2012年 春の中国鉄路の旅  総集編

44日間の人生最長の旅は、ビザ滞在期限の問題から帰国せざるをえず、帰国後は急を要する用事を済ませて直ぐに、大地へと戻りました。気持ち的には延長のようなものでしたが、堪能するには余りに大地は広く、寧ろもっと行きたい撮りたい所は増えるばかりとなってしまいました。


▲ 前回の乗車距離は12,000キロオーバーでしたが、今回は10,000キロ届かずでした。満州地区での移動が多かったのと、南への移動がなかったせいと思います。特筆は京滬高速鉄道の運賃です。グランシート車に乗車しましたので、1,750元と他の列車を圧倒します。しかし、乗り心地も抜群でクセになりそうです。
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2012年春の中国鉄路の旅 Part25  长春(満州国首都 新京)から一路、上海へ 京滬高速鉄道、開業1年後の乗車レポート

29日間に及んだ春の中国鉄路の旅も、帰国への途を迎えました。今日は、夜の列車に乗って北京へ、そして北京南駅に移動して昨年6月30日に開業した京滬高速鉄道のグランシートで上海へと向かいます。移動距離は、一気の2,321キロです

第28・29日目 5月16・17日 長春→北京→上海→帰国

① 長春 22:00(Z62次)→6:00 北京      1,003キロ  8時間
② 北京南 8:00(G11次)→12:55 上海虹橋  1,318キロ   4時間55分
③ 上海浦東空港 18:10(JL898)→21:25 関西空港→なんば→梅田・大阪→長岡京

▲ チェックアウトタイムまで粘ってから、長春駅前のホテルへ行き、午後4時から休憩チェックインするので荷物を預かって欲しいと言った後で昨日ロケハンしておいた撮影地へと向かいました。カラフルな車体色の軽軌車両です。


▲ 上下線が分かれている芙蓉橋の道路高架橋に行って見ましたが、なぜか右側通行ではなく逆です。予定していた列車が撮れず後から来た貨物になりました。再度移動して機務段への連絡橋で電気機関車たちを撮りましたが、 続きを読む

2012年春の中国鉄路の旅 Part24  长春(満州国首都 新京)その2 長春の軽軌と路面電車

第27日目 5月15日 長春の軽軌と路面電車

いつものように元気に目覚めましたが、無理をせずに午前中はPC作業に没頭して、外へはお昼からにしました。目指すは、久しぶりの長春の路面電車です。
人民広場近くに泊まっていましたので、路面電車54路が走る所までは遠いです。まずはホテルを出発して、2011年6月30日に試運転(客扱い有り)を開始した軽軌4号線の初乗車兼ねて向かう事にしました。、


▲ ホテル前からバスに乗って軽軌の东大桥站(東大橋駅に着きました。ガラス張り円形のすばらしい駅です。4号線の総延長は、16.33キロ(地下軌道3.3キロ含む)で、16駅(内、地下3駅)が設置されています。駅に入りICカードを購入しようとしましたが、まだ売っていません。改札口はICカード対応になっていますが、どうしてかなと思いましたが、乗車してみると分かりました。まだ工事中で未完成な駅が2駅ありましたので、暫定開業扱いなのです。4号線の使用車両は、2000系3000系の2種類です。


▲ 仕方なく切符を買う事にしましたが、下車駅が分かりません。メモ用紙に54路路面電車に乗りたいと書いて渡すと、起点の长春北站まで行って降りて、3号線に乗り換えるのが早いと申されます。いや、私は遠回りになっても良いので3号線との接続駅で乗換えて行きたいと言うのですが、理解してもらえません。またいつもの挨拶です。その頃には、駅員が全部集まってきてしまいました。駅員を見ると全員20代前半のの若いお嬢さんばかりです。新しい路線ですので、全て若い女性に絞って採用したようです。一人が手書きで乗換駅
卫星路站)と下車駅(卫星路站)を書いていただきました。老人にはやさしい娘さんばかりです。


▲ 早速乗車しました。軽軌と言っても4号線を走る車両は鉄道車両ではなく、路面電車です。こんな立派な高架軌道を走れるとは、この路面電車は幸せですね。 他の都市では軽軌のホームに駅員がいて、撮影しようとすると撮影禁止とか危ないと言って、静止させられることが多いですが、ここでは誰もいませんので気にすることなく撮れました。3000系
70%低床式C型軌道電車で、連接6両編成です。車両長62m、車高3,600mm、車幅2,650mm、最大定員能力500人、座席定員132人、走行音は65デシベルに押さえられています。最高速度は70km/hですが、現在40km/hに抑えられてのノロノロ走行です。


▲ 3号線への乗換の卫星路站(衛星路駅)に着きました。この駅も設備は路面電車が走っているとは思えないほど立派です。

▲ 3号線を走る路面電車です。こちらにも3000系は走っていますが、主力は開業時に導入された連接3両編成の2000系です。

3号線は、2002年10月30日に长春站~卫光街が開業、2006年12月26日に长影世纪城まで延伸され、全線34.4キロとなりました。33駅が設置されています。最高速度は、開業当初は40km/hでしたが、今は70km/hで運転されています。乗客は多く3両編成では、日中でも満員で走っていました。富山のライトレール同様に市民に定着した感があります。
最初に敷設された区間は、国鉄線と平行した地上線を走行しますので、道路が線路上を跨いでオーバークロスしていますが、離れてからは道路とのの平面交差があります。軌道優先とはなっていなく、停車しての信号待ちとなります。
運賃は、4号線と同じ乗車キロ制で、14.5キロまで2元(約26円)、14.5~24.5キロは3元(約39円)、24.5キロ以上は4元(約52円)となっています

今後、軽軌を市内交通の中心として新規開業されます。1、2号線、5~7号線と、2050年には総延長距離179キロとなる計画です。1、2号線は市内中心部を走行しますので、全線地下化されます。ただし、同じ車両が走るかは現在、発表されていません。

▲ 軽軌3号線4号線有轨电车(路面電車)が走る54路の路線図です。

▲ 卫星路站で降りて、54路路面電車に乗換えて、終点の西安大路へと向かうことにしました。

長春路面電車は、1999年8月に長男と一緒に東北旅行で初めて訪れて以来、4度目の訪問です。


 


▲ 春の日差しを受けて緑一杯の専用軌道を走ります。13年前と比べると、緑も増えて綺麗になりました。

【長春の路面電車の歴史】
1932年3月1日、日本は中国東北部に満州国建国宣言をしました。首都は長春に定められ、名前も新京と改められました。建国後、大規模な都市計画が実施され、上下水道・ガスが完備された近代的な人造都市が誕生しました。街路は、60m幅の舗装された大路となり両側には街路樹が植えられ、美観を損ねる電線は土中に埋められました。

都市交通は、都市美観を守るためにバス・Taxiによって運行されていました。1939年には瀋陽と同様に当時最も進んでいた大阪市交通局の指導のもとに地下鉄計画が立案されました。1940年より工事着手となっていましたが、戦争による資材不足のため断念され、1941年1月から路面電車の敷設工事が始まりました。路線は都市美観を守るためにメインストリートは避けて、翌年にはさらなる新線も建設され、総延長距離は37.3キロに達しました。
使用される車両は、日本車両名古屋工場で新造された車両の他、玉川電気鉄道の2軸ボギー車5号、武蔵電気鉄道の車両や、四国仏生山からの塩見温泉鉄道の気動車が電装化されて送られ走行したそうです。

▲  2005年に訪問した時に長春号の車内に展示してあった写真です。これが本土から送られた車両ではないかと思いますが、どうでしょうか?

敗戦による満州国崩壊後は、トロリーバスに転換されたりして、全長7.64キロの54路を残すのみとなりました。最初に訪れた1999年当時は、まだ道路共用軌道もありましたが、2000年6月から突然線路撤去工事が始まり、一時廃線かと案じましたが、約1年間の間にPCコンクリート枕木化、架線柱のセンターポール化、屋根付きホーム整備、道路共用軌道から専用軌道への配線替えが行われ、近代化した都市交通へと変貌を遂げ、国産新車(800型)も投入されました。最後まで残った満州時代の日車製200型も車体更新して生き残りましたが、その後に廃車となり現在は走っていません。



▲ 上の写真は、1999年、2005年と2012年の西安大路駅での比較光景です。1999年では泥だらけの道路と道床でしたが、迴に植林された木々も育ち、徐々に整備されてきました。戦前の200型は、床の木材が磨り減って所々は下が見えているような状態でしたので、この国では補修が出来ていないのだと思いました。


▲ 54路を全線乗車・撮影後、明日北京圣由にて上海へと乗車するリニューアルなった長春駅を視察に参りました。夕食はいつものように麺です。  Part25  へ続く

2012年 春の中国鉄路の旅 Part23  长春(満州国首都 新京)その1

第26日目 5月14日

図们22:02(2168次)→7:18长春  528キロ 9時間16分

新緑拡がる車窓を見ながらのすがすがしい朝を迎えました。列車は、満州の大地を长春に向かっています。

7:18 长春駅に着きましたが、臨時ホームです。現在、哈尔滨~大連の哈大旅客専用線の建設工事が行われていますので、濱州線ホームは手前に変更されていました。

▲ 臨時駅ホームは広く階段もなくそのまま出口に出られました。本駅は彼方に改築中です。
駅前は狭く、Taxiはメーターを倒しては行ってくれません。こんな時は、そんなぼったくりTaxiを相手にしてはいけません。ここで降りる客を乗せたTaxiを待って、強引に乗り込みました。

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part22  北朝鮮国境の町 图们(도문=図们)から长春へ

前回に引き続いての長い旅も終盤になりました。後4日間と思うと、無性に我が家が恋しくなり始めました。今日は、夜行列車で长春まで戻ります。1歩我が家に近づく思いで、朝を迎えました。
約67年前になりますが、満蒙開拓団の皆さん方が苦労を重ねて荒野を開墾して、ようやく豊かになってきたかと思ったら敗戦によって大地を追われて、帰国しなければならなくなった無念さは計り知れません。望郷への思いは、この数百倍、いや数万倍以上だったろうと、満州をまわり、この地にいますと感じずにおられません。

第25日目 5月13日  図们2日目

図们22:02(2168次)→7:18长春  528キロ 9時間16分

今日の朝は、昨日とうって変わって雨がふっています。昨日ロケハンを怠りましたが、地図上で撮ってみたい撮影地がありました。小雨に変るのを待ってから、出かける事にしました。雨を避けてTaxi(5元=約80円)で向かいました。

▲ 7;24、途中で寄った道口から何気なく撮った图们の機務段ですが、帰国後に見ると、1番左の車両に興味がわきました。

線路に枕木が置かれているので、普段は使用されないのだろうと推測しますが、正面の顔が面白すぎます。運転席窓ガラス位置に目の玉のようなライトを装着しています。アニメのキャラのようにも見えます。その時にもっと早くに気づいて近くから撮っていれば、もっと詳細に分かったでしょうが、まか不思議な車両です。

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part21  北朝鮮との国境の町 图们(도문=図们))

第24日目 5月12日  図们

2007年に韓国側の北朝鮮国境駅である都羅山駅に行きました。厳戒態勢の中、特別な雰囲気を感じましたが、ここ図们は中国鉄路ではどこにでもあるような、ごく普通の駅でした。まあ丹東のように国境を越える、国際客車列車があるわけでないので当然かもしれませんが、緊張感を求めてホテルのチェックインが終ってから町に出てみました。

かつて国境から見た北朝鮮の鉄道を追いかけた鉄ちゃんのプログを日本で見ましたら、警戒は厳しくカメラを向けているのが見つかると公安から質問され、引っ張られて撮影したフイルムを没収されたりする事があったとの記事がありました。最近はどうかなと、王さんに電話をしますと、「全然大丈夫ですよ。でも時々状況は一転しますからホテルのフロントで確認だけはしておいてください。」 と、申されましたので出かける前に聞いてみました。すると、「あんたダメだよ、そんな大きなカメラをぶら下げていたら、途中でマークされるよ。北朝鮮を撮ったら公安が来て、外国人で日本人と分かったら直ぐに逮捕されるよ。」 と、物騒な事を申されます。
仰せに従い一眼レフはリックにしまって、撮影用にはコンデジ2台をショルダーバックと衣服のポケットに分け入れて出かけました。

▲ 国境の町「図们」の地図を求めましたら、独自はない、延吉市内図にくっ付いてあると言われました。左の地図です。
向かいたいのは、国境の鉄道橋です。徒歩でどのくらいかかるのかとききましたら、「真っ直ぐに行くと、20分くらいかね。」です。そんなに近いのかと、見学がてらに歩いて向かいました

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2012年春の中国鉄路の旅 Part20  哈尔滨から、北朝鮮との国境の町 图们(도문=図们)へ

第23日目 5月11日  ハルピン→吉林→図们

① 
ハルピン1 6:40(D114次)→19:30 吉林  357キロ  2時間50分
② 吉林 22:58(K7323次)→8:17 図们      529キロ  11時間8分

ハルピンから乗車したD114次は、京濱線を150km/h前後で快走し长春駅に到着しました。殆どの乗客は降りましたが、また同じくらいの乗客が乗ってきます。定刻にスイッチバックで発車しました。2010年12月に正式開業した长吉高速鉄路を200km/h弱で駆け抜けます。本来は、250km/h走行可能ですが、痛ましい温州での事故によりスピードダウンされています。
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2012年 春の中国鉄路の旅 Part19  满洲里(満州里)から哈尔滨(ハルピン)へ

第22日目 5月10日  满洲里4日目

① 满洲里 19:09(2626次)→9:3 2ハルピン  919キロ 14時間23分
② ハルピン 16:40(D114次)→吉林 22:58(K7323次)→図们

今日は、夕方遅くの列車で「ハルピン」に向かい、翌日夕方は吉林圣由で、翌々日北朝鮮国境の町「図们」に着く予定です。車中泊は連泊となります。

朝からHP投稿作業にまい進していると 、ドアがトントンされます。朝からマッサージお姉さんの到来かと思ったら、お茶目な支配人が立っていました。今日は何時の列車に乗るのか聞いてきます。19時と言うと、「チェックアウトの延長が必要でしょう。18時にホテルを出れば間に合います。延長料金は80元(約1,100円)で良いですよ。それまで部屋でゆっくりしてください。」 と、最後は中々気のきいた格安サービスでした。

▲ 毎日食べても飽きないジューシーなスープ入りの水餃子。ビールを入れても、わずか9元(約120円)の駅前食堂で食べて、25分前には待合室に参りました。

 

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part18  ロシア国境の町、满洲里(満州里)その4

第21日目 5月9日  满洲里3日目

昨夕、運転手君から明日はどうしますか?との問いかけがありましたが、蒸気機関車が走っているのを撮らなければ满洲里に来た目的の一つが果たせないので、明日も再度ジャライノールへと言おうとして止めました。满洲里に来た目的の3番目は、休息です。ホテルでゆっくりと休んで、画像編集やHPへの投稿原稿作成したりで、くつろぎの時間を持ちたかったからです。

しかし、宿泊しています 秀山国際商務休閑会館 は、客室160室もあるというのにひと気がありません。毎日朝食を食べに行くのですが、ショボイもので、ゆで卵の数は宿泊者と多分同じ数しかありません。1日目は6個、2日目は4個、そして今日は2個です。それだけしか泊まってはいないのは、町の繁華街から離れているからでしょう。飛び込みの客は全く期待できないロケーションです。

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part17  ロシア国境の町、满洲里(満州里)その3と、扎赉诺尔(ジャライノール)

第20日目 5月8日  满洲里2日目 ジャライノール(扎赉诺尔)へ

2009年9月に露天掘り炭鉱が閉鎖されて1904年からの歴史を閉じたジャライノール露天掘り炭鉱には、数10両もの蒸気機関車が活躍しました。樺南林鉄訪問後に满洲里に向かうとO氏に言いますと、まだ 地上部分には走っているはずですと、詳しい地図を描いてくださいました。今日はこれを持って、蒸気機関車を追いかけるつもりです。


▲ 8:30、運転手君ホテルのロビーでお待ちでした。满洲里から ジャライノールまでは約30キロです。街中を通過、一直線に向かいます。
9:07 ジャライノール西駅に到着、始めて見ましたがローカルにしては大きな駅です。售票処は2つの窓口が開いていましたが、営業時間は決まっているようです。丁度、海拉尔行きの4188次の改札が始まりました。

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part16  ロシア国境の町、满洲里(満州里) その2

第19日目 5月7日 国境へ

Taxiに乗って、ホテル前の道を西へ約8キロ進みますと国境が見えてきました。

▲ 一直線に伸びる道を走ります。①はバスターミナル、②は、内蒙古大学满洲里学院、③は体育館です。ロシア風の建築が多く、否応にもロシアに近いと感じさせてくれます。



▲ 解放型JF1861号機(元満鉄のミカイ形)が展示されています。これだけが撮りたくてやってきましたが、折角来たので、周りを散歩しました


▲ 中国とロシアとの国境には緩衝地帯があり、これを挟んで双方の国境門が設置されています。ここには、鉄道を跨いでの門がありました。どう見ても中国の方が数倍も大きくて立派です。是非とも行きたいのですが、外国人は入場禁止です。上手く通れる方法はないかと思案していましたら、切符販売窓口に運転手君は自分の身分証を出してしまいました。そうなると私も出さなければなりません。これでアウトです。黙って、お金だけ出して2枚といえばいいものを・・・。
左下は、北国第一門です。

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part15  ロシア国境の町、满洲里(満州里) その1

第18日目 5月6日 K7091次に乗って满洲里へ

ハルピン東20:15(K7091次)→10:00满洲里   954キロ 13時間45分

小竹先生はじめNSさん、MIさん、STさんは早朝にハルピン空港に向かわれました。朝食をご一緒に出来たのは、明日の瀋陽から帰国されるO氏と、大連でゆっくりしてから帰国されるTHさんの二人でした。

今日からいつもの一人旅がまた始まります。最初に向かうは、ロシア国境の町「满洲里」です。前回の44日間の旅では、あじあ号の展望車を求めて「黒河」に参りました。同じ国境の町ですが、黒河では鉄路が切れていましたが、满洲里では中国側1,435mmに対して、ロシア側は1,524mmとゲージ幅が違っていますが、国際列車では台車交換をすることで車両は相互乗入をしていますので、一応つながってはいます。

乗車は、夜で十分な時間があります。樺南ではホテルの部屋にインターネット接続がありませんでしたので、投稿及びハルピンに戻って以降の行程が決められませんでした。(出来ていても、連日飲み続けていましたので、部屋入り即爆睡でしたので無理でした。)
朝から部屋で、鉄路の残席情報を見ながら、今からでも購入できる切符を探します。出来れば、满洲里と反対東側の国境へ行ってみたいです。绥芬河図们をノミネートしましたが、両方を行くとなると接続が難しく、日程オーバーとなりましたので諦め、北朝鮮国境の図们にしました。O氏とTHさんを見送った後一人部屋で、滞っているHP投稿のための画像処理に専念していますと、コンコンとドアをノックする音が聞こえます。開けますと、王さんが空港までの見送りを終えて戻ってこられていました。
ハルピン駅外の票処(切符売場) を確認させていただきました。帰路にはお住いのある長春に立ち寄りますと申しますと、発電所に蒸気機関車が走っているので案内できます。是非名物の犬鍋もご馳走したいと嬉しいお話もいただきました。チェックアウト時間も午後2時までに延長してくださいました。

今日は小雨がぱらつくあいにくの天気です。ルピン駅発着を撮りたかったのですが、諦めて投稿準備に専念しましたが、ノートPCでは処理作業が遅く午後2時近くになっても進みません。
仕方ありません、際丰假日酒店をチェックアウトして教えてもらった票処のある駅前の天竹賓館に行きました。切符を買って昼食後には、4時間の休憩チュックインをして続けました。中国のホテルでは、昼間の部屋利用が一泊の半額程度で可能ですので便利です。

▲ 切符は、ハルピンから吉林、乗り継いで図们へ、帰路は長春までの3枚購入です。どうして乗り継ぐのかといいますと、パルピンから図们へ直通の2636次の切符が売切れだったからです。1本しかないので、繁忙期でなくとも難しいようです。
切符を買った天竹賓館の1階には餃子専門店が入っています。ハルピンの餃子は、上海の小籠包のようにジュウシーなスープが入っていますので、大好きです。
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2012年 春の中国鉄路の旅 Part14  小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その3

今日は、まだ樺南林鉄撮影の3日目ですが、最終日です。昼前には、ハルピンに向けての帰路となります。小竹先生から、そしてO氏からも、まだこれからの旅の予定を決めておられないようであれば、我々の代表として残って、樺南林鉄の最後を見届けることも、選択肢の1つに加えて欲しいとのお話がありました。今回は、前回の44日間とは違って東北地区に絞って、国境沿いを回る乗り鉄旅をゆっくり楽しもうと思っていました。既に6日の满洲里行き、11日帰路のハルピン着までの切符は購入済ですので、11日以降に樺南林鉄への再訪問は、可能です。

多くの訪れる鉄ちゃん達を魅了した樺南林業鉄路です。ウヤが日常的でまた長期間に及び、中々運行に巡り合えなかった林鉄でしたが、今回は撤去完了日までの運行は確実です。どうしようかなと思案が続いていました。そろそろ結論を出さねばなりません。迷った挙句は、撤去最終日に何らかのイベントが実施されるようであれば再訪問、なければ皆さんと一緒に撤去途中ではありますが、見送った思い出を大切にしようと思いました。
王さんに林業局の偉いさんか、現地で運行に携わられた方々参加のイベントがあるかどうかの問い合わせをお願いしました。この返答次第で、今後を決めることにしました。

 

第17日目 5月5日 樺南林業鉄道撮影 3日目

今日も朝6時にロビー集合です。今日は昼までということで、 陀腰子までの区間で撮影で、バイクに乗っての山入りはありません。真っ直ぐに、樺南駅機務段に向かいました。
6:15、今日の1番列車の牽引は、3日間連続の168号機です。
ここで、柏崎からお越しのTHさん、町を歩いて郵便局や国鉄樺南駅に行ってみたいと、皆さんと別れて行かれました。THさんは、中国語を全く話せません。ちょっと心配な小竹先生は、携帯電話を渡されていました。でも鉄ちゃんは、このくらいの好奇心がなければいけませんね。私も中国語は少ししか話せませんが、いつもこんな調子でぶらりと大地の町々を歩いています。
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2012年 春の中国鉄路の旅 Part13  小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その2

16日、最後の訪問地長春から、夜行寝台列車Z62次で北京へ、翌17日朝、北京からは昨年開通した京滬高速鉄道の商務車(グランクラス)に優雅に初乗車して、上海まで南下しました。上海から直ぐにJAL便に搭乗し、一昨日深夜の0時前に無事帰還いたしました。珍しく寝ずに待っていた家内の第一声は、「お帰りなさい。あらまあ、随分と引き締まった身体になったねえ! ぶよぶよ老人だったのに、お尻も上がって、足の筋肉はバリバリに硬くなってるよ! 凄いね。でもお腹は、元のままだねぇ。」 でした。毎日欠かさず、水代わりに何本も飲んでいたビールのせいですね。前回の44日間に続いて、今回も29日間に及ぶ長い旅でした。当分は、撮影写真の整理と投稿を続けながら、身体を休めます。

 

第16日目 5月4日 樺南林業鉄道撮影 2日目

今日は、ロビーに6時集合して、直ぐに樺南林鉄の起点の樺南駅へと向かいます。

▲ 今日の6:30の始発作業列車は、昨日同様に168号機が務めますが、機務段(機関区)から044号機も出てきて、デルタ線での方向転換に向かいました。両方とも動くようです。

▲ 6:38、市内の道路併用軌道には、作業員の乗る停車場がありました。ここで作業員数人を拾って、離合が出来る大金缸駅で途中停車してから、12.5キロ先の下樺駅へと向かって行きます。私達も後を追って、追い抜き、適当な場所での撮影ですが、今日は朝から厚い雲が覆っていて、芳ししカットは撮れません。

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2012年春の中国鉄路の旅 Part12  小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その1

第15日目 5月3日 樺南林業鉄道撮影 1日目

ようやく今回の旅も半ばとなりました。昨夕合流した今回のツアー参加者は、7名です。リーダーの小竹直人先生の他に、通訳兼案内人の中国人の王国軍さん、紅1点のアシスタントの王森玲さんを入れると10名になります。
参加者の方々は、 新潟の柏崎市からお越しのTYさんを除いては、中国鉄ちゃん歴が長い方ばかりで、大先輩です。TYさんも訪中は何回かされておられますが、中々鉄道撮影の機会がなかったと話されていました。

教えてもらう事が多い旅となりますが、昨日早速に愛用NIKON300Sの具合が良くない。明るい所でもピントが合わず、シャッターが切れないので困っていると相談しましたら、同じNIKONを使っておられる小竹先生はじめ、STさん、NHさん等から、「今どんなセッティングをされていますか? ふむ、ふむ・・、それなら、このようにした方が良いです。・・・どうですか?」 と、懇切丁寧に教えていただきました。教えてもらったセッティングに変えますと、あら不思議!、今迄が嘘のように快調にシャッターが切れるようになりました。ツアーに参加しますと、今迄知らなかった事( と、いうより不勉強 ) を、教えていただく機会にもなります。参加の大きなメリットの1番目でした。

フイルムカメラ時代は、使用するフイルムの選択、シャッタースピード、絞りのマッティングと、レンズやフィルターの差し替え等が、テクニックでしたが、デジタルカメラとなってからは、誰でもオートで、それなりの写真が撮れるようになりました。もっと描写を必要と望む人には、数々のセッティングを選択することが出来ます。しかしそれには、カメラの持つ様々の機能を熟知する必要があります。残念ながら、ボケが入ってきた老人には、教えてもらって、また勉強しても直ぐに忘れていきます。困った事ですが、乗り越えないと、狙ったカットは撮れないのでしょうね。、

昨夜の睡眠時間は、わずか約4時間弱でしたが、みなさん元気に朝7時半には1階ロビーに集合して、チャーターバスに乗車しました。

▲ 7:38、樺南林鉄の始発駅に到着しました。作業列車は、6時半頃に出ていましたが、機務段(機関区)には、C2-044号機が息づいているのが見えました。

▲ 先に出た列車を追いかける事になりました。8:25、樺南ファンには有名な、陀腰子の肉屋自宅に到着、ここで持てない不要な物は預けて、バイクに跨ります。私は、台湾と芭石鉄道での経験はありますが、怖くて不安です。8時30分過ぎには出発しました。


▲ ここからは、線路沿いの狭い犬走りを山に向かって一直線に走ります。橋があると、降りて渡れば、また乗ります。犬走りも左から右へ、また左へと走路を替えますので、その度に降りて、乗るの繰り返しです。

▲ 山に入ると急坂ですので、降りて上がり、また乗ってカーブが続く犬走りを快走します。走行スピードは、30~50km/hと、スリル感は満点です。怖い私は、必至でしがみ付いての乗車でした。
樺南はご覧のとおり、新緑にはほど遠く、雪解けが終わったばかりです。所々に残雪がありました。泥濘道も多くなってきました。時々、後輪がながれるので、ヒヤヒヤです。降ろしてもらって歩きます。
9:25、ようやく待ってもらっていた作業列車が見えました。峠の立新駅に到着です。


▲ 今は勿論使われていない 立新駅舎です。1974年の表示がありました。右は、休憩所です。かつて撮影華やかだった頃には、雑貨屋があって、奥の部屋は、泊まれる民宿になっていたそうです。最初は、2食付で50元(約650円)だった宿も、鉄ちゃんが押し寄せるようになってからは、100元、150元と値上げしていき、最後の頃には300元(約3,900円)にもなったと、小竹先生は言われていました。ここに何泊もされているO氏は、ひどい時はギシギシで詰め込まれて、身体を横にしないと寝れなかった。みんなは、ここを立新貧館と呼ぶと、分りやすい説明を入れてくださいました。


▲ 作業列車は、C2 +カブース+レールバス+貨車3両で編成されていました。このレールバスは、個人経営で線路を借りて、客を乗せて運行していたそうです。片運転台で、シートは木張りのクロスシートです。


▲ 9:30、給水を終えたC2-168号機は、ゆっくりと撤去作業現場へと推進運転で下りて行きました。

▲ 作業列車を見送った後は、
樺南方向から、もう1台の044号機も上がって来ます。王さん、下山してカマに乗り込み、煙演出をお願いします。11:57、王さんを乗せた044号機が上ってきました。煙のサービスです。この後2回も、フォットランをしました。


▲ 手前に引きつけてのカットを望みましたが、止まってしまい、先ほどまで我々の傍から離れなかったおじさんを乗せて立新駅に上がっていきました。どうしたのと聞きましたら、樺南名物の「おねだり」です。自分には何も行き渡らなかったので、こちらに来たわけです。タバコを渡して、一件落着ですが、ここまでくると、もう駄目ですね。おねだり癖が染みついています。


▲ 12:55、再び立新駅まで上がりますと、機回しを終えた044号機は、給水です。しかし、良く給水設備を残してありましたね。石炭は、貨車に積んでも運べますが、水は大量に必要ですから、なければ走れません。


▲ 14:07、044号機は、道床から剥ぎ取った枕木を積んだ貨車を牽引して、山から降ろします。O氏お奨めの場所に行って、全員で撮りました。

15:40、今度は、立新から先の撤去現場最前線に行く事になりました。初めて私が先頭になって、下ります。10台もバイクが犬走りを走るのは、壮観です。
しかし、途中でレール切り作業を終えたおじさん、おばさん4人が、ボンベを犬走りに置いて待っていますので、通れません。
もうじき引き揚げ列車が来るので、もっと手前で撮りなさいと言われました。
私には、どこが良いのか分りませんが、この地での撮影経験者ばかりです。誰かが、「じゃあ、あそこにしましょう。」と言えば、すぐに「そうだな、あそこがいいなあ。」 と、直ぐに相槌が返ってきます。最後尾のバイクが、反対方向に向きを変えて、もと来た道を上がっていきました。

▲ 16:10、作業を終えた工事人達と、剥がしたレール、枕木を積んで列車がやってきました。春が来たとはいえ、まだ冬枯れの山に白樺の白さが引き立ちます。これが、樺南だったのですね。ただ、これで白煙でも良いので、出てくれば最高ですが・・・。


▲ これで引き揚げかと思いましたが、まだまだ追っかけがありました。立新駅での給水作業中に追い抜きました。撮影場所は、みなさん好みでバラバラになりましたが、私は小高い山に登って、立新駅をバックに入れたカットにしました。斜光には、逆光でしたが、山里の駅を出て走る雰囲気は出ました。煙があると、もっと良いのですが・・・。

▲ 陀腰子のこの村には、悲しい物語があります。開拓団のみなさんが、遠く故郷を思い浮かべながら、家の門は鳥居形にしました。今も残り、鉄製の新しい門までできていました。O氏からもお話を聞きましたが、投稿しています中国では、こういったプログや歴史については、アクセスが出来ないようになっていますので、また改めて調べて掲載します。

▲ 今日は、素晴らしい夕焼けが見られると期待して、追っかけを続けていただきましたが、追い抜けたのは、樺南市内に入ってからで、断念しました。


▲ 19:15、一旦ホテルの部屋に荷物を置いてから、夕食です。今夜は、羊肉しゃぶしゃぶ食べ放題、飲み放題です。王さんにタレのブレンドを各自頼んで、肉を鍋に入れますと、瞬く間になくなってしまいます。男9人ですから、食べるのは早い早い、ゆっくりビールも飲ませてもらえませんでしたが、追加、追加でたっぷり食べ、白酒もたっぷりといただきました。鍋の閉めは、鄭州で見たフィ麺ではありませんか。
明日は、早いので早くに部屋に戻って、即睡眠でした。   Part13  へ続く

 

2012年春の中国鉄路の旅 Part11 阜新からハルピンへ 小竹直人ツアーに合流

第14日目 5月2日  阜新からハルピンへ、そして樺南へ

① 阜新7:10(K7357次)→9:54瀋陽北 173キロ 2時間44分
② 瀋陽北11:31(T311次)→16:12   546キロ 4時間41分
③ ハルピン(チャーターBus)→2:52樺南賓館

今日は、鉄道写真家「小竹直人」先生のプロモートされたツアーに合流して、初めてで最後になる樺南林業鉄道ナローゲージへと参ります。この鉄路は、既に営業自体は終わっていて、線路の撤去作業のため蒸気機関車が復活運転をしています。大変珍しく、また貴重な撮影になろうかと思われますので、期待感一杯です。
▲ 4泊しました、阜新の中林国際酒店です。良い部屋でした。
6:20にホテルを出て、Taxiに乗って阜新駅へと向かいました。阜新駅では、11日の切符を買わなければなりませんが、售票処に並ぶと8時からの売り出しですと言われてしまいました。瀋陽北駅でも時間がありますので、大丈夫です。


▲ 阜新から瀋陽北までの列車は、阜新~北京北で使用された列車の間合い使用です。サボはそのまま、軟座車は、軟座寝台をそのまま使っていました。瀋陽北から乗車したT311次は、ハルピンまでに停車するのは、長春のみ。客車列車でありながら、140km/hで快走し、平均速度は119km/hの速さを誇ります。昼間でありながら、軟座寝台扱いで、RW19Kが使用されていました。通電もしていました。 続きを読む

2012年 春の中国鉄路の旅 Part10 興阜炭鉱のナローゲージと、阜新煤礦鉄路その3

第13日目 5月1日 興阜炭鉱のナローゲーと阜新煤礦鉄路 その3

今日は、阜新炭鉱撮影の3日目で最終日ですが、2人とも満足いく収穫がなく、ちょっと焦り気味です。天候は、昨日とは違っての快晴です。気合十分なO氏は、今日も朝5:30にはホテルを出て行かれました。一方の私は、まだ長い旅の中盤にも差し掛かっていません。ここで、エネルギー爆発では、身体が持ちませんので、ゆっくりとホテルで朝食を取ってから、谷さんを待ちました。

以前に訪問された中国鉄路に残る蒸気機関車探索にかけては達人の倉重さんは、阜新訪問時に興阜炭鉱のナローゲージにも、お立ち寄りでした。その訪問記によると、高徳駅の裏山奥に興阜炭鉱があるようです。
▲ 8時過ぎに、谷さんの愛車に乗って、ホテルを出発しました。五龙炭鉱のような大きな炭鉱とは違って、個人経営の小さな炭鉱が点在する中の山道を走りながら探します。迷走もありましたが、途中で谷さんが、ズリ捨て山に上がる1本の長いインクラインを見つけました。


▲ ご覧のように、数100m以上もあり、先が見えません。止まって
、反対方向のインクラインの起点を塀越しに見ますと、五龙炭鉱で見たと 同じ凸型の小型電気機関車が走っているのが見えました。ここです。間違いありませんが、炭鉱内にどうやって入れるかが問題です。 続きを読む

2012年 春の中国鉄路の旅 Part9 阜新煤礦鉄路 その2

第12日目 4月30日  阜新煤礦鉄路 その2

朝5時半、待ち合わせの時間通り、谷満春さんは愛車に乗って、迎えに来てくださいました。既に連絡をいただいていましたが、朝の上遊型蒸気機関車牽引の通勤列車だけでなく、昼間のDL牽引の列車も2週間前になくなり、今日現在も復活していないとのことです。もしかしてと少し期待感があっただけに残念ですが、仕方ありません。各地の炭鉱で走っていた通勤列車は、突然にこのようにして、なくなっていったのでしょうね。

▲  今日は足があるので楽です。早々に五龙炭鉱ズリ捨て線へと向かいました。迂回道路は、昨日私たちが乗った白タクのルートでよく分っています。途中で谷さんは、車を止めて、内側線の様子を見ています。何とズリ満載の貨車5両が置き去りにされています。これでは、次の列車は内側線には、入線不可です。 昨日同様の外側線に行くしかありません。

▲ 6:06、今日撮影の1番列車は、早々にフライアッシュ号です。昨夜のスッポンが良かったのでしょうか。朝から縁が良いですが、おいおい、またドスンで終わりです。また、がっくりです。 これには、谷さんも「え~、こんな事は初めてです。どうして?」 と、信じられない表情です。今日は、全車のお皿を傾けてのFA排出でした。 そして、今日は天候がよくありません。暑い雲に覆われて、風も強く、時折小雨が舞ってきます。

当分、フライアッシュ号は来ませんので、興阜炭鉱に走るナローゲージ撮影にしましたが、谷さん何を勘違いしたのか、3月に行って入れなかった五龙炭鉱内へと案内します。希望した場所は、ここではないと言いますが、すでに炭鉱内の職員とコネをつくってしまっています。困りましたが、仕方なく付いていくことにしました。原因は、谷さん地元鉄ちゃんなのに、興阜炭鉱に走るナローゲージを知らなかった事のようです。


▲ 炭鉱内は、外の周囲の光景とは一転して、とても綺麗です。O氏も 「随分と違うなあ、周りはどんなに汚く汚れていても、自分たちの働き場所だけは、綺麗にするのは、いかにも中国的だなあ。」 と、感心しておられました。私も、駐在時代に中国人の家庭に招待されましたが、ボロボロに近いマンション?でも、一旦部屋に入ると、随分と金をかけて、綺麗に豪華にしているのを見て、びっくりしましたので、このアンバランスは、よく分ります。
ヤードには、ナローゲージには珍しいクレーン車がいました。屋根に乗って、パンタの補修をやってますが、まさか通電していないでしょうね。小型凸型電気も初めて見ました。



▲  坑道用のバッテリーカーと
トロッコ達です。木材は坑道に使用されます。一応踏切もあります。注意マークは、汽車と違って凸型電気です。
炭鉱内では、カメラは厳禁です。 リーダーに見つかると処分されるので、決してみんなのいる所では見せないように注意を受けての撮影でした。

▲ 次のフライアッシュ号はいつ来るかです。谷さんは、FAを搬出する発電所に行ってみようと向かいますが、高徳駅から分岐した線路沿いに道路はなく、発電所正門からの出入りは部外者禁止です。
9:56、平安ヤード方面から推進運転で、ズリ捨て列車がやってきましたが、ここで機回しをして正向きに付け替えて、新邸方面へと向かって行きました。どこに行くのでしょうか?


▲ 谷さんの愛車はマツダファミリアですが、大きい割に1600㏄で非力です。それでも頑張って、ぬかるみあり、泥水の溜った穴ぼこだらけ、急坂ありの凸凹道を一生懸命のハンドルさばきで切り抜けましたが、夕刻には朝の美形が台無しになるほど、泥だらけになっていました。
12:50に朝からの場所に戻りますと、内側線に置かれていた列車は、ありませんでした。代わりに保線区員が大勢来て保守工事をやっていました。
12:57には、ズリ捨て列車が上がってきましたが、1両には何やら異質な物が満載されています。お皿が傾くと落ちてきたのは、ゴミばかりです。斜面が汚くなってしまいました。これでは、撮影に差支えます。ゴミ捨て列車は御免です。

列車が下って、しばらくの間は、外側線にも保線区員がやって来て、線路保守をちょっとやって帰っていきました。O氏は、「ここに来るのが仕事であって、保守はやってやらなくても関係ないんだろう。」 と、言われます。確かにその通りと相槌を打ちました。
外側線の撮影に丁度良い所からは、埋設されてしまった石炭が燃えて、いくつもの煙が出ています。そばによると、下からの熱気が伝わってもきます。やかんを置けば、湯が沸きます。
▲ 16:22、やっとフライアッシュ2号のご到来です。今度はこんもり山がありません。期待できます。
しかし、周囲の状況は刻々と悪化して、強風と巻き上げられたFA等々で、
視界は、さらに悪化してきました。

まず1両目が始まりましたが、少し巻き上がっただけでした。
4両目だけが舞い上がりましたが、3月に見たのは、こんなちゃちなもんではありません。まだ、FAが湿っているようです。
この頃から、カメラの調子が悪くなって、ピントが合わずシャッターボタンが押しても切れません。シャッターが切れても、ピンボケ状態ですので、オートフォーカスを手動に切り替えての撮影にしました。

こんな天候では、夕焼けもありません。今日は、フライアッシュ号も来ませんので、今日は、撮影終了です。 谷さんが薦める羊肉しゃぶしゃぶ屋へと向かいました。

▲ 阜新には、美食を求めてきたわけではありませんが、美味しい羊肉しゃぶしゃぶは、日本ではめったに食べられませんので、2人とも大満足です。

明日の予定ですが、谷さん今日の汚名挽回に 、自分も行った事がない、興阜炭鉱に走るナローゲージを一緒に探しに行くと言ってくれました。O氏は走行する蒸気機関車撮影に一辺倒ですので、明日午前中は、別行動としました。     Part10  へ続く

 

2012年 春の中国鉄路の旅 Part8 阜新煤礦鉄路 その1

書き洩らしましたが、昨夜から泊まっているホテルでも問題を抱えていました。O氏と一緒ですので、訪中前にホテル予約を済ましておかねばと、一般的な海外ホテル予約サイトにアクセスしましたが、中小都市ですので、扱いがありません。それではと、現地で日本語対応が出来て、中小都市でも検索できる楽旅中国に紹介依頼メールを出しました。宿泊時に問題が出た場合、直ぐの苦情対応ができますので、最近よく利用しています。
すると、1軒だけ、キングベットで紹介してきました。いや、紹介ではなく部屋が取れましたとの確定です。いかにも、中国のサイトです。おいおい、いろいろと星等級別の各ホテル・部屋の料金を聞きたいのだ。まだ確定ではない。それに、宿泊は1人ではない、男2人だからツインでないと困ると、返信しました。しかし、労働節連休で他のホテルとも満室で、この部屋しか空いていませんとの連絡です。交渉の結果、4泊のうち2泊はツインになりましたが、後はホテルに着いてからの対応を余儀なくされました。O氏も貞操の危機だと心配しておられます。

チェックイン時に、その旨をフロントいる若いお姉さんにに伝えると、「分りました。大丈夫です。4泊とも同じツインの部屋でお泊りできます。」との日本語の返事が返ってきました。ほっとしたと同時に 「え~」 と、2人ともびっくりです。北京や上海等の日系ホテルとは違って、ここは普通の日本人なら名前も知らない東北の田舎町です。国際ホテルとは名乗っていても、日本語対応が出来るフロントマンがいるとは、考えられません。
聞けば、1年間日本にいましたと言われます。 どこにおられたのですかと問いますと、何とシシャモで有名な北海道の鵡川で、ジャガイモの芋掘りをしていたと返答で、納得です。所謂、海外からの農業実習研修生として、働きに来ていた中国人だと分りました。

チェックイン後にも部屋まで案内してくださり、食事をしている間も気を使ってくれていました。ありがとうございました。

第11日目 4月29日  阜新煤礦鉄路 その1

今日から、阜新炭鉱撮影開始です。3日間を予定しています。内、30日だけは、朝の蒸気機関車が牽引する通勤列車を追っかけ撮影と、前回連れて行かれなかった興阜炭鉱に走るナローゲージも撮りたかったので、前回の案内人、阜新地元鉄ちゃんの谷満春さんに一日案内をお願いしました。
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2012年 春の中国鉄路の旅 Part7の2 平庄から阜新へ 改签大騒動

只今、この旅も終盤に近づき、今日は北朝鮮国境の町「图们(図們)」からの投稿です。もっとアトランダムに投稿したいのですが、途中でネットはあっても遅すぎたり、途中で切れたり、ど田舎に行くと、ネットがないホテルがあって一向に進みません。お許しください。
今日は、今回の旅の中でも1番の快晴です。図們江を挟んで北朝鮮が真近に見えます。対岸の鉄路に何か通らないかと思って来ましたが・・・。詳細は、紀行記で掲載させていただきます。

第10日目 4月28日  平庄から阜新へ
平庄10:35(4210次)→17:35阜新  337キロ 7時間

今日は、平庄から次の撮影地、阜新炭鉱へと向かいますが、乗車前に問題をかかえていました。問題は、昨日買った切符です。2枚の注文に1枚しか発券されなかったので、直ぐにもう1枚を買い求めましたが、ホテルで落ち着いて確認してみると、乗車号車が異なっています。同じ車両なら、人民がよくやっているように、別の人の座席と替わってもらえば済む事ですが、号車が違うとまず無理でしょう。残席情報では、座席は殆ど埋まっていません。少し早めに駅について、発車前にまた改签をしてもらえばいいだろうと安易に考えていました。

発車1時間20分前の9:15には平庄駅に到着しました。平庄駅は1日上下各5本の列車しか発着しません。朝発車する列車は、5:37・8:08・8:41・9:03で私たちの乗車する列車は、10:35と間合いがあって、售票処は空いています。昨日のように他の客に迷惑をかけることはないだろう、余裕で切符交換が出来るだろうと、售票処に参りました。
上手くしゃべれないので、改签と書き、同じ号車に換えて欲しいと頼みました。ところが駅員は、理解できず何やら説明をしますが、さっぱり分りません。何度同じ事を言ってもダメです。横から人民が助け船を出してくれますが、これも分りません。

こんな時は、鄭州鉄道日記さんに頼めば解決できると思い電話をしましたが、応答がありません。困りました。最後の手段は、中国鉄道倶楽部の隊長さんです。電話をしましたら、直ぐに出ていただけましたので、時間があるかどうかを聞いてから、困難な状況を説明し、助けを求めました。電話を窓口の駅員に渡して、切符交換の希望を伝えてもらいますと、「8号車なら空席あるが、それで良いかと聞いていますよ。」との事です。それなら、問題ありません。隊長さんにお礼を言って、窓口駅員にOKですと言いますと、換えてくれました。
しかし、切符を見ると、5月7日の切符ではありませんか。どこでどう違ったのでしょうか?、話しがややこしくなりました。直ぐにこれは違うと言いますが、ぼちぼち次の列車の切符を買う客が並びだしました。こちらは打つ手がなくなり、パニック状態です。

▲ 騒いでいると、別の駅員が窓口外に出て、私たちの所まで来てくれました。再度一から、落ち着いての説明をやり直しますと、分りましたと言って售票処員に指示して、私たちの希望通りの切符を発券してくださいました。この間、わずか3分。トラぶっていた時間は約50分近く、いったい何がどうしてこんなにややこしく、時間がかかってしまったのでしょうか?
この駅員の方は、待合室まで案内くださり、改札になると私たちの乗車する号車のホーム位置までも案内いただきました。ありがとうございました。



後で、講義中で電話に出られなかったが、どうかしたんですかと電話をかけてこられた、鄭州鉄道日記さん、事の一切を話してみますと、トラブルになった理由が少し見えてきました。

1番目の問題は、硬座車の発券された切符の改签(切符交換)の規定を、私が知らなかったということです。日本では、座席の変更に空席があれば応じてくれますが、中国鉄路では、一旦発券された座席指定切符の変更には、応じてくれないのです。
そのため、車内で客どおしが席を替わってもらいたいと頼んでいるのです。中国鉄路に乗車された方なら依頼をされたり、他の乗客のやり取りを見られた方もおられるだろうと思いますが・・・。
ただ、前回軟座寝台の座席変更には応じてくれました。これは、上段から下段への変更でしたので、料金も違っているので問題なかったそうです。同じコンパートメントに出来たのも、たまたま、もう1枚の切符と同室寝台席が空いていたからのようです。

もし空いていない場合は、一旦持っている切符を5%の手数料を支払って払い戻し、また新たに切符を買いなおす必要性があります。ただし、これには微妙なタイムラグを生じますので、その間に全国どこかの切符売場で別人が買ってしまい、「残席0」となった場合は、切符が買えなくなる可能性もありますので、要注意です。だったら、先に新たな切符を買ってから、前の切符を払い戻せば良いと、言われる方もあろうかと思いますが、実名制切符制度の導入後は、同一人物では、同じ区間の同じ列車の切符は、発券出来ないシステムになっていますので、この方法での購入は、不可能です。

※ しかし、この完璧だと思われる実名制切符制度ですが、逃げ口もあります。駅員とダフ屋が結託すると、第3者の身分証を使って、切符を買い占めてしまうのです。発車15~30前に改札を開始する中国鉄路駅です。我先にと殺到する乗客を前に駅改札や、混んだ車内では、飛行機のチェックインカウンターように、一人一人の切符と身分証を確認している時間も、それに対応できる職員数も不足しています。また、姓名、身分証番号(外国人はパスポート番号)を印刷していない、切符を発行している例もありました。別人が乗っても一見分りません。後で駅員が切符を、乗車する本人名に変えることもできるかも・・・。
他にも、逃げ口がありますが、長くなるので別の機会にさせていただきます。 まあ、一言で言えば、「中国でできないことは、何もない!」 です。

2番目も私の説明不足です。ちゃんと希望の内容を紙に詳しく書いて見せなければならなかったということです。話言葉が分らない以上、まず文章で書いて相手に示して、こちらの希望内容を伝えるべきでした。

しかし、今回何だ彼んだ申しても、希望通りの切符変更が出来ました。これについては、「ぶんしゅうさんたちが日本人で、言葉が分らずで困っているのを見て、また老人でもあったので、見るに見かねた親切な駅員が、規定を超えての指示を出してくれたのでしょう。また田舎の駅だったので融通ができたのかも。」との鄭州鉄道日記さんの解説です。
「外国人、老人、田舎の駅、親切な駅員」が、解決へのキーワードだったようです。今回のトラブルは、規定を知らなかった事に起因しますが、もう少し中国語を勉強して、また手抜きせずに、詳細をきちんと書いて窓口に提出する、必要がありました。隊長さん、お忙しい時にややこしい事に巻き込みまして、申し訳ありませんでした。これからご迷惑がかからぬように、気を付けますので、お許し下さい。


▲ しかし、一件落着で列車に乗ると、ガラガラです。おまけに増結された硬座寝台(普通席扱いで使用)が2両もある長編成です。空いている席に座ってボックス席占領です。途中の駅から乗車した客は、自分の席が私たちに占領されているので、私の席ですと言って、譲ると直ぐに、空いている席に替わっていきました。これなら、あんな大騒ぎをせずにそのままの切符で乗っても、全く問題なかったようです。

▲  乗車すると労働節3連休で小旅行に行くという大学生が乗っていました。一人がO氏に話しかけ、日本人と分ると、みんなが寄ってきて大変な状態です。私は、黒河に行く時に同じ洗礼に合って、長時間質問攻めに会いましたので、O氏にお任せしていましたが、最後は結局フラれてしまいました。

列車は、途中で単線の交換列車遅延で遅れたようでしたが、ほぼ定刻に阜新駅に到着しました。
下車後は、真っ直ぐに予約してあった中林国際飯店にTaxiで向かいました。いつもでしたら美味しいものを探しに町に行くのですが、ホテル付近は開発区で近くに飲食街はありません。おとなしくホテル内で食事をとり、明日への準備のため早めの就寝です。今日は、精神的に疲れた1日でした。部屋は、ベットも大きく、バスタブもあり、広さは70平米以上と、休むには最高でした。  Part8  へ続く