癒しの島 台湾鉄道の2018年初秋の旅 Part1 旅立ち 関空⇒高雄

迂回貨物列車の旅を先に投稿しましたがその前に4泊5日の短い旅でしたが台湾を楽しんできました。遅くになりましたが、暑い今年の夏を思い出しながらご覧ください。

第1日目 9月10日(月)

① 長岡京 6:15(快速)⇒6:44 大阪 6:54(関空快速)⇒7:54 りんくうタウン
② りんくうタウン 8:10(リムジンバス)⇒8:30 関空第2ターミナル

台風の影響で飛ぶのかどうか心配した台湾へのピーチ航空ですが前日から運行再開されました。しかし関空へのアクセスは関西国際空港と対岸を結ぶ連絡橋にタンカーが衝突した影響で、道路下にある鉄道橋も約50㎝以上も横ずれしていたことが、明らかになり、レールにもゆがみが見つかり、電気を送る架線も損傷していました。連絡橋の走行は相当の時間がかかる見込みで、取りあえず1駅手前のりんくうタウンまでの運行を開始、ここから第一、第二ターミナルまでは損傷を免れた北側道路橋を対面通行にして特別にリムジンバスが臨時運行されることになりました。
▲ タンカー激突で激しく破損した連絡橋。鉄道線に道路標識が倒れて覆いかぶさっているのが見えました。
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境線のキハ33

キハ141系に続き、客車改造の気動車キハ33をご紹介します。といいましても1度撮りに行っただけの簡単なものです。
キハ33は1988年後藤車両所でオハ50から改造されて1001,1002の2両が誕生しました。いきなり1000番代なのはトイレがないからだそうです。
2004年に鳥取に移り、山陰本線で走っていましたが2010年廃車されました。朱色に塗られた1001が津山まなびの鉄道館で保存されています。
オハ50 5→キハ33 1001
オハ50 6→キハ33 1002

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残るは芸備線のみ

7月の豪雨災害から4ケ月が経過し、中国地方のJR不通区間は予定より少しずつ繰り上げて 順次開通してきました。残るは3線区ですが、呉線、福塩北線、芸備線北部は年内に全通予定と報じられました。あとは鉄橋が流された芸備線狩留家・三次間が来年秋頃となりました。

平成30年11月10日 中国新聞朝刊

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わらくろや社長様 コの付く客車

先日、マルーン会長のお供をして明延1円電車乗車と坑道見学に行ってきました。
その時に随行してくれたのが山科で有名な旅行社・わらくろや旅行社社長です。各地の有名人とのコネがあるのか、行く先々で土産店や食堂で歓待されました。
その旅行の途中で「客車には記号があって“ナオスマカ”が付くのです」と会長や同行のJR西日本大株主・ましたしも氏にのたまうので、思わず「コホナオスマカが正しい記号で・・」と言いかけると、「コホの付く客車などありません。見たことがない」と言下に否定するのです。見たことのないものは信じないというのは心貧しき人々によくあること、でも客車となると見逃すことはできません。井原さんに叱られる!
で、帰って調べましたら一枚撮していました!
かなり古く、しかも濃い霧の中で撮ったものですから写りはもう一つ、でもそんなことは言ってられませんのでお許しください。

わらくろや社長、これが“コの付く客車”や!
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 羽村さんが遺したアルバムから 〈9〉

奈良電鉄
羽村さんシリーズ、阪急、京阪、叡電と京都周辺の私鉄が続いて、最後は奈良電です。と言っても撮られた写真は4点だけ、羽村さんにとって、奈良電は近くて遠い存在だったようです。私も、同じようなイメージで見ていました。奈良電時代は、沿線に行くような用事はなく、唯一、学校の遠足や町内の行楽で、大久保あたりの芋掘りに行った記憶しか残っていません。“芋掘りに行く時だけの電車”のイメージしかなく、現在の近鉄京都線と比べて、沿線人口も少なく、田舎電車そのものでした。
芋掘り以外にもうひとつ、行楽客を集めたのは木津川の水泳場だった。海のない京都では、川の中州を利用した水泳場が何ヵ所かあった。中でも奈良電木津川鉄橋付近の水泳場は、新聞社の後援もあったりして人を集めた。奈良電は、鉄橋の上に木組みの臨時ホームを設けて開催期間は乗降扱いをした。写真のように、1両まるごと広告電車も現われてPRにつとめた。この臨時ホームは、昭和43年のDRFC時代、車庫見学に行った時にも残っていた。電車は、昭和23年に登場したデハボ1100形で、運輸省の規格型、同年に登場した近鉄の規格型600形とほぼ同じである(奈良電京都、昭和26年)。

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Yゲルがボキッと折れた京福デキ6は

 米手さんの「乙訓の老人 鉄道、つれづれ草-福井編-」で私がコメントで書いたNゲージプラ製キットのデキ6なのですが、製作中にYゲルが真ん中でボキッと折れて修復を何とかして、やっと走り出しました。

走りっぷりはこんな感じです。

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こちらは88周年

近鉄の田原本線、生駒ケーブルは100周年を迎えたとのことですが、南海の高野山ケーブルは88周年で、また今月25日には54年にわたり活躍した3代目車両が引退します。

いろいろとさよならイベントもやっているようですが、私の横着のため現地レポートはなく、数年前に乗車した際の写真をご覧いただきます。データのありかが不明でたまたまプリントしてたもののスキャンですが、、、

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高山ダムの工事用軌道

小生は社会科見学で工事用軌道のトンネルを見た記憶があります。しかし天ヶ瀬ダムではなく、何処だったのか思い出せず、悶々とした日を送っていました。
先日、KBS京都放送で南山城村の話題が放映され、正に覚えていた情景の写真に出逢いました。

高山ダムの工事用軌道(トンネルと右奥に吊橋が見える)

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救援車銘板の怪

客車に限りませんが鉄道車両には銘板が取り付けられています。外妻や車内クシ桁にネジ止めされている多くは楕円形のプレートで、これによって製造・改造などがわかります。標記されている形式番号の他に現車の素性を知る手かがりにもなります。ですから通常は一度取り付けられたら廃車解体されるまでそのままのはずなのですが、なかにはいつの間にか違う銘板が付いていたという奇っ怪な例をご紹介します。

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 羽村さんが遺したアルバムから 〈8〉

 京福電鉄叡山線

この時代の京福と言えば、木造車のデナ1が代表だろう。1925年、叡山線の開業時に日本車両で1~6の6両が製造された。全長12.3m、片開き2ドアの木造車で、写真で見ると、きれいな木目模様が出ている。前面はタマゴ形の3枚窓、ドイツ・マン製の板バネ台車とイギリス製電装品を搭載しているのが特徴だった。固定編成化される前の原形の時代で、車体もグリーン一色塗りで、その後、2色塗装に改められる〔山端(現・宝ヶ池)、昭和26年〕。

羽村さんの写真をきっかけにして、鉄道模型や京阪電車にと、拡散を見せています。
ひとつのテーマから、各方面の投稿が集まるのも、“デジ青”の真骨頂でしょう。今回は、羽村さんの地元、左京区を走る、“叡電”、当時の京福電鉄叡山線・鞍馬線です。考えたら叡電は、始発も終点もすべて左京区内にあります。ひとつの行政区のなかで完結してしまう鉄道というのも、ほかにはちょっと例がないのではと思います。

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第7回 火車撮影家集団写真展開催のお知らせ

私事で恐縮ですが11月2日~7日、オリンパスギャラリー東京をお借りしまして鉄道写真家 小竹直人先生(代表)の海外鉄ちゃん仲間との写真展を開催することになりました。私は今回、春に廃線なった「三江線」を出展させていただきます。皆さん力作ぞろいの展示となりますのでお時間ありましたらお立ち寄りください。また大阪でも11月24日~29日、オリンパスギャラリー大阪で展示会が開催されます。
ご来場いただけますようによろしくお願い申し上げます。

2018年 山陰迂回貨物列車追っかけ撮影旅 Part5

第5日目 9月28日(金)

893-2さん情報によると迂回貨物列車の運行は山陽本線復旧に伴い今日が最終日となるようです。今まで3日間で撮れなかった撮影地、特に田儀では鉄ちゃんがいつも満杯で行けなかった場所で撮りたいと昨日脚立を置いて場所取りをしておきました。▲ 7:27 伯耆大山~米子 撮影地③ Google座標;35.428370, 133.364001
今まで撮影地②で撮っていましたが撮影地③への移動は時間的に無理でしたので諦めていましたが是非に撮っておきたい場所です。しかし、残念ながらバックに入れたい大山は雲の中でした、また逆光の中での撮影となりました。
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地上の京阪の駅(三条~七条)

「羽村さんが遺したアルバム」を拝見していて、羽村さんを思い出していました。
多分、私が羽村さんを知る最後の世代だと思います。
羽村さんは物静かでわりとシャイな感じの方でしたが、かなりシニカルな方で毒舌家でもありました。若くしてお亡くなりになりましたが、幼少時に患われた結核が原因でした。彼は終生独身でしたが、ご両親と同居されてた京大横の吉田山の麓の閑静なお住まいにも何度か訪れたこともありましたし、葬儀にも参列した記憶があります。

そんな彼の京阪の写真を拝見していて、京阪の古い駅を思い出していました。
1967年(昭和42年)夏に撮ったものですが、当時はまだ高価だったフイルムを使ってなぜこんなものを撮ったんだか・・・!?

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2018年 山陰迂回貨物列車追っかけ撮影旅 Part4

第4日目 9月27日(木)
▲ 6:18 当初は山口線一の撮影地長門峡で撮影予定でしたが「この時期は霧が発生することが多いよとの民宿のおばさんの助言があって、それならゆっくりと朝食を食べてから撮影に向かおうとの話になりました。助言のとおり朝の津和野は白い朝を迎えていました。
朝食前に散歩がてらに津和野駅に向かいました。

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ここも100年です

100年の田原本線は、どですかでんさんが詳しくレポートされていましたが、もう一つの100年「近鉄の生駒ケーブル」に行って来ました。海抜642mの生駒山上まで2000mの距離を2本の路線(宝山寺1,2号線と山上線)で結んでいます。特に「鳥居前(奈良線生駒駅に隣接)」~「宝山寺」までは複線のケーブルとして有名で、昭和元年に複線化されたそうです。 続きを読む

参宮急行電鉄デニ2000型

関三平先生のシリーズは、参急のデニ2000型です。前回のデボ1000の兄弟と言うことです。

吉田急行電鐵を訪ねて

元祖青信号特派員氏が「羽村さんが遺したアルバムから」シリーズで、羽村宏先輩が撮影された貴重な写真の数かずを紹介して頂いており、毎回驚きをもって拝見しています。同シリーズの第5回目で宮崎繁幹様からのコメントなどに羽村氏の作られたレイアウト「吉田急行電鐵」がTMSに掲載されたとの記述が出てきます。宮崎様と同様に、私も本棚を探しましたところ、幸運にも見つけることができました。TMS32号ではなく、再録された昭和38年4月10日発行の「レイアウト・ブック」の方です。発行から50年以上を経ており、著作権問題にも抵触しませんので、そのままスキャンして デジ青読者にご披露することにしました。

レイアウトブックP.34

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 羽村さんが遺したアルバムから 〈7〉

京阪電車

四条駅に颯爽とすべり込んで来た天満橋行きの1000系の特急3両編成。まだ鳩マークも無い時代で、赤白の円板の特急標識である。“京阪特急”は、撮影された前年の昭和25年9月、三条~天満橋に所要53分で走り始めた。朝夕2往復のみ、2両編成のささやかなスタートで、特別整備されたロマンスシートの1000、1100形が使用された。その後、中間に1600形が増結されて3両編成となり、まもなく写真のように、1500形に変更された(昭和26年4月)。

“羽村さんシリーズ”、また続けます。阪急、京都市電、バスと来て、つぎは京阪電車です。京都市左京区に住まわれていた羽村さんにとって、京阪電車は、いちばん近い郊外電車で、興味を持つようになるのも自然な成り行きだったのでしょう。撮影されたのは昭和26年、車両としては、赤と黄色の京阪特急色の1700系がデビューする前後で、私にとっても、記憶に残る以前の時代で、大変貴重な記録です。

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札沼線を走っていた頃のキハ141系(6)最終回

【編成いろいろ】

キハ141系の編成がわかる列車写真も少し撮影しました。走行写真は、人工物ができるだけ写らない石狩太美駅から北東方向の踏切付近で何回か撮影しました。初めて行った時、撮影後そのまま石狩当別まで行こうと思って石狩太美駅前のタクシーを呼んだら女性の運転手で驚きました。

【キハ141系だけの編成】

◆2連 キハ141-1+キハ142-1→ 石狩太美-石狩当別 1991年9月16日

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2018年 山陰迂回貨物列車追っかけ撮影旅 Part3

第3日目 9月26日(水)

今日は朝から不銹鋼號さん、加賀野井さんと3人で山口へ向かう下りの迂回貨物列車を追っかけします。6時前に 米子駅前のアルファワンホテルを出発して撮影地①へと向かいました。
約13㌔、所要時間35分で到着です。

撮影場所は昨日よりも岸本寄りに撮りました。


▲ 6:55 伯耆溝口~岸本 撮影地① Google座標;35.367119, 133.422873
既に鉄ちゃん数名がおられましたので横に並んでシャッターを切りました。
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