2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part19  重慶から芭石鉄道へ

第23日目 3月12日

① 重慶北 8:00(D5101次)→9:55成都東
② 成都東駅10:22(Bus91路)→11:25石羊バスターミナル
③ 石羊バスターミナル12:00(高速Bus)→14:15犍為南門バスターミナル

今日は、毎年恒例となった菜の花咲く芭石鉄道へと向かいます。朝1番の高速列車で新しくできた成都東駅まで参りますが、いつもの成都駅と違って、初めての下車駅です。ここからどうやって犍為行きのバスが出る成都市内の石羊バスターミナルまで行くか課題でした。


▲ 重慶駅に隣接した食堂で朝食、平打ち麺の朝食。毎日のように食しましたが、薄味で辛くなく安くて一人旅にはもってこいです。
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鉄路の北前船と六文銭の里を走る電車 その3 長野電鉄ぶらぶら(午後の部)

湯田中駅前の「楓の湯」でひと休みしてから活動開始です。まず旧湯田中駅の見ることにしました。これは有形登録文化財になっています。訪れたときは雛祭りの季節なので段飾りの雛人形が飾っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part18  重慶モノレール(重庆轨道交通)

第22日目 3月11日

【重慶モノレール】
坂の多い町の重慶市に2005年6月に日本からの円借款で建設開業されました。2編成が日立製作所製で、2編成が日本で製造されて輸出されましたが、後は技術供与での現地製造です。大阪モノレールと同一設計で、現在まで2号線と3号線の2路線があり総延長距離はモノレールとしては世界最長となっています。1号線は普通の地下鉄車両が使用されています。▲ ホテルから見える獅子坪駅を出るモノレール。6両編成の3号線です。すぐに地

下に入り、直角に中国国鉄の重慶北駅地下に向かいます。そして空港へと延伸されました。

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鉄路の北前船と六文銭の里を走る電車  その2 長野電鉄ぶらぶら(午前の部)  

3月7日 直江津駅を5時26分発の快速「妙高」で長野に向かうために、しばらく待合室で待つことにしました。直江津から長野までの切符は持っていないので買う必要があります。しかし、切符の自動販売機が5時30分から販売開始ですので車内で購入することになります。少なくても乗客がいるのにどういうことなんでしょうかね?189系の快速「妙高」は定刻に直江津駅を発車しました。最近は○△?系とかに疎くなっているのでさっぱりわかりません。

 6時49分に長野到着、長野電鉄の駅に急いで行き、長電フリー乗車券を購入しました。2日間有効で、2260円なのでかなりお得です。購入した切符は「~さようなら屋代線記念~」となっていました。7時13分発の信州中野行で須坂へ、ここで屋代行に乗り換えです。須坂までの電車の中は通勤通学の時間帯のため、特に小学生、中学生が多く混雑していました。付属中学前駅には信州大学付属小学校、中学校があるからです。

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2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part17  北碚(ベイベイ)から重慶(重庆)へ

第21日目  3月10日

北碚(Bus)→重慶市内→15:00重庆北站
▲ 北碚では朝飯の定番、お粥も屋台で食べられます。

北碚4連泊で中3日間のグース乗り鉄・撮り鉄旅を終えて、重慶市内へと戻ることにしました。重慶には大阪モノレールと同じタイプのモノレールが走っています。これを見る撮るが訪問目的です。

政府直轄地の大都市、重慶は初めての訪問地ですので、土地勘はまったくありません。ホテルのネット予約を試みましたが、多すぎて絞り切れません。日本語対応できる旅行代理店の楽旅中国に電話をして、町の中心部でモノレール駅に極めて近いホテルを注文しましたら、後からの移動にも便利な重慶北駅駅前をお勧めしますと返事が来ました。
北碚に来る時も乗車した所です。同じ507路バスに乗って、北碚 を出発しましたが、着いた所は重慶北駅とは違って、重慶の市内中心部でした。同じ経路バスなのに終着駅が違っています。いったいここはどこなの?の世界です。現地人民に聞きながら地铁駅を探しますが、約20分以上かかりました。
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鉄路の北前船と六文銭の里をはしる電車  その1 「日本海号」で直江津へ

鉄路の北前船「日本海号」と「きたぐに号」の定期運行が終了して1週間以上となりました。3月16日は各TV局が取り上げていました。NHKがニュースウォッチ9で青森駅発の「日本海号」を鷹ノ巣駅で生中継をしていたのは、なかなかいいものでした。さて、私はと申しますと、さる3月5日から8日まで船中八朔(ちょっと違った。じつは私は八朔がすきなのです。)でなく船中1泊、車中2泊の久しぶりの大旅行です。

いろいろ考えたあげく、まず新日本海フェリーの敦賀を出て新潟、秋田を寄港して苫小牧行に乗船して新潟へ。新潟から列車で酒田を経由して秋田へ行き、秋田から「日本海号」に乗って直江津で降りることにしました。直江津から長野に行き、長野電鉄の屋代線と湯田中で温泉にいって旅の疲れを癒すことにしました。再び、直江津にもどり「きたぐに号」で敦賀で降りて「日本海号」の写真撮影と敦賀の町を見物をして帰ることにしました。

3月5日は朝から天気が悪く、雨模様でしたが大雪よりは良いだろうと思って、大阪より敦賀行新快速に乗りました。新快速は12両編成で前4両が敦賀行きで後8両が近江今津まで、案内が不十分なため敦賀まで行く乗客にはわかりづらいものでした。やはり、それで右往左往している人がいました。

 

車窓を眺めているうちに終点の敦賀に着きました。階段を下りると地下連絡通路のカニがお出迎えです。

フェリー乗り場行のバスの発車まで時間があるので街をぶらぶらして、ポイントカードの持っている平和堂があったので、そこで弁当などを買ってからバスでフェリー乗り場に行きました。

 

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「また南海、デニ502」に寄せて


 水間鉄道モハ365 (45-5-24) 貝塚
高野山電気鉄道デニ501→南海電気鉄道デニ501→同モハ569→水間鉄道モハ365/元荷物室側は非貫通のままである。

昨年11月ズームカーの試験車「モハ1」が紹介されたので、南海は2度目でしかも再度高野線である。恐らく関 三平さんのご実家が南海高野線沿線で、特に思い入れがあるのではなかろうか。

今回の解説を読まれて「あれ?」と思われた方がおられると思う。「南海規格の車両の増備が進むと、デ101型8輌は本来の山岳区間専用に戻り、デニ2輌だけが直通荷物電車として難波に出入りを続ける。」ここまではその通りであるが、問題はその次の部分「501号は26年に火災にあい、別形式となるので、私が見たのは2つ目玉最後の1輌の502となる。」と記されているが、昭和26年に火災に遭ったのは502号で、関さんが見られたのは501号であると思われるが、火災前の502号だった可能性もあり、私はこちらを支持したい。

南海の電車は「難解だ」と言われる程複雑で私自身さっぱりわからない部分が多いが、今回の元高野山電気鉄道の電車はデニ501形2両とデ101形8両の10両のみで極めてシンプルである。

高野山電気鉄道は、高野線の高野下~極楽橋間とケーブル区間の極楽橋~高野山間を営業していた会社で、大正14年3月設立、昭和3年6月高野下~神谷(現在の紀伊神谷)を開業、同4年神谷~極楽橋間開業、同5年6月極楽橋~高野山間のケーブル区間を開業して、難波と高野山が結ばれた。当初、架線電圧1500Ⅴであったが、南海と直通運転を実施するため600Ⅴに降圧した。戦時中の私鉄統合により、南海鉄道と関西急行が合併して近畿日本鉄道となったが、高野山電気鉄道は統合されなかった。昭和22年3月社名を南海電気鉄道に変更して、同年6月に近畿日本鉄道から旧南海鉄道の路線を譲り受けた。

開業時にデニ501形2両とデ101形8両が日本車輌で新製された。車体は全鋼製、両運で、デニは荷物室側非貫通、デは両側とも貫通扉が設置され、50‰の急勾配、急カーブが存在する山岳路線のため、電力回生制動を持ち、ヘッドライトはイラストの通り屋根上に2個設置された。
昭和24年、デ101形はモハ561形に改番されモハ561~568となった。昭和26年にデニ502が紀見トンネル内で焼失したが、昭和28年デワ2001として復旧した。
戦後は
モハ1251形の増備により難波までの直通運転は中止となり、元の高野下~極楽橋間の区間運転用となった。

昭和38年から39年にかけて更新修繕が実施され、制御器の交換の結果、回生制動が使用不能となったため平坦線用となり住吉東~汐見橋間で使用された。この時デニ501は荷物室を撤去してモハ561形モハ569に改番されたが、元荷物室側は非貫通のままであった。

昭和43年から44年に廃車になったが、モ562とデニ501改造のモ569は水間鉄道に譲渡され、モハ364、365になった。

モ561+モ562+モ563の3連

 住吉東~汐見橋間で使用 / (42-5-28) 住吉東

水間鉄道モハ364

 (45-5-24) 貝塚

高野山電気鉄道デ102→南海電気鉄道デ102→同モハ562→水間鉄道モハ364


モハ364+モハ365/ (45-5-24)  水間~三ヶ山口

2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part16  江合煤鉱鉄路 グースの里北碚(ベイベイ) その3

第20日目  3月9日


▲ 昨日より1本早いバスに乗ろうと早くに出ましたが結局、水土で乗継時間が長くなっただけで、泰山石着は同時刻でした。

今日は、泰山石から302工場に向けて歩きます。
▲ 道路とは3ヶ所ほど交差していますが、踏切番はいません。
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本日の特急「あけぼの」

定期列車としての ブルートレインは上野と青森を結ぶ「あけぼの」と上野と札幌を結ぶ「北斗星」の2列車となってしまいました。
「北斗星」は機関車も新製されある意味では将来を約束された列車といえるかもしれませんが、「あけぼの」はさていつまで走ることかと心配しています。本日朝上野駅13番線に少し遅れてに着いた「あけぼの」は 春休みに入ったせいかいつもより多くのお客様を運んできました。編成は下記です。
上野方 EF641032 オハネフ25 205 オハネ25 215 オハネ24 51 オハネフ25 121 オハネ24 554 オハネ24 552 スロネ24 552 オハネフ25 201 カニ24 116 青森方   全車盛アオ所属  オハネ24 51のみ白帯車  ほかは金帯車でした。

いつもの降車風景です。

はいチーズ。可愛いらしい姉妹でした。

本日朝 7時すぎの上野駅でした。

表彰式行われる!

              積極的に地域に溶け込んだ活動が表彰理由となった

先に報告しました現役の鉄道同好会の学内表彰式が、去る3月16日に大学で行われ、めでたく学生支援センター所長から地域貢献賞を受賞しました。当日の様子を、渉外・広報担当の今林佑太さんから報告を受けましたので、写真とともにお伝えします。

今回で5回目となる文化系公認団体表彰式は、文化系公認団体の活動を一般学生へ広くPRする機会として、また表彰団体の今後の活性化を目的に開催されてきました。本年度は、顕著な功績のあった16団体が表彰され、学生支援センター所長から表彰状、表彰盾、副賞がそれぞれ手渡されました。鉄道同好会は5つある賞のうち、地域貢献賞を受賞することになったものです。
表彰式は、寒梅館ハーディーホールで行われ、各団体が壇上に上がり、学生支援センター所長より表彰状と盾を授与され、各団体の代表者がスピーチを行いました。
「大学から公式に認められた賞の価値は非常に高く、受賞が喜ばしいことであると同時に、今後も大学公認サークル団体として責任感ある活動をするべきだということを身に染みて感じた表彰式でした」と今林さんは結ばれています。
来年、2013年は鉄道同好会創立55周年になります。これを記念して、現役の皆さんは、OBも参加できる楽しいイベントも考えられているようです。
今後とも現役の皆さんの活動を大いに期待するものです。

寒梅館で行われた表彰式と、スピーチする現役・鉄道同好会会長の木村さん

越後交通長岡線


 越後平野を走るモハ3001/越後日吉~王寺川間(40-3-25)

 3月15日【18458】「小田急HB車/廃車後の行方」で、越後交通に行った車を解説したが、引き続き越後交通長岡線に在籍した車両について紹介する。

〔沿革〕
大正3年3月3日、来迎寺~長岡~寺泊を結ぶ目的で中貫鉄道が設立され、同年8月7日、長岡鉄道に社名変更した。
大正4年10月7日、与板~寺泊間(初代)を開業、以降、同5年1月5日、与板~西長岡間、同10年11月18日、西長岡~来迎寺間が開業して全線開通した。
戦後の昭和26年12月1日、西長岡~寺泊間が直流750Ⅴで電化が完成したが、工事期間は僅か2カ月半であった。ちなみにこの時の社長は田中角栄氏であった。
翌年11月1日、西長岡~来迎寺間が電化され全線の電化が完成した。
昭和35年10月1日、長岡鉄道、栃尾鉄道、中越自動車の3社が合併し越後交通が発足。同社の長岡線となった。
昭和36年10月3日、寺泊新道~寺泊間(初代)休止。同区間を41年5月31日廃止して寺泊新道を寺泊(2代目)に改称。
昭和44年9月、架線電圧を750Ⅴから1500Ⅴに昇圧。
昭和47年4月16日、西長岡~来迎寺間の旅客営業を廃止して同区間は貨物専業となった。
昭和48年4月16日、大河津~寺泊間(2代目)廃止。
昭和50年4月1日、越後関原~大河津間を廃止、同時に西長岡~越後関原間の旅客営業を廃止して同区間は貨物専業となった。これにより旅客営業は全廃となり貨物専業となった。
平成4年4月1日、西長岡~越後関原間休止。
平成5年3月31日、休止中の西長岡~越後関原間を廃止。営業区間は西長岡~来迎寺間の貨物営業のみとなった。
平成7年4月1日、西長岡~来迎寺間が廃止され、全線廃止となった。

 〔車両〕
撮影した車両についてのみ解説する。

①電気機関車
EB111/昭和27年日本鉄道自動車製。一見D型機に見えるが2個モーターである。昭和42年に廃車され、秋田中央交通(八郎潟~五城目)に譲渡された。しかし、昭和44年7月11日に鉄道営業が廃止され、バス専業になったため、僅か2年の活躍であった。

 (40-3-25)
西長岡
 

ED211/書類上は昭和29年日本鉄道自動車製となっているが、その経歴は極めて複雑である。大正8年枝光鐵工所で京王電気軌道の「20」として新製。昭和8年無蓋電動貨車「15」に改造。更に昭和16年有蓋電動貨車に改造され、昭和19年5月東急との合併による改番でデワ2915となった。昭和23年6月京王帝都電鉄として東急から独立後、27年に廃車。翌年3月長岡鉄道が譲受けデワ102となったが、程なくED211に改番された。スタイルが電気機関車らしくないのは以上の理由のためである。44年の1500Ⅴ昇圧時に廃車された。

 どう見ても電気機関車には見えない/(43-8-30) 
与板

ED261/旧国鉄ED26と言えば、飯田線にいた元伊那電鉄買収機を思い浮かべる方が多いと思うが、あちらは2代目で、初代はこちらである。
富山ライトレールとなった旧国鉄富山港線の前身富南鉄道のロコ2として大正13年ウェスチングハウス社で新製され、昭和15年日本鉄道自動車で改造された。鉄道省に買収後も同一車号で使用されていたが、昭和32年の改番でED261となった。昭和35年5月に廃車になり、36年7月に譲り受けた。昭和44年西武所沢工場で1500Ⅴ昇圧改造されたが昭和55年1月廃車になった。


 (43-8-30)
西長岡

ED262/昭和44年の1500V昇圧時、改造入場時の車両不足を補うため西武鉄道からの借入車を譲り受けた。
旧武蔵野鉄道のデキカ11として大正12年ウェスチングハウス社で新製、旧西武鉄道との合併で11に、昭和36年の改番でE11となった。昭和47年撮影時には早くも休車で、いくらも使用しないまま廃車になった。

 (47-4-30)
西長岡

ED311/元西武鉄道のE31で、昭和31年西武所沢工場製である。昭和39年2月に譲受け廃止まで活躍した。

 (41-9-7)
 西長岡

ED401/昭和42年東洋工機・東洋電機製の箱型機で、廃止時まで活躍した。


 上 
(47-4-30)  下 (50-3-22)  西長岡

ED511、512/元長野電鉄のED5002、5003で1500V昇圧後の昭和45年4月に譲り受けた。ED511は昭和2年、ED512は昭和3年、日立製作所製である。昭和55年1月同じ長野電鉄から譲り受けたED5101、5102と交代して廃車になったが、ED511は長野電鉄に里帰りして、小布施駅構内の「ながでん電車の広場」で保存されている。

 ED511 
(47-4-30) 西長岡

 ED512 
(50-3-22) 西長岡

(参考)長野電鉄時代

 ED5002→ED511/
(45-3-17) 須坂~北須坂

 ED5003→ED512/
(45-3-17)
 

ED5101、5102/元長野電鉄のED5101、5102で昭和54年9月に譲り受けた。更にその前があり、元は定山渓鉄道のED5001、5002として昭和32年、新三菱重工三原製作所で新製された機関車である。昭和44年10月31日廃止により、長野電鉄に譲渡されたが、昭和54年3月31日限りで貨物営業が廃止されたため、譲り受けた。廃止時まで主力機として活躍した。
貨物専業になってからは訪れていないので、定山渓鉄道と長野電鉄時代の写真を掲載した。

定山渓鉄道ED5001→長野電鉄ED5101→越後交通ED5101

 定山渓鉄道ED5001/
(42-9-9) 豊平

 長野電鉄ED5101/
(52-5-5) 須坂

定山渓鉄道ED5002→長野電鉄ED5102→越後交通ED5102

 定山渓鉄道ED5002/
(42-9-9) 豊平

 ②電車
モハ2001、2002→ホハ2001、2002
書類上は昭和27年東洋電機製となっているが、ガソリンカーから電車に改造した時である。昭和3年雨宮製作所で日本初のディーゼルカーキロ1、キロ2として新製された。昭和5年の改番でキロ201、202となった。トラブル続きのため13年にガソリンカーに改造され、キロ201→キハ203、キロ202→キハ202となった。更に17年には天然ガス代燃車に改造された。
昭和26年の750V電化により、東洋電機で電車に改造され、55馬力モーターが2コ取付けられ、キハ202(元キロ202)→モハ2001、キハ203(元キロ201)→モハ2002となった。制御方式は直接制御であった。
ここまでの経緯は湯口先輩の「内燃動車発達史・上巻」のP122~P125に詳細に記されているので、是非ご覧いただきたい。
昭和44年9月の1500V昇圧時に電装解除され、ホハ2001、2002となり、西長岡~来迎寺間の混合列車の客車として使用された。
 
 モハ2001 
(41-9-7)

 
モハ2001の台車 (41-9-7)

 
モハ2002 (40-3-25)
 
 
電装解除後ホハ2001 (47-4-30)

モハ2003→ホハ2003
昭和29年東洋電機製で、車体は新製であるが、台車は京王帝都から譲り受けたデワ102が履いていたテーラー製のものを履いている。モーターは41Kwのものが2コ取付けられ、制御方式は直接制御であった。
昭和44年9月の1500V昇圧時に電装解除され、ホハ2003となり、西長岡~来迎寺間の混合列車の客車として使用された。


 
(40-3-25) 下(43-8-30)

電装解除後のホハ2003 (47-4-30)

ホハ2003のテーラー台車 (47-4-30)

モハ3001、3002
昭和26年電化時に京浜急行からデハ111、112を譲り受け、東洋工機で車体を新製した。モーターは41Kwのものが4コ取付けられ、制御方式はHL制御であった。1500Ⅴ昇圧時に廃車となり、モハ3002は蒲原鉄道に譲渡され、同社のモハ81となった。

 モハ3001 (40-3-25)
 
  
 モハ3002/(41-9-7)
 
 
新塗装に変更後のモハ3002 (47-4-30)

モハ3005
昭和39年に京王帝都電鉄からデハ2125(昭和8年日本車輌製)を譲り受け、2扉に改造した。昇圧改造されることなく僅か5年で廃車になった。
 
 (40-3-25)/撮影時に扉を閉めなかったのは、乗車予定の電車の発車時間が迫っていたからと思われるが、無いよりマシと思っていただきたい。

モハ5001
昭和35年に元国鉄モハ1206を譲り受け、東急車両で両運化、1200Ⅴから750Ⅴに降圧等の改造の上入線した。車内はクロスシートのままで、連結面の運転台を復活して非貫通にした結果、原形に近くなった。
富士身延鉄道の買収車で、昭和3年新潟鐵工所でモハ110として新製。昭和16年10月鉄道省買収時にモハ93形93006に、昭和28年6月の改番でモハ1200形1206となった。買収後も引き続き身延線で使用されていたが、昭和22年に伊那松島機関区に転属し、主に北部飯田線の天竜峡~辰野間(旧伊那電鉄の区間)で使用された。昭和26年から実施された更新修繕で、後位の運転台を撤去して貫通扉、貫通幌の設置等が実施された。昭和30年4月に天竜峡~辰野間が1200Ⅴから1500Ⅴに昇圧されたため使用停止となった。
昭和44年の1500Ⅴ昇圧時にも改造されて引き続き使用されたが、昭和48年大河津~寺泊間の廃止時に廃車になった。
 
 (43-8-30)

 
新塗装に変更後 (47-4-30)

③客車
ハ6(ハ3形)/大正5年天野工場製の2軸単車で、車内は背擦りの低いクロスシートが10脚並び、定員は40名であった。
ハ3形として3~8の6両作られたが、撮影時点で残っていたのは、この車両のみであった。

  ハ6/
(40-3-25)

ハ9、ハ10、ハ11(ハ9形)/大正11年日本車輌製で、車内はハ6と同様であった。
  
 ハ9/
(41-9-7)

 
ハ10(廃車後解体待ち)/(47-4-30)

 
ハ11/(43-8-30)

ハニフ21、22(ハニフ21形)/大正11年日本車輌製で、半分が荷物室のため、車内はクロスシートが4脚並び定員は16名であった。

(40-3-25)/この車両に西長岡~来迎寺間を乗車したが、ゴツゴツとした物凄い振動で、ポイント通過時は飛び上りそうな感じであった。
以上の3形式は西長岡~来迎寺間の混合列車に使用されていた。

 ホハ31、32(ホハ31形)/大正4年天野工場製のボギー車で、車内はロングシート、定員は31が100名(座席定員44名)、32が98名(座席定員42名)であった。

 
ホハ31/(40-3-25)

 
ホハ32/(40-3-25) 

ホハ33、34(ホハ33形)/昭和38年に上田丸子電鉄から同社西丸子線で使用されていたモハ3211、3212を譲り受け電装解除した。
目黒蒲田電鉄のモハ4、5(大正11年汽車会社製)が前身で、昭和17年神中鉄道に譲渡され、同社のモハ4、5となった。神中鉄道は、昭和18年4月に茅ヶ崎~橋本間で営業していた相模鉄道に買収されたが、昭和19年6月1日、同区間が鉄道省に買収されたため、相模鉄道の営業区間は旧神中鉄道の横浜~海老名間となった。昭和22年9月、上田丸子電鉄に譲渡され、モハ11、12となり別所線、西丸子線で使用、昭和25年の改番でモハ3211、3212となった。

 
ホハ34/(41-9-7)

③貨車
ワ10/明治40年新潟鐵工所製

 (47-4-30)

 ワブ1/大正4年大日本軌道製

 
(47-4-30)

 ロ101

 
(47-4-30)

 ④その他

地図上では、来迎寺~西長岡~大河津~寺泊間は路線が繋がっているが、列車の運行は西長岡~寺泊間と西長岡~来迎寺間に分離され、前者は旅客中心、後者は貨物中心であった。
運行本数の推移を見ると、昭和36年6月時点では、旅客列車が西長岡~寺泊間6往復、西長岡~寺泊新道間8往復、西長岡~与板間2往復、大河津~寺泊新道間2往復、貨物列車が西長岡~寺泊新道間2往復、西長岡~来迎寺間は9往復で朝夕の2往復のみ電車、7往復が混合列車であった。
昭和47年3月時点では、西長岡~寺泊間11往復、大河津~寺泊間、与板~寺泊間各1往復。西長岡~来迎寺間混合列車3往復。
旅客営業廃止直前の昭和50年3月時点では西長岡~大河津間6往復、西長岡~与板間3往復であった。
 

 昭和50年3月22日 王寺川駅の時刻表

長岡線の営業が振るわなかった理由は、ターミナルの西長岡駅が長岡市内中心部とは信濃川を隔てて約3.5キロ離れており、連絡バスに乗り換える必要があった。乗車された方はお判りいただけると思うが、途中駅が集落の中心部から離れていたため、乗客が集落の中心部を通り長岡駅に直通するバスに流れるのは当然であった。

 
周りに何もない越後日吉駅
 
 
王寺川駅を発車した大河津行

⑤行先板
昭和47年4月30日訪問時に撮影した行先板

長岡には昭和50年3月末、同社の栃尾線が廃止になるまで数回訪れているが、栃尾線、長岡線、当時長岡を中心に活躍していた旧形国電に魅力を感じていたからであろう。

 

 

 

 

2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part15  江合煤鉱鉄路 グースの里北碚(ベイベイ) その2

第19日目  3月8日
① 北碚
6:45(Bus)→7:05水土7:20→7:55泰山石

今日は朝から頑張るぞと、薄暗い中バスに乗って水土へ向かいました。水土から炭鉱までは、黄色の小型バスが30分に1本出ているのを昨日確認済みです。泰山石に到着すると、丁度グースご一行がやってきました。今日の朝は、5編成が続行しています。

▲ 泰山石で1度停車してから、間隔をあけて順に発車していきます。
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2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part14  江合煤鉱鉄路 グースの里北碚(ベイベイ) その1

第18日目 3月7日

①    北碚12:10(Bus)→12:30水土鎮
② 水土12:35(バイクTaxi)→12:52 302工場
③ 302工場13:03(グース)→13:56炭鉱

朝起きて暗闇の外を見ましたら、今日も雨が降っています。初めての撮影地で、ぬかるみも多く山の中です。出発は天候の回復を待ってからの方が良いなあと、様子を見ることにしました。しかし、雨はやみそうにありません。12時前には早めに昼食を済ませて昨日調べておいたバスに乗りました。

北碚だけの地図が見つかりました。ただ炭鉱鉄道については、路線の記載がありません。どこを走っているのかは、グーグルアースを見ながら線路をたどっていく以外ありません。バスは30分に1本が運行されていて、乗車20分で水土に着きました。
ここから、公共機関がありません 。歩くにも目的地302工場と距離が分りません。丁度、客を降ろしたバイクTaxiと料金交渉しましたが。25元を譲らず、言いなりです。
コンクリート舗装はしてありますが、補修はされていなく穴だらけの岩の上を走って行きますと、302工場だという広場がありました。グースや線路など見えません.
近くの雑貨屋のお姉さんに聞くと。上よと指さします。坂道を上がると、2編成のグースが見えました。

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連接貨車

現役では唯一の連接貨車、太平洋石炭販売のセキ6000形。昭和41年から製造され、機関車からの遠隔操作で、側扉の開閉・連結解放が可能(春採)

湯口先輩から釧路臨港鉄道(現・太平洋石炭販売)に、貨車の連接車があったはずだから発表を、とのコメントがあった。確かに撮った記憶がある。準特急さんから横取りするようで申し訳ないが、写真と一筆を。
太平洋石炭販売には、2車体連接式の石炭車、セキ6000形が14組28両あり、現在でも使われている。同社はJR線とは連絡のない、自社線完結の路線のため、このような独自の貨車が考案されたようだ。訪れたのは一昨年のことになるが、このような運炭鉄道が細々ながらもまだ現役なのは驚異に値する。
なお、貨車の連接車は、以前国鉄・JRにも2例あったそうな。ひとつは、車運車のク9100で、三軸車であり車体が中央部分で分割された中央の一輪が連接構造という、たいへん珍しい連接三軸貨車だった。もうひとつは、JR後、トレーラー車体を運ぶために試作されたワ100で、3車体4台車をアダプターでつないでトレーラーを載せる、デュアル・モード・トレーラーシステム用の試作車だった。

2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part13  成昆鉄路に乗って、グースの里 北碚(ベイベイ)へ

第16・17日目 3月5・6日
① 昆明9:31(K114次)→5:31成都 1,100キロ 20時間6分
② 成都8:00(D5102次)→10:20
重庆北  315キロ 2時間20分
③ 重庆北10:45(Bus)→11:30北碚 約20数キロ 45分

今日は車窓が中国一と言われる成昆線の乗り鉄旅を楽しみます。計画時に成都昆明とどちらから乗車するのか迷いましたので、いつもの鄭州旅日記さんに聞きましたら、いずれも景観が最高と言われている区間は、夜間走行になる。私のお勧めは、昆明からですとの教えていただきました。
▲ 発車前の待合室。左が一般車、右が軟座車です。椅子が違って、広いです。
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本日の松代駅

本日3月16日 通りがかりに長野電鉄屋代線松代駅に立ち寄りましたのでそのスナップを紹介させていただきます。

大正11年(1922年)6月10日河東鉄道(屋代駅 – 須坂駅間)開業時につくられた駅です。今年4月1日廃止予定になっています。

なつかしい駅、駅らしい駅です。当線のほかの駅もこのような古風な駅だそうです。

昼下がり屋代行の電車がやってきました。

高校生がお客様の主役です。

北千住に住んでいたころ毎日お世話になっていた日比谷線の電車ほぼそのままです。朝ラッシュ時の日比谷線 北千住-上野間に乗るのは大変でした。

屋代に向け発車して行きました。

廃止されると二度と見られない風景です。

今日はダイヤ改正の前日。老体に鞭打って出かけたので報告する。小田急の消滅する車両の最終日の姿を撮ろうと出発準備していたら新幹線の100系と300系がなくなることが朝のテレビで放映されていた。それなら新幹線、小田急両方撮ろうと久しぶりに車で行くことにした。伊勢原でJR東海の371を撮って平塚の東豊田というところで300系、そのあとは秦野で小田急ロマンスカーと考えて出発。ところが、厚木市内で渋滞に巻き込まれて愛甲石田の本厚木よりでないと間に合わなくなった。いい場所ではないが妥協する。それでもその場所には一人後から来た。新幹線は5~60人くらいいただろうか。夕刊を見ると東京駅は1000人以上押しかけたようだ。ここ東豊田は富士山や丹沢が見えているが全体がかすんではっきりしない。女性のご老人がデジカメの小さいので準備していたが、急に来るので間に合わない。次の小田急の秦野~東海大学前は10人くらいで人出はJR新幹線と一私鉄の差であろう。大入り満員とはならない。通勤車5063は来なかった。

  2012.3.16 愛甲石田―本厚木 沼津発新宿行き「あさぎり2号」JR東海クモハ371-1 

 2012.3.16  平塚市東豊田 東京10時47分発の「のぞみ」新大阪行き300系 

 2012.3.16 秦野―東海大学前 箱根湯本行き「はこね21号」 10011-10001   

 

 2012.3.16 秦野―東海大学前 沼津行き「あさぎり5号」20301-20001

 

小田急HB車/廃車後の行方

小田急HB車とは、昭和2年4月小田原線、昭和4年4月江ノ島線開業時に製作された電車で、概略は2月27日付【18048】「小田急1600」で準特急様が記されておられる通りであるが、形式がいくつかあるので少し補足させていただく。

「H」は間接制御の加速の方法の手動(ハンド)を表し、「B」は制御電源の取り方の低電圧を表す。間接自動加速制御の場合は「A」(オート)、制御電源を架線から取る場合を「L」を表す。小田急の場合は新製当初はHL形制御であったが、昭和26年にMGを取付け低圧電源に変更してHB形制御に改造した。ちなみに京都市電の866~880、901~915、724~748はAB制御車、連結車の2000形と2600形はHB制御車であった。

モハ1形→デハ1100形(1101~1118)
新宿~稲田登戸(現向ヶ丘遊園)間の近郊区間用として日本車輌で18両新製された3扉ロングシート車である。正面がゆるくカーブしており、当時の標準的なスタイルでさほどブサイクとは思えない。昭和17年東急合併時にデハ1150形、更に昭和23年小田急分離時にデハ1100形に改番された。東急時代の昭和22年に相模鉄道に9両譲渡され、残った9両も更新修繕の対象から外され、1両荷電に改造、熊本電鉄に4両、日立電鉄に4両譲渡された。相模鉄道に譲渡された9両は京福電鉄(福井支社)に3両、日立電鉄に6両再譲渡された。京福電鉄と日立電鉄に行った車両はその後の車体更新で原型を崩したが、熊本電鉄に行った車両は原型のまま使用され、同社モハ301が廃車時、小田急が譲り受け復元工事が行われた。以前は一般公開時に展示されていたが、ここ数年は姿を見せていない。

モハ二101形→デハ1200形(1201~1212)
開業時に新宿から稲田登戸以遠小田原方面への郊外用として日本車輌で12両作られた。2扉で新宿寄りの扉と乗務員室の間に手荷物室とトイレが設置され、座席は扉間クロスシートであった。正面はモハ1形同様ゆるくカーブしていた。昭和15年に収容力増加のため、手荷物室撤去とロングシート化が行われた。東急合併時にデハ1201~1212に改番された。昭和31年から実施された更新修繕の結果、正面が平妻になり貫通扉の設置、片運化、扉の拡幅等が行われた。昭和41年から43年に、主電動機を流用して大型車体の4000系を製作するため廃車になったが、デハ1209、1210の車体が越後交通に譲渡された。

モハ121形、モハニ131形→デハ1200形(1213~1218)
昭和2年10月の全線複線化時に増備された車両で、2扉セミクロスのモハ121形が3両、荷物室付2扉ロングシートのモハニ131形が3両作られた。メーカーは藤永田造船所に変わり、正面は平妻になった。モハのロングシート化とモハニの荷物室撤去が行われ、東急合併時にデハ1213~1218に改番された。昭和31年から更新修繕が実施され、両側に貫通扉の設置、片運化、扉の拡幅等が行われた。昭和41年から43年に、主電動機を流用して大型車体の4000系を製作するため廃車になったが、デハ1215、1216の車体が岳南鉄道に譲渡された。

モハニ151形→デハ1300形(デハ1301~1303)、クハ1350形(1351、1352)
昭和2年10月の全線複線化時に増備された車両で、荷物室が広い3扉ロングシートである。メーカーは藤永田造船所で5両作られた。東急合併時にデハ二1251形に改番され、昭和21年荷物室を撤去してデハ1250形になった。更に昭和23年小田急分離時にデハ1300形に改番された。昭和31年に1304と1305電装解除され、クハ1350形1351、1352となった。昭和34年から35年にかけて車体更新が実施され、客室扉は両開扉に、窓は下降窓から上下幅を拡大してアルミサッシの2段窓となりスタイルが大きく変化した。昭和44年にそのままのスタイルで荷電となりデニ1300形となり昭和59年の荷電廃止まで使用された。
クハ1350形は昭和34年に車体更新が実施され、後述のデハ1400形と同様の車体になったが、昭和43年に廃車され、新潟交通と岳南鉄道に譲渡された。・

デハ1301/車体更新でアルミサッシ2段窓、両開扉となり原形からは大きく変化した。

 新原町田~相模大野 
(43-9-7)

デニ1302/昭和44年荷電デニ1300形に改造された。

 小田原 
(50-4-27)

モハ201形、クハ501形、クハ551形→デハ1400形(1401~1416)、クハ1450形(1451~1468)
昭和4年江ノ島線の開業と同時期に増備された車両で、モハ201形15両、クハ501形5両、クハ551形15両、川崎車輌で作られた。モハ201形とクハ551形はロングシート、クハ501形はセミクロスシートであったが、後にロングシート化された。クハ551形ラスト2両564、565は昭和16年に電装され、モハ251形251、252となった。

東急合併後の改番でモハ201形、251形は順にデハ1350形(1351~1367)、クハ501形と551形はクハ1300形(1301~1318)に改番された。昭和18年に元モハ251形のデハ1366と1367が井の頭線に転属した。

小田急分離後の昭和25年の改番でデハ1400形とクハ1450形となり、デハ1350形は旧車号に50を、クハ1300形は150をプラスした。
昭和29年から更新修繕が実施され、デハを新宿向きに、クハを小田原向きに揃えられ、扉の拡幅が行われた。

昭和41年から43年に、主電動機を流用して大型車体の4000系を製作するため廃車になったが、一部の車両が弘南鉄道、新潟交通、越後交通、岳南鉄道に譲渡された。デハ1406は廃車後教習車として使用されていたが、役割終了後解体されてしまった。戦前の小田急を代表する車両として是非保存して貰いたかったのに残念であった。

デハ1415-クハ1465+デハ1411-クハ1461の4連


 新原町田~相模大野 
(43-9-7)

前段が長くなったが、ここからが本論である。

(1)  デハ1100形の行方

①日立電鉄
昭和35年にデハ1102、1103、1104、1109の4両を譲受け順にモハ1001、サハ1501、モハ1002、1003とした。昭和38年に相模鉄道からモハ1001、1002、1003を譲受け、車号をそのまま生かしたため、前述のモハ1001~1003をモハ1004~1006に改番した。更に昭和53年に相模鉄道から荷電に改造されていたモニ1007~1009を譲受け旅客車に復元してモハ1007~1009とした。旧モハ1形18両中10両が集まったが、車体更新により原形は留めていなかった。

モハ1003/車号の変遷は小田急モハ7→東急デハ1157→相模鉄道デハ1157→同モハ1003→日立モハ1003。撮影時点では原形を保っていた。

 鮎川 
(41-3-12 )

モハ1002/小田急モハ6→東急デハ1156→相模鉄道デハ1156→同モハ1002→日立モハ1002。相模鉄道時代の中間電動車化され、運転台、パンタを撤去されていたが、車体は原形を保っていた。

 鮎川 
(41-3-12)

モハ1005/小田急モハ4→東急デハ1154→小田急デハ1104→日立電鉄モハ1002→同モハ1005。日立電鉄で車体更新が実施され、写真のようにスタイルが大きく変化した。

 
 鮎川 
(41-3-12)

サハ1501/小田急モハ3→東急デハ1153→小田急デハ1103→日立電鉄サハ1501。小田急時代に電装解除されサハ状態であったが、日立電鉄に来て正式にサハとなった。車体更新の結果、写真のようにスタイルが大きく変化した。

 鮎川 
(41-3-12)

②熊本電鉄
昭和34年にデハ1105~1108の4両を譲受け、順にモハ301~304とした。ほぼ原形のまま使用され、昭和56年に廃車になったモハ301を小田急に譲渡した。小田急では、開業時の姿に復元の上、車号を元のモハ10に戻して稼働状態で保存されている。

モハ303/小田急モハ16→東急デハ1166→小田急デハ1107→熊本電鉄モハ303。最後までよく原形を保っていた。

 北熊本 
(44-3-21)

③京福電鉄福井支社
昭和40年に相模鉄道からモハ1004~1006を譲受けホデハ271~273とした。譲受け時に車体更新が実施されノーシル・ノーヘッダーとなり、271は窓を2段上昇式に改造したためスタイルが変わってしまった。

ホデハ271/小田急モハ8→東急デハ1158→相模鉄道デハ1158→同モハ1004→ホデハ271→モハ271。ノーシル・ヘッダー、2段窓に改造された。

 福井 
(48-4-1)

ホデハ273/小田急モハ12→東急デハ1162→相模鉄道デハ1162→同モハ1006→ホデハ273→モハ273。ノーシル・ヘッダーとなったが窓は下降窓のままであった。

 福井 
(48-4-1)

(2)デハ1200形、デハ1400形、クハ1450形の行方

①弘前電鉄→弘南鉄道大鰐線
弘前電鉄時代の昭和45年にクハ1459を譲受けクハ201とした。尚、弘前電鉄は経営不振のため同年10月1日弘南鉄道に経営権を譲渡し、同社の大鰐線となった。

クハ201/小田急クハ554→東急クハ1309→小田急クハ1459→弘前電鉄クハ201→弘南鉄道クハ201。元木製国電の代替として譲り受けた。

 津軽大沢 
(50-4-28)

②岳南鉄道
デハ1200形2両、クハ1350形1両、クハ1450形1両の4両在籍した。

モハ1107/小田急モハニ154→東急デハニ1254→同デハ1254→小田急デハ1304→同クハ1351→岳南モハ1107→同クハ2602→同クハ1107
廃車になるまで7回改番している。

 岳南富士岡 
(49-2-17)

クハ2102/小田急クハ504→東急クハ1304→小田急クハ1454→岳南クハ2102

 吉原 
(43-4-6)

クハ2103/小田急デハ123→東急デハ1215→小田急デハ1215→岳南クハ2103
元デハ1200形のため前述のクハ2102とは窓配置が異なる。

 岳南江尾 
(50-9-14)

クハ2105/小田急デハ131→東急デハ1216→小田急デハ1216.→岳南クハ2105

 岳南江尾 
(50-9-14)

③新潟交通
デハ1400形6両、クハ1450形1両、クハ1350形1両の8両在籍した。車体更新(車体乗換え)に利用されたため、書類上7両は乗換え前の車両の改造扱い、1両は新製扱いとなっていた。車歴は小田急時代の車号を基準にした。

モハ16/小田急モハ209→東急デハ1359→小田急デハ1409→新潟交通モハ16
昭和2年汽車会社製(元伊那電鉄の買収国電モハ1924)のモハ16の車体更新車。小さな窓と二重屋根の車体はいかにも古めかしく感じさせられた。(更新前については他の車両と併せて別途解説したい)

 県庁前 
(47-4-30)

クハ36/小田急モハニ155→デハニ1255→同デハ1255→小田急デハ1305→同クハ1352→新潟交通クハ36
昭和22年日本鉄道自動車製のクハ36の車体更新車であるが、書類上は新製扱になっている。クハ36は当初モハ16として竣工して昭和25年に電装解除してクハ36となった。窓が大きく軽快に見えるが、終戦直後に作られた車体の出来が悪かったのと、小型のため更新の対象となった。同形車は近江鉄道、北陸鉄道にも在籍した。

 県庁前 
(47-4-30)

クハ45/小田急クハ563→東急クハ1318→小田急クハ1468→同デハ1416→新潟交通クハ45
昭和19年日本鉄道自動車製のクハ35の車体更新車。車体の老朽化と小型のため更新された。

 朝の3両編成の中間車として使用中/県庁前 
(43-8-30)

 東関屋 
(43-8-30)

クハ46/小田急モハ208→東急デハ1358→小田急デハ1408→新潟交通クハ46
昭和19年日本鉄道自動車製のクハ34の車体更新車。更新前は前述のクハ45と同形である。

県庁前 
(47-4-30)

クハ47/小田急モハ214→東急デハ1364→小田急デハ1414→新潟交通クハ47
昭和8年日本車輌製のクハ31の車体更新車。昭和8年新潟電鉄開業時に新製された車両である。同時に新製されたモハ11~14は昭和38年から42年にかけて日本車輌製の新製車体に乗せ換えられたが、クハは小型のまま残っていた。

 県庁前 
(47-4-30)

クハ49/小田急クハ560→東急クハ1315→小田急クハ1465→新潟交通クハ49
昭和11年日本車輌製のクハ33の車体更新車。前身は元神中鉄道のガソリンカーキハ31であった。元小田急のクハの内、この車のみ県庁前向きに運転台があった。(他車はすべて燕向き)

 

 

 
 県庁前 
(47-4-30)

下記2両は写真が見当たらないため割愛させていただいた。
クハ48/小田急モハ212→東急デハ1362→小田急デハ1412→新潟交通クハ48
更新前はクハ32で前述のクハ31と同型。

クハ50/小田急モハ211→東急デハ1361→小田急デハ1411→新潟交通クハ50
更新前はクハ40で大正15年製元東武のデハ9である。

④越後交通長岡線
昭和44年、架線電圧を750Vから1500Vに昇圧時にデハ1200形2両、デハ1400形2両、クハ1450形6両、全車両新製扱いで入線した。その際モハとなった車両は単行運転に備えて両運に戻された。6年後の昭和50年3月31日をもって旅客営業を廃止したので活躍したのは僅かな期間であった。その後も貨物営業は続けられ、最終的に廃止になったのは平成7年4月1日であった。

モハ1401/小田急モハ215→東急デハ1365→小田急デハ1415→越後交通モハ1401


 西長岡 
(50-3-22)

モハ1402/小田急モハ201→東急デハ1351→小田急デハ1401→越後交通モハ1402


 西長岡 上
(43-8-30) 下(47-4-30)

モハ1403/小田急モハ109→東急デハ1209→小田急デハ1209→越後交通モハ1403
この車と次のモハ1404は元デハ1200形のため窓配置が異なる。

西長岡 
(50-3-22)

モハ1404/小田急モハ110→東急デハ1210→小田急デハ1210→越後交通モハ1404

西長岡 
(50-3-22)

クハ1451/小田急クハ501→東急クハ1301→小田急クハ1451→越後交通クハ1451

 脇野町 
(47-4-30)

クハ1452/小田急モハ202→東急デハ132→小田急デハ1402→越後交通クハ1452
連結面のテールライトは来迎寺線の混合列車で客車として使用した時に最後部になることを考慮したため。


 西長岡 
(47-4-30)

クハ1453/小田急クハ503→東急クハ1303→小田急クハ1453→越後交通クハ1453



 西長岡 上(47-4-30) 下
(50-3-22)

クハ1454/小田急クハ563→東急クハ1318→小田急クハ1468→同クハ1466→越後交通クハ1454



 西長岡 上
(43-8-30) 下(47-4-30)

クハ1455/小田急クハ552→東急クハ1307→小田急クハ1457→越後交通クハ1455


 西長岡 上
(43-8-30) 下(47-4-30)

クハ1456/小田急クハ556→東急クハ1311→小田急クハ1461→越後交通クハ1456

 西長岡 
(50-3-22)

越後交通でも栃尾線は762mmということで比較的よく取り上げられるが、長岡線は地味な路線で、かつ末期は元小田急車に統一されていたこともあり、取り上げられる機会は少ないように思われる。昭和40年代初めまで4輪客車が健在、日本初のディーゼルカー改造の電車が在籍、電気機関車がバラエティーに富んでいた等、中々面白い路線であった。

 

 

浜大津ターミナル復元(その6)

小生の浜大津ターミナル復元工事は強力な助っ人にも後押しされて、順調に進んでいます。浜大津ジオラマは交差点を中心に8ブロックの組立式です。各ブロックの基板の木工と塗装を終了し、これからレール工事に入ってゆきます。今までに作った経験のない軌道敷部をどのように作るかがひとつの課題ですが、スチレンボードから小さな敷石を多数切り出して 実物のようにレール間にピンセットで敷きつめてゆこうと考えています。DRFCのレイアウト製作時に何千本かの枕木を作って貼っていったことを思えばたいしたことはないとタカをくくっていますが、さてどうなることやら・・・。今までに出来上がった公会堂や江若駅本屋なども並べてみました。交差点のおみやげ屋さんから坂本方面への一角もかなり出来ました。これから京阪駅、東口駅、江若の貨物ホーム、江若バスなどの建物(面倒な建物たちがこれからです)も並行して進めます。東北の復興工事に負けないように スピード感をもって復元を楽しみます。

交差点の情景

交差点の情景

京阪大津支社の一角

京阪大津支社の一角

公会堂横の石坂線

公会堂横の石坂線