流線形車両-5-(最終)

1935年(昭和10年前後)の流線形ブームの頃の車両を中心に発表させていただいたがもう一つ忘れられない流線形蒸気機関車があった。そう満鉄のパシナである。満州は現在の中国東北部(遼寧省、吉林省、黒龍江省、内モンゴル自治区の一部)である。デジ青上でパシナは既に発表されている機関車であるが、ここに保存機であるがもう一度登場させていただく。併せて満鉄のジテと中国製のディーゼル機、アメリカのディーゼル機も追加させていただく。l

満鉄(南満州鉄道)のパシナは970~972の3両が満鉄沙河口工場で、973~980の8両が川崎兵庫工場で1934年(昭和9年)に、981が1936年(昭和11年)に合計12両が製造された。1934年(昭和9年)、アカシアの大連から新京(長春)までの700kmを最高速度120km/hで走破、後、哈爾濱まで延長された940kmを超特急「あじあ号」として1943年(昭和18年)まで2mの大動輪で驀進していた。欧亜連絡でロシア人のウエ-トレスも乗車し全車冷房付きの豪華列車であったという。展望車は黒河という所に保存(放置)されているが今はどうなったことであろうか。12両中現存するのは2両らしく、そのうちの1両が瀋陽郊外の蘇家屯の展示場で荒れた状態で展示されていた。この機関車はその後、瀋陽の陳列館に室内展示されたのではないか。

1998.04.11 瀋陽郊外の蘇家屯の展示場のSL751

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春到来

この間まで寒さで震えていたが早いもので今日、高知で桜の開花宣言。いよいよデジ青上でも桜便り、菜の花便りが見られそうになってきた。昨年DRFCの皆さんが来られた東京八王子市の高尾付近でも梅の花が真っ盛りなので報告させていただく。

撮影場所は中央線の高尾(昔は浅川と言った)~相模湖(昔は与瀬と言った)間で摺差踏切と荒井梅林の2カ所で共に有名な撮影地である。

 

最初は摺差踏切で夕方まで粘っても完全順光にならないのが残念である。

2018.03.12 E257系特急「かいじ105号」甲府行き ▼

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車掌のアナウンスあれこれ

流線形車両-4-で総本家さんや河 昭一郎さんから車掌の案内アナウンスの甲子園、甲子園の連呼が取り上げられた。「何回言うねん、うるさいな」という毎日聞かされる御乗客の皆さんからのうんざり感もあったものと思われる。マルーンさんによると阪急電車でもある時に2回案内していたのを1回にしたと聞く。ところで、最近は落語やコントなどお笑い番組でも出演者に鉄チャンが増えたのか車掌や駅員のアナウンスの真似を得意げにする芸人が増えたような気がする。鉄ちゃんはいろいろな世界にいるようだ。

さてかく言う私も若いころによく聴いた車掌の案内放送に旅情を掻き立てられたり格好いいなと思ったことがあり今でも頭の中に残っているものがある。総本家さんには何度も伝えたことがあるが今回はその車掌アナウンスと関係のありそうな時代の車両と共にお伝えしたい。多少の言い回しは車掌にもより、また、私の記憶も間違っているものがあるかもしれないが大体こんな感じだったと思う内容である。間違いをご指摘いただければ幸いである。

まず、阪急神戸線の特急が夙川を出て西宮北口に到着する頃である。

「皆さん まもなく西宮、西宮北口でございます。宝塚、箕面、今津方面はお乗換え願います。宝塚方面は5号線、6号線、今津方面は7号線へお乗換え願います。西宮北口を出ますと十三まで停まりません。」(「大阪方面普通は3号線の電車にお乗換え願います」は案内したとは思うがあまり記憶にない。また、当時は箕面が入っていたが、今津線経由の方が十三経由よりも早く着けたのかどうか定かではない)

1968.04.04 夙川付近は桜花爛漫であるが白黒ではわかりづらい。もうかなり前であるがこの5000系も今でも通用するスタイルである。 梅田行き特急5004 ▼

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流線形車両-4-

総本家青信号特派員さんの京都市電600形云々についてコメントに書き込んでいたら思い出した車両があった。総本家さんが写真集や鉄道ピクトリアルに数多く出された金魚鉢の愛称で親しまれた阪神電車71形でこれぞ路面電車の流線形である。本来流線形車両-3-に入れるべきを忘れていたので追加させていただく。製造はやはり流線形流行時代の1937年(昭和12年)で汽車東京71~75、川崎76~80の計10両あった。

1969.02.18 甲子園  72号 ▼

流線形車両ー3-

戦前に流線形が流行した1936年(昭和11年)に鉄道省は3両のEF55を登場させた。EF551は日立製作所笠戸工場製で1964年(昭和39年)に引退している。その後1986年(昭和61年)に復活し、しばらくイベント等に駆り出されたが2009年(平成21年)に廃車された。写真はそのお別れ運転の日に同志社創始者新島襄の本籍と言おうか安中で撮影したEF551である。京都に眠る新島襄は江戸生まれで終焉の地は大磯である。なお、EF551は現在は大宮の鉄道博物館に保存されている。

2009.01.12 磯部-安中 EF551 ▼ 続きを読む

謎の写真、それは・・・

 オエ70の写真を求めていく千里、そんなたいそうなことではないが今できる事は蔵書している鉄道ファンを一冊ずつに記事をみることである。すると見覚えのある写真が目にとまった。ちょっと違うようだが同じかもしれない。オエ70とは全く関係ないのであるが不思議な直観である。さっそく、写真を探してみる。

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こんなん、やってます。「帰るそなたの丹波市~JR桜井線の120年」展 奈良天理市

 新聞にJR桜井線が京終・桜井間が開業して120年になるので天理市で展覧会が行われているので、昨日(2月17日)行ってきました。展覧会の題名が「帰るそなたの・・・」が天理らしいです。「丹波市」は「たんばいち」と読みます。兵庫県東北部にある丹波市(たんばし)とは違います。ややこしいい。ではどんな展覧会かといいますと、

展覧会のパンフレット 賑わっていた頃の丹波市駅の写真が

上のパンフレットでご覧のような2月25日までの展覧会です。最終日の25日には午後2時から午後4時30分まで文化財講演会があります。「天理の近代化と桜井線」そして古墳と遺跡の調査報告です。興味のある方は行かれたらいかがでしょうか。

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国鉄モハ52型

先日来、京阪の1000・1100型や飯田線のモハ52型の写真で盛り上がりましたが、本日の産経新聞には関三平先生が国鉄モハ52型のオリジナルを描いてくださいました。飯田線の写真とはずいぶん違う気品の良さ!戦争の時代に入る直前の豊かなひとときを醸し出す電車です。

ところでこの場所は桂川付近とありますが正確にはどの位置でしょうか?電車は上りか下りか?

客車廃車体訪問記 北海道編34 最終回

【豊富駅前】

オエ61 67  45.104986, 141.772305  1993年10月14日撮影
◆ナハ34631→ナハ22795→(1954年鋼体化改造 日支)マニ60 21→(電暖追設)マニ60 2021→(1978年改造 旭川)オエ61 67→1990年廃車。
種車はオリジナルのマニ60で若い番号である。いちばん前位寄りの窓に特徴がある。4位寄りの窓が1個埋められている。
履歴票によれば、自重29.2t(現車標記は29.0t)、荷重14t、台枠UF218(平台枠)、台車TR12、基本12t長軸、空気ブレーキAV、連結器柴田式、信越線通過の可否・可、また所属欄には、北見53.6.10(到着)、稚内61.11.11(到着)とある。
ぶんしゅうさんの【86706】(2017年7月23日)に最近の状況が掲載されている。補修を受けていない車体が痛々しい。恐らくこれが客車廃車体の北限であろう。
現役最後の地は稚内客貨車区で、【92218】オエ61 59の後任の救援車であった。

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国鉄特急型189系引退間近

表題のような情報があちこちで流れている。米手作市さんご紹介の散歩道の国電は吊り掛け車であり確かに古く、よく言えば懐かしい電車である。私など未だに101系以降151系も153系も新型電車と思っている。しかし、あれからもう60年も経った今、国鉄時代に登場した車両はほとんど姿を消しているのが現実である。今回の189系も然りである。先月中旬のことであるがNHKテレビでJR東日本豊田電車区の189系3編成の引退が報じられた。3編成とは旧あずさ色のM50、国鉄色(151系こだまやキハ82系の色)のM51、グレードアップあずさ色M52でテレビ報道ではM50編成が解体のため長野ヘ向かうと報じられた。残った2編成も3月17日の改正以降は運用の話がなく廃車されるものと思われるが最後にお別れ列車として走るとのことである。3月17日に行われるDRFC関東遠征旅行の時には間に合わない。

それでは3編成を順にご紹介する。

今回先に廃車されたM50編成。

日光線に修学旅行で使われた姿。 2017.06.16 日光-今市 上りM50 189-14 ▼ 続きを読む

客車廃車体訪問記 北海道編33

【丸瀬布いこいの森】

スハ43 703  43.930536, 143.334588  2017年10月8日撮影
◆スハ43 324(1953年新製 日支)→1966年近代化改造 後藤工→(1973年改造 旭川車セ)スハ43 503→(1976年改番)スハ43 703→1983年廃車。
言わずと知れた雨宮21号が走る線路(画面左鉄橋)のすぐ近く、駐車場前に鎮座している。充分過ぎるくらいの上屋があり良い状態で保存されている(893-2さんの2016年11月23日【78113】に少し写っている)。3連休の中日で天気も良くさすがに人と車が多かった。

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C56お召と機関車のペンキ書き

西村雅幸さんの2月7日[93389]「Carp油津駅新旧」に1900生さんがコメントされ、その内容に関係のありそうなC56のお召と順法闘争落書き機関車を見つけてきたので発表する。C5691、C5692は1972年(昭和47年)10月20日に運転されたが、私のは最後のお召蒸機となったC57117と同じ宮崎植樹祭の時のC11200+C5692であり、同型機ではなく異形式重連であった。撮影は1973年(昭和48年)4月10日である。

宮崎-南宮崎のお馴染みの大淀川橋梁を行くお召し列車 ▼

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客車廃車体訪問記 北海道編32

【湧別町北兵村二区 五鹿山公園キャンプ場】

スハ45 31(左)  スハフ42 518(右)  44.183125, 143.613367  2017年7月16日撮影
◆スハ45 31(1954年新製 日立)→1966年近代化改造 旭川工→1984年廃車。
◆スハフ42 114(1952年新製 近車)→1964年近代化改造 幡生工→(1976年改造 五稜郭車セ)スハフ42 518→1984年廃車。
客車は移動機と連結してオートキャンプ場の隅にあり、バイクで行っても宿泊できるようである。他にテントが張れるキャンプ場やログキャビン、キャンプファイア広場等なかなか規模の大きなキャンプ場である。
約2㎞西に中湧別駅跡があり、道の駅になっていてヨ4430他が保存されている。

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散歩道で見つけました5

藤田さんがパソコンをお持ちで無いため読めない、を解決するために全ページ(リプライを含めて)プリントアウトしてお届けしました。大変喜んでご覧になってましたが、改めて国電のアルバムを貸してくださいました。ところがコピー用紙に名刺判の白黒写真を貼っただけのアルバムですから、場所や日時はもとより車両形式も書いてありません。なんとなく阪和線、片町線、東海道線などで分けてみましたが電車音痴の私には酷というものです。そこで伝家の宝刀・得意技の「皆様にお願い」攻撃をかけますので皆様で撮影場所や撮影年代、車両の形式など投稿で書いてください。写真には番号を振っておきますので国電担当者の方、よろしくお願いいたします。

①阪和線天王寺駅 クハ25

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客車廃車体訪問記 北海道編31

【紋別郡湧別町 旧計呂地駅跡】

オハ62 91(左)  スハ45 17(右)  C58 139  44.103542, 143.728402  2017年7月16日撮影
◆スハ45 17(1952年新製 川車)→1964年近代化改造 旭川工→1986年廃車。
◆ナハ23414→(1954年鋼体化改造 旭川工)オハ62 91→1984年廃車。
旧計呂地駅跡周りは計呂地交通公園と称する公園になってC58と2両の客車を保存し、簡易宿泊施設としても活用している。
オハ62はオハ61の北海道版で130両在籍した。ラストナンバーのオハ62 130を改造したキハ08 3が加悦に保存されているが、釧路の「炭鉱と鉄道館 雄鶴駅」(第23回【92713】)のオハ62 95は台車だけになって、計呂地のオハ62 91は、いまや現存する唯一のオハ62であろう。C58にだけ上屋がある。

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