【11969】奈良電クハボ600

前回の神戸電鉄デニ11は人気がなかったのか、どなたも書き込みがなかったが今回は私でも知っている電車。

奈良電は、京都に住んでいる市民にとっては「田舎電車」の雰囲気が未だに消せない思い出の電車。子供の頃、久津川に住んでいた同級生の家に行くのに乗ったり奈良へ行くのに乗ったりしたが、阪急とは比べものにならないし、京阪と比べても古色蒼然とした車両で奈良にふさわしい電車と子供心に納得していました。最近久津川の同級生とその話をしていて「奈良電は扉を手で開ける」といったら「それは京阪の車両で、奈良電は自動やった!」と反論されました。どうもイメージで言っていたようで、デハボ1000は自動扉で京阪の乗り入れ車両(200系?300系?)が手動だったらしい。このクハボ600は1200型とつながって特急として走っていたのに乗った記憶があります。でも、こんな通風口があったかな?


【11948】飯山線1962.3.4その2

先回が2月6日だったから、3週間近く開が抜けてしまった。その間山陽200、300型なんぞの夾雑物?(失礼)があって、ピントも外れてしまったが、思い出して「その2」を続ける。

十日町を過ぎると、やがて越後鹿渡、越後外丸、越後国を越え信濃国に入ったところが森宮野原と、いずれも豪雪地帯が続く。我々は8時51分越後鹿渡で214レから下車。下り列車は10時08分だから、時間はたっぷりある。ともかくモーニングコーヒーと朝飯の支度を。腹が減っては戦は出来ぬ。




291レを待っている間に野うさぎが1匹我々の視野を横切っていった


4人ほどが雪壁に段をつけていたのは どうやら人道確保=線路を歩かれないように らしい

292レで越後外丸に移動

太陽が出て雪がまばゆく 露出にとまどう

飯山線はいわずもがなだが、戦時中の1944年6月1日飯山鉄道の買収で、線路規格は低くC56が活躍している。何分ともこんな山中を延々と走りぬけ、日本有数の豪雪地帯だから、採算がいいはずはなく、戦前は地方鉄道補助の大口常連=毎年度20~30万円程度を受領していた。

機関車は日車製27tCタンク機1~3、日立製42t1C1の11~15で、後者は国有化で形式2950、2950~2954に。ガソリンカーはボギー車7両全部が上田丸子鉄道で付随車で再起したのは先に記した。他に2軸車が1両(←南総鉄道キハ103)いたが、買収されず、日立航空機立川工場で工員輸送に当たり、敗戦後も残存していた由だが、見損ねたのが残念である。

客車はボギー車は木製と半鋼車で、前者は国鉄制式車より窓が一つ少ない=便所はあるのに、通常便所になるデッキ寄りの独立した1個の窓がないのである。なぜか国鉄に編入されず、高知鉄道や三井鉱山に再起したが、高知には遂に行かず仕舞い、三井は半鋼車体に改造後しか見ていないのが何とも残念至極、口惜しい。

半鋼ボギー客車はは独特のスタイルで冴えたデザインではないが、国鉄半鋼雑形に編入。2軸木製車もオリジナルは屋根のやや深い個性のあるもので、これは松尾鉱山鉄道で見ることができた。


【11870】山陽電車 200型の再生300型

 

 

 前回、山陽電車の社報掲載文で200型を紹介しました通り、愛嬌のある車でしたが、如何せん輸送力増強には不適合な車でした。しかしながら作りが良く、廃車するには惜しいので、車体を広幅に更新し、台車や制御機器も再利用するということで、1962年夏から秋にかけて、300型に生まれ変わりました。第1次車300~305の6両は、川崎車両で更新した車体を運び込み、自社西新町工場で完成させました。これには大分時間が掛かったと聞いたことがあります。製造銘板も山陽電鉄でした。附番は200→300、201→301とはならず、200、201、208、209、210、211の6両で300~305の6両を製造したようでした。

▼下は、生まれて間もない303+304です。 行き先表示板には神戸・明石(西新町)とあります。神戸市内の終点駅名を『兵庫』と書かず、『神戸』と標記していました。『明石』も( )つきです。『明石』にはもうひとつ(東二見)行もありました。
▼やはり真新しい301他の網干行が、高架の姫路駅を発車したところです。オールMの3連です。

▼上の写真から2年後、第2次車306から315まで10両が揃いました。電鉄須磨駅です。

▼須磨から明石まで海岸べりに沿って、国鉄と並走します。奥に見えるコンクリート造りは、写真の2ケ月後に開通した、国鉄鷹取-西明石間複々線化の新しい列車線です。既存線は山陽電車線に接して向こう側の平地上です。道路の左はすぐ海岸です。

▼のどかで穏やかな海に漁船を見つつ、海岸沿いを走る300型です。複々線化工事中の場所に立ち、上から見下ろしました。パンタが3個、勇ましく見えます。

▼こちらは、道路併用軌道の長田-兵庫間、大開通りです。左側で神戸高速鉄道への地下工事が始まっています。砂ぼこりの多い、だだっ広い道路でした。車の通行が少なく、遠くに兵庫駅を出発した200型が見えます。

▼上の写真と同じ号車の折り返し。今度は姫路行になっています。場所は先ほどよりだいぶん兵庫駅寄りです。

▼第2次以降、製造組立の全てを川崎車両で実施。第4次まで合計28両が生まれました。その内、6両は中間電動車330型です。筆者の当時の記録では曖昧な所が沢山でした。

 大手術を受けたその割にはピンピンと元気な乙訓の老人が、自宅に戻るやいなや鉄道ピクトリアル誌327号と528号を送り届けて下さいました。その中に、やはり亀井一男さんが記述の200、300のデータがあり、移り変わりの様子がはっきりしました。整理したのが次の図です。鉄道ピクトリアル誌 No.327 1976.11 を主として参考にしました。

▼200型の台車、BW-1。

▼200型のおしまいは、流線型車両が海風を切りカーブを駆け抜けて行く姿です。下は第1次の203+202です。残念ながら第1次車両のカラー写真はありませんでした。

▼風光明媚な場所は関西一でしょう。高台を走る場所は一等地。南海にも紀勢線にも負けないくらいです。 

次回は、京都の方々には遠くて、神戸の西片隅の様子など疎い方のために、西代から神戸・兵庫までの道路併用軌道区間、神戸市電との交差無電区間、兵庫駅などをカラーで紹介しましょう。


【11906】阪神電車112型

阪急202号に続くは阪神だろうと思いながら、総本家宅裏庭の離れ屋に1月26日隔離され、配管サイセイ工事を受けていた。無事2月14日竣工検査合格となり乙訓の陋屋に戻ることが出来た。予想通り「気分は鯉の吹き流し」の素晴らしいタイトルで紹介された事が、枕元にthurukame氏からお見舞いメールで2月2日に届いた。老人撮影の写真も2月19日に到着、やっと紹介できるようになった。

日本最初の都市間急行電車として1905年に開業した阪神電鉄は1911年4月、自社事業用ボギー電動無蓋貨車1両101型101号を竣工させた。これも日本最初であった。その独創的なスタイルが迷図作家の手によって紹介されたのであった。設計目的は電柱や建設資材運搬用で、貨物台寸法は長さが約10.3m、運転台は中央に1ケ所、しかも運転台下が空白といったものであった。工事区間で見通しが効き前後の小運転に便利なように、運転台の位置を高くしたものと考えられる。

同型の増備は1912年8月112型112、113号、1931年?月112型114、115号、1956年9月121型121号の3回、5両に及んだ。101号は1929年1月30日付で111型111号に車両番号は変更された。1933年3月全線パンタグラフ統一でパンタ化された。廃車は111号(1953年)、112、121号(1958年)、113~115(1967年:昇圧)の順である。1938年1月許可で、ポールと救助器取付で国道線や甲子園線など軌道併用線でも使用された。

老人が112型の存在を知ったのは1958年初夏である。先日(2010.12.07)急逝された奥野利夫氏から阪神電鉄の小型車全廃計画を聞かされ、車両調査と撮影をしておこうと思い立ち尼崎車庫を訪ねることにした。氏に車両課の方を紹介して頂き、創業以来の車両調査を始めた。当時、奥野氏の名は私鉄関係でも轟渡っており、最初の訪問で現有車両の型式図を閲覧させていただき、2度目の時には開業時の客車のみならず貨車関係も見せて頂いた。絹布のトレーシングペーパーに烏口による1/30の原図などが保存されていた事が今も頭に残っている。第1号車は111型111号に改番された後に廃車となったが、後身が112型として3両残っていることを教えられた。その日は生憎全車、工場建屋内にあり見るだけであった。しかし、1年待てば屋外で撮影可能になると教えられ、その日を待つことにした。

その日は1959年10月24日に実現した。須磨の爺やも同行してくれたように記憶している。1年待った理由は当時、尼崎車庫は高潮対策として工場、検修施設の嵩上げ工事をしており、その後は伝法線沿いに留置される予定だと聞かされた。急行系3301、3501型に続きジェットカー量産型の搬入があり、試運転開始の報を得て出向いたら、教えられた位置に113~115号の3両が留置されていた。

113号:車体は日本車両で新製され、台車や機器類は手持ち品が再用された。当初ブリル-27G1であった台車は電気機器類などと共に1955年にブリルMCB型に変更された。この時の大きな出来事は運転台出入口が出来たことで、それまでは妻面窓から出入りしていたそうだ。新設された出入口の高さも1550粍程度で、連結器も緩衝器もない。後にレィル運搬車牽引用簡易連結器を取り付けた(緩衝器共)と言うが、見たことなしである。

114号:車体は藤永田造船所の新製、台車や電気機器類も113号同様の経過を辿るが、改造は1年早い。理由は1954年の特急用大型車300型導入に伴ない、車両限界測定車に改造された事による。更に2年後、盆踊りの櫓まがいのものが組み立てられ、架線作業兼用車に変身した。タンクが取り付けられたが用途は聞き忘れた。車庫用地嵩上げ地区最北端線に救援車709号と共に留置されていた。

115号:車体製造は114号同様である。その他は113号同様であった。

高松琴平電鉄デカ1号:1957年9月、仏生山工場で出会った。運転台は自家製。台車はペックハム製で珍しい。鯉のぼりの為には竿が必要。このデカは今も生き残っている筈。いずれまた……。

レイルロード社の阪神電車形式集は高間恒雄氏の大変な努力で刊行された。老人のDRFC時代の思い出話も役立ったかもしれない。素晴らしい書籍を作ってくれた高間さん有難う、万歳!

113号

113号

113号・運転台扉に注目
113号・運転台扉に注目
114号
114号
114号伝法方から見る
114号伝法方から見る
115号
115号
高琴電鉄デカ1
高琴電鉄デカ1

【11903】乙訓の長老様、生還記念・神戸電鉄デニ11

放熱管の交換修理で入庫していた乙訓の長老が無事交換が済んで新製同様になって再配置されました。今後は“乙訓の兄ちゃん”と呼んではほしいとか・・・

それを祝して(先週は休刊日でした)久々に名画をご覧に入れましょう。

須磨の大老とご一緒に薀蓄をお願いいたします。


【11856】雪景色・花輪線に想う

turukame先輩の投稿「雪景色・花輪線」の素晴らしい列車寫真に混じってヒュッテの室内画像がありました。ヒュッテはダブルルーフのオハ31系客車4輛ほどを、台車代わりに積み上げた枕木のうえに線路横にならべたものです。やまぶき色車体に窓周り青色に塗ってあり、遠目には側線に列車が停まっているように見えます。一輛は食堂、他は宿舎としてスキーや八幡平の観光に供されていたのです。竜が森は1960年代に数回同好会合宿が行われています。
1967年正月休みを利用し、一年先輩のローズ山下氏とともに大阪から米坂線・八郎潟を撮影し竜が森へとたどり着いたのです。スパッツを着けカンジキを履いた雪装備で線路脇をとぼとぼと歩いていると、ドケーと大きな声が聞こえました。雑誌鉄道ファンの撮影地ガイドにも載った好適地なので正月の雪のなかにも先客があったのです。掃き溜めではなく、雪の中にturu一羽というところです。雪深い東北の片田舎でバッタリお会いするとは思いもしませんでした。ヒュッテに戻り、縄張りを荒らしたことを詫び、一献をかたむけ手打ちを期して記念に撮った写真です。網棚からはローズさん愛用の望遠付ザンザブロニカが吊され、卓上には通信員愛用のペンタックスSV・SPが見え、コニパンSS・サクラカラーが装填されています。「彼らは雪に消えていった」と腹立ちが44年後もまだおさまらないように愛想無く記述いただいていますが、竜が森を後にしたふたりはその後常磐線の平と四ツ倉の間で大型蒸機大好きのローズ氏とC62を撮影しました。ローズ氏は全国各地で蒸機を沢山撮り溜めされてるので発表いただきたいものです。
なお、投稿のなかに総天然色画像で到着した気動車(キハユニ26他)に乗り込むスキー客を撮ったものがありますが、そのとき通信員は先頭車を正面線路上から撮影していました。その一枚が2006年10月のクローバー会写真展「鉄路輝く・記憶に残る昭和の鉄道風景」に「全員乗せてくださいね」の題名で展示いただきました。マイカーや宅配便の無かった時代に、スキー場で過ごした人々がスキーを抱えて14:27発の列車に殺到しているところです。次の盛岡行きは16:51分で積み残されると大変です。日帰りの人は随分早い列車で来たのでしょう。
また写真展が開催されるそうですが、準備いただく方々はもとより力作をお持ちの方々よろしくお願いいたします。


【11800】雪景色(3)花輪線

 筆者の好きな写真の一つです。バックの山が墨絵のようです。同志社大卒業間際までゼミの研究室に拘束され、やっと開放された日から4、5日間出掛け、帰宅した翌日が卒業式の慌しさでした。



 初年兵の年末は体調不良で、撮影行は中止。
2年目の正月休みに出掛けたのが、花輪線を始めとする東北の雪の中でした。竜ケ森のヒュッテに1泊して撮影しました。天気は良くて快調でした。

 総本家青信号特派員さんはユースホテル愛好者でしたが、私はステーションホテル愛好者でした。これは湯口先輩から教わった方法で、駅のベンチに寝泊りする方法です。先輩が50数回の日本記録保持者、私は35,6回で第2位です。寝袋、炊事道具、食料(米、缶詰、リプトンのオニオンスープの素など)、燃料(ガソリン)、夏は蚊取り線香、冬はカイロ持参です。ガソリンは4Lほどポリタンクに入れ旅客列車で運んでいました。今では恐ろしくてできないことです。荷物が多くて、当時56kgの体に40kgのリュックでした。駅の台秤で計りました。

 翌年も出掛け、花森線でのホテルは竜ケ森ヒュッテでした。自炊せずとも食堂があり、大助かりでした。

 盛岡発の臨時『銀嶺』号です。シーズン中、竜ケ森まで1日一往復でした。前々日に山田線でラッセル車を押していた盛岡区所属の86が、客車3両を曳いて山を登って来ました。

 上の写真を撮影後山を下り、次の貨物を待っていると、二人連れが竜ケ森から線路中央を歩いてきました。近づいてきた人はなんと、ローズ・Yさんと現在の大阪通信員さんではないですか。全く偶然の出会いでした。次の列車撮影までの時間に、ヒュッテの食堂で撮った記念写真です。50年前のこと故に、肖像権無視で公開します。この日一日で彼等は消えて行きました。残った私は再度ヒュッテに泊り、翌日も撮影でした。


  スキーヤーは全て列車で来ます。付近の道路は空いていました。降車がすみ、乗車を始めたのが上の写真です。ところが時間がかかってしまい、ドアーが凍りつきました。ヤカンの湯で溶かしてやっと出発でした。


 
スキー場へは右手に進み、ヒュッテを通り過ぎ、山に向かいます。
翌日は、岩手松尾、大更方面に向け、山を下りながら撮影しました。



 雪景色シリーズも投稿を急がないと、春になってしまいそうです。カラーフィルムに限定して絞込み、先を急ぎましょう。次は山田線、釜石線、大船渡線です。モノクロの米坂線はまた別の機会にします。

【11844】ユースで巡った鉄道旅 -6-

続いて横浜にあったユニークなユースホステルの紹介を。

現在も横浜・山下公園に保存・係留されている氷川丸には、かつてユースホステルが併設されていました。氷川丸は、1930年に建造された12000トン級の大型客貨船で、永らくアメリカ航路で活躍、昭和35年に運航が終了したあとは、山下公園に係留され、内部はそのまま宿泊設備として転用されました。3等船室は、2段ベッド、相部屋で、改造もなしにそのままユースに転用が可能でした。

泊まったのは昭和42年8月、高校3年生でした。夜行鈍行で東上、まず国府津で御殿場線のD52を撮ったあと、横浜へ向かいました。関東方面に向かうのは中学校の修学旅行以来でした。

 

御殿場線のD52が国府津駅で発車を待っている。当時、御殿場線にはDCも走っていたが、客車列車は、貨物とともに、国府津区のD52が牽いていた。40年以上前とはいえ、東京から80キロ足らずのところに、こんな大型蒸機がいたこと自体、信じられないことだった。走行中は撮らず、もっぱら駅と機関区での撮影に終始した。右に当時愛用していたリュックが見える。

 

ユースで食事後、夜の山下公園へ出かけ、氷川丸を夜間撮影した。今も氷川丸は、全く同じ位置に停泊したままだ。船体の塗装は、当時スカイブルーだが、現在は、航行当時の黒に塗り替えられている。内部は新たにリニューアルされ、宿泊設備はなくなったようだ。

 

 横浜駅の東口。三代目として昭和3年にできた駅舎で、建設当時は最大級の駅舎で、西口はまだ全く未開拓だった。昭和55年に現在の駅ビルになり、駅前は高速道路が高架で通り、大型デパートや高層ビルが林立する。以前の掲示板に米手作市さんが横浜駅の東口に触れられていたが、東口駅前は横浜の玄関口と言いながら、古びた工場・倉庫ばかりで、引込み線が延びるだけの荒涼とした光景が広がっていた。

 

その後、都内へ行き、都電に乗って須田町まで行き、交通博物館を見学した。あとは物見遊山で、皇居前や当時、日本で最初の高層ビル、完成直前の霞が関ビルを見物に行った。なにせ関西では高層ビルというものは全くなかった時代、さすが日本の首都だと感嘆したものだ。東京駅前で都電を写そうとするが、このように車に邪魔されてうまく写せなかった。ただ、却って車に時代を感じるかもしれない。よく見ると、八重洲側の大丸が入店していた駅ビルは建設中のようだ。それがもう取り壊されるぐらいに時代は過ぎてしまった。

 


【11829】和田岬線


兵庫駅に進入する和田岬線DEプッシュプル列車 朝の上り、夕方の上りはほぼ空車である

この時点まだ旧ヤードに機回り線その他も若干残るが その後完全に撤去され再開発で高層住宅が立ち並んでいる 和田岬線発着も半高架ホームに

 和田岬線とは俗称で、正式には山陽本線の一部である。山陽鉄道時代からあって、かつては蒸気動車も運行していた。敗戦後はB50、その後鐘付で知られた8620が長らく働き、DD13を経てDE10が前後に付いたプッシュプルトレインに。そしてキハ35が取って代わり、さらに電化されて電車が。

地表の和田岬線ヤードから高架への接続ランプ線があり、かつてこの区間貨車押し上げ専用にD50が駐在していたのは以前に記した。高架の海側に35kgレールの線が1本あって5線になっており、兵庫-新長田間で列車線が電車線をくぐって山側になるのに並行し、鷹取に達する。すなわちこの35kgレールの線は、和田岬線-鷹取間のかつては貨物、その後は和田岬線電車を引き揚げる専用線なのである。勿論川車新製車の甲種輸送用にも使われる。

阪神淡路大震災の復旧時、この兵庫(高架上)-の線にも架線を張り、本線を1本ずつ復旧する助けとした。その後完全復旧後も架線は取り外されないまま。キハ35が老朽すると、何と和田岬線そのものも電化し、兵庫の和田岬線用ホームも半高架化し電車を投入。


兵庫を出るとぐるりと向きを変え和田岬に 阪神高速高架の向こうは川崎車両


プッシュプル列車和田岬に到着 この時点では折り返し列車の乗り込む通勤客も若干ある

乗客は100%定期客で、それも大方が三菱造船所の職員である。終点はかつて道路を横断して直接三菱に入っていたいたのも短縮し、道路の手前でカット。現在では完全無人駅になり、乗車券自販機もなく、定期客以外は和田岬から無札乗車せざるを得ないが、兵庫に「関所」があって、清算するようになっている。

いくら歴史があっても、肝心の三菱の通勤客が減り続けて、この線が黒字とは到底思えないが、先述のように山陽本線の一部なので、ここだけの収支や採算等は公表されていない。小生などは(電化前)三菱に線路をタダで呉れてやり、三菱に運行させりゃいいと思っていたが、国鉄―JRは何故か律儀に運行を継続。

三菱にしたら、職員の通勤手当が安くて済む=神戸市海岸線経由だと神戸か新長田からの定期券を上乗せせねばならないから、大助かりなのであった。逆に神戸市交通局は海岸線の開通で、当然和田岬線は廃止されると信じて三菱従業員輸送を見込んでおり、完全にアテが外れた。

それが今回和田岬線が急に廃止の方向に向かって進み出したのは、恐らく三菱神戸が大縮小ないし廃止されるからであろう。そんな事態が遠からず来ることは分かっているはずなのに、電化までして三菱に義理立てし続けたJRは理解を超える。廃止後は川車の甲種輸送もなくなるのか。随分少なくはなったが、鷹取で新製電車の一列を見るのは楽しいのだが。

なおこの写真撮影は1987年4月18日である。


片側のみ中央に引戸を設けた通勤専用客車オハ64車内 吊革はともかく窓の保護棒は超満員を想定しているが 三菱の職員が減り続け かつての超混雑を見ることはなかった


【11760】「23」の車号を持つ車両

1月2日【11147】でtsurukame先輩より山陽電鉄モハ2011で新年のご挨拶があった。平成23年も2月中旬となったが、平成の年号に因み「23」を名乗る車両を探してみた。

国鉄車両
電気機関車にED23があったが、廃車が昭和35年と早く、1形式1両で最終配置区が久里浜支区であった。私鉄の機関車では北陸鉄道にED231があり、昨年10月25日【10022】「昭和40年代の北陸鉄道金石線」で紹介しているのでご覧戴きたい。
電車ではクモル23、気動車ではキハ23、客車ではナハネフ23とオリエントエキスプレスが運行された時に控車として使用されたオニ23が挙げられるが、ナハネフ23を取上げた。

クモル23
昭和34年から38年までの間にクモハ11とクモニ13を改造して生れた配給車で、000~003、010、050、060の7両在籍した。種車、改造時期、工場によりスタイルは1両毎に異なっていた。その中で003、050、060の3両を紹介する。
クモル23003
昭和38年、元モハ34010を改造したクモニ13008を幡生工場で再改造した。(46-1-15 大阪駅)

 
クモル23050
昭和36年、鋼体化改造のクモニ13027を豊川分工場で再改造した。写真のように正面窓が大きく改造されている。(45-11-22  豊橋機関区)

 
クモル23060
昭和38年、鋼体化改造のクモニ13022を吹田工場で再改造した。鋼体化改造も吹田工場で行われており、ヘッダーが乗務員扉の上まで巻いているのが特徴である。(47-1-4 向日町運転所)

 

キハ23
昭和41年から44年にかけて作られた両運転台付の近郊型気動車で、113系に準じた座席が設置されていた。暖地向けの0番台が33両、寒冷地向けの500番台が21両新製され、暖地向けは主に中国地方で、寒冷地向けは主に陸羽東・西線で使用された。(48-1-28 上/キハ236他4連中島駅・下/キハ2329他2連中島~上八木)

 

ナハネフ23
「富士」と「はくつる」用として昭和39年~45年に1~20の20両が日本車両で新製された。その後昭和43年にナハフ21から4両改造されナハネフ23501~504となった。画像は「みずほ」に連結されていたナハネフ239である。(41-10-13 京都駅)

 

私鉄車両
ずばり「23」が付番されている車両を集めてみた。

京阪電鉄京津線 23
この車両に関しては説明不要であろう。この時期行先板が起終点表示になっていた。(40-3-18 浜大津)

 
江若鉄道 キハ23
元国鉄キハ072(昭和12年/川崎車輌製)で昭和38年に購入した。入線直後の状況は不明であるが、昭和39年から40年頃までエンジンがなくトレーラーで使用されていた。(上・中/40-11-14 浜大津 下/44-10-12  三井寺下)

 


越後交通栃尾線 ニフ23
元草軽電鉄のコワフ115(昭和17年/日本鉄道自動車製)を昭和35年12月に購入した。製造年はこの手の車両としては比較的新しく貴重な草軽電鉄の生残りであった。(41-9-7 長岡)

 
伊豆箱根鉄道大雄山線 クハ23
元国鉄の木製車クハ23を西武鉄道から譲受けたモハ237の車体を利用して昭和35年に鋼体化したものである。同様に元伊那電鉄買収車モハ45はモハ236の車体を利用して鋼体化し、モハ45+クハ23で揃った編成を組んだ。固定編成ではなく、編成をバラして他の車両と編成されていることもあった。西武鉄道モハ236、237は昭和3年川崎造船所製で、同形車は弘南鉄道、近江鉄道、大井川鉄道でも見られた。(45-11-22 大雄山)

 
静岡鉄道静岡線 モハ23+クハ23
昭和35年自社長沼工場で新製された。足回りこそ中古品であるが、自家製としてはよく出来ていると思う。(45-3-10 長沼)

 
静岡鉄道駿遠線 ハ23
静岡鉄道にはもう1両「23」を名乗る車両が駿遠線に在籍した。大正2年名古屋電車製作所で中勢鉄道ロハ8として新製、昭和17年に三重鉄道に売却されホハ18に、合併で三重交通となりサハ364となり、駿遠線には昭和26年に入線した。その後自社工場で鋼体化改造され写真のスタイルとなった。(41-3-9 新藤枝)

 
野上電鉄 モハ23
車体は元阪急1形の26で、昭和32年関西交通工業で改造の上入線している。屋根は丸屋根となり窓が大きくなった結果、スタイルが大きく変わってしまった。(50-8-24 日方)

 
大分交通耶馬渓線 ハニフ23
元九州鉄道の車両で明治23年小倉工場製と言われている。耶馬渓鉄道時代の昭和7年に入線し、昭和40年9月廃車になった。(39-8-18 中津)

 

「23」の車号を持つ車両をいくつか紹介したが、数字遊びの一つとして見ていただければ結構かと思う。一畑電鉄、琴電は前後の「22」「24」は撮影しているが「23」は撮影していない。もとより車号を意識したり、全車両撮影を目指していた訳ではなく、今日に至るまで適当に撮影しているだけのため、これは致し方ない。諸兄が撮影された「23」や「2011」にまつわる車両を是非発表いただければと思う。


【11741】京阪バスのトレーラーバス

【11106】「『びわ湖の銀嶺へ』/昭和22年12付き26日の新聞広告」で、湯口、沖中両大先輩よりトレーラーバスについての貴重な体験談をコメント戴いた。私自身は写真でしか見たことがなく、戦後の混乱期に大活躍した位の知識しかないが、約30年位前に名古屋大学鉄研OBのO.A氏と一緒に京阪バス本社を訪問した時に見せていただいた資料等で概略が判明したので報告する。本書込みに当ってもO.A氏より多大なご協力を戴き改めて御礼を申し上げる。
昭和26年10月30日時点で次の8組が在籍した。(前がヘッド、後がシャーシ)

1)京滋営業所4組
①滋101+滋126(1947年式定員/81名)→昭和27年3月登録替/滋2-1011+滋2-1012
②京1080+京1081(1947年式定員/82名)→昭和27年3月登録替/京2-20454+京2-20455
③大2301+大2311(1947年式定員/85名)→昭和27年3月登録替/大2-4521+大2-4522
④京1078+京1079(1948年式定員/58名)→昭和27年3月登録替/京2-20452+京2-20453

2)大阪営業所3組
①大2302+大2312(1947年式定員/70名)→昭和27年3月登録替/大2-4523+大2-4524
②京1132+京1133(1949年式定員/63名)→昭和26年11月登録替/大2-4525+大2-4526
③京1134+京1135(1949年式定員/63名)→昭和26年11月登録替/大2-4527+大2-4528

3)観光課1組
京1127+京1128(1949年式定員/63名)→昭和27年3月登録替/京2-20456+京2-20457
京滋営業所の「大ナンバー」、大阪営業所の「京ナンバー」は転属車と推定される。京滋営業所は昭和27年1月組織改正で京都営業所と大津営業所に分かれるが、トレーラーバスは全車大津営業所の所属となった。京滋営業所の①と④以外は昭和27年に廃車や売却で姿を消してしまい、生き残った①と④は昭和31年6月まで使用され10月に廃車となった。昭和25年頃から通常のバスの車体が大型化すると、小回りが利かず走行可能な道路が限定され、かつ運転操作が難しいトレーラーバスは急速に姿を消してしまった。また、昭和25年4月14日に横須賀発三崎行の京浜急行のトレーラーバスが、乗客が投捨てたタバコのマッチが別の乗客が持ち込んだガソリンに引火して火災爆発事故を発生させ、運転士が気付くのが遅れたため多数の死傷者が出たことも廃車を早めた原因の一つとなった。ちなみにこの事故により「道路運送」と「旅客運送」の関連法案が改正され「危険物車内持込厳禁」となった。

ボンネットバス
我々の世代ではトレーラーバスの撮影は無理であるが、ギリギリ間に合った「ボンネットバス」の画像をアップしたのでご覧戴きたい。

枚方営業所
私市駅→八の坪・八の坪→大和田駅のルートで1日3往復運行されていた。八の坪は奈良市に隣接した田原地区の地名である。ワンマン化の時に京阪交野→下田原→山口川→中番→滝寺→逢坂→大和田駅と田原地区を一巡する直通運行に変更された。昭和53年6月から55年3月まで、職場が大和田駅~巣本~門真団地線の途中停留所にあり、気が向いた時に大和田駅18時40分発の京阪交野行きの最終バスに乗り、交野線経由で帰ったりしていた。清滝団地を過ぎると乗客は数人となり、山口川でほぼゼロ、田原地区を一巡後真っ暗な磐船街道を私市駅経由で京阪交野まで走行した。

 


満員で大和田駅に到着、折り返しの八の坪行もほぼ満員で発車した。
大阪22あ1500/40年式BXD30、登録番号が新しい(昭和49年9月登録)のは、大津営業所からの転属車のためで、元は「滋2い875」であった。(50-5-5)

京都営業所
朝夕のみ運行の山科駅~寺内町間で使用されていた。

 
京2い1394/38年式BXD30、車体は帝国自動車工業製
(49-12-19)

 
京2い1396/40年式BXD30、車体は川崎航空機製
(49-12-19)

 
京津線の踏切を渡りバスターミナルに到着。
(50-5-11)

 
事業用となり白ナンバーになった「京22や6」/38年式BXD30、車体は川崎航空機製(
50-3-30/三条京阪)

大津営業所
長等公園~浜大津~国鉄大津駅~朝日ケ丘住宅間と石山駅~大石小学校前~曽束間で使用されていた。

 


滋2い886/40年式BXD30、車体は川崎航空機製
(50-3-9 下50-3-2)


滋2い888/40年式BXD30、車体は帝国自動車工業製 
(50-3-9)

 
滋2い887/40年式BXD30、車体は帝国自動車工業製 
(50-4-20)

昭和51年旅客営業停止後事業用として京都営業所に転属「京22や180」となった。昭和53年3月「京都定観50周年」に際し、「おいでやす京都号」として定期観光用に復活して「京22か1981」に、イベント終了後再度事業用となり「京22や304」に、62年10月に枚方営業所に転属して「京22か4264」となり、京都競馬場開催日に職員詰所として使用。この時は京阪バスカラーに戻っていた。廃車後、愛知県のバス愛好家に引取られ、当初は京阪バスカラーのままであったが、現在は名古屋市バスの旧塗装になり、「ボン太号」の愛称で名古屋地区のイベントに参加し、元気に姿を見せている。10年位前小牧空港から地下鉄藤ヶ丘駅まで乗せてもらったが、車齢30年とは思えないほどよく走った。

 
京22や180 
(52-3-6)

 


京22か1981「おいでやす京都号」
(53-4-29)