【2884】行ってみるしかあらしません

阪急河原町・嵐山間に直通臨時列車が5/2~5/6間、運転されます。発車時刻は次のとおり.

河原町発 10:42、11:02、11:22、11:42、15:42、16:02、16:22、17:02、17:22、        所要時分23~24分

嵐 山発 10:09、10:29、10:49、11:09、11:29、15:10、15:29、15:49、16:09、16:  29、16:49、17:09
所要時分22~23分 使用車両は一般車6連、6300系ではありません。HMについては不明

*5/16、5/17、5/23、5/24、には天下茶屋~嵐山間に臨時列車が、1往復運転されます。

(往路)天下茶屋10:19-地下線は普通-天六10:35-桂11:14-上桂11:18-松尾11:21-嵐山着11:24 他は発

(復路)嵐山16:32-松尾16:35-上桂16:37-桂16:43-天六17:19-地下線は普通-天下茶屋着17:36 他は発
使用車両は一般車6連。2300系で運転されることはありません。以上お知らせします。


【2865】2009年青春18きっぷの旅Ⅳ-Ⅴ Part2 予土線

初めて乗車した予土線の印象は、忘れられません。山の多い日本では、近くの保津峡をはじめとして、山の渓谷に沿って、蛇行しながら走る路線は、たくさんありますが、いずれも狭い。一方、四万十川は、渓谷でありながら、広くてゆったりと、流れているように感じられました。
その感じを、ファインダーから見たいと、第1回目に乗車した時に、ロケハンしておいた撮影地を訪れました。

4月3日、宇和島駅前でレンタカーを借り、予土線沿いの道路を走りました。北宇和島駅~務田間6.3キロが、最初の撮影地です。車窓からは、最高30‰もある勾配の連続を走る様子は、圧巻でした。今回は、山桜も満開です。

しかし、撮影地に行き着くまでには、難行しました。道路との交差がなく、線路へ上がる土手は、急坂すぎて老力では、登れません。それでも、空き地を見つけて車を止め、滑りながらも、よじ登りました。若い頃なら、何でもなかったでしょうが、足腰が弱ってくると、撮影地に行くにも、時間と苦労が必要となります。列車3本の撮影を予定していましたが、1本は、足が進まず、撮影目的地に着けずで、撮り逃がしてしまいました。

次の撮影地は、四万十川の支流の吉野川沿いを、並行して走る真土駅~江川崎駅間です。トロッコ列車を狙いました。1日1本の列車です。撮り逃がすわけには、いけません。時間がありましたので、前もって撮影場所を確認しました。そして、通過時間を読むと、何回は、追い越しての撮影が可能と、分かりました。山間の道路ですが、通過車両も殆どなく、列車が駅に止まる時間中に高速移動で、シャッターチャンスを掴みました。

今回の撮影時は、途中から曇りだし、雲が厚くなってきました。日光が当たらないので、折角の山桜や新緑が、ぼやけてきて、ファインダー内から見る、写真の奥行きが、消えてしまいましたので、山間での撮影を中止して、夕焼けの下灘に向かいました。

3回目の撮影時は、それから6日後の4月9日となりましたので、山桜は、散りだし、葉桜模様でした。春霞ながら、晴天に恵まれての撮影ができましたが、絶好の撮影場所なのに、山間での撮影に適したわずかな時間には、列車の運行がなく、残念な思いをしました。自然の中での鉄道撮影は、何度撮っても難しいものです。SL時代は、温度と風に、大きく左右されました。驀進するSLの煙の出具合が、違ったからです。

煙がなくなったとは言え、同じ場所で撮っても、季節、時間、天候、特に撮影条件に不可欠なライティングは、自然任せです。シャッターチャンスや、撮影角度は、その人のセンスとなって、味付けとなりますが、センス不足の小生には、運しか良い写真を撮れる要素は、ありません。運を掴むには、1回や2回の挑戦では、とても無理な話です。下灘と、同様に来春のリベンジを誓いました。


【2853】1953年3月高校生東京へ2

先回(2643)でとんだミスというより、致命的に拙老の(遅進行性らしいのがせめてもの救い?)アルツハイマーぶりを露出する大ポカがあった。なにしろ1年間違えたのである。すなわち、1954年3月ではなく、1953年3月、高校1年から2年になる春休みであった。従ってタイトルも変更を余儀なくされた。歳はとりたくない。

ン千円を上野駅個室の「奈落」に落とし、意気阻喪して一人京都に帰った相棒と別れ、当方も一人で上野駅で23時発夜行各停直江津行327レを待つ。大分後まで、大阪や上野駅では夜行列車を待つ客のため、鉄道弘済会が風呂用みたいな木製の小さな椅子を10円で貸出し、改札の大分前に回収するシステムが存在した。10円も惜しい高校生は勿論拾った新聞に腰を下ろした。横では絶え間なく手小荷物を満載したカートを何両も連結した牽引車が忙しく往来し続ける。

小諸着は4時24分、震えながら待った小海線初発は5時51分の2レ。この時点では列車番号にディーゼルカーを表すDは付いていないが、キハ41310であった。東小諸のみ通過し、小海着7時05分。ここで113レ(C56128)や6レを撮ったが天気は悪い。小海9時52分発162レ(C56100)に乗車して、憧れの小海線走破を目指した。


キハ41310 (←キハ41210←キハ41088) のちキハ0411 天然ガス車から勾配線区のためDMF13装着に改造し300台に 最終倉敷市交通局キハ311→水島臨海鉄道キハ311

C56128牽引113レ 客車はすべて木製中型車で、小海から2両が増結された

116レ 同じ列車が小海を堺に列車番号が113レに変わる

C56132牽引貨物列車
期待の野辺山―清里―甲斐大泉間は、致命的な睡眠およびカロリー不足で、扉を開けたデッキで頑張ったがともかく寒く、意気は上がらず、上野で挫折した相棒の跡を追いそうだった。人影などあるはずのない荒漠たる野辺山原野には、ただただ溜息ばかり。明治期警官隊に追われ、襲撃された群馬県自由民権派の一団がこの地で壊滅したとは、はるか後になって知ったのだが。


小淵沢到着の162レ


ホハ12238←ホハ7108 妻面に窓のあるタイプ

重苦しい鉛色の空の下、ともかく小海線を走破して、甲府、身延線を経由して、今晩は富士でステーションホテル(略してステホ=駅待合室で一夜を過す)予定である。


【2844】京阪のポスター???

京阪電車に乗るとき、こんなポスターに目が行きました。これってなんか変ではないですか?

快速急行・通勤快急共に3000系の三扉車で運用していますからこのポスターの言いたいことは「足下の黄色の△(8000系二扉位置)とみどりの△(特急に三扉車を使ったときの中央扉位置)でお待ち下さい」です。

「または」を使うと「どちらか」の意味になり混乱するのでは?と思いましたが皆様はいかがでしょうか?

この場合は「足下の黄色及びみどりの△位置でお並び下さい」でいいのではないでしょうか。


【2760】2009年青春18きっぷの旅Ⅳ-Ⅴ Part1 祝時刻表1000号&下灘

祝時刻表1000号!
今日朝のTVを見ていると、4月20日発行の時刻表は、発行されて84年、1000号になったと、特集をしていました。見られておられない方のために、知られていないエピソードとして、

① 間違えが、あってはならない書籍なので、校正が大変ですが、未だ、間違えはない。
② 時刻情報は、増える一方だが、重さは、変わっていない。これは、第3種郵便としての認可範囲の1kgを超えないためです。
③ また、超えないための苦労として、紙の厚みを薄くしている。
④ そして、紙を薄くすると、透けるといった新たな問題が生じる。このために、両面印刷の際に、表裏の印刷をダブらせて揃える事で、見えにくくなるのを、防止する対策をした。お手元にある時刻表を、透かせて見てください。確かに、外枠が、裏表とも揃っています。
⑤ 表紙のデザインは、日本の鉄道を続けているが、ただ、ソウルオリンピックの1回のみ韓国の鉄道を題材とした。

今では、インターネットで検索する事が、多くなったので、発行部数も最盛期の250万部から15万部へと減少した等々、以上の事を放映していました。 私も。以前は毎月買っていた時もありましたが、会社でも買っているのと、だんだんと高くなったので、今では、3月の時刻改正と、青春18きっぷ利用時しか、買うことがなくなりました。 しかし、旅に出る際には、パソコン、デジタルカメラと同等の重さになる時刻表は、ずしりと重く、老体にはこたえます。

放映で気になったところが、もう1つ。報道関係者には、祝1000号と印刷された、桐箱に入った時刻表が、配布されています。これって、やはり欲しいですね。

前置きが長くなりましたが、四国から帰宅した深夜は、バタンキューでしたが、翌朝起きる頃には、菜の花が咲き並ぶ予讃線、下灘駅での夕陽、四万十川の桜、行かなかった伊予電郊外線の事が、思い浮かび続けます。満開の桜を題材にするには、時間がありません。再度の旅立ちへの用意をしていました。 そして、桜が散るまで、思った写真が取れたと、納得いくまで、2回に渡って、四国参りを繰り返しました。

① 長岡京6:17(快速705M)→6:45大阪 221系6両 平日は、満席です。
② 大阪6:52(新快速)→7:54姫路 223系12両 始発ですが、立ち客もでます。
③ 姫路8:00(1309M)→9:27岡山 115系4両 別ホームです。遅いと、立ち客です。
④ 岡山9:32(快速マリンライナー)10:10坂出 223系6両 ゆっくりで大丈夫。座れます。
⑤ 坂出10:21(125M)→11:13観音寺 121系4両(113系の運用もあります)
⑥ 観音寺11:40(1121M)→12:44伊予西条 7000系2両
⑦ 伊予西条12:52(537M)→15:07松山 7000形1両

⑧ 松山15:35(925D)→19:30宇和島 キハ185系2両  以前の特急車両です。

以上が、基本的なルートで、8列車を乗り継いでの、13時間13分の所要時間です。運賃は通常、7070円ですので、十分に元は取れています。実際は、途中の串駅、松山駅で、一時下車して、下灘駅付近での撮影をしました。

夕陽が見える海に、最も近い駅の下灘駅から見る夕陽

夕陽が見える海に、最も近い駅の下灘駅から見る夕陽

夕陽の駅 『下灘』

夕陽の駅 『下灘』しずむ夕日 下灘駅

下灘駅

下灘駅

串~下灘

串~下灘  4926D

下灘駅に入線する929D

下灘駅に入線する929D下灘駅 

土佐上灘駅に到着する928D
土佐上灘駅に到着する928D
向井原~高野川  4923D

向井原~高野川  4923D

向井原~高野川 919D

向井原~高野川 919D

高野川~向井原 4644D

高野川~向井原 4644D

高野川~伊予上灘 

高野川~伊予上灘 4917D

伊予上灘~下灘 925D

伊予上灘~下灘 925D

2回目の出発は、天気予報を見てから、4月2日の出発としました。車窓からのロケハンでは、実際に現場に行くと、足場が確保できなかったり、電線が邪魔になったりと、撮影に適しているかどうか分かりません。 順光か逆光になるのかも、心配なところです。桜咲く頃の春霞も、大きな問題です。

松山からの列車は、下灘駅の1駅先の串駅で降りました。1986年(昭和61年)に、内子線が開通して以来、優等列車は、全て向井原駅~伊予大洲駅間の短絡ルートに運行変更されました。普通列車のみのローカル線と化したこの区間は、コンクリート枕木もロングレールもありません。 枕木間のピッチは、歩幅にぴったりです。列車時刻を再確認後、久方ぶりの、木製枕木を踏みしめる感触を確かめながら、下灘駅に向けて歩き出しました。

関西では、こんな事は出来ません。時折、山に登って、撮影可能かを探しますが、中々見晴らしが良い場所は、見つかりません。あっても、家々、電線、木々や雑草が遮ります。

綺麗な青い海、海岸線、満開の桜、夕陽と材料は揃っているのですが、車窓から見る絶景をうまくファインダー内に収めるには、非常に難しい場所です。 結局は、下灘駅まで歩いてしまい、また逆行して駅近くで、撮るはめになりましたが、夕陽と列車の露光が、合いません。

翌日は、レンタカーで、予土線撮影後に引き返して挑戦しましたが、天候が予報より悪化して、曇天模様となりました。

喜多灘~串 4926D

喜多灘~串 4926D

串~喜多灘 927D

串~喜多灘 927D

4月7日からの3度目の挑戦では、松山でレンタカーを借りて、機動力での撮影地探しを続けましたが、頭に描いた光景を、実現するに至らずでした。しかし、走り回っての、土地勘も出来ました。この悔しさをバネに、来春は万全の用意を持って、後は好運に恵まれる事を祈って、リベンジを誓いました。


【2727】2009年青春18きっぷの旅Ⅲ Part7 伊野→帰宅

 翌朝、お世話になったお礼を言って、伊野駅に向かいました。高知駅で、一旦降りて、まだ未乗車の『とでん』の桟橋線乗車と、撮影です。
 帰宅までの行程です。今日も各種9列車を乗り継ぎます。

① 伊野9:24(736D)→9:47高知 キハ1020+キハ1016
② 高知13:21(5836D)→13:40後免 キハ9640-4
③ 後免14:02(248D)→16:31阿波池田 
            キハ32-20+キハ32-18+キハ3217
④ 阿波池田16:34(4252D)→17:18琴平 キハ32-19
⑤ 琴平17:25(1274M 快速サンポート)→17:57坂出 
               クモハ121-12+クハ120-12
⑥ 坂出18:24(315M 快速マリンライナー54号)→19:03岡山
⑦ 岡山19:16(1332M)→20:41姫路 115系6両編成
⑧ 姫路20:57(3316M新快速)→22:17高槻 223系12両編成
⑨ 高槻22:20→22:31長岡京 321系
 

伊野駅   高知駅

伊野駅 土佐くろしお鉄道車両  高知運転所

土佐くろしお鉄道車両    高知運転所

土佐くろしお鉄道車両    高知運転所

『とでん』の桟橋線撮影の後、JR線に乗り入れの土佐くろしお鉄道車両に乗って、まだ下車していない後免駅に向かいました。土佐一宮を出ると、高知運転所がありました。各気動車の隅に、3両の12系客車をつないだ、DF101094号機が置いてありました。

後免駅

後免駅

2002年の土佐くろしお鉄道開業に伴い、改築された後免駅は、橋上駅で、エスカレータこそありませんが、エレベータは設置されています。『ごめん えきお君』のモニュメントもユニークで、楽しめました。 

阿波池田駅までは、2時間半の乗車です。何が来るかと楽しみでしたが、何と両運転台のキハ32の3連でした。土佐くろしお鉄道の車両とは、えらい違いです。土佐山田駅では、最後尾の1両を切り離しました。この1両は、4249Dとして、高知へと折り返します。
土佐山田駅

土佐山田駅

土佐山田駅は、『あんぱんまん』で、有名な漫画家やなせたかし氏の故郷、香美市の玄関口です。やなせたかし氏は、JR四国の特急列車のラッピングをはじめ、普通列車のヘッドマークや、土佐くろしお鉄道の各駅イメージキャラクターを描き、イメージアップに貢献しておられます。

新改駅

新改駅

土佐山田駅を出ると、列車は、大きくループして、勾配を上がり、山間へ入ります。やがて、スイッチバックの駅新改駅に到着しました。運転手は、後方車の運転台に行くのかと思いましたが、ワンマン運転ではなかったためなのか、そのままで、後方を見ながらのバック運転で、本線を横切って、引込線に入りました。

直ぐの発車でした。車掌に最近の乗降客数を聞くと、片手で5名との返答でした。付近に何もない秘境駅です。本当は、もっと少ないのでしょうね。

土佐北川駅

土佐北川駅

約24分後、同じく秘境駅土佐北川駅に到着しました。土讃線の路線変更によって、1986年(昭和35年)に移転された駅です。トンネルの中の駅もありますが、橋そのものが駅というのも、珍しいものだと思いました。

土佐穴内駅    土佐岩原駅     大歩危駅

土佐穴内駅   土佐岩原駅   大歩危駅

 高知からは、列車本数も増えています。交換できる殆どの駅では、対向列車を待ちます。駅の停車時間も、3分以上もあるますので、その度に、駅前探索に出かけました。しかし、駅前には無人の商店や家が目立ちます。周りは、山また山、へばり付くように人家が見えますが、とても住めるような、環境ではありません。

土佐岩原駅を通過する 南風13号

土佐岩原を通過する 南風13号

大歩危駅、小歩危駅と吉野川沿いに、トンネルをくぐり、橋を超えて、蛇行しながら線路は、続きます。沿線は、山桜が満開で、圧巻でした。写真には撮れませんでしたが、四万十川に始まった『こいのぼり川渡し』も、設置されていました。

小歩危駅   阿波川口駅   三縄駅    阿波池田駅   

小歩危駅   阿波川口駅    三隅駅   阿波池田駅  

高知駅を出発して、約3時間。ようやく讃岐平野の阿波池田駅に到着しました。残念な事に、乗り継いだワンマンカーは、四国でもう1つのスイッチナック駅坪尻駅は、無停車で通過しました。

次の乗換駅の琴平駅からは、電車です。快速サンポート、快速マリンライナー、115系リニューアル車、姫路からは、新快速と乗り継ぎ、家路に着きました。

家の用事のための四国への旅でしたが、その後の4泊5日の青春18きっぷの旅は、今まで眠っていた、鉄道の旅、と鉄道写真への熱い想いを、蘇らしました。帰宅後、直ぐに印象深かった夕陽の綺麗な予讃線下灘付近、そして四万十川沿線や伊予電郊外線での撮影へと、気持ちは向かい出だしていました。直ぐに身支度を始め、再び四国への旅立ちとなりました。

 

 

 


【2706】桜三分咲き、大井川鉄道

何年ぶりかの連休が取れたので大井川鉄道を訪れました。DRFCの犬山行きの時は、生憎行事が重なり行けず、皆様には失礼しました。
春休みのお花見シーズンの書入時、大井川鉄道ではSL列車を一日三往復運転する日があります。3月28、29、30の三日間、笹間渡温泉を根城にして撮影して来ました。桜を蒸機のバックにと意気込んだのですが、最後の寒波襲来で三分咲き、わずかにピンク色を帯びた程度、一週間後に満開でした。その代りに桃の花や、早咲きの枝垂れ桜などが代役を務めてくれました。

鉄ちゃんは相変わらず沢山いました。例によってあまり行儀が良くなく、立ち入り禁止のロープなどは越えて当たり前。蒸機には再三にわたり警笛を鳴らさせていました。彼等の移動はみんな車、そのくせ写真はほとんどが線路際で望遠レンズ使用。車どころか自転車もない私は、電車利用と徒歩。山にも丘にもリュックを担いで、楽ではありませんが登れば、そこは人影を見ない絶好の場所。空気もおいしく命の洗濯をしてきました。

先ずは、第一日目28日(土)。9レ旧近鉄車両で笹間渡着、大井川第一橋梁へ。橋梁のイン側は既に一杯、立ち入る余地なし。アウト側は無人。一人で1001レ、ヘッドマーク『さくら』のC108号。5両の客車に電機を従え勢いよく登場です。
この後、河原に降りて1003レとイン側特等席で101レを撮影。

01レ通過後、上りが返ってくるまでに2時間30分あり、なるべく橋梁全体が見渡せる小高いところに登ることにした。
川 の水量は少な目、向こうの山は緑に混じりところどころに桜らしき色も見える。1002レと1004レを撮影。

1004レC11275は電機の後押しもなく、全車両が橋梁上で上手く収まった。私は、全車両を画面に収めるのが好きで、大したカメラでもないのに遠景写真が多い。そして伸ばしてはピントが悪いと残念がっていることが多い。昔、英国の鉄道写真の撮り方なるものを聞いたことがある。車両は最後尾まで入れるべし、カーブでの撮影はイン側で撮るべし、アウト側からの場合は高所から撮るべしなどなど。今時こんな話は通用しないが、できるだけ全車両を入れて撮りたいと思う。

この場所から更に上に昇った場所からは、抜里駅や抜里トンネルまでが一望できる。次回は下り列車をここから撮影しよう。この日最後の撮影は、下に降りて、やはり橋梁を下流側から眺めた。桜は二、三分咲きで今一つ色が足りない。この間からの寒波で開花がすっかり遅れてしまった。その分、蒸気の白さははっきりしてよかったが。この夜は笹間渡温泉(入湯料500円)に浸かり、東屋旅館泊。

翌日は、東屋旅館裏の線路で少し撮った後、家山に向かった。桜の開き方にすごく差がある。ある木は花で白っぽく、ある木はまだ淡いピンクだ。駅を出て左手に進み、以前予約して結局行けずにキャンセルした森屋旅館を過ぎ、駿遠橋を渡り対岸についた。そこから河原を進み、ちょうど家山駅の対岸の河原に陣取った。かなり遠いが、家山川付近にかかるこいのぼりが元気に泳いでいる。これをバックにしようとするのである。昨年真岡鉄道でも試みたが、この時は先着組に占領されうまく行かなかった。今年5月にも真岡に出かけよう。

残念ながら蒸機は絶気。こいのぼりだけの姿だ。この後も川原で1003レを。引き戻って駿遠橋の斜め上から101レを。橋の上を大型観光バスが通過するとかなり揺れる。撮影時と重なると、三脚も無用となる。時差があるようにと祈る。幸い上手くいった

家山駅から少し離れたところで昼食。よい天気なのでビールを注文したら大瓶しかない。半分残せばよいものを丸1本、意地汚く飲み干した。そしてリュックと共に峠を徒歩で登る。まだ元気だ。車など要らない。20分ほど歩いて抜里の茶畑を眼下に一望できる所に着いた。昨日同様午後は高所から見下ろしだ。一時間近く待ち、1002レ登場。

大井川近くの公園風の桜が二、三分咲き、わずかにピンク色。惜しいなあ、あれが満開なら最良だのに。蒸機はトンネルに向いやや上り勾配ながら絶気状態。今一つ面白くない。茶畑には大型扇風機が無数に見える。地元の人の話では、霜除けの扇風機が回転するとかなりの騒音だそう、維持費も結構高いとのこと。
この後、山から急坂を下り、抜里の平坦な茶畑に向かった。昨日に比べ天気は絶好、茶畑中央に八重の桜がある。八重の方が先に咲くのか少し不思議。15レと合わせる。

あと1004レと102レを茶畑で撮り、早々に笹間渡に戻り、まだ日の高いうちから温泉へ。室内の風呂は良いが、露天風呂は湯から出ると寒い、垣根から首を出すと、第一橋梁が近くに丸見え。そうだ、同志社ゼミの次回の酒盛りはここでやろう。関西・関東両方からの丁度中間地点だ。山の空気は良いし、温泉もあり、何よりも蒸機が走っている。2010年春にしようなどと温泉で一人決議。

いよいよ3日目。笹間度近くで2、3撮影。先ずは桃と12レ。

もっと奥地に出かけるのは止して、笹間川橋梁に行く。吊橋を渡ってと考えたが、鉄チャンの車が多い、月曜日だというのに。で渡らずに手前から待つこと40分。幸い風が弱く、川面は水鏡状態。1001レを撮る。山の桜は相変わらず少しだけ。手前の柳や竹の青さもまずまず。

再び笹間渡駅に折り返して旅館裏で1003レを待つ。ところがやってきた団体の貸し切り列車のヘッドマークは興ざめ。なんともセンスのないのには呆れた。喩え貸し切りと云えども、公共に供する物故、もっと上品なものにして貰いたい。いや、公共物を害するようにも見えた。で撮影はヤメ。
すぐさま、18レで抜里へ向かうべく笹間渡駅へ。快晴のこの日、駅前やホームから見える桃の花がひときわ美しかった。

抜里駅近くで101レを撮影。やや逆光だ。

再び家山に戻り、昼食。この日もビールの中瓶なし。
家山駅東側桜並木の土手、家山川の河原、月曜日にも関わらず桜の見物人で満員。大型観光バスでの見物人も。一方鉄っちゃんも多数。その間で上り蒸機牽引列車を3本。初めに1002レを。

最後は101レのタイ塗装C56。さすがに17本も撮ると、最後は少し惰性気味に撮り贅沢な仕草となった。

好天続きでご機嫌な撮影行であった。次は5月の連休、また真岡鉄道か、鹿島臨港鉄道に出かけます。


【2660】青春18きっぷの旅Ⅲ Part6 土讃線2の1

久礼大正町市場

友人が案内を、かってでてくれた土曜日になりました。朝食後、彼の愛車で、土佐の鰹1本釣りで有名な『久礼』に、立ち寄りました。お互い酒が好きなので、まずは、今夜のおかず探しから、始めます。

大魚と航海の安全を願ったであろう、久礼八幡宮近くの地元大正町市場に入りますと、鰹が並べられていました。まだ、初鰹の時期ですので、高い。横に並べられた天然ブリと同じ大きさですが、1本の値段は、ブリが7,000円超なのに、鰹はそれ以上の値札が、付いています。
最盛期になりますと、一挙に下がって1本1,000円前後になります。今日は、ブリの美味しそうな所やら、数々をゲットして、今夜のアテを用意しました。

 
影野駅、仁井田駅

影野駅、仁井田駅

影野駅通過 南風16号

影野駅通過 南風16号

 
 最初の撮影地は、影野駅構内です。久礼からの道路は、いろは坂の連続です。鉄道が、25‰の上り勾配とトンネルの連続だったのが、分かります。

駅舎が一風変わった造りをしています。ホームの屋根も変わっています。駅正面には、坪庭もあります。

かって、影野駅から四万十川を渡って、森ケ内まで森林軌道が走っていました。明治43年に全線が開通し、昭和26年頃まで運行されたとの記事があります。最初は、人馬トロッコ軌道でしたが、内燃機関車を使用しておりますので、ご長老先輩は、行かれたご記憶が、あろうかと思います。当時は、いかがだったのでしょうか?思い出してください。

影野駅では、痕跡を見る事はできませんでしたが、伐採した材木の置き場所としたであろう用地は、今でも十分に残っています。

仁井田駅停車 4752D  キハ1015号車

仁井田駅停車 4752D 高知行き キハ1015

仁井田駅発車 4743D キハ1039号車

仁井田駅発車 4743D 窪川行き キハ1039号車

仁井田駅通過 南風20号

仁井田駅通過 南風20号

 影野駅からは、窪川方面へと走り、高知県では、最もお米が美味しいと言われている仁井田米の産地仁井田駅構内での撮影をしました。

列車待ちの間、近くのドライブインで、友人お薦めの、ご当地名物の『鍋やきラーメン』を、初めて食しました。煮込んでものびないように硬めの麺で、さぬきうどん同様にコシがありました。

この後は、行く間に見つけた土佐新荘駅~安和駅間で、太平洋をバックに撮りましたが、天候がすぐれずで、青い海とはならず、どんよりとした写真になってしまいました。

他にも、車窓から見た好撮影地は、何ヶ所かあったのですが、この天気では、いずれも期待する結果はでないと諦めて、伊野まで戻り、枝川駅~朝倉駅間での近場の撮影に切り替えました。こちらは、丁度満開となった桜並木を横に、まあまあの撮影ができました。

土佐新荘駅~安和駅 4751D 窪川行き

土佐新荘駅~安和駅 4751D 窪川行き

朝倉駅~枝川駅 南風11号 中村行き

朝倉駅~枝川駅 南風11号 中村行き

同じく 759D 須崎行き

同じく 759D 須崎行き

仁淀川のトラス橋を渡る列車も撮影をしましたが、まだ桜が5~7分咲きで、思ったほどの写真にはなりませんでした。
撮影後は、仁淀川鉄橋を渡る列車が、眺められるという友人お薦めの『かんぽの宿』の温泉につかって、疲れを取りました。
明日は、いよいよ帰京の日です。4日間お世話になった友人と、今回の青春18きっぷの旅の、最後の夜の宴を楽しみました。


【2657】なにわ筋線いよいよ出発進行!?

新聞の報道によると以前から出ては消えていた幻の新線・なにわ筋線が橋下大阪府知事の肝いりで政府も調査に乗り出したとか。大阪市やJR,南海電鉄など思惑が入り乱れて決定までの道のりはまだ遠いようだが笑い話からはまじめな提案に変わった事はまちがいない。そこで物知りな会員諸氏に教えを請うのだが、はたしてこの線は必要なのか?効果があるのか?作るとしてこのルートでいいのか?費用対効果はどうか?など無知な私にも分かるように教えて欲しい。

素人が考える問題点

①3000億円もかかるといわれるが短縮時間は新大阪から10分ほど

②南海汐見橋とJR難波に接続するが南海難波にはつながらない。南海のメリットは?JRのメリットは?

③おおさか東線との関係は? など


【2654】伊予は良いとこ、湯も電車もイヤされる

伊予は良いとこ、湯も電車も

イヤされる

 

伊予鉄道古町車庫は器用な工場で、四国では一番の細工をする工場だと思っている。これには須磨の大人も多分賛同してくれるであろう。図らずも老人も須磨と同じ年に伊予鉄道を訪ねている。1955年8月、前年暮れに母を天国に送り、高校生であった老人は寂しさを癒すために伊予へ向った。善通寺を午後10時頃出発、多度津から夜行列車で西へ向ったのだが満員で、今治までデッキで立ちん坊となった。松山に着くや待合室で暫くぐっすり寝てしまった。目が覚めたのが何時だったか覚えはないが、南堀端廻りで道後温泉へ、そして城北線・古町経由で高浜へ行きその後、三津浜から船で宇品へ渡った。従って古町車庫で「今日は、京都から来たのですが・・・・・・」と名乗り上げはない。

 そして2年後、1957年9月、氷屋のアルバイトを終えるや4度目の宇高連絡船の世話になり四国へ渡った。今度は琴参電車で丸亀へ。同じ筋の夜行列車としたが、夏休み後のお蔭で松山まで座席にありつき、ぐっすり寝る事ができた。バイトの稼ぎでポケットも膨らんでおり、先ず道後温泉に浸かりに行った。その後、古町車庫訪問となり、伊予の電車のあらましを知る事が出来た。今回、大人が吃驚するほど出てきたものが車号順にご高覧に供するとしてくれたので、それに従うことにする。

1号:明治44年、東京天野工場製造

松山中心に、周辺部に勃興した軽便を集約した伊予鉄道は、好調な成績を上げていたが日露戦争後、松山電軌に殴りこまれた。慌てた伊予鉄は高浜-古町-城北経由-道後-一番丁(現城北線より北寄りルート)を改軌・電化して対抗した。営業開始は明治4488日であった。松山電軌は遅れること24日、91日であった。この時、伊予鉄が導入した電車が16号であった。前面3枚窓の上部は弧を描いており、鉄道線タイプながらもオープンデッキのモニター屋根の4輪車であった。写真は戦前に軌道線用にステップ改造後、戦後の昭和30年頃に屋根をシングルアーチ化した姿である。この伊予鉄最初の電車6両のうち1354両は戦災に遭い、この16を改番したものである。昭和35年に廃車となった。

2号:1号と同じ

屋根は昭和33年廃車になるまでモニタールーフそのまま、へそライトは小屋根に上げられた。正面中央窓左下端に少し見えている伊予鉄名物、丸ハンドル型の手用ブレーキ装置である。京都のN電をはじめ大概の明治の電車は、運転台左にある鶴首形のLハンドルがブレーキ装置の相場であったのに、伊予は一味違った。

35号:大正10年、汽車会社東京支店製造

元を糺せば金沢電軌809698。戦中、呉に徴収され8082となったものが戦後解除となり昭和22年に貰われて来た。戦災で20両中9両を失った松山では、まさに干天に慈雨となった。昭和29年に休車となり、いち早く古町車庫東留置線に枕を並べていた。これら3両の屋根のスタイルをレィルロードタイプとアメリカでは云い、モニタールーフやダブルルーフとは言わない。昭和31年廃車。

67号:元大阪市電の木造4輪車の車体

大阪市電は大正~昭和初期の路線網拡大期に明治の木造4輪車の車体を近代化改造し、閑散路線用とした。元呉払い下げ車の整備をした広瀬車両が、自社にあった元大阪市電更新車体を使い、伊予鉄戦災車34号の台車を利用して仕上げたのがこの2両であった。昭和32年には既に休車状態であった。 昭和33,34年廃車。

8号:既に仙台市電、秋保電鉄で述べたので省略。昭和31年廃車

914号:大正12年、自社古町工場製造

伊予鉄は松電と経路が少し異なり、高浜、三津浜の松山の玄関口である港と城下町と道後温泉を繋なげるものであった。松電も三津港と松山市内中心部を結んだため、両社は苛烈な競争を繰り広げた。結果は資本力に勝る伊予鉄に軍杯は上がり、松電の古町付近から南堀端に向かう現在の城南線ルートは改軌されることになった。その時に増備されたのが旧716号の10両である。松電が開業時に新造した広軌車両110号は処分され、その行方は謎に包まれている。

伊予鉄は戦後昭和22年初頭に改番をしているようで、最初の自社電車を12号としているが、38号の付番は転入車とし、その後を自社増備車としている。その増備車716号の10両のうち戦災車は911,154両で,79,810,1611の改番で穴埋めをしている。写真の9,14号は原型で、13号は昭和28年から始まった車体更新後の姿。このグループは全車シングルルーフとなった。昭和3739年廃車。

1518号:昭和2223年、オガタ正機製造

蒲鉾電車第1陣であった。熊本電鉄で見られた完全切妻ではなく、前頭部は少し丸くなっていた。従って蒲鉾形と言って63スタイルとは区別していた。戦災車91115の復旧車で、旧番号を引き継いでいる。先の914号同様、同時期に車体更新をしており車体のスタイルは1号と同じ。蒲鉾車体製造は徳島のオガタ正機だとか。

1921号:大正15年、自社古町工場製造

自社製造増備車第2陣で、第1陣と同型の旧1720号の4両となった。戦災車は201両だけ。17201821と改番された。この3両も車体更新され1号同スタイルとなった。20,21は昭和38年廃車、19は先の1518と共に昭和40年廃車。

2224号:昭和24年、オガタ正機製造

蒲鉾電車第2陣。第1陣同様、昭和3132年に車体更新を受けている。戦災車1520の復旧車で、旧番号を引き継いでいる。昭和3738年廃車。

 

一味違った伊予鉄の丸ハンドル型手用ブレーキ装置だが、床面に対して約30度の角度の丸ハンドルに握り玉が付いており、最初はこれでくるくるまわす。ブレーキが効き始めたら運転手はハンドルの正面に位置を変え、足で歯止め操作と共にハンドルの輪を握りしめ、両脚をふんばり、ぐいと力を入れ停車させた。N電の鶴首型と異なり、腹を打つことなく安全であると思い、しげしげと眺めたものである。伊予鉄オリジナル車20両全てがこうした装置であったと思う。

1957年の訪問時、古町車庫内ウロウロしていたら若者に声をかけられた。藤田照明さんと云い、同じ年であった。京都鉄道趣味同好会に入会してもらい、しばらく文通が続いた。1967年、向日町に転居後、プツンと切れた。

1992年夏に古町車庫訪問の時、社員の方に尋ねたら健在であることがわかった。

 

 今回、和歌山の「蒲鉾型電車」の姿のみの紹介にしておく。

和謖・?の蒲鉾電車