DD40の目撃者 おられませんか

掲示板には模型の話題が少ないので、あえて模型がらみのネタにしました。以前からマイナーな車両を懲りずに作っているのですが、このたびDD40が完成しました。DD40は昭和29年10月 三菱三原製 製番No.799の液体式DLです。

試運転中のDD401 場所は不明だが、糸崎駅か?

試運転中のDD401 場所は不明だが、糸崎駅か?

左から5Ton機、DD401,DD901

左から5Ton機、DD401,DD901。DD2両はパワトラ2個使用の全軸駆動で力持ちです。

 DD40は昭和31年5月から梅小路機関区に貸し出され、昭和35年5月からは吹田第一機関区に移って吹田ヤードや尼崎港線で試用され、昭和37年3月に三菱三原に返却されました。昭和37年の称号改正でDD921となっています。返却後は工場内の入換えに使われたようですが、いつの間にか消滅したようです。DD40は この時期各社が製作した試作DLのなかで 最も地味で情報の少ない機関車のようです。ちなみにDD901(もとDD411)は東芝製の電気式DLで大宮機関区にいたせいか、結構写真などが紹介されています。写真左の5Ton機は三菱三原が昭和26年2月に初めて製作したDLで 隣接する日本セメント糸崎工場の入換え用で使われたあと 三菱三原に戻り、現在も保存展示されている機関車です。この模型は箕面市の模型店「モデル8」が売り出していたエッチング板から作ったものですが、小さすぎて動力化は私の手に負えずモーターなしです。さてここからが本題のお願いですが、この地味なDD40を梅小路や吹田、尼崎港で見たことがあるとか 写真を撮っているという先輩諸氏がおられませんか? 何しろ私の小学生時代の機関車で全く接点がないのです。これから塗装しようと思うのですが、またしてもどんな色をしていたのか全くわかりません。DD13が登場したときのような茶色に黄色い帯で塗ろうかとは思っていますが、何か情報があれば教えて下さい。

2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part8 台湾鉄路の便當(駅弁)、台鐡老人割引切符、集集線、台北へ

02-202-1【 台湾鉄路の便當(駅弁) 】
高鐡台鐡の主要駅や優等列車の車販には日本と同じように駅弁があります。
日本統治時代から伝承されていて台湾では便當と呼ばれ、その数は無数で、站に行かなくとも街の中でも買えるものもあります。

勿論、セブンイレブン等のコンビニでも並べられています。02-3

站のホームでは、昔懐かしい「べんと~、べんと~」と、売り子さんの声が聞こえる站もあります。

こうして台湾で販売されている便當ですが、日本とは違った鉄則があります。それは、「温かくなければ便當ではない」という事です。
コンビニで並べられている便當も言わなくとも電子レンジでチンするのが常識となっています。従って、精進料理のような冷たくとも美味しい弁当は見かけたことがありません。
ホームの売り子さんは、列車が着くまで便當を綿入りの布団のようなものに包んで保温しています。

中身は味付けされた鶏肉や豚肉が入ったものが圧倒的に多く、煮卵やハムも定番です。
味は日本とは違っていますが、台湾を訪れる日本人の多くが美味しすぎると、絶賛しています。

値段も50~80元(180~290円)と安く、台湾庶民から好まれるところです。最近は100元(360円)もする高級便當も出回ってきています
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広電1000型増備

すでに2編成が横川や白島に乗入れている1000型が来月から3編成増えて5編成となり、従来ラッシュ時しか走っていなかった比治山線での撮影も楽になります。この増備は2013年度分で 今年度も更に3編成増やす計画だそうです。当然ながら旧型車の淘汰も進むと思われます。1月28日付け中国新聞の記事をご紹介します。

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2013-7-17 1001号江波に到着

2013-7-17 1001号江波に到着

2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part7 悠遊カード、  虎尾糖廠(虎尾製糖)-台湾最後のシュガートレインの撮影本番 

台鐡ICカード▲ 昨日、帰りに斗南站で買い求めた台鐡のICカード。改札口を出入りする度に気になっていました。自強號や莒光號等の指定席列車乗車には使用できませんが、區間車に乗る時にはいちいち切符を買わなくて良いので便利です。窓口でお聞きしましたら、バラバラとデザインの違うカードを見せてくださいました。その中でCK124号機(C12型)蒸気機関車が描かれたデザインが気に入りましたので購入することにしました。デポジットは100元(約360円)、ただ斗南站ではこのカードにチャージ(入金)する機械がないので斗六に着いてから300元を入れました。

海外に出かけた時は、長蛇の列に並ばなければならない時があります。自動切符販売機は文字が読めず一苦労です。また、地下鉄や郊外電車に乗る際に下車站がよく分から なかったり、乗車時に決められなかったりもします。ロケハンや撮り鉄をしていて思いついた站で不意に下車する事も多いので、ICカードをいつも買っています。そんな訳で私にとっては必需品でもあります。中国本土では、地下鉄が開業する度に乗車していますので、各都市の地下鉄ICカードが、ほぼ全部が揃っています。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part6 虎尾糖廠(虎尾製糖)、台湾最後のシュガートレインを撮る

00_製糖工場子供が描いた絵 04▲ 虎尾糖廠虎尾站に大きく掲示されていました絵です。
おそらく沿線に住まわれる子供さんが描かれた絵なのでしょうね。
製糖工場と虎尾站をバックに、台湾で残る唯一の現役シュガートレインと手を振る子供たちの姿が、生き生きと元気に描かれていて私にも伝わってきました。

もういつまで見られるか分からなくなった台湾のシュガートレインですが、この絵を見ながら、できるだけ長く活躍してほしいと願いました。
今日は、今夜来られる本隊一陣に備えて虎尾糖廠のロケハン調査を兼ねての撮り鉄です。

斗南~虎尾站は、この辺りでは最も早くの明治43(1910)年1月31日に開通しました。翌明治44(1911)年5月29日には北港(北港線)、同年9月10日には西螺(西螺線)まで延伸され、以降も建設が進められました。シュガートレインだけでなく旅客列車も運行されていました。
虎尾站は、1972年に旅客営業を終えて、駅舎内を喫茶や土産物を販売するお店にリニューアルされて保存されています。

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一円電車を訪ねて 〔46年前の記録〕

車庫全景
                 明延機関庫の全景

少々古い話であるが、どですかでんさんより、平成24年5月11日【20260】で「一円電車」に関する書込みがあった。今年の1月3日神子畑に住んでおられた方から貴重なコメントがあり、改めて「デジ青」が関係者以外にも多くの方に見ていただいていることを認識した次第である。

46年前の昭和44年2月、準特急氏、竹中 修氏と3人で訪れた時の記録を記憶があるうちに纏めておきたい思い書込みをした。

卒業を目前に控えた準特急氏より、「一円電車」に行こうという提案があり、1学年下の私と、1回生でローカル私鉄に興味を持っておられた竹中 修氏が参加した。
KAWANAKA氏と逗子の旦那は、途中の天橋立まで同行され、日帰りで帰られたと思うが、半世紀近くも前の事であり記憶違いがあるのかも知れない。

当時、日帰りで明延まで往復するのは無理があるため、1泊2日で計画し、初日は福知山機関区と加悦鉄道を訪れた後、天橋立のYHで宿泊して、翌日「一円電車」を訪れることにした。

昭和44年2月22日、京都駅7時50分発綾部行(125D)で出発し、綾部で乗換え10時48分に福知山に到着した。
機関区に行く途中の踏切で、バイクに乗った実家が福知山の同じゼミ生から声を掛けられ吃驚したが、相手はもっと吃驚したであろう。
機関区で撮影後、11時43分発敦賀行 (957D)で西舞鶴へ、12時39分発豊岡行 (325レ) に乗り天橋立で降りて39616牽引の貨物列車を撮影した。
KAWANAKA氏と逗子の旦那はここでUターンされたと思う。

15時42分発豊岡行 (341D) に丹後山田まで乗車したが外は雪になった。加悦鉄道は直ぐの接続で、キハ51の車内元荷物室部分に石油ストーブが設置されていた。
折返しの16時50分発の列車まで降りしきる雪の中で撮影した。

丹後山田17時24分発京都行 (328レ) で天橋立まで戻り、船で対岸の一の宮に渡り、雪の中を歩いてYHに到着した。ちなみに328レの京都到着は5時間29分後の22時53分である。

YHの同宿者は、一人旅の京都外大生だけであったが、この季節に丹後半島を観光するのは余程物好きの部類に入るであろう。
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秋田市電その後

Negative
                    南海電鉄和歌山軌道線252/(46-1-2) 和歌山駅

新年早々乙訓の長老が投稿された「秋田市電」の貴重な画像を拝見して感激している。
運行を停止したのが昭和40年12月末、正式な廃止は翌41年3月末で、団塊世代は未だ高校生で、私自身急行「日本海」に延々18時間乗り秋田まで行く勇気はなかった。

長老の書込みの通り、最も新しかった200形(201、202)が岡山電気軌道、次に新しかった60形(60~63)が南海電鉄に譲渡され、和歌山軌道線で使用された。
その後の経過について記してみたい。
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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part5 嘉義から斗南への道中

26▲ 台鐡嘉義站の待合室に設置されている観光案内所におられた案内人のおばちゃまとお姉さん。
これから向かう虎尾糖廠付近の地図がないかをお願いしましたら、「う~ん、ここには嘉義や阿里山のは、たくさんあるけれど・・、ちょっと待ってね。」 と、言われながらも斗南・斗六の観光地図を探していただきました。ありがとうございました。見るからに優しそうなお二人でした。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part4 阿里山森林鉄路

01▲ 昨夜嘉義站売店で購入した時刻表は紹介しましたオレンジ色の表紙でしたが、他に紫色と黄色のもう2種類がありました。よく見ますと、中々のセンスあるデザインで気に入っています。日本の時刻表も写真ばかりでなく手書きのイラストデザインシリーズも作ったらと面白いのにと思いました。

第2日目 1月9日 その1

6:30 目覚めてのすぐの作業は、カーテンを開けて見る空模様です。今日はあいにくと雲が立ち込めています。天気予報では、曇りのち晴れなのでこれからは好天するのだろうと、ホテルで朝食を食べてから8時にチェックアウトしました。
中国本土ではチェックアウトの際は、少し待たなければなりません。係員が部屋に行って良く言えば忘れ物がないのか、悪く言えば盗られた物がないかをチェックするためです。以前にバスタオルがないと騒がれた経験もあります。
実際はバスルームがドアにかけてあったのを係員が見落としたのが原因だったのですが、盗人扱いを受けて嫌な思いをしました。しかし、ここ台湾では 「ご宿泊、ありがとうございました。」 で、カギを渡すだけで済みます。
人を信用することから始まる人間性と、疑うことから始まる人間性と相反する原因はどこにあるのでしょうか?

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part3 台鐡嘉義站、嘉義文化路夜市

 

53▲ 17:21 蒜頭糖廠から路線バスに揺られて約40分、ようやく台鐡嘉義站に到着しました。バスは市内地に入りましたが下車站は終点ではなく途中下車です。長くの乗車になってきましたので、降りるバス停がどこだか分からず不安でした。しかし今回は大津の86さんが一緒です。彼は停車する度にバス停を確認していただいており、ぶんしゅうさんもう2駅です。次ですと教えていただいておりました。ありがとうございました。

上の写真は、バスを降りた繁華街に近い台鐡嘉義站正面。阿里山森林鉄路は駅舎を共有して正面に向かって右側に発着ホームがあります。
下は、構内を跨ぐ跨線橋を渡っての反対側駅舎です。エレベーターとエスカレーターが設置されていてバリアフリーができていますので、重い荷物を持って苦労することなく行けました。
台鐡の主要駅では日本と同様に駅のバリアフリー化が進んできています。荷物を持つ旅行者には便利になってきました。バスターミナルはこちら側にありました。

【 台鐡 嘉義站 】
明治35(1902)年4月20日、台湾総督府鉄道の駅として開業。明治43(1910)年10月1日には 阿里山森林鉄路嘉義線が開業。昭和7(1933)年に改築するも昭和20(1945)年、米国の空爆によって主要部を破壊される。昭和24(1949)年に修復を完了。鉄筋コンクリート製。

現在は、台湾台鐡縦貫線と阿里山鉄路阿里山線の駅。台鐡は1日96本もの列車が発着する。阿里山鉄路は途中で山崩れが発生しているために途中区間が運休中で、現在北門行きの1往復が発着するのみ。2011年度の乗降客は約19,700人。
台鐡嘉義站公式HPはこちらへ

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part2 蒜頭糖廠、なぜに台湾の人たちは日本人にやさしいのか–八田與一の功績

01_農民のモニュメント ▲ 14:00 着いた高鐡嘉義站に降り立つとバス停は今います北口ではなく南口でした。蒜頭糖廠へ向かうバスの時間を見てきますと大津の86さんは走って行かれました。私は一服しながら荷物番です。目の前には逞しい農民夫婦のカラフルなモニュメントが設置されていました。

この地方の代表的な表現だろうと思いましたが興味が湧いてきましたので調べていきますと、嘉南平野は台湾でも代表的な耕作地域であることが分かりました。広さは香川県ほどで、台湾全体の耕作面積の1/6を占めています。
また亜熱帯性気候により1年に2~3回もの収穫ができる地域で年間降雨量も十二分でしたが、降った水が中央山脈から一気に流れ落ちる富山の常願寺川のような地形であったために、雨季には暴れ川となっていました。 雨季には洪水、また乾季には耕作地は干上がってしまうために安定した耕作はできない土地で、飲み水さえ不自由していたそうです。農民は極貧困に苦しんでいたのですが、これを救ったのは東京帝国大学で土木工学を学んだ八田與一でした。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part1 旅立ち、高鐡桃園站

01▲ 今年の元旦は、クモハ73106東ウラさんと阪堺電車に晴れ着姿のお嬢さんとのツーショットを撮りに行きましたが、誰一人として姿を見られませんでした。成人式なら見られるとお聞きしましたが、残念ながら訪台予定が入っていましたので諦めていましたが、何と台湾の台東駅構内で待ちに待った姿を見かけられました。
それも、とびっきりの台湾美人で可愛いお嬢さんです。思わず、お声をかけて撮影をお願いしますと、気さくに応じてポーズをとっていただけました。 今年は新春から気持ち良いスタートがきれました。今年も頑張って鉄ちゃん道に励みたいと思っております。よろしくお願い申し上げます。

それにしてもどうして晴れ着姿でおられたんでしょうか。お聞きはしたのですが私の語学力では理解できませんでした。マネージャらしき付き人が付いておられましたので、モデルさんかタレントさんだったのかも・・・。お買い物をされていた準特急先輩も駆けつけられて、二人でうっとりとしました。

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台湾ちょっとした話

年明け早々台湾に行ってきた。今回の目的は英国製EMU100が臨時自強号として土日を中心に2月8日頃まで基隆と樹林の間を走るということで急遽現地に駆け付けた。その時見て感じた最近の台湾を少々報告する。

<EMU100>

EMU100は台湾で最初に導入した特急用電車で吊り掛けモーター装備として有名であるが、今まで七堵で休車状態を撮影したことがあるのみである。そこへ今回復活運転をするということで格安航空を利用して行ってみた。情報は主に写友クモハ73106さんからで今回もリーダーをお願いし、三田会のお二方とDRFC-OB3名計6名で快晴の1日を集中して撮影した。写真は2014年1月11日三坑~八堵間を行くEMU100の基隆発樹林行き臨時自強号▼

s-14.1.11三坑EMU100

<友好的で親切な台湾の人々>

台湾の人は昔から親切で、特にお年寄りの接し方、話し方は古き良き日本を思い出させてくれる。この日は土曜日ため復活運転撮影に台湾の若い鉄ちゃんも沢山現れ、彼等からは鉄道カレンダーや阿里山鉄道の絵葉書、それに時刻表などを頂き恐縮してしまった。ホームで日本の爺鉄と情報交換する台湾の鉄ちゃん▼

s-14.1.11樹林友好

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【続々々々26号】にこだわる

新年早々【26】にこだわる話が出てきたのは往年のBOXを思い出す会員もいらっしゃると思う。老人も加わってみる。表紙となった京阪26号は、ピク695号82頁の写真が基となったかな?同じものを探すのは失礼だから、ある日、真横から撮ってやれと向かったのが四宮ー追分間の擁壁からである。レリーズが合わず少しスカタンとなったのは許されたい。そしてマキシマムトラックションも話題となったので20型のもの出しておく。

IMGIMG_0001

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〔続・続〕形式または車号が「26」の車両

キニ26
気動車のところで「キニ26」が漏れていたので追加する。
キユニ26は25両改造され、本州、北海道、四国、九州と全国各地で見られたが、キニ26は僅か4両のみの改造であり、1が米子、2が岡山、3、4が高松の配置であった。

キニ261 / (52-3-26) 岡山
キロハ254(昭和32年新潟鐵工所製)→キハ26304の改造車で、キロハ25の一次車の特徴であるハ側のHゴム支持の2段窓が残っている。
キニ261 52-3-26

【参考】キロハ255 / (41-2-14) 京都
実際の種車キロハ254の写真がないので、同一スタイルのキロハ255を掲載する。
117-22.kiroha255fuchi.66.2.14Kito

ゆりかもめ26 / (H22-5-16) 台場
INUBUSE氏より1月9日【43029】で嵐電のモボ26を紹介していただき、昨年3月末まで通勤で乗っていた「ゆりかもめ」に「26」が存在していたことを思い出した。

実際の形式は7200形であるが編成番号が正面に大きく表示されており、26編成は平成13年製5次車のラスト編成である。
ゆりかもめ26

形式、車号が「26」の車両をいくつか取上げて紹介したが、現役車両はINUBUSE氏が紹介された「嵐電」と「ゆりかもめ」、カシオペアのE26系くらいではないだろうか。
比較的近年まで在籍した車両では、秩父鉄道クハニ26、静岡鉄道駿遠線ハフ26、大分交通耶馬渓線ハフ26等があるが、撮影はしていない。

他にも系統番号等を含めて「26」、西暦にちなんで「2014」が車号の車両があれば、是非ご紹介いただきたい。

 

教えて!専門家!(その1)

日頃から「鉄道マニア」を自称していると、とんでもない質問を受ける羽目になる。
最近、立て続けに聞かれて答えられないことがあったので、諸賢に助太刀をお願いする。

一昔前まで、ローカル線には混合列車が多く見られた。この編成は大抵が客車1両に貨車数両をつないで蒸機が引くものだった。この場合、一般的には客車は機関車側につなぐが、貨車をはさんで後部につながれることもあった。
そこで質問は、機関車の次位に客車が来る場合ではなく、間に貨車をはさんでいる場合の暖房方法である。
記憶を引っ張り出してもストーブを乗せている思い出はなく、かといって貨車を通して蒸機パイプを引いていたこともない。確かにSGのない電機用にヌ(暖房車)もあったが、ローカルの混合列車用ではなかった。ではどうしていたのか?これが質問です。

教えて!偉い方!