2015年の夏は辛かった トホホの我が家のネット事情

もっと早くに次の福井見聞記を投稿予定でしたが、我が家のインターネット環境に異変が生じてしまいました。

① ネット接続が途中で切れる
PCを立ち上げた時は普通につながるのですが、しばらく投稿作業をしていると、なにやら様子がおかしくなってきてネットワークを見ると、接続が切れています。 ”問題のトラブルシューティング”で診断すると、「ルーターをOFF/ONして下さい。」との事ですので再接続作業をしますが、接続は出来てもしばらくするとまた同じ現象が発生します。投稿原稿は保存されず、最初からやり直しを強いられます。
夏前からこんな兆候は出ていたのですが、今年の夏は熱くなりすぎたからPCも夏バテなのだろう。その内に直るだろうと楽観視していました。ところが8月に入ると接続切れは頻繁に発生するようになり、状態は日々に悪化してきました。
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 山崎を走った夏の臨時列車 -1-

先日の掲示板で山科を走った昭和40年の臨時列車を掲載しましたが、臨時列車の運転期間などを調べるにつれ、その記録が少ないことを痛感しました。昭和の時代、年末年始、夏季を中心に、多くの臨時の優等列車が運転され、定期列車には見られない趣味的にも興味深いものがありました。定期列車なら「列車名事典」「特急・急行のすべて」と言った書籍も出ていますが、臨時列車を扱った書籍は見たことがありません。列車研究の基礎となる時刻表においても、特発的な臨時などは支社・管理局単位で設定したりして、記載されていないものもあり、また私の場合、時刻表の保存は改正号に限定し、夏季旅行に使った時刻表は廃棄するのが通例で、ほとんど保存号がなく自ら調べる手掛かりもありません。
1980年代、居住地の近くの東海道線神足(当時)~山崎にも、この季節、多くの臨時列車が運転されて、よく撮影に行きました。時間帯が集中しているため、自転車でパッと行って、パッと帰ってくるパターンでした。地元を走った臨時列車は、地元の人間が記録しなければと思った次第です。夏の臨時列車(急行・快速)に限定して、断片的ですが、まとめてみました。
海水浴場へ向かう臨時列車
昭和40年代前半、若狭・丹後の日本海側の海水浴場へ向かう臨時列車は、すべて京都始発だった。そこへ大阪始発が加わったのは昭和42年から運転を開始した急行「わかさビーチ」である。当初はDCで、京都経由で小浜まで運転された。大阪湾岸の海水浴場が汚染で次つぎ閉鎖されたのと時を同じくしている。
続いて、大阪始発で日本海側海水浴場行きとして設定されたのが「丹後ビーチ」だった。この愛称は、もともと京都始発のDC急行として昭和43年に設定されたが、昭和49年から大阪発播但線経由の臨時となり、車両も12系客車に変更される。さらに東海道線・京都経由となり、山崎でも見られることになった(変更年不明)。
臨時列車 (4)丹後ビーチS59EF65PFが12系客車8両を牽く大阪発天橋立行き臨時急行「丹後ビーチ」(昭和59年8月)。天王山を望む、小泉川橋梁付近は、撮影スペースもあって、お気に入りの場所だった。現在は厳重な柵があって、立ち入りはできない。

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 丸善と京都市電

京都・河原町に書店の丸善が約10年ぶりに戻ってきました。「京都本店」と称するように丸善の旗艦店として、京都で最大級の書店デビューとなりました。先ごろ、乙訓老人にいただいた故・羽村宏さんの写真のなかから、かつての丸善が写り込んだ貴重な写真が出てきましたので、本日はそのご披露としましょう。
河原町蛸薬師「河原町蛸薬師」の前を行く京都市電。昭和30年夏の撮影と思われる。右手に見えるのが当時の丸善だ。京都における丸善の歴史は、明治5年に三条通で開店、梶井基次郎の小説「檸檬」で有名になったが、店は昭和15年に河原町蛸薬師に移転した。私もこの写真を見て、小さい頃の思い出が蘇ってきた。丸善の扱っていたのは、洋装品が中心で、書籍は洋書が多く、子どもは近づき難かった店だった。その後、昭和42年に6階建て、平成5年に8階建てを新築するが、平成17年に閉店してしまった。今回は、そこからやや北へ行った京都BALビルへ移転してオープンとなった。この写真は、京都市電の記録としても貴重で、900形907号はまだポール集電、昭和30年3月に901~915がデビューしているが、京都市電のビューゲル完了が同年末で、900形のポール時代はほんの数ヵ月の短い期間だった。後期の916~935は最初からビューゲルだった。そして河原町蛸薬師の電停、これは昭和38年に廃止されている。電停看板をも写し込んだ貴重な記録だ。

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あの頃は蒸気機関車が新車の自動車を運んでいたんだ。

 古いネガをデジタル化してみると、意外なものが写っているのでびっくりすることがある。デジタル化すると画像処理ソフトで露出設定などがうまくいっていない写真でも何とか見られるようになる。印画紙に焼き付けると何が写っているかわからないものでもよくわかるようになるし、モニター画面で拡大してみることもできるので細かい部分もよくわかる。そのようなネガの中で最近、総本家青信号特派員さんが50年前に山科で撮影された列車群の写真に刺激されて、1969年に大阪市内で撮った写真をデジタル化してみた。優等列車や貨物列車、それに蒸気機関車が牽引する貨物列車も写っている。その中に問題の蒸気機関車の写真があった。煙が巻いていたので、当時の印画紙に焼き付けた写真でははっきりわからなかったのであるが、デジタル化して拡大して貨物列車の積荷を見てみると・・・・

webS-MN02519-東海道線塚本尼崎間

大阪方面に向かってD51が走っていく。多分、宮原を通って吹田へ行くのであろう。背景に巨大なガスタンクが見える。これは神崎川の川べりにあった。

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 デジカメで遊んでみる -2-

車両を写してみた

デジカメの「ジオラマ」モード(または「ミニュチア」モード)は、画面に鉄道車両を入れることによって、さらに模型的、ジオラマ的に感じられます。今回は、車両を入れた「ジオラマ」モード撮影の一例を。 1332syo  “模型的”に見せる格好の車両は、やはり新幹線だろう。京都タワーの展望台から、京都駅を発車して鴨川に掛かるところを狙ってみた。ちょうど奈良線を越し、東海道線とも高低がある。車両の周囲により立体的に見える場所を選ぶのが、「ジオラマ」モード撮影のコツのようだ。

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ゲテモノは遊覧のためか?

老人は学生時代、東京からの帰途に大井川鐡道に立ち寄り、多彩な中古車群に驚いた後はそのままとなってしまった。1994年春、彼岸の日に名古屋市交通局日新車庫で白井昭さんから声掛けを頂き、翌年の盆休みからご先祖さまに義理欠く行為を取るようになった。その発端は大井川鐡道が各地でお払い箱となった電車の再生工場であることに気付き、その指揮者が名古屋鉄道から出向されていた白井昭さんであった。

先ずオープンカークハ861号、種車は名鉄2805号だとされている。ならば戦後、京阪にもあった1300、1600型の兄弟で、車体長17m級の大型車となる。これを1986年に改造したもので、台枠と屋根を残しての工事を金屋口の工場で施工している。車内を見ていただきたい、木製対向座席の間にはテーブルがあり、表は白生地張となり御客様を迎える準備がされている。窓はなく雨が降ればどうするのか心配だ。30年ぐらい前から流行している各地のトロッコ号の先走りのようだが、こちらはボギー車で、単台車の貨車改造より乗り心地は上々であろう。千頭方に運転台があり、種車と同型の2822+2829(M+Tc)が牽引していたとのこと。

その牽引車の写真だが変色姿でごめんなさい。光沢紙裏面にはKodakとなっているが、20年たてばこんなに変色するのかと、実は驚いている。お詫びの印としてもう1景、京阪特急と並んだ1997年のKonika100年プリント、この年にクハは廃車となり牽引車も翌1998年に後を追い役目を終えた。
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 デジカメで遊んでみる -1-

駅を撮ってみた

最近のデジカメ機能の多様化には驚く限りです。キレイに撮るだけの基本性能は、とうに完成の域に達して、各社いかに独自の付加価値を加えるかに腐心しているようです。この付加価値、単なる“お遊び”では片付けられない興味深いものがあります。ここに採り上げる「ジオラマ」モード、または「ミニュチア」モードもそのひとつです。中央部だけピントを合わせて、周辺部はウンとボケを利かせ、実際の風景を、あたかもジオラマを撮ったような雰囲気に仕上げてくれます。以前は、撮った画像を、レタッチソフトで修整する必要があり、かなりの技量が求められましたが、いまはモードボタンひとつで簡単に撮れるようになりました。鉄道を撮ると、まさに9mmやHOのレイアウトを見る思いがします。P1060058syoトワイライトタイムの東京駅、東京中央郵便局を再生したKITTEの屋上庭園から、ライトアップされた丸の内南口を撮ってみた。復原されたドームを画面に入れて、駅前広場をボカした。自動車のライト、周囲のビルもぼかして、ジオラマの夜景風に仕上げた。

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 窓から写した駅・列車 -13-

道東-釧網本線・根室本線の窓から

窓から・北海道 (6)釧網本線川湯駅で交換する釧路発網走行き626レ、C58197〔釧〕+オハ6243+オハ6244+スユニ60301+貨車。列車以外にもいろいろな要素が写り込んでいる。まず駅舎は、昭和5年の駅開業のあと、同11年に完成したと言う。正面に白樺を使った三角形のファサードを持つログハウス風だ。近くに広大な御料地もあり、貴賓室も設けられた。いまは駅名が川湯温泉と改称されたが駅舎は健在で、数年前に訪れた時は、事務所はレストランとなり、足湯もあった。右手に見える山は、標高512mの硫黄山、駅から約3キロに位置して、硫黄の匂いが流れて来ることもある。現在も噴気活動をしている活火山が駅のこんな近くにあるのも驚きだ。そして右手にチラリと見えるのはスヤ393〔釧クシ〕、工事車のスヤ39は、マハネ29などの3軸ボギー客車を種車として、1~5、11、21、31の8両あり、この時代は5両が健在だった。宿泊可能な工事車で、工事があると、さまざまな駅に留め置かれていた(昭和43年9月)。

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 窓から写した駅・列車 -12-

北海道の旅から

しばらく休んでいた「窓から」シリーズ、再び続けます。座ったままで一歩も歩かず写した超安易な撮影ですが、車両だけでなく、何気ない周囲の光景が、雄弁に時代を語っています。夏にちなんで、涼しい北海道での一幕を。
窓から・北海道 (2)いま北海道の鉄道情報のひとつは、留萌線の廃止だろう。さらに苦しい状況に陥ったJR北海道が、留萌本線留萌~増毛間の鉄道事業廃止を発表した。同区間は大正10年に開業し、これにより留萌本線深川~増毛間が全通した。当時は留萌港からの石炭、木材、海産物の積み出しが盛んで、それらの物資の輸送で栄えたという。だが、石炭産業の衰退、沿線過疎化により鉄道需要が落ち込み、貨物輸送、急行列車も廃止となった。今回の留萌~増毛間はとくに利用が少ないと言う。さて、この写真は留萌線秩父別駅、今回は廃止を免れた深川-留萌にあり、列車は幌延発札幌行き急行「はぼろ」、キハ2716先頭の4連、当時、運転体系は深川-留萌-幌延と、留萌線、羽幌線が一体となっていた。時刻表も同様で、廃止される留萌~増毛は盲腸線扱いだった。まだ石狩沼田からは札沼線が、恵比島からは留萌鉄道が出ていた時代だ。「留萌」は、線名・駅名の表記は「留萠」だったが、平成9年から市名などに合わせて「留萌」に変更している(昭和43年9月)。

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おとぎ電車のこと

 総本家青信号特派員さんが宇治でおとぎ電車のミニ写真展が開催されていることを投稿されているのを見て、DRFC現役時代に「青信号」に「おとぎ電車の話」として記事を書いた時に叔父から受け取った資料を久しぶりに見てみた。青信号に記事を書いた時と違って、学生時代と違うことを感じてしまう。資料をよく見てみると昭和25年とか昭和26年1月などの日付があることから最初の 改造資料のようである。

おとぎ電車資料-1

資料が入っていた紙袋と線路図

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