西大山
最後は“日本最南端の駅”西大山。以前にも書いたが、正確には日本最南端は、沖縄ゆいレールだが、普通鉄道では、いまも最南端であることに変わりない。ただ碑の「日本最南端駅」はツッコミから逃れるため、今は「JR日本最南端駅」に変えられているらしい。
西大山
最後は“日本最南端の駅”西大山。以前にも書いたが、正確には日本最南端は、沖縄ゆいレールだが、普通鉄道では、いまも最南端であることに変わりない。ただ碑の「日本最南端駅」はツッコミから逃れるため、今は「JR日本最南端駅」に変えられているらしい。
米手作市さんの「50年ぶりの木次線」を拝見して、私の場合は40年前ですが一畑電鉄を訪れて、その帰りに木次線を経由したことがありました。その時の写真がありますので当時のことを思い出しながらご披露したいと思います。時は1973年12月10日から11日とネガカバーに日付が書かれてあります。ところがなぜ12月10日、11日に行ったのかよくわかりません。おぼろげながらゼミ旅行で玉造温泉に行ったような気がしているのです。しかし、定かではありません。このときに一畑電鉄の一畑口から一畑薬師のふもとでかつて一畑駅があったところまでバスで行ったのです。ところで西村さんも「追憶の旅(その2)」で一畑電鉄川跡駅と一畑廃駅の写真が投稿されています。どうも西村さんと一緒に行ったようです。川跡駅での写真といい、一畑廃駅でのバスを写した写真もほとんど同じものでありました。
上の写真は大社方面から来た電車が着いて、出雲市か松江方面へ乗り換える乗客が駅構内の踏切を渡っているところです。西村さんの投稿されている内容を見ても同じような光景のようです。
12月16日【42376】「フロ50形54号」で米手作市様より「フキ」ついてのご質問があったので、私の知る範囲で回答する。
昭和3年1月16日天神橋~高槻町間開業時に電動車20両(101~120)、制御車10両(501~510)の30両が新製された。
昭和3年11月10日より昭和天皇後御大典が京都で執り行われることになり、これに間に合わせるべく同年11月1日高槻町~西院間を開業した。
この時電動車13両(121~133)、制御車11両(511~521)、付随車5両(522~516)と共に貴賓車として付随車500が新製された。
昭和4年6月貴賓用付随車は「フキ」と形式称号が制定され、「フキ500」となった。
京都寄りから随員室、客室扉、貴賓室、洗面所、化粧室、給仕室、給仕室扉と並び、貴賓室には6脚の豪華な1人掛けソファーが並んでいた。
稼働する機会は少なく、昭和24年2月一般車に改造され、貴賓室の大阪寄りに客室扉を増設、貴賓室の窓4個分に固定クロスを設置、その他はロングシートに改造されたが、天井、壁面はそのままであった。
昭和25年4月、神戸、宝塚線車両と車号重複を避けるため1500に改番された。
昭和34年7月車体更新が行われ、座席のロングシート化、天井、内装を他車並みに改装が行われ、貴賓車の面影は広い窓のみとなった。
一般車への改装以降、P-6の中間車として使用されたが、窓の高さがP-6と同じであったため、それほどの違和感はなかった。
京都寄り(元随員室、貴賓室側)/ (43-8-7) 吹田 続きを読む
投稿画面に雪が降っているのはトラブルでなく演出です。1月4日までの全画面で見ることができます。お楽しみください。
人吉
人吉は、肥薩線の川線・山線の中継地点であり、要衝の駅として賑わっており、駅裏には機関区もあった。鉄道写真の立場から言えば、矢岳越えの写真を撮るための前線基地でもあった。朝早くから、とくにいい時間帯に通過する夜行1121列車を大畑で撮ろうとすると、どうしても人吉に泊まり、一番列車で向かわなければならない。しかし、人吉にユースはないため、奮発して国民宿舎に泊まった(と言っても一回だけ)。朝早く、国民宿舎で作ってもらった握り飯を抱えながら、まだ暗いなかを駅に向かったものだ。
▲人吉駅の代表的なシーンは、矢岳越えに挑む列車。上は昭和42年の873レ、D51170〔人〕+オハフ61433+貨車+D51、下は昭和45年の4589レ、D51545〔人〕+スハフ3244+貨車+D511058〔人〕、どちらも客車1両に貨車多数の混合列車で、3年経過しても何ら変わっていなかった。下のスハフ32は、この頃珍しいダブルルーフ、トンネル区間に備えてベンチレータが撤去してある。
宮崎
昭和40年代の宮崎は、他の地域とは違う響きを持った、憧れの地だった。当時の新婚旅行のメッカだったかもしれないが、人それぞれの思い入れも宮崎にあるだろう。しかし撮影対象として見ると、機関区が駅ホームの真横あり、とにかく狭いところに機関区があったという印象が強い。正規の入り口から入って機関区で撮影していたところ、ホームから直接、機関区へ侵入したと勘違いしたホーム上の駅員から、思いっ切り怒られたことがある。なにしろホームの真横にあるから、駅員がすぐ見つけてしまう。国鉄時代の職員は、怒るとたいへん怖かった。
▲ホームで出発待ちのC57187〔宮〕の客車列車の横を、入換中のD5112〔延〕が通り過ぎる。宮崎以北では、旅客がC57、貨物がD51牽引だった(昭和44年)。
昨日、【42503】祝 西山天王山駅開業の投稿が掲示板から消えてしまっているのに気づきました。管理者のみが見えます管理者画面では確かに投稿されていると表示されていますが、皆様方から見るデジ青では、実際に表示されていません。管理者2人で、この現象を確認していますので間違いありません。
原因究明のあらゆる努力をしましたが、現在まだ分かっておりません。ただ、いじくっている間にはなぜか見えるように復元されました。これも不思議です。
この現象は、2週間前の総本家青信号特派員さんの投稿でも発生しています。この時はご本人のみが確認されて、消えた原稿を再投稿されています。すると同じ原稿が別々で投稿表示されていました。再投稿原稿を消しますと、以前投稿された原稿も消えました。
起こるわけがない現象ですので理解できずで終わりましたが、今回は2度目で複数で、それぞれ違ったアクセスサイトから確認できていますので、投稿が突然に消えてしまった事は間違いありません。
なぜにこうなってしまうのか原因究明ができておりません。2度あることは3度あると申しますので、もし消えていることを見つけられたご投稿者の方はすぐに管理者までご連絡ください。また、その際に原稿の再投稿はお控えください。原因究明に支障をきたします。
投稿された原稿はHPから一時的に見えなくなっているだけで管理者ページからは残っている事は、確認できています。
デジ青へのご投稿者の皆様には大変ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます。
12月21日開業の阪急京都線西山天王山駅の初日の様子はぶんしゅうさんより[42503]「祝西山天王山駅開業」として詳細なレポートがあった。阪急電車の車両前面には開業のヘッドマークをつけた車両が神宝線でも見られ、高速道路との乗り継ぎ等新しいコンセプトを謳った新駅への意気込みが感じられた。
西山天王山から大山崎に向かうあたりは川向うの京阪電車淀~八幡市と共に昔から撮影名所であった。また、京都方面から乗車するとこのあたりから車窓に国鉄(現JR)が併走して近づいてくるのでワクワクしたものだ。この気持ちは今も変わっていない。
西山という地名からは乙訓のたけのこの産地が思い出される。また、天王山は摂津・山城の国境で天正10年の本能寺の変で備中高松から秀吉が全速力で戻り、信長を討った光秀と戦った場所として有名である。一度この山に登ってみたいと思いながら未だその機会がない。
さて、あの頃というのは45年くらい前のことで民家も今ほど多くなく、全体に撮影し易いいい場所であった。車両も新京阪時代からのデイ100が健在で6連(最終的には7連まであったと聞く)で急行運用にも入っており、元特急車の710も全車ロングシート化されたが急行や休日の「歌劇」号などにも見られた。これらの古豪に対し、主力は2300、2800、大阪市堺筋線乗り入れ用3300等で新旧の車両がこのあたりを疾走する姿は見ていて楽しかった。
1968.10.6 長岡天神~現西山天王山 125を先頭とする大阪梅田行き急行
この時代、P-6の特徴であった正面の頑丈な幌枠は取り外されており、顔としては非常に物足りなさを感じていたが、豪快な走りっぷりは健在であった。 乗務員は詰め襟の学生服のようなスタイルで車掌アナウンスも「です調」ではなく「ございます調」であった。▼
豊後森
かつて鉄道の町として賑わった駅も、今はすっかり寂れてしまった例は各地に多い。久大本線のほぼ中間にある豊後森もそんな駅だった。ここには機関区があり、宮原線を分岐していた。久大本線は140キロ余りあって、給水炭なしで全線は走破はできず、中間地点付近に機関区設備を設けたようだ。
訪れた昭和42年時点で、豊後森機関区の配置蒸機は、8620が7両、C11が1両で、8620は、久大本線の西部の客貨牽引に用いられていた。久大本線の客貨を通しで牽引する大分区のD60も、豊後森で一息入れた。
今は、残骸が残るものの、機関区としての機能はなくなり、宮原線もなくなり、すっかり省みられない駅となってしまった。
▲豊後森へ行かせた理由は、D60が架線のない、いい光線状態で形式写真が撮れること、そして当時は、全国でも豊後森だけとなってしまった機械式キハ07が配置されていたことだった(昭和42年)。
駅前に市内電車の乗り場がある風景は旅情を誘うものです。西日本では鹿児島、熊本、長崎、広島、松山、高知、そして岡山でこの風景が楽しめます。今朝の中国新聞に 岡山電軌岡山駅前電停の利便性向上へ向けての動きが載っていましたので ご紹介します。
鼓滝駅を発車した妙見口行 28+29 / (40-10-21)
「昭和の電車」シリーズは「フロ54」で今年の締めくくりとなったが、同車のその後の経過等について述べてみたい。
昭和32年12月能勢電に譲渡され29となり、同時に譲渡された電動車28(元デロ28)とコンビを組んだ。
廃車直前に阪急からの借入車24+25と車号を振替え、41年9月30日付けで廃車になった。
続きを読む
第3日目 12月2日
昨夜は、朝日が昇る鉄橋を撮るために円山川河川敷を野営地としました。暗闇の中で着いたのですが、泥濘にはまってしまいました。昼間は乾燥した所とぬかるんでいる所がハッキリと目視できましたので問題なく走行できていましたが、夜は見づらく確認するのを忘れて突っ込んでしまいました。
ぶんしゅう7号は四輪駆動車ですので今までもオフロードを乗り切っていましたが、今回は全輪が空回りをしていて前にも後ろにも進めません。真っ暗ではどうしようもできないので、明日朝になれば打つ手もあるだろうと諦めて就寝しました。
一夜明けて外を見ますと、一面真っ白な世界が広がっています。鉄橋は全く見えません。霧の可能性を忘れていました。
仕方ありません、撮影は諦めてゆっくりと朝食をとった後、ぶんしゅう7号の泥濘脱出に終始しますが、タイヤは滑るばかしで益々泥の中に沈んでしまいました。
こんな時はタイヤの下に板を入れるか、マット等の滑りにくい物を噛ますと脱出可能ですが、入れるためにはタイヤ下を掘らねばなりません。スコップなど持ってきていません。適当な板やマットもありません。以前、スキーに行く時はいつも積んでいたのですが、今回は用意はしていませんでした。
仕方ありません、保険契約しているS×××損保に電話して牽引車を呼んでもらうことにしましたが、河川敷と聞いてからの損保側の対応者の口調は変わってきました。要するに一般道であれば無料で対応できますが、以外の場所は保険外で有料ですと言います。近くにホームセンターでもあれば買いに行けますが・・・結局、救援車を呼ぶことにしました。
約40分後に地元の救援車が来ましたが、「ここにはよく出動する、トラクターぐらいしか入れない泥濘ですよ。一般車で入るのは無茶です。」と言われてしまいました。救出はウインチで引っ張ってもらうだけで約20分程度で終わりました。料金は蟹2杯分です。高くついた教養費でした。
これからは見えにくい夜中に河川敷に侵入するのは、こんな悲劇となりますので、明るくなってからにすることにしました。
記事の前に、本来は総本家青信号特派員書き出しの記事ですが、ご都合で当日は地元におられません。代わって、原住民の私が開業当日の様子をご報告させていただきます。
12月21日、周辺の住民から開業が待たれていた「西山天王山駅」が開業なりました。開業式典が開催される時刻近くに行ってみますと、開業イベント「おもてなし物産展」も開催されてまして、びっくりするほどの人出です。
そもそもこの駅は、京都府住宅供給公社が、昭和41(1966)年に竹藪茂る天王山山麓を切り開いて建設した円明寺団地の前に走る阪急京都線に設置される予定でした。私がまだ高校生だった頃の47年も前の事です。
人口約8,000人の新しい街ができましたが、将来近いうちにできるであろう目の前の駅は、阪急電鉄は自社の不動産部門が開発したのではない、また費用対効果がないとの理由で設置を拒み続けました。
かといって、総人口約16,000人の大山崎町では住民の約半数が住む地であっても、建設負担金捻出は無理です。将来の利便性も考えて住宅購入されていた方々の中には、騙されたとの絶望感がありました。
大井川鉄道の元京阪電車3000系の引退が2014年2月だそうです。その引退ツアーが2014年1月18,26日、2月8,9日の計4日間開催され、この12月25日より予約受付が始まります。同時に記念切符も発売される予定です。
1997年5月に転入。以来18年間、営団地下鉄の台車に履き替えて、大井川沿いを行き来しました。他の転入車元近鉄・元南海車両と異なり、鮮やかなツートンカラーがお茶畑や川面によくマッチしており、SLかわねじ号に交じり、好い撮影対象でした。近年運転途中に故障を起こしたり、車庫に眠る機会が多かったようでしたが、誠に残念です。
大井川鉄道『京阪3000系引退ツアー』のホームページはこちらからご覧になれます。
第2日目 12月1日
6:50 今日は平成12(2010)年4月8日に架け替えられたばかりの円山川鉄橋(310.2m)へと向かいます。
「道の駅 シルクのまちかや」からは約55キロ、所要時間約1時間半が見込まれますので早めの出発にしました。
▲ 7:20 丹後大宮~野田川、ここから峰山辺りまでは道路橋と交差する所が数ケ所あります。いずれも俯瞰撮影ができますので、野田川寄りに近い場所から撮ってみました。竹野川に沿って鉄路はあり、両側は田園が広がっています。704号の216Dが西舞鶴に向かってきました。
続きを読む
ちょっと目先を変えて、地元ネタを。
来たる12月21日(土)、阪急京都線長岡天神~大山崎間に、新駅「西山天王山」が開業する。同時に京都線ではダイヤ改正、阪急4駅の駅名改称も行われる。新駅は長岡京市内にあり、市にとっては80年ぶりの駅新設だそうな。
長岡天神~大山崎間は、阪急のなかで駅間距離の長いところで、だいぶ以前から駅設置が要望されていた。昭和40年代前半に、新駅よりも少し南に多くの団地ができて、当初の構想では、この団地付近の大山崎町内となっていた。団地名を採って、仮称「円明寺駅」と呼ばれていた。その後、京都縦貫自動車道の具体化にともない、高速道路直下に駅を設置することになり、仮称「南長岡駅」として進展することになった。京都縦貫自動車道はかなり以前から計画されており、用地も取得済みで、駅も含めた建設工事は比較的、短期間で出来上がっていった。駅名も、昨年春に、最近流行の合成駅名の「西山天王山」とアナウンスされた。新駅は、準急・普通のみの停車で、日中10分ヘッド、一日の乗降客数7800人の予想とか。
▲昨日、運動がてら歩いて現地へ行ってみた。京都縦貫自動車道の直下にできた「西山天王山駅」。開業まであと4日、まだ仕上げの工事が続いていた。この場所には、かつて遊休地の活用策としてプールが営業していた。もう20数年前になくなってしまったが、私も子どもを連れて何回か行ったことがある。すべり台の上からは、すぐ横を行く阪急電車がよく見えたものだ。