大和川橋梁

山科の大写真展を拝見した後は紅葉の叡電や久しぶりの大和川散策を試みた。以前、レイル誌で武庫川、多摩川をめぐる鉄道を掲載させていただいたが、鉄道密度の濃い大和川周辺も興味は尽きない。11月15日朝、まずJR阪和線から海の方に向かった。最近はどこも家やマンション等が立ち並び防護柵等もあって撮り難く、その点、鉄橋は無難である。但し、編成中心の単調な写真になることは否めない。

 

JR阪和線杉本町-浅香

JR阪和線の大和川橋梁は浅香駅ホーム先端が格好の撮影場所であったが私鉄時代のホームなのか狭くて危ない。それに昨今の評判の悪い撮り鉄に見られないように即河原に出た。10年くらい前は103系や205系も見られたが、今はステンレスばかりで味気ない。

狭いホームから撮った2012.12.27の天王寺行き103系の後追い。▼

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静岡鉄道近況(2021年末)

ご無沙汰しております。先日のクローバー会撮影会では大変お世話になりました。久しぶりに多くの方々とお話ができ楽しい時間を過ごせました。ありがとうございました。
今年の秋から、転職で再び関東に引っ越しました。気が付けば静岡→京都→埼玉→神奈川→静岡→東京と転属(?)を繰り返しておりましたが、そろそろ落ち着きそうです。
静岡では3年半ほど暮らしていました。陸送撮影に引退車両の追っかけと撮り鉄としてはイベントが盛りだくさんでした。
そして家から最も近かった静岡鉄道は新車導入ラッシュ。昨今の情勢と相まって、3年ほどで姿が大きく変わりました。
私自身の備忘録も兼ねて簡単にまとめさせていただきました。

ピンク色同士の離合、1011FとA3007F

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スモールイベント「名松線乗り鉄」の報告

 12月12日(日)の「名松線乗り鉄」には、12名の参加をいただき、ありがとうございました。当日はお天気も良く、途中「家城駅」での列車交換・通票交換の撮影、終点「伊勢奥津駅」では給水塔等の撮影も、順調に出来たことと思います。また機会あれば「乗り鉄」の計画を立てたいと思いますので、ご参加のほどお願いいたします。

D52追加!

米手作市さん !  戦時設計もう1枚。1964(昭和39)年4月1日、小雨降る小郡付近を行く上り貨物列車牽引の給水温め器付きD52456[小郡]です。▼

1964(昭和39)年4月3日、糸崎駅を出発するD52348[広島]牽引の下り貨物列車。改造された姿であるがシールドビームの前照灯がD52の巨体に似合わない。三原在住の西村さんやその後糸崎を訪問された方の情報では現在の糸崎駅界隈は機関区があった頃の雰囲気はないという。▼

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D52戦時設計

山科のC6242集煙装置付きから話題が徘徊していますが米手作市さんが戦時設計スタイルのD52417を発表されました。本来はコメントで反応すべきですがまだまだ渋滞しているようですので、私の撮りました「Ⅾ52戦時設計」を新たに項目を起こして掲載しました。文章でぐたぐた説明よりも写真の方が早いと思ったからです。

 

かつてデジ青に投稿したことがありますが、横から見た走行中のD52460です。所属は柳井区です。この機関車は給水温め器は付いています。1963(昭和38)年3月27日下関駅での上り方向の貨物牽引です。

 

同じ横からですが、小郡区所属のD52126です。こちらは給水温め器がありません。1964(昭和39)年4月1日小郡区での撮影です。 続きを読む

踏切と保育園と飛行機

 ちょっと前に撮った動画です。映像よりも音に注目してください。最近、所によってはあまり聞けない音がすこし聞こえます。

いかがですか。わかりましたか。子供の頃、日曜日にはよく聞いた記憶があります。そういえば何か伝えたいような声もしてました。

「ひので」号・「きぼう」号のサボ

米手作市先輩の「関先生の国鉄155系きぼう号」の記事に寄せて、「ひので」号・「きぼう」号のサボをお目にかけます。

ご承知の通り、「ひので」号は、東京都修学旅行委員会が国鉄に要望した「専用電車の開発」を実現するため、国鉄が「特別鉄道債券」を発行し、三菱銀行と日本交通公社が引き受けた資金をもとに製造された155系電車で、田町電車区所属の12両の車両で品川~京都間運行されました。そのため、「東京地区修学旅行団」というサボになっています。

この動向を伝え聞いた大阪市・京都市・神戸市の中学校修学旅行協議会でも債券による資金調達を決定し、155系電車が製造され、宮原電車区所属の12両の車両で、「きぼう」号として、品川~明石間運行されました。そのため、「京阪神地区修学旅行団」となっています。

1位 おめでとう

プロ野球パリーグで、元阪急のオリックスが25年ぶりの優勝を決めました。おめでとうございます。

12球団で一番長く優勝から遠ざかっていたとは。学生時代「死ぬまでに阪神の優勝を見られたら本望や」と言っていた同級生の言葉を思い出しました。全盛時のピッチャーは山田、山口、山沖さんでしたが、現在のオリックスの主力ピッチャーの名字に「山」がついているのは、何かの因縁でしょうか。

1位おめでとうと言うことで、10/24に四国に来たのに撮影出来なかったEF210-1号機が、タイミング良く10/27に再度四国にやって来た際の写真を貼り付けます。(多度津工場から出場待機中の1040と 多度津駅)

急行「大和」

米手作市さんの素晴らしい企画「私の好きな食堂車」は高齢者を中心に凄い盛り上がりとなりました。私も久しぶりに古いネガを探しましたが、そのような中でおやっと思う客車がありました。急行「大和」湊町行き2等客車です。「大和」と言えばTsurukameさん、大阪通信員さん等当会の諸先輩が「加太会」なる圧力団体を結成され指定旅館村田屋を拠点に、早朝のC57牽引の「大和」を記録されております。特に大阪通信員さんはDRFC例会で深夜の名古屋からの動画を発表され今でもその熱意と気力には敬意を表しております。さて、その「大和」ですが1949年(昭和24)年の東京ー名古屋間の準急あたりがルーツで翌1950(昭和25)年急行列車化されています。ネガで目に留まったのは1966(昭和41)年11月2日品川客車区で撮った「大和」のオハフ331527です。写真をよく見ると⑭号車で湊町行きの行先板と入口に座席指定の表示があることがわかります。私は定期急行列車なのにこんな車両に指定されたら全く損をした気分になります。因みに1966(昭和41)年の7月の時刻表を見ますと「大和」は金沢行き「能登」との併結で東京を22時35分に出発となっています。①~⑧号車が米原経由金沢行き901列車「能登」で、⑩~⑭号車が湊町行き2901列車「大和」です。⑨号車は和歌山市行きです。⑨号車和歌山市行きについてはよく話題になりましたが当時北海道、四国を除き東京から直通列車がなかった府県は和歌山だけであったのでその配慮と思われます。王寺からは529普通列車に連結されて和歌山市に到着するのは何と11時34分です。和歌山まで乗りっぱなしの客がいたのだろうかと思ってしまいます。当時でも新幹線を使った方がよっぽど早く和歌山に着けたはずです。その後「大和」の名前は1968(昭和43)年10月の改正で「紀伊」に統合され、紀伊勝浦、鳥羽、王寺行きとなりました。伝統の湊町行きは勿論、和歌山市行きもなくなり、さらに奈良―王寺間は普通221列車となってしまいました。王寺と言えばどですかでんさんの縄張りですので、このあたりの事情はお詳しいと思います。また、湊町と言えば現在のJR難波ですが、先日皆さんが船旅を含む大旅行をされた都会のターミナルの南海汐見橋もこの近くだと思います。記念写真を拝見しましたが汐見橋がようわからんと騒いでおられた方も無事写っておられます。さて、さらにその後急行「紀伊」も1975(昭和50)年3月に特急に格上げされ米子行き「いなば」や出雲市行き「出雲」と併結されました。雑誌等で海辺行くDF50の姿も見ましたが、1984(昭和59)年に廃止されたようです。私の撮った「大和」関連の写真をご覧下さい。

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南千里折り返し運転

もう随分前のことですが、昭和58年、1983年の9月28日、阪急千里線山田ー北千里間が、台風10号による大雨のため、築堤の土砂が流出し、一時不通となりました。山田駅は交換ができないため、南千里で折り返し運転を行い、南千里ー北千里間は復旧までの時間、バス代行輸送となりました。阪急にはとんだとばっちりでしたが、割と早く復旧したと記憶しています。南千里折り返しは、昭和38年に新千里山(現南千里)が延伸開業し、昭和42年に北千里まで開通するまでの4年間になるのではないでしょうか。話しは脱線しますが、昭和40年の日活映画「青春のお通り」では、新千里山からP6に乗り込む吉永小百合が映っていました。 続きを読む

うごく絵だよ~ん 近鉄生駒線

 ちょっと駅近くの郵便局に用事があって、帰りはいつものように線路沿いの道を歩いているとゆらゆら揺れる鷹のような鳥が・・・やっぱりこれはうごく絵でしょ!

 まもなくすると電車が来ました。

電車が行きすぎるとゆらゆら揺れる鷹とかすかに聞こえるカラスの鳴き声

平群谷を北へ向かって生駒へ電車は去って行きました。

おまけの動画

近くの学校から運動会の予行演習か何かの声が聞こえます。虫の鳴き声(本当は声ではない。虫には声帯がないのだ!)がします。ズーム最大で手持ち撮影。すずめ脅しの前に撮影しました。ここから郵便局へ行って、そしてすずめ脅しの動画撮影。もう2本撮っているのですが、これだけにしときます。