これなんだ?教えて下さい!

雨のそぼ降る午後、ある新刊をもって会長・乙訓の老人を訪ねた。会長猊下はいつもの玉座に鎮座まします。

実はこの本は3月からDRFCクローバー会に入会する法学部法律学科78年度生・上原正英氏の作品である。これを会長猊下にご高覧頂きたくて訪問したのである。会長猊下はぺらぺらと一瞥して後、「余はその昔、推理小説に熱中したものである。最近のものはあまり面白くないではないか」「畏れながら申し上げます。猊下はどのような作家をお好みでしょうか?」「よい質問じゃ。余は松本清張、横溝正史、江戸川乱歩、鮎川哲也などを好む」「畏れながら有栖川氏は鮎川哲也の弟分でございます」「なに?では読んでみよう」てな具合であった。

そのとき、長老猊下は表紙を見た瞬間、「この車体は●●鉄道の○○や」と即断を下された。《そんなこと、ほんとに分かるのかいな~?》と思わず疑いましたがなにせこの世界では伝説の方、確認したくてこっそりと皆様にお尋ねする次第です。

この車体の出自をご存じの方、教えていただけませんか?

なお、献上した本は私が先輩であることをいいことに作者にサインを入れてもらって買った本であり、決して巻き上げたりしたようないかがわしいものではないことを明言しておく。

門鉄デフのD50

以前の澤村達也さんのコメントに「門鉄デフのD50のバラキットを持っているので、参考になる現物機を紹介してほしい」とのご要望があり、また紹介しますと約束してから、もうかなりの日数が経ってしまいました。やっと該当するネガを探し出すことができました。 

門鉄デフはC55・C57に代表される旅客用蒸機がとくに有名ですが、D50・D60のような貨物用の太いボイラーを備えた蒸機に装備すると、まるでゼロワンを彷彿とさせるようなスタイルになり意外と似合うものです。私が蒸機を本格的に撮り出した昭和40年代の前半、D50の総数380両のうち、昭和42年度は63両、昭和43年度では21両と急速にその数を減じていきます。そのうち、撮影できた25両のなかで門鉄デフ装備は7両に過ぎません。うち1両を除いて、門鉄デフの本場、北九州に在籍していました。いずれも分類上、K-7形と称される小倉工場製の切り欠きデフですが、デフそのものの大きさは機によって少し違います。63,129、374は除煙板が比較的小さいタイプ、これに対して105は大きなタイプ、また62,90は除煙板の下辺が斜めになっています。

 

 

北九州以外のもう1両は、米原区のD50131でした。この機は長野工場製の切り欠きデフN-2形で、形はだいぶ違います。米原~田村間の交直接続に、他のD50とともに使用されていましたので、ご覧になった方も多いと思います。

模型化の参考になれば幸いです。  

 

大分区で出区待ちの05062(大)は大きな切り欠きデフ

 

門司区で見かけた〔柳〕のD5063 オーソドックスな門デフを装備

石炭車を牽いて筑前垣生のカーブを行くD5090〔若〕

電化工事の進む大分区でのD50105〔大〕。大きな切り欠きデフを装備

煙だらけの門司区で休むD50129〔柳〕は標準的な切り欠きデフ

最終ナンバーに近いD50374〔柳〕は休車中

D50131〔米〕は長工式、交直接続で活躍

 

栄書紹介

このたび、和久田康雄さんの「日本の市内電車ー1895‐1945-が成山堂書店から上梓された。20日夕、配達を受け「はて、なにを送っていただいたのか」と思ったが、孫に「じっちゃん、嵐電しょう」とねだられプラレールの組み立てを手伝った。気になる図書を開いたのは深夜3時30分になってからのことである。(するっと関西のおもちゃはすべて嵐電となっている。)

紐解くや、「これはこれは」となった。安楽マニアの老人には、とても嬉しい内容が満載されている。和久田さんは東京大学在学中に学内図書館にある鉄道文書に着眼され、私鉄関係について筆写され、それをまとめ鉄道ピクトリアル誌で連載された。それは世の私鉄研究の原本になり、われわれは教本の一つにしてきた。のちに「私鉄史ハンドブック」となり、私鉄史研究者の参考書となっている。これに加え統計資料から考察を加え、われわれが知りたかった車両群解明の手掛かりを提供された。

かねて現役引退後、「公文書閲覧で国会図書館通いです」とおっしゃったことがあり、須磨の大人、名古屋の朋友:重軽氏から「図書館で出会った」と聞かされていた。学生時代から後期高齢者になられた(なる?)この年まで、われわれに常に情報を提供し続けられた和久田さんに国民、いや鉄路栄誉賞をささげたいと思っているところである。

申込みは〒160-0012 新宿区南元町4番51 (株)成山堂書店 TEL:03(3357)5861、FAX:03(3357)5867 出版案内を貰えるようになると、料金、送料が後払いOKとなる。今回は本体3,570円 送料390円 計4,060をご用意ください。

前歯健造君は生きていた!

今日、40数年の時空を越えてあの「須磨のガイコツ」前歯健造君から電話がありました。声だけを聞けば学生時代と変わりません。

実は以前から前歯氏についてよからぬ噂が流れていました。それは彼が「クローバー会には入らん」と言ったきり姿を消して、以来ようとして行方が分からなくなった。雨の降る山間の駅の待合室でオリンパスペンEEを磨いていたとか、北海道の線路端でオリンパスペンEEで写真を撮っていた、とか噂が出ていましたが、その後途絶え数十年が流れてしまったのです。

だまされやすい純粋な性格のため、小海線がいい、と岩波さんに言われると「小海線を愛する会」に入り、客車はスハ43がスバラシイと中林さんに言われると「急行つるぎを愛する会」を創り、カメラはハーフサイズがいいと宮本氏に聞かされるとオリンパスペンEEを買ってきてずっと愛用していました。

そんな彼がなぜかたくなにOB会である「クローバー会」にはいるのをいやがり身を隠したのか積年の疑問でした。そんなとき東京特派員の鬼太郎さんから新宿の居酒屋で前歯さんに会ったとの連絡を頂いたのです。教えてもらったアドレスは会社のものでした。北京特派員の陳さんに相談したら「会社のアドレスへ個人でアクセスするとリストに載せられてあとでひどい目に遭わされるから気をつけろ」とまるでアダルトサイトでひどい目にあったような用心深さです。まさかとは思いましたが用心に越したことはないと売り込みを装いメールしてみました。その返事が先ほどの電話でした。

鬼太郎特派員のねつ造記事で誤解しておりましたがOB会には参加しているとのことでした。ただ、須磨の自宅は早くに引き払い金沢文庫にいるので関西に行く機会がなかったこと、会社のアドレスしかないので書き込みが出来なかったこと、でも子会社に監査役で行ってからは少し自由になって、この4月からさらに転勤するのでこれからは関西出張もありそうなのでぜひ会おうと話してくれました。今後は東京支部の集まりには出席しますと約束して電話を切りましたが40数年の時空は一瞬にして消え去ったのです。

やっぱりDRFCの仲間はいいものですね!

CRHの旅Ⅲ Part5 上海鉄路博物館

ひと休みをしたらもうお昼です。南京路の食堂に入って、大好きな上海名物、スープの入った小籠包を食しました。広州の飲茶料理にもありますが、551の豚マンサイズの大きな小籠包は、上海だけです。スープを飲むために、ストローを付けた店もあります。

南京路を散歩して、地鉄人民広場駅に向かいました。春節のお祝いに広場では、今年の干支の、大きな金色牛のモニュメントが、展示されていました。ホテルや商店も春節向けの、綺麗な飾り付けが、施されています。

『上海鉄路博物館』は、宝山路駅近くの元上海北駅跡にあります。1号線で、一旦上海駅下車して、駅反対側にある3・4号線の高架駅に乗り換えます。朝と違って、鉄道駅は大混雑です。
駅正面の売店で、時刻表を探し求めますが、ありません。日本のように街中の本屋では、売っていません。駅構内に入らなければなりませんが、混雑する時は、切符を見せないと入場させてくれないので、訳を言って入場しました。
全国統一版時刻表の他に、北京、上海、天津等の大都市には、オリジナルバージョンがあるので、行く度に購入しています。

高架軌道車窓からは、全国各地へと向かう夜行寝台列車の、オンパレードの上海客車区が見る事ができます。

1つ目の駅が、宝山路駅です。高架ホーム窓から、『上海鉄路博物館』を確認してから、向かいました。徒歩、約10分で到着。休館日と思っていましたが、開館しています。以前は、週3日間の開館でしたが、変わったようです。

SN26蒸気機関車 600mmゲージ 全国でも3両しか残っていない貴重な文化遺産 車体長14.85m、空重量31.64t、動輪直径711mm、動輪配置 0-5-0式  雲南省の山岳路線で使用されたと思われる。                        

現在の営業日は、毎週、火曜日~土曜日です。但し、開館時間は、午前9:00~11:30、午後14:00~16:30となっています。以外の時間は、閉館退場ですので、ご注意下さい。また、変更もあると思いますので、行かれる方は、下記のHPで確認して下さい。
公式サイト:http://www.museum.shrail.com/

中国で、初めて鉄路が開業されたのは、上海でした。上海~呉松間14.5キロ、762mmナローゲージ、1876年12月1日全線開通しましたが、西方列強による不当な建設だった為に、1877年10月清政府により、廃線させられました。

その後、この呉松鉄路の旧路線3分の1を利用して、淞沪鉄路が、上海~炮台湾間16.09キロ、1898年8月5日に開業しました。この鉄路跡は、1997年4月に開通した上海地鉄明珠線(3号線)として今も利用されています。

北京鉄路博物館と比べると、スケールは比べようもなく小さく、展示車両も3両でしたが、以前の上海北駅を新しく復元した博物館内の展示は、シュミレーションをはじめ、ボリュームもあり、説明も充実していています。上海を中心とした鉄路の歴史をじっくりと楽しめました。上海に行かれる方は、是非の訪問をお勧めします。

宝山路駅前には、上海の秋葉原があります。PC周辺機器等、数100軒以上の店が集まっています。バッチ物と思いましたが、SONY製USBメモリー、信じられないでしょうが、何と360GBも売っていました。36GBでは、ありません。
初めは、300元以上を提示してきますが、しぶとく交渉すると70元(約1,000円)には、なりました。今でも、ちゃんと使用できます。動画等の大容量DATAを持ち歩くには、役に立っています。

こんな面白い物が、結構ありますので、『上海鉄路博物館』へ行かれた折は、是非ここへも寄ってみて下さい。
明日の日本へのフライトは、17:30です。オープン以来まだ行っていない上海南駅に行く事にしました。

「汽車住宅物語」に寄せて

西村雅幸さんが書き込みされた1月16日付【1572】「汽車住宅物語」の表紙の車両について、乙訓の長老より東武鉄道日光軌道線のハ57形ではないかというご指摘があり、RP誌135号の写真からほぼこれに間違いないというところまで来た。しかしながら写真は電動車テ17の後部に連結されているもので、サイズも小さく今一つ不安があった。もっと鮮明な写真がないものかと探したところ、一昨年東武博物館で購入した一冊の本のことを思い出した。東武鉄道OB岡 準二氏の遺作写真集「なつかしの鉄道とバス」というタイトルの本である。もしやここに載っているのではないかと思い見た処、テ11に牽かれたハ57の美しい風景写真が掲載されており、扉の形状、窓のサイズ、扉上の水切り等が表紙の写真と一致し、ハ57形と確定できた。

ハ57形について改めて書くと、昭和4年汽車会社製の半鋼製ボギー車で、57~61の5両作られた。牽引する電動車はテ10形で昭和4年日車製の半鋼製2軸単車で、10~19の10両作られた。昭和28年に宇都宮車両で100形(101~110)が一気に10両新製、翌昭和29年には宇都宮車両と汽車会社で200形連接車(201~206)が3編成作られ、従来の電車は事業用として残されたテ12を除き全車廃車となった。RP誌135号にはハ57形の廃車年月は書かれていないが、100形の登場した昭和28年度に廃車されたと思われる。「汽車住宅物語」の表紙の住宅は、その直後と考えられるが、終戦直後の混乱も一先ず落ち着き、住宅不足とは縁がないと思われる日光のような山間の観光地に、電車の廃車体を利用した住宅が作られたことは誠に興味深い。古川電工の増産に伴う就業人口増加による住宅の供給が間に合わなかったためであろうか。いつ頃まで存在したのかは勿論不明であろうが、昭和30年代の終り頃まで存在していれば、或いはファンの目に触れていたかも知れない。

11日、HPを開けたところトップページが岡山電軌に変わっており、最初に出てきたのが日光軌道線時代の塗装に変更された3005号車、次はKUROの3007号車であった。893-2さんが「汽車住宅物語」の話題に合わせて変更されたものと思われるので、日光軌道線から岡山電軌に至るまでの流れを簡単に書いてみたい。

昭和28年に車両を一新した日光軌道線であるが、東照宮のみ見学する場合はともかく、中禅寺湖、立木観音、湯元温泉まで行く場合、軌道線を利用すると終点の馬返しでケーブルカーに、更にケーブルカーの終点、明智平でバスに乗換える必要があった。一方、バスは日光駅から中禅寺湖を通り湯元温泉まで直通で運行され、観光客が乗換え不要のバスに流れるのは自然の成り行きであった。それでも沿線の古川電工の貨物輸送のために運行が続けられていたが、こちらもトラック輸送に切り替えられたため、遂に昭和43年2月24日限りで廃止となった。

廃止後の車両の行方であるが、100形は10両全車揃って当時単車のボギー車化を進めていた岡山電軌に譲渡、連接車の200形は大き過ぎるためか、引取り手がなく東武博物館に保存された203+204以外は解体された。また、電機のED611は栗原電鉄に譲渡され、同電鉄廃止後は栃木県の個人宅に保存されている。

岡山電軌では3000形3001~3010となり、ビューゲルから岡電式パンタに取替え、方向幕の移設、後にワンマン化が行われ、同社の主力として活躍したが、平成2年から冷房車と代替で廃車が始まり、現在残っているのは3005、3007、3010の3両である。(それ以前に3001が昭和48年10月に事故で廃車になっている。また、日光時代の旧車号は順に102、105、106、107、110、104、108、101、103、109である)3005は平成17年4月、日光軌道線時代の塗装に復元、3007は平成16年11月、烏城と呼ばれる岡山城のイメージに合わせて黒を基調とした塗装に変更、3010はデザイン賞受賞作品のチェック模様となっている。3005と3007は夏季以外は定期ダイヤで運行、3010は予備車となっているが、各車両とも夏は運転されない。

日光軌道線は、現役時代の昭和42年3月と翌年1月の2回訪問したが、いずれも神橋の鉄橋と国鉄・東武日光駅前での撮影に終わっている。亡母から「日光に行くのやったら菱屋の羊羹を買うてきて」と頼まれた。加えて昭和43年1月の時は東照宮境内に売っている「お札」の購入を頼まれ、ついでに東照宮を見学したため、肝心の電車撮影の時間が大幅に削減されてしまった。

 

101  昭和42年3月25日   神橋鉄橋 

 

104  昭和42年3月25日    同

 

110  昭和42年3月25日    同

 

110  昭和42年3月25日  国鉄日光駅前

 

110  昭和42年3月25日    同   (バックの山は男体山である)

 

3004(旧107)  昭和44年3月18日/本や資料によっては、全車両入線時にワンマン改造をしたように書かれているものがあるが、それは間違いで写真のように当初はツーマンで入線している。

 

3003(旧110)  昭和44年10月22日/ワンマン改造されているが、出入口の表示からも判るようにツーマンで使用されている。

 

3009(旧103)  昭和44年10月22日/この車は平成14年廃車後、栃木県のファン宅で保存されている。

3006(旧104)  昭和46年7月28日

天然色写真で巡る40年前の九州(11)

仕上げは呉線

少し間が開いてしまったが、今回でひとまず最終章としたい。

20日余りの九州滞在を終えて(大阪発の九州均一は通用16日のはず、と訝る向きもあろうが、これにはちょっとした仕掛けがあった…)、夜行の臨時急行「桜島」に乗り早暁の広島駅に到着した。

広島駅で発車を待つ呉線C6241牽引622列車(昭和44年3月27日)

呉線ホームへ行くと、もうすでに呉線の始発622列車がホームに入線している。牽引機を見に行くとC6241である。ボイラーの熱気と石炭の匂いが全身を包み込む。私は山陽本線の蒸機全盛時代は知る由もなく、電化直前の姿を辛うじて垣間見ることができた世代だが、広島駅のゆったりしたホームで発車を待つ呉線の列車は、山陽本線時代を髣髴とさせる雄姿を醸し出していた。

その始発列車に乗り、広~安芸阿賀間の鉄橋で、朝のラッシュ時に陸続として広島へ向かうC59・62列車を捕らえたのち、ラッシュの一段落した小屋浦に降り立った。呉線では広~広島間でC59・62列車を多く稼げる。小屋浦はその区間の代表的な撮影地として知られていた。ただ、ずっと国道と並行し、店舗や家屋も多く、代表的な“クサイ”撮影地としても名を馳せていた。しかし今から思えば、国道の車両の通行もわずかで、家屋も今のようなド派手なものではなく、“クサイ”など揶揄したらバチがあたりそうである。

瀬戸内に沿って走るC59161牽引622列車(昭和44年3月27日)

ここで、C59161の牽く上り列車を写した。糸崎機関区のC59は、161、162、164の3両。C59全製造数の173両のなかで生き延びたのはこの3両だけと、他の大型機、C60、61、62がまだまだ健在なのに比べると、残ったのは極めて少ない。急行旅客機らしいスマートで、蒸機のなかでは最もバランスのとれた最高の形態美だとの評価が高い。「かもめ」牽引を始めとして、C59は山陽本線を代表するカマでもあった。

この日は、夕方まで小屋浦で粘り、その日は広島ユース泊、翌日から二日間は、鉄道同好会恒例の春の大狂化合宿が、呉の国民宿舎「音戸ロッジ」で華々しく挙行され、久しぶりにクラブの面々と和やかに一夜を送ったのであった。

ところが、九州の最終日、筑豊本線で撮影中、泥沼に下半身がはまってしまい、それ以来少し風邪気味のところへ、夜遅くまでハシャギすぎたのがたたって、翌日は熱も出てかなりの重症で、動けるような状態ではない。旅行中に病気になったのは後にも先にも、この時だけである。それでも気力を振り絞ってみんなともに安登まで行き、ヘッドマーク付きの最後のC62「安芸」を捉えた。しかし、もう体力・気力も限界、雨も降ってきて寒さが余計こたえる。まだ撮り続けるみんなと別れ、這うようにして呉線を去って行った。(終)

安登付近の勾配を上る下り急行「音戸」(昭和44年3月29日)

 

都電荒川線に新車登場

都電荒川線に昨年度に引き続きレトロ調の新車、9002号車が登場し、1月31日から営業運転を開始した。昨年度登場したレトロ車両9001号車と同形であるが、塗装は濃いブルーを基調としている。車体メーカーは「アルナ車両」で、制御装置はVVVFインバータ制御、駆動装置は平行カルダン、ブレーキシステムは電気指令式電磁直通ブレーキ、応荷重機能と回生、発電制動付と最新の装備である。今回は純増備のため代替廃車はない。

また、乙訓の長老の【1675】(1月27日付)の書込み通り、21年度と22年度に各5両ずつ新車を投入して7500形を代替する計画があるが、スタイルはレトロタイプではなく、8500形をベースにしたものになる模様である。

2月7日(日曜日)午前中、荒川車庫で9001号車と並べて撮影会が実施され、ファン、近所の人、家族連れ等、延べ500名位の来場者で賑わっていたが、ピーカンのため、光線状態はよくなかった。2月11日までは限定ダイヤで運行されていたが、12日より平日は他車と共通運用、土日は当分の間、限定ダイヤで運行される予定である。

2月11日、15時11分の出庫時刻に合わせて15時前に荒川車庫に行ったが、この電車に乗車するために並んでいた人が親子連れを中心に約20名、撮影者が約30名おり人気の高さが伺えた。撮影者は電車発車後、瞬く間に消えてしまったが、私は電車が戻ってくるまで撮影した。自宅最寄りの金町から僅か4駅、所要時間にして12分で荒川線と交差する町屋に到着する。今まで近過ぎていつでも撮れると思ってしまう所為か撮影する機会が非常に少なかったが、この日は久し振りにゆっくり撮影した。

 

2月7日撮影会   先輩格の9001号車との並び

出庫する旧カラーに塗装変更車7022号車との並び

出庫する7001号車との並び

台車は住友金属製FS91-B

アルナ車両の銘板

2月11日の9002号車 早稲田行

早稲田で折り返してきた三ノ輪橋行

先輩格の9001号車

CRHの旅Ⅲ Part4 CRH2寝台電車

北京駅には。21:50に到着。前回の広州駅のようなギリギリは、控えたいと思っていましたが、既に乗車は、始まっていました。和諧号待合室から、専用跨線橋を通ってホームへ下ります。ほぼ、最後尾に近い位置です。指定席は、前です。車両番号を撮影しながら向かいました。

 4番プラットホームには、乗車する上海行きのD301と杭州行のD309が並んで、発車待ちをしていました。ここで、初めて杭州行きもある事、上海行きがD309ではなく、D301である事を知りました。天津で、購入した切符を見れば分かったのですが、日本で入手できた中国情報は、当てにならないものです。

車両は、どちらも間違いなくCRH2です。中国鉄路では、初めての寝台電車、中国版 『月光号』です。そして、最高速度200km/hで走行します。

今まで、北京~上海間1,463キロには、毎日19:26から20:02までに、5往復のZ列車が、寝台列車として走行していました。所要時間は、最速11時間28分(平均速度127.6km/h)です。

1月時刻改正から、2本がCRH2型に置き換えられました。所要時間は、9時間59分(146.5km/h)となり、1時間29分のスピードアップとなりました。私の乗車するD301の5分後の21:44にD305も、続いて発車します。

今までは、北京でゆっくりと夕食をとる事は、ちょっと無理がありましたが、発車時間が、1時間42分も遅くなったおかげで、出来るようになりました。夜行寝台に乗って、朝には上海に着けます。

各車両の入口には、赤いオーバーコートの制服を着た、若い女性服務員が立ち、切符の確認をしています。通常ですと、入口か車内で、直ぐに切符と席札を交換するのですが、なぜか今日は、やりません。理由は、聞かない事にしました。

私の席は、2号車28番上段席です。中国では、日本のJRのように、購入時に車両番号や、座席の指定ができません。1号車1番から順に発売していく単純なシステムです。

 

天津の旅行社では、下段を依頼したのですが、下段は満席で、これしかない。購入しなければ、他の人が買うと言われました。しかし、後部から見てきましたが、殆ど客は乗車していません。むしろ、ガラガラの状態です。言っている事と、事実が違う事が多いので、中国人の言う事は、100%信じられません。

まあ、最近の日本人も、負けず劣らずの偽造や嘘が多く、中国人だからと言うのは、大変失礼ですが、真実を暴いても、堂々としているか、何かと言い訳をつくって、自分の非は認めない事は、何度も経験済みです。この国では、騙される方が、勉強不足で悪いといった受け取り方です。

2号車の服務員に座席の変更を申し出ると、嫌な顔はせずで、発車後に列車長と相談するとの返答です。これは、期待できます。発車後、ぴったりとくっ付いて行くと、4号車を案内してくれました。

それでも、乗客が既にいるので、誰もいない部屋をお願いしましたら、OKがでました。1部屋を快適に個室使用できます。追加料金の76元を支払って、切符を受け取りました。車内で、携帯切符発売機から、印刷発行された切符を受け取るのは、初めてです。

この列車は、前後両端車が、2等座席車、8号車は全車食堂車、後の13両は、4人1部屋のコンパーメント軟臥(一等寝台車)の16両固定編成です。上海寄り、1号車よりの車両番号です。

ZE21212201+WR212202+WR212203+WR212204+WR212205

+WR212206+WR212207+CA212208+WR212209+WR212210

+WR212211+WR212212+WR212213+WR212214+WR212215

+ZE212200 (列車編成CRH2-122E)

夜行寝台列車が多い中国鉄路では、最初に売れるのは、硬臥(2等寝台)です。次に硬座(2等座席)、最後に軟臥(1等寝台)と、聞いています。

この列車がガラガラなのは、人気の硬臥がないのと、競合する航空券代よりも高くなるのも要因と思われます。軟臥は、731元(約9,800円)です。一方、飛行機は、定価で1,100(約14,700円)ですが、早割だと、450(約6,000円)~750元(約10,000円)程度で購入でき、ほぼ同額以下となります。飲料や、軽食も付いています。

所要時間は、2時間10分程度です。24時近くまで運航しているので、北京でゆっくりと、夕食を取っても最終便に間に合います。ゆっくりと自宅で寝るか、列車で寝るかの選択となります。当分は、苦戦が続きそうな気がします。

杭州行きのD309が、5分前に出発した後に、D301も静かにホームを離れました。3本の高速列車が、5分間隔の並行ダイヤで走行するように組まれています。

さて、『はやて』が、どのような寝台電車に、設計変更されたかを見てみました。軟臥は、高包(2人用)はなく、すべて4人コンパーメントで、片側は通路です。通路には、折りたたみ椅子が設置されています。各車には、洗面所とトイレが各2人分、設置してあり、中国鉄路には、不可欠の給湯器も設置してありました。

車内設備は、Z列車寝台と同様に個人用液晶TVが設置され、ベット幅は70㎝、長さ205㎝、下段の高さは95㎝、上段は75㎝あり十分ですが、車体高が客車と比べて、低いので、車内から通路天井上に設置されている荷物置き場スペースがありません。中国人旅行者は、荷物量が半端ではありません。床に置くしかありませんが、4人分となると、大変でしょう。荷物の少ない路線でしか、この車両は使用できません。『はるか』のように、各車に荷物置き場の設置が必要です。

落ち着いたところで、食堂車視察に出かけました。列車服務員が座っているのみで、ガラガラです。厨房スペースは、結構あるので、車内で調理をするのかと思いましたが、写真のようにすべて電子レンジ調理品ばかりです。

試しにソーセージを頼みましたが、中々出てきません。冷凍品なので、解凍してから温めるので、たっぷりと時間がかかります。郷に入れば郷に入れです。生暖かいビールで乾杯しました。

列車服務員と話をしていると、この車両は、日本語で”カワサキ”と、言います。まさか、末端の乗務員から”カワサキ”を聞くとは、思いませんでした。

確かに当初の3編成24両は、川崎重工からの完成品で、6編成分はノックダウン方式の輸出でした。後の51編成は、約70%の国産比率での製造と聞いています。余程、周知されているだろう事を知りました。

数人の利用客が来た程度で、食堂車は、他の列車と同様に、列車服務員の憩いの場になっていました。

部屋に戻ってからは、パソコンを立ち上げて、ゆっくりと日本酒を飲み、映画を見ながら、いつしか夢の中となっていました。

夜が明けだした7時前に、目も明けました。時刻表では、無錫に停車するように載っていますが、徐行しての通過です。運転手が忘れた訳ではないでしょうが、時刻表にない駅に停車したりで、この逆もあります。結構、臨機応変で需要に応じたダイヤを、組んでいるようなところもある中国鉄路です。

 

定刻の7:39に、上海定刻到着しました。5分後に追走するD305も到着しましたが、こちらも乗客わずかでした。春節前の静けさなのでしょうか。

上海駅前は、春節帰省用の臨時切符売場や、乗車待ちのテント村が設置されていました。高速道路が未整備だった日本も、お盆や正月規制時には、京都や大阪駅前にテント村が設置されて、多くの帰省客の方々が、並ばれていたのを思い出します。

まずは、荷物をホテルに預けてから行動しようと、地鉄駅に下りましたが、丁度通勤ラッシュです。到着する電車は、既に超満員で、スーツケースを持っての乗車等、ヒンシュクものです。3本も待ち続けて、ようやく隙間を見つけました。

中国のホテルで良いところは、部屋が空いていれば、早朝からでもチェックインできる事です。部屋に荷物を置いた後は、上海朝食名物の1つ、焼き豚饅頭を食しました。

満腹となったところで、部屋に戻り、しばし夜行列車移動の疲れを取りました。今日は、日本での情報では、休館日となっている上海鉄道博物館の場所確認です。

尋ね人

子供の頃、ラジオから「北支派遣軍第○○部隊におられた●●さんをxxさんがさがしておられます。・・・」という声が流れていたのを記憶しています。乙訓の老人や須磨の人間国宝などはリアルタイムに聞かれたはずです。それではありませんが事情があって下記の方を探しています。

会員で、78年に法学部法律学科に入学した方を探しております。知っている方がおられればご一報下さい。よろしくお願いします。

いよいよシリーズ?最後になります。

皆様のご指摘で整理が進みましたことをお礼申し上げます。

前回は横浜在住の方からの初投稿もあり望外の喜びでした。そこでここはどこでしょう、と言う写真です。撮影は昭和43年春です。同じ場所から四方を写しています。都市名と場所、撮影ビル名などお解りならお答え下さい。

今もあるのかしら?屋上から北を見る

同じ場所

西方を見る。向こうの山はどこ?

上と同じですが大望遠で撮るとうっすらと・・見えますね!

今度は東の方。よく見ると貨車が。

同じビルの屋上から撮ったものですが今から見ると面白いものが写っていますね。
ところで一回目にも書いたように使ったフィルムはフジカラーリバーサル、サクラカラーリバーサル、エクタクロームです。
場所当てと共に一回目はなにカラーか二回目は、三回目は、と答えて下さい。