鉄道、つれづれ草ー“乙訓の長老”からのお願い その1

老いてますます盛んな乙訓の長老様と、先日東華菜館で食事をしました。
その時に「最近投稿が無く手持ちぶさたでさみしい」とお伝えしたら、「写真はまとめたがデータがわからんのや。いつどこで、何を撮ったのかが思い出せんのや。みんなに聞いてくれんか?」と言われ、後日お宅に伺って写真を持ち帰りました。

長老の書斎を見てビックリ!隠し部屋に本や資料が詰まっていましたが、これでも後輩達に進呈した残りだとか。まだまだあるので欲しい人があれば進呈するので見に来て欲しいそうです。お伝えしておきます。

写真は白い箱に分類されて山積みですが、そのデータが分からないそうです。今回の写真はその一部ですが、ご覧になって場所・車輌に関して・時期が分かる方は何でもかまいませんのでコメント欄へ書いてください。
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 廃駅をめぐる  【7】

神居古潭  (昭和44年9月30日廃止)

“廃駅”、関西を離れて、全国の廃止された駅をランダムに巡ります。北海道は旭川の近く、深川を出た列車は、やがて石狩川の渓谷沿いを走ります。そのなかに、今回の駅、神居古潭がありました。昭和44年10月の函館本線滝川~旭川の複線電化によって、石狩川沿いの区間は、5つのトンネルが掘られて、ショートカットする新線に切り換わり、納内~神居古潭~春志内(信)~伊納が廃止となりました。駅がなくなる直前の北海道旅行の途中、乗車した列車は、神居古潭で10数分停車して急行列車の通過待ち、その間を利用しての駅周辺の撮影となりました。

神居古潭に降りたのは、無くなる直前、深川から乗った321レが、上り列車と交換のため10数分の停車で、翌月に無くなることも知っていたので、すぐ飛び降りて撮影した(以下、昭和44年9月)。 続きを読む

 廃駅をめぐる  【6】

湊町

少しの間、“廃駅”に戻ります。前掲の片町駅と同じく、大阪市内の終着駅だった湊町が平成6年になくなっています。ただ“廃止”ではなく、その後も「JR難波」に駅名改称されて存続し、駅も地下に潜っていますが、名称も位置も変わっていますので、“準”廃駅と言えるでしょう。

湊町の歴史を遡ると、大阪鉄道が、明治22年5月に湊町~柏原を開通させたことに始まります。明治33年には、大阪鉄道は関西鉄道に継承され、明治40年6月に湊町~奈良~名古屋が全通、その直後に関西鉄道は国有化されました。関西鉄道では、湊町は大阪方のターミナルとして位置づけられますが、国有化後は、名古屋方面へは、東海道線がメインとなり、関西本線はローカル輸送に徹することになります。ただ、唯一、東京から急行「大和」が運転されていましたが、それも昭和43年には王寺止まりとなり、のちに廃止されます。古い大阪人にとっての湊町は、京都で言えば京都駅山陰線ホームのように、煙が充満していたところだったのでしょうが、私には思い出は全くなく、駅名改称の前に一日だけ撮りに行っただけでした。地上駅の湊町は2面4線の頭端式ホーム、出入りしていた関西本線の電車は、快速は221系、普通は103系だった(以下、平成6年7月)。

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客車廃車体訪問記 内地編64 新潟県-2

【守門温泉SLランド】 37.356652, 139.038144  2019年10月26日撮影
オロネ10 2085
新潟県魚沼市の山奥、「守門(「すもん」と読むらしい)温泉SLランド」という名称で、廃業した宿泊施設のようであるが、今でも「守門温泉SLランド」と題するWebがあり、「リニューアル完成されました♪ 温泉浴室と大広間が新しくなりました。^^」とか、機関車の番号を9657と書いてある。荒れ放題で立入禁止になっていて、雨上がりで草が濡れていたため近寄ることができなかった。
29657に連結され、手前にもう1両オロネ10 2083もいたが、リニア・鉄道館のオロネ10 27に部品提供したため、2085だけになった。
◆オロネ10 2085(1963年新製 日車)→1976年廃車
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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑤

大石橋

京都駅八条口を出た市電は、竹田街道を南下して行きます。京と伏見を結ぶ街道のひとつで、東洞院通を延長する形で、江戸時代に拓かれと言います。途中、竹田村を通るところからこの名があります。沿道には車石が敷かれ、牛車による物資の輸送が盛んに行われていました。車石を専門に研究されているグループがあって、私も何回かフィールドワークに参加して、いまも各所に残っている車石を見て回ったこともありました。

大石橋では、市電九条線と交差します。ここには、九条車庫方面へ向かう南北両方向のポイントがありましたが、営業用ではなく、九条車庫へ入出庫する回送用でしたが、時に「臨」系統として営業のまま、九条車庫へ向かう系統もありました。

 

 

東寺の五重塔をバックに、夕暮れの大石橋交差点を渡って行く伏見線の500形(以下、昭和45年3月)。

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昭和の電車 改訂版(51)ー神戸電鉄300型ー

私にとっては生涯(おそらく)全く縁の無い私鉄ですが、一度だけ乗ったことがあります。震災の一週間後、元町の得意先へ見舞いに行くため初発の福知山線に乗り三田へ、そこから神戸電鉄で谷上へ出て神戸高速に乗り換えて三宮まで行きました。地下から地上へ出たとき見た惨状は一生忘れられません。

最近経営を巡ってなにか新聞紙上で話題になったような気がします。

 江若鉄道百周年 切手発売

連投、失礼します。江若鉄道は、昨年が廃止50年で、さまざまな展示も行なわれましたが、ことしは、江若鉄道が創立されて100周年に当たります。会社側からすると、“廃止”より“創立”に重きを置くのは当然で、ことしは、現・江若交通が行なう催事が予定されており、その第一弾として、郵便局からオリジナルフレーム切手「江若鉄道創立100周年記念」が2月25日(火)から発売されます。
日本郵便のホームページに載せられている、フレーム切手「江若鉄道創立100周年記念」の見本。実は、会社から依頼があって、私も写真を提供しているし、古い時代の写真についても、山科の人間国宝にも許諾をいただいたりして、写真提供を行なっている。「鉄道」とは言いながら、名物だったボンネットバスも入っているのがミソ。

 

 

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線④ 

大西さんの京電地図

今まで見てきた伏見・稲荷線は、私が実見できた昭和45年の廃止直前の状況ですが、そのルーツは、日本最初の電車営業路線、京都電気鉄道に行き着くことを思うと、源流にも思いを馳せることになります。京電は、そのあと京都市に買収されたため、残された史料が乏しいのですが、京電研究の第一人者として、名を馳せられたのが、DRFC顧問をされていた故 大西友三郎さんでした。私は何度も大西さんのフィールドワークに参加させてもらい、博識ぶりを感じました。

大西さんの代表著作が、毎日新聞京都版に連載されていた「チンチン電車物語」です。17回に渡って詳細に記されています。大西さんは、根っからの鉄道ファンだけに、単なる机上の歴史物語ではなく、資料発掘、現地調査や、車両研究にも言及された第一級の京電資料です。その一部は、鉄道ピクトリアル356号の「京都市電訣別特集」の「京都電気鉄道物語」のベースともなりました。私も当時は毎日新聞を愛読していて、その初出記事に出会い、大切に保存してきました。そして、もうひとつ大西さんが纏められた京電関係の手書き地図が手許にあります。これは、表紙のタイトルからすると、鉄道友の会の講演資料のようですが、帝国陸地測量部の官製地図では得られない、一本の線路まで描かれて、当時の様子が活き活きと伝わるような、資料性の高い地図です。今まで紹介した停留所に関する地図を以下に挙げました。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線③

京都駅八条口

高倉陸橋を渡った市電は、東海道・奈良線と新幹線に挟まれて西へ下り、すぐ90度曲がって、新幹線を潜って、竹田街道と合流し、「京都駅八条口」に到着します。このルートは、本欄でも米手さんから質問があったように、もともとは斜めに向かう線形でしたが、昭和39年開業の東海道新幹線の建設工事に伴い、道路とともに移設されて、現在でも見られるルートとなっています。

「京都駅八条口」には、東側に、元の京都電灯東九条発電所、京都市水道局、西側には、市バスの八条車庫がありました。車庫の一部には、市電乗務員の詰所、引込線も一本あって、乗務員の交代が行なわれ、車両も留置されていて、伏見・稲荷線の運輸上の要となっていたところでした。京都駅に八条口という名称が定着したのは、新幹線の開業後ですが、停留所名も、昭和39年に改称されています。以前は京都駅南口であり、開業時は、八条新道の名称でした。

“花電車”の700形が京都駅八条口に停車中、ここで乗務員の交代もあって、しばらく停車する。背後には京都タワーが見えて、京都駅に停車する0系新幹線の鼻もチラリと見える(以下、昭和45年3月)。

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囚人電車はランランラン行くよ♪

汽車の窓からハンケチ振れば~と歌うのは岡本敦郎の『高原列車は行く』ですが、この歌の舞台が沼尻鉄道だと言うことを知らない人でもメロディーはご存じでしょう。
先日の関三平先生との飲み会で南海電鉄の話題が出たとき、突然関先生から『南海に囚人電車があったのを知らんやろ!』と発言があって座が一瞬静まりかえりました。各自の頭の中には「鉄格子窓にしがみつく囚人達を乗せて走り去る電車」や「囚人が運転する電車」だったのではないでしょうか?
関先生から貴重な写真が贈られてきたのでご覧に入れます。

撮影日時:1959年4月10日(何の日?)住之江車庫 続きを読む

客車廃車体訪問記 内地編63 兵庫県-1

【はじかみ池公園】 34.900513, 135.189792 2009年1月3日、2019年10月28日撮影
マニ50 2036
神戸電鉄公園都市線南ウッディタウン駅の南に隣接する公園に、D51 25、ヨ8682と保存されている。新製後僅か9年で廃車にされた勿体ない客車である。一度目の訪問は2009年正月で緑色、二度目はその10年後で青色に塗られていた。上屋があるのはいいが、覆い被さっていて鬱陶しい感じがするのはやむを得ない。
◆マニ50 2036(1978年新製 新潟)→1987年廃車
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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線②

塩小路高倉

京都駅前を発車した伏見・稲荷線は、河原町線と同じレールを走って、すぐ塩小路高倉で南へ分岐、高倉陸橋で東海道本線を越します。前記のように、京電開業時には、伏見線は(旧)京都駅の南側で止まっていて、このルートはありません。京電は、東海道線との平面交差の申請を出すものの認可が下りなかったため、伏見線の車両を検査などで車庫のある東洞院七条下ルまで運ぶ場合は、夜間、人力で押して東海道線の踏切を渡っていたと言います。のちに伏見線の車庫が京都駅八条口にできて解消するものの、乗客の利便性からも市内線との一体化は急務でした。そこで、自力で東海道線を乗り越すことにし、当時、塩小路通で止まっていた高倉通を南へ延長し、築堤と陸橋で東海道線を越して、南西側に下りていく高倉新道を造りました。これが明治34年のこと、塩小路高倉は、この時にできました。 京都タワーを背後にした伏見・稲荷線の500形(Mさん撮影、以下昭和45年3月)

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線①

京都駅前

先のイベント案内でも触れましたが、京都市電の伏見・稲荷線が廃止されたのが昭和45(1970)年3月31日で、ことしは廃止から数えて50年に当たります。その前後の出来事で言うと、前年の昭和44年11月の江若鉄道に続く地元の鉄道の廃止で、当時、私は現役の2回生、いちばん脂が乗っていた時期だけに、廃止直前は、連日写しまくったものでした。

その発信については、昨年にも地元の大学のワークショップで講演したり、先般も伏見区役所で展示したりしましたが、本欄では、ほとんど掲載することなく経過していました。しかし、廃止50年と聞くと、回顧の念が沸々と湧いてきて、先日も伏見・稲荷線の全区間を歩いて回って、50年後の様子を確認してきました。先の伏見区役所でも、熱心に展示をご覧になる方がおられました。記録をした人間としては、これを機に、皆さんに見ていただくのも、意義のあることと思い、先の「トロバス編」に続いて「市電が走った街 京都を歩く」を掲載します。また、今回は、私の写真だけでなく、叡電沿いに庵を結んでおられる先輩のMさんにも写真の協力をいただくことになりました。では、停留場ごとに、京都駅前から伏見線の今昔を見て行きます。50年前の3月、春休みに入った日曜日午後、伏見・稲荷線のりばは賑わっていた。背後の市電のりばにも多くの市電が待機している。当時、京都駅前の市電のりばは、東西に5面あり、日本最大級の路面電車ターミナルとして、活気にあふれていた(以下、特記以外昭和45年3月)。

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客車廃車体訪問記 内地編62 徳島県-3

【阿波っ子ステーション】 34.127979, 134.477642 2010年11月20日撮影
オハ47 107→その後の調査で、オハ47 2282であることが判明
オハ47 129

↑左がオハ47 129、右がオハ47 107(オハ47 2282が正)
訪問時は藍住町のレストランであった。最寄り駅は板野。現在は店舗ごと無くなったようである。次の目的地もあったので店に入らなかったが、車内も調査しておけば良かったと思う。
◆スハ43 632(1955年新製 汽車)→(1963年改造 大宮工)オハ47 107→1964年近代化改造 大宮工→1985年廃車
◆スハ43 104(1952年新製 帝車)→(1963年改造、近代化改造併施 土崎工)オハ47 129→1985年廃車
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 ことしは 伏見線廃止50年

間際になっての案内で恐縮ですが、明日2月16日(日)だけ、伏見区役所(伏見区総合庁舎)で、こんなイベントが開かれます。

 伏見 歴史Do!フェス2020
 2月16日(日)11:00~16:15
 伏見区総合庁舎 一階ホール(京阪丹波橋駅から西へ10分)

伏見の歴史に関係する、さまざまな団体が合同で資料展示・プレゼンを行なうものです。伏見線の歴史の掘り起こしに努めておられ、私もお世話になっている「伏見チンチン電車の会」さんも出展され、私も写真展示、映像解説のお手伝いをします。何分にも展示は一部であり、急なお知らせでもあります。強制はしませんよ。ヒマを持て余して困っておられる方だけに、そっとお知らせしておきます。
京都市電伏見線…、昭和45年3月限りの廃止だから、ことしちょうど50年を迎える。しかも日本最初の電車営業路線として京都電鉄伏見線が開業してからは125年だ。もう50年経つのか、ほんとに感慨深い。伏見線の思い出は、何と言ってもDRFCのヘッドマークの製作だ。その前年の江若鉄道廃止のヘッドマーク贈呈に味をしめて、伏見線でも‥‥と思い、例によって、あり合わせの材料で急ごしらえをして、3月30日午後、予約もなしで九条車庫へ乗り込み、局長に直談判した。江若は即OKだったが、そこはお役所のこと、その場では結論が出ず、預かりの形で、その日は終わった。果たして翌31日の最終日、朝早くから伏見線に駆けつけると、なんと廃車になる500形のトップナンバーで、装飾車の501に燦然と輝いているではないか!しかも、本来「急」マークを取り付けるステーにDRFCマークを取り付けたため、「急」はなんと腰板ライトの網に差し込むという心配りで、何とも賑やかな前面だ。急いで、分かる限りの会員に電話して吉報を伝えた。結局、この日一日、最終電車まで501はヘッドマークを付けたまま走り、多くの市民の目に焼き付いた。

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本日の鮮魚列車

先日の赤目口の菜の花では、出だしが遅れて間に合わなかったのですが、今日は午前中は晴れるとの天気予報を信じて再度出掛けてきました。狙いは鮮魚列車で、約20年前から変わっていない2782+2683+2684の編成です。朝の上本町行きはいつも後追いですが、今日は曇っていたこともあり正面から撮れました。しかも方向幕は無地の白いままで、サボで「鮮魚列車」「大阪上本町」とあります。サボをぶら下げている列車なんて珍しいかぎりです。