踏切と保育園と飛行機

 ちょっと前に撮った動画です。映像よりも音に注目してください。最近、所によってはあまり聞けない音がすこし聞こえます。

いかがですか。わかりましたか。子供の頃、日曜日にはよく聞いた記憶があります。そういえば何か伝えたいような声もしてました。

「ひので」号・「きぼう」号のサボ

米手作市先輩の「関先生の国鉄155系きぼう号」の記事に寄せて、「ひので」号・「きぼう」号のサボをお目にかけます。

ご承知の通り、「ひので」号は、東京都修学旅行委員会が国鉄に要望した「専用電車の開発」を実現するため、国鉄が「特別鉄道債券」を発行し、三菱銀行と日本交通公社が引き受けた資金をもとに製造された155系電車で、田町電車区所属の12両の車両で品川~京都間運行されました。そのため、「東京地区修学旅行団」というサボになっています。

この動向を伝え聞いた大阪市・京都市・神戸市の中学校修学旅行協議会でも債券による資金調達を決定し、155系電車が製造され、宮原電車区所属の12両の車両で、「きぼう」号として、品川~明石間運行されました。そのため、「京阪神地区修学旅行団」となっています。

1位 おめでとう

プロ野球パリーグで、元阪急のオリックスが25年ぶりの優勝を決めました。おめでとうございます。

12球団で一番長く優勝から遠ざかっていたとは。学生時代「死ぬまでに阪神の優勝を見られたら本望や」と言っていた同級生の言葉を思い出しました。全盛時のピッチャーは山田、山口、山沖さんでしたが、現在のオリックスの主力ピッチャーの名字に「山」がついているのは、何かの因縁でしょうか。

1位おめでとうと言うことで、10/24に四国に来たのに撮影出来なかったEF210-1号機が、タイミング良く10/27に再度四国にやって来た際の写真を貼り付けます。(多度津工場から出場待機中の1040と 多度津駅)

急行「大和」

米手作市さんの素晴らしい企画「私の好きな食堂車」は高齢者を中心に凄い盛り上がりとなりました。私も久しぶりに古いネガを探しましたが、そのような中でおやっと思う客車がありました。急行「大和」湊町行き2等客車です。「大和」と言えばTsurukameさん、大阪通信員さん等当会の諸先輩が「加太会」なる圧力団体を結成され指定旅館村田屋を拠点に、早朝のC57牽引の「大和」を記録されております。特に大阪通信員さんはDRFC例会で深夜の名古屋からの動画を発表され今でもその熱意と気力には敬意を表しております。さて、その「大和」ですが1949年(昭和24)年の東京ー名古屋間の準急あたりがルーツで翌1950(昭和25)年急行列車化されています。ネガで目に留まったのは1966(昭和41)年11月2日品川客車区で撮った「大和」のオハフ331527です。写真をよく見ると⑭号車で湊町行きの行先板と入口に座席指定の表示があることがわかります。私は定期急行列車なのにこんな車両に指定されたら全く損をした気分になります。因みに1966(昭和41)年の7月の時刻表を見ますと「大和」は金沢行き「能登」との併結で東京を22時35分に出発となっています。①~⑧号車が米原経由金沢行き901列車「能登」で、⑩~⑭号車が湊町行き2901列車「大和」です。⑨号車は和歌山市行きです。⑨号車和歌山市行きについてはよく話題になりましたが当時北海道、四国を除き東京から直通列車がなかった府県は和歌山だけであったのでその配慮と思われます。王寺からは529普通列車に連結されて和歌山市に到着するのは何と11時34分です。和歌山まで乗りっぱなしの客がいたのだろうかと思ってしまいます。当時でも新幹線を使った方がよっぽど早く和歌山に着けたはずです。その後「大和」の名前は1968(昭和43)年10月の改正で「紀伊」に統合され、紀伊勝浦、鳥羽、王寺行きとなりました。伝統の湊町行きは勿論、和歌山市行きもなくなり、さらに奈良―王寺間は普通221列車となってしまいました。王寺と言えばどですかでんさんの縄張りですので、このあたりの事情はお詳しいと思います。また、湊町と言えば現在のJR難波ですが、先日皆さんが船旅を含む大旅行をされた都会のターミナルの南海汐見橋もこの近くだと思います。記念写真を拝見しましたが汐見橋がようわからんと騒いでおられた方も無事写っておられます。さて、さらにその後急行「紀伊」も1975(昭和50)年3月に特急に格上げされ米子行き「いなば」や出雲市行き「出雲」と併結されました。雑誌等で海辺行くDF50の姿も見ましたが、1984(昭和59)年に廃止されたようです。私の撮った「大和」関連の写真をご覧下さい。

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南千里折り返し運転

もう随分前のことですが、昭和58年、1983年の9月28日、阪急千里線山田ー北千里間が、台風10号による大雨のため、築堤の土砂が流出し、一時不通となりました。山田駅は交換ができないため、南千里で折り返し運転を行い、南千里ー北千里間は復旧までの時間、バス代行輸送となりました。阪急にはとんだとばっちりでしたが、割と早く復旧したと記憶しています。南千里折り返しは、昭和38年に新千里山(現南千里)が延伸開業し、昭和42年に北千里まで開通するまでの4年間になるのではないでしょうか。話しは脱線しますが、昭和40年の日活映画「青春のお通り」では、新千里山からP6に乗り込む吉永小百合が映っていました。 続きを読む

うごく絵だよ~ん 近鉄生駒線

 ちょっと駅近くの郵便局に用事があって、帰りはいつものように線路沿いの道を歩いているとゆらゆら揺れる鷹のような鳥が・・・やっぱりこれはうごく絵でしょ!

 まもなくすると電車が来ました。

電車が行きすぎるとゆらゆら揺れる鷹とかすかに聞こえるカラスの鳴き声

平群谷を北へ向かって生駒へ電車は去って行きました。

おまけの動画

近くの学校から運動会の予行演習か何かの声が聞こえます。虫の鳴き声(本当は声ではない。虫には声帯がないのだ!)がします。ズーム最大で手持ち撮影。すずめ脅しの前に撮影しました。ここから郵便局へ行って、そしてすずめ脅しの動画撮影。もう2本撮っているのですが、これだけにしときます。

昭和の電車 改訂版(215)ー東武鉄道トク1型500号ー

ついに出ました!私鉄の展望車!

お助けください、関東のみなさま。ここまでニッチだと関西の会員には手が出ないと思います。それでもレプリカを含めると平成まで有ったとかで、どなたか、撮っておられませんか?

懐かしの野球選手の思い出(老人のたわごと)

オリンピックも野球は苦戦しながらも日本が金メダルをとったことはまずはめでたし。野球と言えば西武電車にライオンズの懐かしい選手、それも西鉄ライオンズ時代の選手がラッピング塗装車に出ているのに驚いた。ネットで調べてみると2020年3月9日から池袋線で運用されている「ライオンズ命名70周年号」でL-train3代目の20104編成である。過去の有名選手と現役選手が描かれており過去の有名選手は①号車東尾、②号車秋山、③号車石毛、④号車中西、⑤号車デストラーデ、⑥号車田淵、⑦号車郭、⑧号車渡辺、⑨号車辻、松井、⑩号車鹿取、稲尾である。

私が最初に観戦したプロ野球は西宮球場での阪急-西鉄戦のナイトゲームで、贔屓にしていた阪急は西鉄に負けたのか暗い夜道を父親とトボトボ帰ったような記憶がある。黄金時代の西鉄は南海とともに大変強く、黄金期は監督は三原修で次のような打順であったと思う。一番センター高倉、二番ショート豊田、三番サード中西、四番ライト大下、五番レフト関口、六番ライト玉造、七番セカンド仰木、八番キャッチャー和田、九番ピッチャー稲尾。

特に印象に残ったのは中西太で豆タンクのような体つきで独特のフォームでバットをぐるぐる回し、見ていて楽しい選手であった。ホームランバッターであったが、三塁の守備も体に似合わず華麗であった。この頃は結構進学校出身の選手が多く、中西も名門高松一校出身である。高松一校と言えば同じ下宿にいて一時DRFCにも所属した琴電志度在住のTさんや今でも付き合いのある同じゼミで琴電羽床在住のNさんも同校の出身であるので高松一校に何となく親近感を持っていた。

あれからどれくらい経ったのであろうか。プロ野球の世界も産業構造の変化によるのか、その経営は電鉄、新聞社、映画会社等からIT産業等に変ってきたが、若しも阪神電車が西武電車のような企画をし、藤村、別当、土井垣や村山、小山あたりが出てくればそれを撮ってみたいと密かに思っている。もっとも古過ぎて宣伝誘客効果はないだろう。 お邪魔しました!

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夜汽車の情景 暁の急行能登号

 前回の寝台特急北陸の富山到着の8分後に本命のこだま型電車の急行能登号が到着する。まだ、暗いがわずかに立山連峰あたりから夜明けの気配が。わずかな時間のタイミングを逃さないようにしなければならない。夜明けの時間と列車の通過時間とうまく合うのか心配である。今回はラッキーだったのかもしれない。撮影日は2010年3月12日、定期運行最終の急行能登号は上野を3月12日発で富山到着が13日の朝である。天気予報を見ると富山の13日の朝は雨であった。それで1日前の3月12日の撮影となったのである。そしてこの日はドンピシャのええ天気。

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