪沿線の中学校の時に「安中教会」と共に学校行事で訪ねている。撮影後、時間があるので久しぶりに両毛線を回って帰ろうと思い、211系5連の小山行きに乗車した。途中の下新田の車両基地には京浜東北線から引退した209系が4連と6連に組み直されて数本停められていた。トイレを設置して107系と115系の置換えに使用されると言われているが明らかにサービスダウンである。小山到着後、日光線の107系を見て帰ろうと思い宇都宮まで行ったが、発車まで30分以上あったので一旦駅の外に出た。宇都宮駅前には、地元資本の関東自動車、東武系の東野交通、JRバス関東の3社の路線バスが乗り入れているが、本数は関東自動車が圧倒的に多い。その関東自動車につい最近まで大阪市内を走っていた大阪市バスが入っておりビックリ。その他、元都バス、横浜市バス、川崎市バス、中扉両開き引き戸の京浜急行バス等が入り乱れて走っており、バスの博物館の様相を呈していた。話が横に逸れるが、7年位前は、関東自動車に元京阪宇治交通、東野交通に元京阪バスがおり、宇都宮駅前に両車が並び、樟葉の駅前のような光景が見られた。バスに見とれているうちに暗くなり、日光線は諦めて通勤快速で帰途に就いた。

         在りし日の思い出の高崎線を走る  岡部~深谷間

 

             折返しの回送列車   群馬八幡

1月18日(日曜日)

いよいよ営業最終日となり、赤羽をいつも電車で出発した。何処で撮影するか迷ったが、光線状態等を考慮し、安中~群馬八幡間の「お立ち台鉄橋」にした。今日は総本家青信号特派員さんが来られている筈で、高崎駅到着直後に携帯に電話すると「今コンコースにいる。同じ電車に早川さんと山川さんも乗っている筈」とのこと。エスカレーターを上がると特派員さんがおられ、暫くすると早川さんと山川さんとも合流することができた。満員の横川行(107系2連)に乗り、安中で下車。かなりの人が降りたが、行き先は全員「お立ち台鉄橋」である。約15分歩いて到着すると、既に150名位の物凄い人であったが、撮影場所は確保した。10時50分、定刻に営業運転の最終列車が通過した。上りの回送列車は、新島学園の先で撮影しようということになった。ここから現地までは4キロ以上の距離があるが、喋りながら歩いていると時間の経過を忘れてしまう。15人位の先客がいたが、なかなか良い場所であった。エンジン付きのパラグライダーで空から撮影していた人がいたのには驚いた。やがてDD51の引く回送列車の最後尾のEF55が目の前をゆっくりし通り過ぎて行った。

駅に戻り、「碓氷峠鉄道文化村」に行かれる、早川さん、山川さん、総本家青信号特派員さんとお別れして帰途に就いた。

久しぶりに皆さんと一緒に撮影して、楽しい一時を過ごさせていただき、時計の針が40年前に戻ったような日であった。 

             群馬八幡~安中(通称お立ち台鉄橋)

 

          安中~磯部間を行く最終営業列車の回送

かくしてEF55の「さよなら運転」は終了したが、自分でも不思議に思うくらいに拘った。昭和61年7月、営業復活運転の初日に撮影したことが原因かも知れない。

EF55に続く後ろの客車がいただけなかった。茶色の客車が既にないのならば致し方ないが、スハフ32、スハフ42、オハ47、オハニ36が現に在籍しているにも拘らず、12系が使用されたのは残念であった。昨今の諸情勢を考慮すると、安全性の見地から仕方がなかったのかも知れない。

EF55は、今回の復活運転に際し、大宮工場に入場して相当なお金と手間ひまをかけて整備をしており、このまま鉄道博物館に入れてしまうのは実にもったいない。もし、可能ならば、旧形客車を引いた元気な姿を再度見たいものである。

[番外]西北の杜号

平成5年3月7日早稲田大学鉄研の創立40周年記念列車で、上野~水上間を往復した。全区間EF5869が引き、高崎~水上間は先頭にEF551が連結された。編成は次の通りである。

←水上 EF551EF5889 +スハフ322357+オハ472261+オハニ3611+オハ472246+オハフ332555 (EF551は高崎~水上間のみ)

                  新前橋~群馬総社

掲示板記事が『レイル』に載る!

このたび発売されたプレス・アイゼンバーン『レイル』67号に、当クローバー会の重鎮、藤本哲男さんによる「法勝寺訪問記」、「山陰本線の客車たち」が24ページに渡って掲載されています。
特集テーマ「米子」にちなむ掲載で、「法勝寺」は昭和42年の自身の訪問記が記され、「客車」は山陰本線京都駅に出入りした客車が、藤本さん独自のカメラアイで綴られています。
「法勝寺」と聞いて思い出すのは、この掲示板に載った藤本さんの法勝寺の記事、そう、事の発端は、この掲示板を見ていた出版元のM氏が、須磨の老人を通じて、原稿依頼されたのが真相なのです。掲示板もクローバー会だけの連絡網でないことを改めて実感しました。趣味界のオピニオンリーダーもしっかり閲覧しているのです。
この出版の話を聞いたのは、先日、信越線へEF55の撮影に藤本さんと同行し、列車の通過を待っている間でした。鶴首して待っていた特派員は、昨日書店で発売を確認、値が張って普段は立ち読みで済ますものを、真っ先に買い求め読みふけりました。特派員も同じ年に法勝寺を訪れており、たいへん懐かしい気持ちでした。
同誌の「あとがき」で客車の例をとらえて、M氏は「日常のこまめな記録の成果」と述べています。事実、掲載されている客車は因縁のある車輌ばかりで、相当通い詰めなければ撮れないものばかりです。このスタイルを小学校の時から貫いてきた藤本さんは膨大な記録をお持ちです。掲示板でもすでにお馴染みですが、さらに出版界でもその一端が窺い知れたのです。

買って読もう『レイル』67号

 

CRH2 新幹線初の寝台車となる!!

驚きです。信じられません。あろうことか、何と新幹線が寝台に登場しました!!!

写真: / 写真販売

21日付中国新聞社電によると、北京-上海間で21日、高速車両のCRH2を寝台車仕様に改造した列車の運行が始まった。CRH2は日本で「はやて」、「あさま」などとして運行されているE2系新幹線電車がベースになっている。

中国では、「航空機は豪華、鉄道は最低限のサービス」とのイメージが強い。新たに導入された寝台車は、「航空機以上の鉄道サービス」を実現する計画の一環という。また「夜に乗車、翌朝着」の運行ダイヤで、目的地での時間を有効利用できることも競争力のひとつ。従来の航空機利用客の取り込みを狙う。

写真は、北京駅に入線した上海行きの寝台列車。列車番号はD301。発車時間は午後9時31分。D301は、現在、北京-上海間で建設が進められている京滬高速鉄道を走るのではなく、在来線を走る高速寝台列車として運行する。

これは、是非とも乗車してみなければなりません。会社を辞めてでも行く事にしました。
ただ、持病が悪化して直ぐに動けません。担当医の許可が取れ次第に駆けつけます。

JR東海のニュースリリースより

12月15日付のJR東海ニュースリリース「在来線車両の新製について」の項目の中で「国鉄時代に製作し老朽化した電車127両を廃車して、電車120両を新製すると共に、気動車10両を新製することとし、輸送サービスの向上、および、より一層の安全性の向上を図ります。なお、今回の車両取替により、電車についてはほぼ全てがJR発足以降に新製した車両に統一されます」と記されている。

新製される電車は、同社の主力として活躍中の313系で、投入線区は「東海道線(名古屋地区)、中央線、関西線など」となっている。廃車の127両については具体的な形式は記されていないが、117系72両、119系が55両在籍し、合計すると127両になるので、ほぼこれに間違いないであろう。117系は単純に新車と置き換えが可能であるが、119系がどのようになるのか気になるところである。新車の投入線区に「飯田線」が記されていないが、「など」に含まれているのか、新車を中央線、関西線に投入し、そこから捻出される車両と置き換えのいずれかであろう。あくまで私個人の予想であるが、現在関西線等で使用中の213系5000番台が2扉転換クロスのため、ラッシュ時の客扱いに難があり(但し、使用されるのはラッシュ時のみで昼間は殆ど遊んでいるが)これが飯田線に回るのではないだろか。尚、213系5000番台は、Mc-Tcの2両×14編成=28両が在籍している。

 現在、119系はMc+Tcの2両×23編成=46両(このうち2両×7編成=14両はワンマン運転対応)、両運転台付のMcが9両の合計55両が在籍している。

119系について簡単に解説すると、昭和57年12月から58年6月にかけて飯田線の旧形国電の置換え用として作られた車両で、1M方式の新性能車105系をベースに、飯田線の状況に合わせて、座席をセミクロス、主電動機、制御装置は103系と同じMT55系とし、耐寒装備、抑速ブレーキを付加した。クハの台車は101系の廃車発生品、MG、扇風機は、103系等の冷房改造に伴う不用品の再利用等で新製コストを抑え、クモハ119が33両、クハ118が24両の57両作られた。クモハ119が9両多いのはMc+Mc+Tcの3両編成を9本作るためであった。

 昭和61年11月のダイヤ改正で、主に興津~静岡~島田間で運転されていた「するがシャトル」の113系を他地域に転出し、代わりに119系を転用することになり、7月頃から改造が始まった。内容は冷房装置の取付けと塗装の変更、パンタの変更位のもので、クモハ119の内、7、10、11、23、24、26~28、クハ118の内、4、5、7、14、15、18~20の各8両が改造され、一部は冷房工事が間に合わず塗装変更のみで就役した。

 昭和63年、クモハ119で3両編成の中間車となっていた9両を単行運転用に両運改造をすることになり、2、4、5、7、9、13、15、17、19、33が対象となった。旧形時代は両運改造されると形式が変わったが、形式はそのままで100番台に番号区分されることになり、順に101~109となった。

 「するがシャトル」用に転出した8編成は、駅間距離が長く、運転速度の高い東海道線には不向きで、2年余りで飯田線に戻された。また、全車両に対し、冷房改造が行われることになり、省エネ、低コストのインバータ・クーラーが設置され、車番は従来の車番+5000番となった。

 平成11年11月よりワンマン改造が始まり、次の14両、7編成が対象となった。車番は+300番となり、全車インバータ・クーラー車であるため、5300番台となった。

クモハ119-5318、5320、5321、5324、5325、5329、5330

クハ118-5311、5312、5313、5316、5317、5321、5322

実際のワンマン化は平成13年3月3日のダイヤ改正からで、閑散時間帯の天竜峡~辰野間で実施されている。その後、平成16年10月20日、羽場~伊那新町間で台風による大雨のため路盤が流出したところにクハ118-5316+クモハ119-5324が通過、脱線転覆して大破し、復旧されることなく廃車となった。代わりに118-5005+119-5005がワンマン改造の上、改番された。

さて、我が愛すべき旧形国電の代替として飯田線に配置された119系の活躍が見られるのもあと1年少しとなってしまった。今は訪れる人も少ないかつての有名撮影地が再び賑わうことになるのであろうか。私個人的には中央アルプスをバックに走る119系を記録に残しておきたいと思っている。

(1) 登場間もない頃

 クモハ119-32+119-33+クハ118-24の3連 59.3.23 北殿

 クモハ119-11 59.3.23  辰野

クハ118-7+クモハ119-11 59.3.23  辰野

(2)   するがシャトル

 クモハ119-7   61.8.6 沼津

クハ118-5   61.8.6 沼津

クハ118-15+クモハ119-23   61.12.30 島田 (この時点では冷房装置は搭載されていない。)

(3)   最近の画像

 クハ118-19+クモハ119-27  19.11.3  中部天竜

クモハ119-27  19.11.3  中部天竜

クモハ119-5032+クハ118-5024  19.11.3  中部天竜

(4)   313系

313系は平成19年3月18日より115系3連と交替で入線している。飯田線用として発電ブレーキを装備し、扉は押ボタン式半自動、霜取り用としてパンタグラフ2基搭載し、McとMの車号は1700番台で区分されている。現在3編成在籍している。

クモハ313-1703他3連    19.11.3  中部天竜

北京―上海・北京―杭州鉄道、12月から時速250キロ寝台車両投入

 北京―上海・北京―杭州鉄道は来月、最高時速250キロメートルの寝台車両を投入する可能性が高まった。乗車料金は普通席よりも高く、当初は隔日運行の見込みとなっており、国内初の高速寝台車両の投入となる。「北京晩報」が伝えた。

 鉄道部門関係者によると、新型高速寝台列車は16両編成で、うち先頭の1号車および最後尾の16号車が二等普通席車両、8号車が食堂車、残りの13車両がすべて寝台車となる.

まもなく運行が始まる北京―上海、北京―杭州鉄道で使用される新型高速寝台列車が16日、上海で発表された。中国初の高速寝台車両となるこれらの列車は、21日に北京駅から出発する。時速は250キロ。上海から北京までの所要時間は9時間59分となり、これまでの最短時間よりも1時間29分短縮された。北京―杭州間は11時間となり、「Z」系列直行特急列車よりも2時間近く短縮された。このほか、車内の設備やサービスも改善されたという。

こんな記事が掲載されていました。自国製なのか、客車なのか、初めての電車寝台となるのかは、不明ですが、是非とも初乗車したいとの衝動にかられました。初乗車の際は、また感想記を投稿させていただきます。

列車のキー

悪評高い「2ちゃんねる」の愛読者でもある小生は、興味あるスレッドをみつけました。

函館本線での運転事故に関する新聞記事を取り上げていました。記事は次のようなものです。

>13日午前6時15分ごろ、北海道蘭越町のJR函館線蘭越駅で、蘭越発札幌行きの快速列車の男性運転士(25)が、ホームと列車のすき間に運転キーを落とすトラブルがあった。この快速など3本に遅れが出て、約70人に影響した。JR北海道によると、運転士は折り返し運転のため、先頭の運転室に向かう途中にキーを落とした。ホーム上を探したが見つからず、代わりのキーを手配して約1時間遅れで出発。
後続列車の運転士がキーが線路に落ちているのを見つけた。キーは前後の運転室の制御切り替えに必要だった。<

これに対する読者からの書き込みがこれだ。(品がないのはご容赦を!)

>電車にキーなんかあるわけねえだろw エンジンついてるのかよw

>>後続列車の運転士がキーが線路に落ちているのを見つけた
 よほどでかいキーだったんかね?

>電車ではなく気動車

>1時間遅れで70人だもんなw

と、まあこんな具合です。鉄道に趣味がないと言うことは知識もないと言うことですから一般的にはこのやりとりは普通でしょうね。でも、改めて「キー」と言われるとどんなものだったか、昔の気動車ならマスコンにモンキースパナ型のを差し込んで前進位置へ動かせればOKでしたが最近のは分かりません。誰か教えて!電車はキーになってるのかな?

阪和貨物線廃止

JR西日本は11月17日付けで近畿運輸局に関西本線八尾と阪和線杉本町を結ぶ通称阪和貨物線(正式には関西本線の一部)の廃止届を提出した。「問題なし」と認められれば、1年後の平成21年11月18日付けで廃止となる。理由は「平成16年7月以降使用を停止しており、今後も使用する予定がないため」としている。

阪和貨物線は関西本線と阪和線の短絡を目的として昭和27年9月1日に開通した。当線を走った定期旅客列車は、名古屋発着の「くろしお」の車両基地への回送を兼ねて、昭和40年3月1日から昭和42年9月30日まで東和歌山~名古屋間を運転された特急「あすか」のみであったが、臨時列車、団体専用列車は時折運転されていた。記憶に新しいところでは、昭和62年に京都から奈良線、関西線、阪和貨物線、阪和線経由で紀勢本線白浜まで381系で運転された「ふれ愛紀州路号」がある。また、昭和48年9月20日、関西本線湊町~奈良間が電化された際、当初線内に電車区がなく、昭和60年3月奈良電車区が開設されるまで同区間に使用される電車は日根野の所属で、当線を経由して送り込みが行われた。(これが原因で奈良電車区の103系は向きが逆になっている)

 杉本町駅から阪和貨物線に入る東和歌山発名古屋行特急「あすか」   (昭和41年5月27日撮影)

途中の停車駅は、堺市、王寺、奈良、伊賀上野、亀山、四日市であった。和歌山、奈良から名古屋へのビジネス客を意識した時間設定であったが、乗り換えが伴っても新幹線や近鉄特急を利用した方が速かったため乗車率は低迷した。また、「あすか」の停車に合わせて「金岡」は「堺市」改称した。

 クハ111-32を先頭とする回送電車で吹田工場からの出場車           (昭和48年11月11日)

 ED608の引く和歌山方面行貨物列車 (昭和48年11月3日)

ED60のラストナンバーで、昭和35年川崎重工兵庫工場製。新製以降昭和61年廃車になるまで、一生を阪和線で過した。

 

 EF527の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月3日)

昭和2年川崎重工兵庫工場製。最初の配置は国府津区で東海道本線東京口で活躍。その後中央東線用として甲府区に転属、昭和32年鳳区に転属した。昭和51年廃車となったが、生れ故郷の川崎重工業兵庫工場で保存されている。 

 EF15120の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月18日)

昭和29年三菱重工三原工場製。最初の配置は新鶴見でその後宇都宮に転属、再度新鶴見に戻り、昭和45年に竜華に転属してきた。昭和58年に廃車となったが、摂津市の新幹線公園に保存されている。

 

 ED604の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月3日)

昭和33年汽車製造大阪工場製。当初作並機関区に配置され、仙山線の直流区間で使用、2年後の昭和35年鳳区に転属、以降昭和60年廃車になるまで阪和線で活躍した。

 

 ED6117 (昭和49年1月4日)

昭和34年東芝府中工場製。当初甲府区に配置され中央東線で使用、昭和47年に竜華区に転属、昭和53年、浜松工場で飯田線用のED6216に改造された。阪和線のED61は、17、18の僅か2両の在籍で、しかもED62に改造のため昭和53年に姿を消したため、あまり目立たなかった。

第133回同志社EVEのご案内

本日(?)のホームカミングデー、懇親会では、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。現会長の田中と申します。

さて、寧静館ではあがってしまって、えらくしどろもどろな回答になってしまいましたが、ここで改めまして同志社EVEのご案内をさせて頂きます。

なお、今後下表の内容に変更が生じた場合、こちらで改めて告知いたしますので、定期的にご覧頂けると幸いです。

問合せ先:田中健文(bth1109@mail4.doshisha.ac.jp)

<場所>

同志社大学今出川キャンパス、寧静館402号室(N402)

<出展期間>

11月25日(火) (16時半~20時半)

26日(水)、27日(木) (10時半~20時半)

28日(金) (10時半~18時半)

※ただし、括弧内に記載した出展時間帯は昨年実績のものであり、今年度スケジュールは11月15日に同志社EVE実行委員会よりアナウンス予定。ですので、時間帯について正式なご案内ができるのはそれ以降となります。・・・が、多分昨年度と似たような時間帯になるかとは思います。

<出展内容(予定)>

・現役生による写真展示

・鉄道模型(Nゲージ)公開

・前面展望ビデオなどの上映

速報! 山科の人間国宝 元気にご帰宅!

本日行われたカミングデー後の懇親会で、突然床に伏された“山科の人間国宝”は、無事お元気で帰宅されました。皆さま、ご安心ください。人間国宝からも、ご心配を掛けた出席の皆さまによろしくお伝えくださいとの連絡をいただきました。搬送に当たっていただきましたS本さん、付き添っていただきましたT田さま、ありとうございました。

なお、本日行われましたカミングデーの様子については、管理人よりのちほど写真特集で配信されますので、お楽しみに。