新しい年を迎えるというのに、古典ネタで恐縮です。アルパムを繰っていたところ、ちょうど50年前の昭和40年12月31日、加太へ初めて撮影に行ったことが分かりました。高校1年の時でした。その時の思い出で、今年を締めくくることにしました。
初の加太行き
列車で加太を通過したのは、記憶に残る限りでは、小学校の伊勢への修学旅行が初だった。京都の小学校の定番列車である“鳥羽快速”に乗って、草津、柘植を通り、加太を通過したはずだが、まるで覚えがなく、車内で撮った写真から乗ったのは背ずりが板張りのオハ61系だったことが分かるのみだ。時代が下って、昭和40年、「鉄道ファン」の撮影地ガイドに加太が載った。京都から数時間のところに、D51の咆哮が鈴鹿の峯にとどろいて…というフレーズを何度も読んで、イメージを膨らませたものだ。
加太行きを決意させた、もうひとつの理由がある。初めて一眼レフを手にしたのだ。ペンタプリズムのカメラは、憧れだった。それを持つだけで、上手い写真が撮れそうな気がした。機種は思い切ってニコンF、とも考えたが、家庭の経済環境も考慮して、アサヒペンタックスSVとなった。3万5千円ぐらいだったと記憶している。ところが、このアサヒペンタックスSV、露出計は内臓されておらず、軍艦部に取り付ける外付け露出計を買うことになる。そのため、一眼レフを特徴づける軍艦部が無愛想な露出計で隠れてしまい、カッコから入った私にとってはガッカリだった。
横道にそれたが、撮影地ガイドと、一眼レフを携えて、大晦日の加太行きとなった。うっすらと雪の積もった、寒い一日だった。
▲二十回近く通うことになる加太だが、蒸機廃止直前と違ったのは、特急が走っていたことだ。名古屋~東和歌山を一往復する「あすか」で、昭和40年3月改正で、紀勢本線の特急「くろしお」と同時に生まれた。この当時、準急「かすが」ですら区間短縮されていた時代で、特急需要など最初から見込みはなく、キハ80系が和歌山機関区に配置されたことで、その間合い利用を兼ねての運転だった。そのため、運転経路も名古屋~東和歌山となり、久宝寺からは阪和貨物線を経由して阪和線で東和歌山へ向かった。奈良を中心としたビジネス需要を狙った時間帯の設定ではあったが、乗車率は極端に低かった。改正半年後には、食堂車の営業休止、自由席などの合理化が図られたが、好転はしなかった。結局、わずか2年半走っただけで、昭和42年10月改正で廃止されてしまう。私も最終日は奈良駅で撮ったものの、走行中を撮ったのはこの一枚だけだった。