【42801】駅を旅する 〈20〉

西大山

最後は“日本最南端の駅”西大山。以前にも書いたが、正確には日本最南端は、沖縄ゆいレールだが、普通鉄道では、いまも最南端であることに変わりない。ただ碑の「日本最南端駅」はツッコミから逃れるため、今は「JR日本最南端駅」に変えられているらしい。

西大山IMG_0020sy西大山IMG_0018sy昭和42年、高校2年生の春、指宿のユースを朝に出発して西大山へ向かった。開聞岳のふもと、菜の花が咲き乱れる、南国ムードいっぱいのなかに駅はあった。乗降客は自分一人だけ、最南端駅訪問の感激の余り、三脚にカメラを載せて何枚も自分撮りをした。約40分の滞在のあと、枕崎発西鹿児島行き726D、キハ2050ほか3両編成の列車で、鹿児島機関区へと向かった。その後、指宿枕崎線に乗ったことはあるものの、西大山は二度と降りることはなかった。

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【42735】40年前の出雲路紀行 一畑電鉄と木次線

 米手作市さんの「50年ぶりの木次線」を拝見して、私の場合は40年前ですが一畑電鉄を訪れて、その帰りに木次線を経由したことがありました。その時の写真がありますので当時のことを思い出しながらご披露したいと思います。時は1973年12月10日から11日とネガカバーに日付が書かれてあります。ところがなぜ12月10日、11日に行ったのかよくわかりません。おぼろげながらゼミ旅行で玉造温泉に行ったような気がしているのです。しかし、定かではありません。このときに一畑電鉄の一畑口から一畑薬師のふもとでかつて一畑駅があったところまでバスで行ったのです。ところで西村さんも「追憶の旅(その2)」で一畑電鉄川跡駅と一畑廃駅の写真が投稿されています。どうも西村さんと一緒に行ったようです。川跡駅での写真といい、一畑廃駅でのバスを写した写真もほとんど同じものでありました。

 MN01804-一畑電鉄

 上の写真は大社方面から来た電車が着いて、出雲市か松江方面へ乗り換える乗客が駅構内の踏切を渡っているところです。西村さんの投稿されている内容を見ても同じような光景のようです。

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【42724】駅を旅する 〈19〉

吉松

人吉から山線を越えると、吉松。ここも運転上の要衝駅である。人吉と違うのは、町の規模はうんと小さいが、その分、機関区は広々していて、背後は一面の田んぼが広がっていた。矢岳越えを控えて、重装備のD51が出入りしたかと思うと、吉都線C55・C57や山野線C56も姿を見せる、出入りの機関車は変化に富んでいた。

IMG_0001夏の終わりの午後、C55の熱気も加わり、ホームは暑そうに見えるが、ベンチの女性はいたって楽しそう。吉松まで来ると、さすがにローカル線ムードあふれる雰囲気だった(昭和45年)。

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【42701】フキ500

12月16日【42376】「フロ50形54号」で米手作市様より「フキ」ついてのご質問があったので、私の知る範囲で回答する。

昭和3年1月16日天神橋~高槻町間開業時に電動車20両(101~120)、制御車10両(501~510)の30両が新製された。

昭和3年11月10日より昭和天皇後御大典が京都で執り行われることになり、これに間に合わせるべく同年11月1日高槻町~西院間を開業した。
この時電動車13両(121~133)、制御車11両(511~521)、付随車5両(522~516)と共に貴賓車として付随車500が新製された。

昭和4年6月貴賓用付随車は「フキ」と形式称号が制定され、「フキ500」となった。
京都寄りから随員室、客室扉、貴賓室、洗面所、化粧室、給仕室、給仕室扉と並び、貴賓室には6脚の豪華な1人掛けソファーが並んでいた。

稼働する機会は少なく、昭和24年2月一般車に改造され、貴賓室の大阪寄りに客室扉を増設、貴賓室の窓4個分に固定クロスを設置、その他はロングシートに改造されたが、天井、壁面はそのままであった。

昭和25年4月、神戸、宝塚線車両と車号重複を避けるため1500に改番された。

昭和34年7月車体更新が行われ、座席のロングシート化、天井、内装を他車並みに改装が行われ、貴賓車の面影は広い窓のみとなった。

一般車への改装以降、P-6の中間車として使用されたが、窓の高さがP-6と同じであったため、それほどの違和感はなかった。

京都寄り(元随員室、貴賓室側)/ (43-8-7) 吹田 記事の続きを読む


【42689】駅を旅する 〈18〉

人吉

人吉は、肥薩線の川線・山線の中継地点であり、要衝の駅として賑わっており、駅裏には機関区もあった。鉄道写真の立場から言えば、矢岳越えの写真を撮るための前線基地でもあった。朝早くから、とくにいい時間帯に通過する夜行1121列車を大畑で撮ろうとすると、どうしても人吉に泊まり、一番列車で向かわなければならない。しかし、人吉にユースはないため、奮発して国民宿舎に泊まった(と言っても一回だけ)。朝早く、国民宿舎で作ってもらった握り飯を抱えながら、まだ暗いなかを駅に向かったものだ。

人よしIMG_0017syIMG_0002sy人吉駅の代表的なシーンは、矢岳越えに挑む列車。上は昭和42年の873レ、D51170〔人〕+オハフ61433+貨車+D51、下は昭和45年の4589レ、D51545〔人〕+スハフ3244+貨車+D511058〔人〕、どちらも客車1両に貨車多数の混合列車で、3年経過しても何ら変わっていなかった。下のスハフ32は、この頃珍しいダブルルーフ、トンネル区間に備えてベンチレータが撤去してある。

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【42659】駅を旅する 〈17〉

宮崎

昭和40年代の宮崎は、他の地域とは違う響きを持った、憧れの地だった。当時の新婚旅行のメッカだったかもしれないが、人それぞれの思い入れも宮崎にあるだろう。しかし撮影対象として見ると、機関区が駅ホームの真横あり、とにかく狭いところに機関区があったという印象が強い。正規の入り口から入って機関区で撮影していたところ、ホームから直接、機関区へ侵入したと勘違いしたホーム上の駅員から、思いっ切り怒られたことがある。なにしろホームの真横にあるから、駅員がすぐ見つけてしまう。国鉄時代の職員は、怒るとたいへん怖かった。

宮崎IMG_0073syホームで出発待ちのC57187〔宮〕の客車列車の横を、入換中のD5112〔延〕が通り過ぎる。宮崎以北では、旅客がC57、貨物がD51牽引だった(昭和44年)。

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【42651】緊急、消える投稿にご注意!

昨日、【42503】祝 西山天王山駅開業投稿が掲示板から消えてしまっているのに気づきました。管理者のみが見えます管理者画面では確かに投稿されていると表示されていますが、皆様方から見るデジ青では、実際に表示されていません。管理者2人で、この現象を確認していますので間違いありません。
原因究明のあらゆる努力をしましたが、現在まだ分かっておりません。ただ、いじくっている間にはなぜか見えるように復元されました。これも不思議です。

この現象は、2週間前の総本家青信号特派員さんの投稿でも発生しています。この時はご本人のみが確認されて、消えた原稿を再投稿されています。すると同じ原稿が別々で投稿表示されていました。再投稿原稿を消しますと、以前投稿された原稿も消えました。
起こるわけがない現象ですので理解できずで終わりましたが、今回は2度目で複数で、それぞれ違ったアクセスサイトから確認できていますので、投稿が突然に消えてしまった事は間違いありません。

なぜにこうなってしまうのか原因究明ができておりません。2度あることは3度あると申しますので、もし消えていることを見つけられたご投稿者の方はすぐに管理者までご連絡ください。また、その際に原稿の再投稿はお控えください。原因究明に支障をきたします。
投稿された原稿はHPから一時的に見えなくなっているだけで管理者ページからは残っている事は、確認できています。
デジ青へのご投稿者の皆様には大変ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます。


【42636】あの頃の西山天王山駅付近

12月21日開業の阪急京都線西山天王山駅の初日の様子はぶんしゅうさんより[42503]「祝西山天王山駅開業」として詳細なレポートがあった。阪急電車の車両前面には開業のヘッドマークをつけた車両が神宝線でも見られ、高速道路との乗り継ぎ等新しいコンセプトを謳った新駅への意気込みが感じられた。

西山天王山から大山崎に向かうあたりは川向うの京阪電車淀~八幡市と共に昔から撮影名所であった。また、京都方面から乗車するとこのあたりから車窓に国鉄(現JR)が併走して近づいてくるのでワクワクしたものだ。この気持ちは今も変わっていない。

西山という地名からは乙訓のたけのこの産地が思い出される。また、天王山は摂津・山城の国境で天正10年の本能寺の変で備中高松から秀吉が全速力で戻り、信長を討った光秀と戦った場所として有名である。一度この山に登ってみたいと思いながら未だその機会がない。

さて、あの頃というのは45年くらい前のことで民家も今ほど多くなく、全体に撮影し易いいい場所であった。車両も新京阪時代からのデイ100が健在で6連(最終的には7連まであったと聞く)で急行運用にも入っており、元特急車の710も全車ロングシート化されたが急行や休日の「歌劇」号などにも見られた。これらの古豪に対し、主力は2300、2800、大阪市堺筋線乗り入れ用3300等で新旧の車両がこのあたりを疾走する姿は見ていて楽しかった。

 

1968.10.6 長岡天神~現西山天王山 125を先頭とする大阪梅田行き急行

この時代、P-6の特徴であった正面の頑丈な幌枠は取り外されており、顔としては非常に物足りなさを感じていたが、豪快な走りっぷりは健在であった。 乗務員は詰め襟の学生服のようなスタイルで車掌アナウンスも「です調」ではなく「ございます調」であった。▼

68.10.6長岡天神125

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【42622】駅を旅する 〈16〉

大分

大分は行くたびに工事をしている印象がある。初めて行った昭和42年は、新田原までだった日豊本線の電化が、幸崎に向けての延伸工事中で、構内は工事で錯綜していた。最近行った時も、今度は駅の高架工事中だった。

大分IMG_0007sy架線の張られた大分駅を発車する、大分発西鹿児島行き2523レ、C57196〔大〕+客車9両、以前の“デジ青”にも紹介されていたC57四次型の1両で、大分区には5両の四次型がいた。右は入換の8620(昭和42年)。

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